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 真理とは何か? これを《対象とその認識とが対応すること》と説いたのは アリストテレスであると言われます。

 これは いわゆる経験合理性としての妥当性というような意味において 事実認識が《信憑性を持つ ないし 真実である》ということを言おうとしているようです。

 ヰキぺの《真理》なる主題のもとには アリストテレスについての解説が 《経験事実についての真実》だけではなく 《経験世界を超えた場としての真理》についても触れていますので その項目を全部引いたあと問いをかかげます。(5)を問います。

 ▲(ヰキぺ:真理) ~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86# …

 § 2 歴史 
 § 2.1 古代
 § 2.1.3. アリストテレス 対応説 

 (1) アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。
 
 (2) まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にしたのである。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。

 (3) ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。

 (4) そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。

 (5) そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていたのである。

 (6) そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。

 (7) 例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。

 (8) 例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成していないのであるから、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となるのである。

 (9) 彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。

 (10) アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。
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 質問( a ) ▲ (5) ・・・判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され・・・
 ☆ この《真理の対応説》についてですが 《思惟と実在の一致》の当否を問います。これは 事実についての認識が その事実としての《実在》に言葉による表現として対応しているということを言っているのではないですか?

 ( b ) すなわち 《事実についての認識》について 《真であるかどうかが問われる判断》を経て来ているとは言っていますが それは要するに事実認識の妥当性が問われているということであるのではないか?

 ( c ) 妥当な事実認識は その対象とされた事実(つまりヰキぺの解説では 実在)とその認識内容ないしその説明内容や規定内容と過不足なく対応している。つまり マチガイなく事実(実在あるいは存在)を 合理的に説明しているという意味ではないか? つまり 《真理の対応説》がです。

 ( d ) つまり (5)では 《思惟と実在との一致》というふうに《一致》という表現を用いていますが これは何も《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。


 これを問います。どうでしょう。


 なお (9)項における《神》の定義について ご見解がある場合 あるいはその他その他の論点についてもそうである場合には そのお考えを述べてください。互いに問い求めます。

A 回答 (2件)

>《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。



その通りだと思います
存在論による論証で得られた判断が実在によって裏付けられることで
その判断は真であると言えて、真である判断が知識である
そして真理とは知識の一つであるから、真理は思惟と実在が一致している

つまりある判断が実在によって真であると確かめられることを一致と言うのであって
判断そのものが実在していることを言っているのではない
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この回答へのお礼

 ★ つまりある判断が実在によって真であると確かめられることを一致と言うのであって / 判断そのものが実在していることを言っているのではない
 ☆ ええ。言うとすれば――おっと ご回答をありがとうございます。――当たり前のことですよね。

 そのことを このように確認しなければならないような発言が――回答として――あったのです。ですから いやでも物憂くても 確認しなければならなかったのです。




 《一致》とは 認識した内容あるいは表現した内容と それが対象とした事実とが対応していること。

 認識が実在しているとか 思考が存在と一致するとか
 ★ 判断そのものが実在していることを言っているのではない
 ☆ 。


 
 回答No.1によりますと デカルトは 《神の存在を証明する》ために(または その証明作業と並行して) 《わたし》の思考・認識・判断なる行為が そのまま実在しており《存在》そのものであると言おうとしたのだそうです。

 これは おままごとにしか過ぎないとわたしは応えました。

 哲学は のろまですね。

お礼日時:2014/11/14 21:27

前半のアリストテレスの四原因説は、質問の主旨から外れるので、不必要なのではないか?



プラトンはちょっと違いますが、古代ギリシャのアリストテレスの経験的認識論によれば、真理とは「思考と存在の一致」とされます。
これを言いかえれば、命題と事実の一致です。
例えば「外で雨が降っている」という言明があったとして、それが真なのは事実外で雨が降っているときに限り真で、もし雨が降っていなければ偽です。
つまり、命題なり、言明の真は、その命題とか言明の内部で、それ自体では真偽が決定できないので、その命題あるいは言明の外部の事実と対照しなければならない、それが「真理の対応理論」。
まあ、「対応理論」などと難しいことを言わなくても、子供でもそれは知っています。
だから常識と言っていい。

ところがデカルトの生きた17世紀初頭の時代は16世紀の「宗教改革」の反動の時代で、「宗教改革」でキリスト教信仰が衰退したかと言えば逆で、むしろ強化された時代。
だからその時代の人びとは神が存在するのは自明だと思っていたし、ましてやデカルトはカトリック・フランスの最高学府・ラ・フレーシュ学院に8年間も在籍して学んだので、神が存在するのも、その神が創造した自分が存在するのも、改めて証明するまでもなく、自明だと思っていました。
だからデカルトが「方法叙説」で、「われ思う、ゆえにわれあり」と言った時、それが私の存在は私の思考にあると言ったのでもないということは自明なのです。
もし、「ゆえに」とあるから、それは推論だとしたら、前段で「われ」と言い、後段でまた「われ」というのは論点先取の誤謬です。
論点先取の誤謬というのは、それを証明しようというのに、あらかじめそれを前提にすることです。
事実、デカルトは「哲学の原理」で、私が存在しなかったら、私が思ったりするわけがないだろう、と言っています。
つまり、思うためには私が存在するのは自明なんだ、と。
そしてデカルトは「省察」で、「ゆえに」を削除し、「われ思う、われあり」と言い、私の思考は私の存在に一致する、しかも経験を必要とせず、経験に照らし合わせる必要もなく、先天的、ア・プリオリに一致するのだ、と。
なぜならば、神がこの世界を「永遠真理」として創造したのであり、神が「生得観念」として人間に理性を付与したのであり、だから理性的認識は明晰かつ判明である、と主張しました。

