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形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、
(1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか?
●商品は形而下で、価値は形而上である。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。
上記の2つの文は、間違っていないでしょうか?
質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。

A 回答 (7件)

 


質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。

「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。

簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼は、観察や実験を通じて、実証的、合理的な、「自然」の研究を行いました。それは、現代の自然科学の祖先とも言えるもので、「合理性」「実証性」というものが強調されていました。

「自然」というと意味が広いのですか、一応、「この世界」のことだと考えるのがよいです。この世界とそこに含まれると考えられる色々なものが「自然」であるのです。

飛躍した言い方になりますが、この意味での「自然」が、大体「形而下的世界」と似たような意味です。この世の事物やできごとは目に見えますし、感覚で知ることができますし、形がありますし、「超自然的」ではなく、自然的で、西欧の思想で特に意味を込める「精神」はこの世界に属さないとも言えます……精神は、目に見えたり、感覚で知られたり、形があるでしょうか?

「形而下」というのは、日常的な自然ということだと考えていいのです。

「形而上」というのは、それに対し、「超自然」とも言えます。「形而上学」は「超自然学」でもあったのです。

アリストテレースの構想では、自然についての学問は、感覚などで得られる事実などをまとめ、これを理性で、合理的に整理し、その秩序などを研究するものでした。

しかし、このような自然学では、捉えられないもの、扱えないもの、事象がありました。「形而上学」では、「存在する」ということはどういうことなのか、世界の存在の根拠や理由、目に見える自然現象の背後の「神的な秩序」などの探求が課題とされていました。

アリストテレースはまた、自然学以外に、「倫理学」つまり、善や価値や、人間の行為規範や正義や理想などについての学問を考えていました。神や宇宙を造ったものなどの考察は、形而上学の範囲ですが、善や真などとも関係して、「イデアー」や普遍論理の問題も自然学とは別だと考えられました。

イデアーというのは、高度に抽象化された「形」や「性質」の本質のことになりますが、これは、神のようなものだとも考えられました。

アリストテレースの色々な考えは、西欧中世の神学や哲学に取り入れられます。そこでは、神や神に関係した普遍的永遠的な、イデアー的な世界や事象を、神学として研究し、このような研究の対象を、「形而上学的存在」ともしました。

そこでは、目に見えない世界、つまり、神の世界や天国などが、形而上のものとされ、また、神が授けた人間の霊魂、つまり「精神」も、その本質は形而上的なものとされました。神は善であり真であり美であり存在であるので、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」「存在そのもの」は形而上的であり、精神の機能である「知性」や、「概念」も、普遍概念として、イデアーと共に考えられ、これらも形而上とされました。

この中世西欧の「形而上学」の形というか、定義が大きく後世に影響します。

「愛」は例えば、形而下的なものです。しかし、神への愛や、精神的な高貴な愛は、例えばプラトニック・ラヴとして、形而上的と考えられました。

物質や肉体や、地上の目に見える事物に関係したことや、それらは、形而下的なこと・ものです。人間の心や意識や思考なども、感覚などと同様、形而下的で、概念や価値も形而下です。

しかし、人間の精神は形而上的であり、イデアーである、真、善、美、存在なども、そのもの自体は形而上的です。善に関係する道徳や倫理、社会規範、正義なども形而上的な位相があるとされ、美を分有すると考えられる芸術作品には、また、形而上的な何かがあるとされます。

神あるいは存在の根源者を囲んで、目に見えない、彼方の世界(霊的世界・普遍的イデアー的世界)に、「形而上的世界」というものがあると考えられると、分かり易くなります。

地上の自然の事物や出来事や、人間の世俗社会などは、形而下的世界だと考えられ、そこに属するものは、形而下的です。しかし、彼方の形而上的世界から、「普遍の光」のようなものが、地上に射して来るのであり、形而下の事物のなかにも、形而上的要素があるということも明らかになることもあります。

この地上、自然世界、人間の社会、人などは、形而下にあるのですが、自然は、存在や美や目的を通じ、人間の社会は、善や倫理や真理や芸術を通じ、形而上世界と交流しているとも言えるのです。また人も、精神としてイデアーとして、知性として、形而上的な要素を持ちます。

形而上とか形而下というのは、思想家で使う人によって、意味範囲が違いますし、場合場合でも、何を指すか、曖昧なものがあります。

>●商品は形而下で、価値は形而上である。

貨幣経済において、商品は無論、形而下ですし、商品価値のようなものは、形而下です。

>●貨幣は形而下から形而上に変化した。

貨幣は、人間の社会や精神と関係する何かですが、普通、貨幣を形而上とは言いません。形而下のことです。

肉的な愛を、形而下的愛とし、プラトニック・ラヴ(精神愛)を形而上とする考え方はありますが、そうではないという考えもあります。完