このデカルトの考えは古代ギリシャのプラトニズムの「イデア論」の再来です。
プラトンは天の世界に「イデア」があり、地上の私たちの世界は個物からなる世界だが、それは「イデア」に比べたら実在性の劣る、仮象でしかない、と言いました。
だから人間のできるのは天の世界にもともと存在する真理を「想起」によって、再現する以外にない。

デカルトも同じです。
人間の上に神が存在し、その神が世界を、人間を創造したのだから、人間にできるのは神が作った世界の真理を数学によって、先天的・ア・プリオリに存在するものを受容する以外にはない。
17世紀の「科学革命」というのはアリストテレス・プトレマイオスの天体観と、アリストテレスの「自然学」の運動論を打倒して、新しい自然観・新しい天体観を樹立することでしたが、コペルニクス・ガリレオ・ケプラー、ニュートンによって成し遂げられましたが、その革命の立役者の一人がデカルトです。
ガリレオは「贋金鑑札官」という本で、「神の作った自然という書物は数学の言語によって書かれている」と言ったように、ルネサンスの新・プラトン主義の復興と、その数学思想を自然に適用して解明しようというものでした。
デカルトは哲学者である前に、何よりも数学者であり、解析幾何学の創始者であり、自然学者でした。
デカルトは人間の知識は経験的な知識と数学的な知識の二つしかないと言っているように数学は経験を必要としない、先天的・ア・プリオリな知識だと思っていました。
神は世界を数学的に作ったのだから、数学によってそれを解析できるはずだという、「普遍数学」の思想を構想していました。
そして「われ思う、ゆえにわれあり」は世界を秩序ある、数学的に出来ているものとして解析するにあたっての出発点でした。
ちょうどスピノザが「エチカ」でやったように世界をユークリッドの原論のように単純な原理から始まって、必然的に推論して世界を構成すること、それがデカルトの目標でした。
事実、デカルトは「省察」の後に付け加えられた「反論と答弁」の第2答弁で、メルセンヌ神父の反論に対して答弁し、スピノザの「エチカ」と同じように、またユークリッドの原論と同じように、定理から始まって、その証明、さらに系と、みずからの哲学を幾何学体系として構築することを試みています。

このデカルトの考えが、スピノザに受け継がれ、さらにライプニッツに受け継がれ、そしてカントの直前のクリスチャン・ヴォルフまで受け継がれ、いわゆる「大陸合理論」を形成します。
これに反対したのが、英国経験論のロック・ヒューム・ホッブス・などです。
デカルトは「生得観念」というが、観念は外界の写しであり、外界の反映なんだから、経験的なもの、「生得観念」などない、と。
だけど英国経験論には自我とか主体というものが、経験からどのように生じるのか、それが分からなくて懐疑に陥りました。
ロックは外界の写しである観念の「束」が自我というものだと考えたけど、ヒュームは「私の心の中を探しても、感覚の流れがあるだけで、自我というのは見当たらない」と言いました。

これを解決したのがカントでした。
カントは自我は先天的、ア・プリオリに存在し、外界から取り込んだ感覚データを時間・空間という純粋直観の「形式」で透過し、それを先天的な「カテゴリー」によって総合することで認識が成立する、と言いました。

デカルトは「われ思う、われあり」と言って、私の思考と私の存在が一致する、つまり命題・言明と事実が文句なく、ア・プリオリに一致する、と言いましたが、その一致を保証しているものは神の存在だと考えていました。
そして神は人間を創造したのだから、その神が人間を欺くことはあってはならず、欺くことは矛盾だから、神がそんな矛盾を犯すはずがなく、だから人間の認識は、経験に照らすことなく、明証的である、と言いました。
これはプラトニズムの再来であり、アリストテレスの経験的認識論の批判です。

しかし、「真理の対応理論」が滅んだかと言えば、そうでもなく、ウィトゲンシュタインの「論考」の写像理論は命題と事実の対応という考えであり、真理関数理論によって、真偽が決定されるとするものであり、またタルスキの真理論も同じく[対応理論]であり、ラムジーの「真理の余剰説」も対応理論に基づくものでした。

デカルトは「省察」の第3と第5で、神の存在証明をしていますが、前者が「結果による証明」と言われるもの、後者が「存在論的証明」と言われるものです。
日本人は神なんかに関心がないから、たいていその部分を飛ばして読んでしまいますが、「省察」の一番、肝心なところが神の存在証明なんです。
「われ思う」というところから始めて、私を創造した神の存在証明をすれば、その神が私を創造したことが証明されます。
だからこそ、デカルトは「省察」の半分くらいのページを割いて神の存在証明を遂行したのです。
だけど、その論理はアンセルムスと同じように、あるいはトマスと同じように、神の存在が自明と思われていたことを背景としたものだったので、論理としては拙劣で、だからカントによって「純粋理性批判」の第2部の「神の存在論的証明の不可能のゆえんについて」という章で、完膚なきまでに論破されました。

ではデカルトの証明とはどんなものだったかと言えば、以下のようなものです。
第3.
この世界に存在するものはひじょうに精巧に作られている、生物と言い、人間と言い、その仕組みは無駄がなく、こんな精巧な仕組みは神でしか作れない、だから神が存在する。
第4。
この世界に存在するものはみんな不完全な存在である。不完全が存在すれば、完全も存在しなければならない。しかるに神は完全な存在者である。よって、神は存在する。

見ても分かるように変な論理で、到底これが神の存在証明とは思えない。
だけど、誰もが神が存在するのは当然であり、自明だと思われた時代には、それでも良かったのです。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。


 10. デカルトの《われ考える。〔ゆえに〕われ有る》という命題は アリストテレスの・真理についての対応説とは 無関係である。と確認します。一致はおろか対応すらしていません。

 11. すなわち:
 ◇◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では、「われ思う、われあり」とはいったい何のことなのか?
 それは「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すいれば「思考=存在」と言ったことになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 は成立しない。
 たとえば、
  2は整数である。 2は偶数である。
 から、
 「整数(である)」=「偶数(である)」
 とはならないのと同じこと。
 「われ思う、われあり」であることから言えるのは、
 「われ思う」と「われ有り」の真偽が一致すること。
 このことから、「思う」と「有り」という述語(関数)が一致することは言えない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 12. ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 「われ思う、ゆえにわれあり」と言った時、・・・
 もし、「ゆえに」とあるから、それは推論だとしたら、前段で「われ」と言い、後段でまた「われ」というのは論点先取の誤謬です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうは成りません。条件文では まだ存在だという規定がなされていない段階での《われ思う》です。主節で その《われ》が 《存在》を表わすのだという判断がなされたのです。

 13. ゆえにむしろこれは《ゆえに》を必要とする推論であると捉えたほうがよいでしょう。論点先取だと見ないとすれば そうなります。論点先取だと見るとすれば いちいち《われ思う。われある》とすら言う必要がありません。

 14. つまりは 神の存在のもとにわれも人間として存在するという前提がすでにあるのならばです。なぜならコギトと言おうがスムと言おうが われを主語として命題を表わした場合には いまの被造物としての存在という前提を前提としているということに他ならないからです。


 15. カントは カテゴリーを言ったからには すでにその内容を人間――われ――が規定したという前提がふくまれています。すなわち われの存在がすでに前提とされています。これを 論点先取と言います。

補足日時:2014/11/15 09:11
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。


 ★ 前半のアリストテレスの四原因説は、質問の主旨から外れるので、不必要なのではないか?
 ☆ ええ。それでかまいません。

 ★ 例えば「外で雨が降っている」という言明があったとして、それが真なのは事実外で雨が降っているときに限り真で、もし雨が降っていなければ偽です。
 ☆ この例から行きますと 《真理の対応説》というのは 次のことを言っていると捉えます。

 順序はあまり問題にならないと思いますが:
 1. まづ事実(もの・こと そして存在)があります。
 2. その事実を認識して言葉に表わす。
 3. その言葉による表現内容が 事実なる内容と対応しているなら その表現およびそう表わした認識は 真であると。
 4. ちなみに余興ですが 《日が照って雨が降っている》という事実もあり得ます。そういう事情を考えに入れるなら たいていは《部分的な対応》であるかと考えられます。もしくは そもそも表現のチカラがどこまで及ぶかという問題で それは 限界があると思われることです。
 5. ですから 《一致》という言葉は ふさわしくない。と言えましょう。

 ★ つまり、命題なり、言明の真は、その命題とか言明の内部で、それ自体では真偽が決定できないので、その命題あるいは言明の外部の事実と対照しなければならない、それが「真理の対応理論」。
 ☆ たぶん ここでは順序がものを言うととらえたほうがよいでしょう。

 すなわち 
 6. ほんとうの(ふつうの)順序では 《命題なり言明なり》は何について言ったものかというその《何》がすでに初めに決まっています。
 7. 決まった何つまり一般に事実を認識することが起きます。そしてその内容を言葉にして表わす。
 8. 真か偽かという判定は この認識および表現について その妥当性を問うものです。
 9. ★ その命題あるいは言明の外部の事実と対照しなければならない――☆ というのは 或る人の認識⇒表現を ほかの人が検証するという意味です。

 



 あとは 申し訳ないですが おままごとです。余計な推理です。現実にとって要らない思考です。
 ★ だけど、誰もが神が存在するのは当然であり、自明だと思われた時代には、それでも良かったのです。
 ☆ とは いまでは済まされません。《デカルト》は もはやと言うより初めから何の意味もありません。

 

お礼日時:2014/11/14 21:19

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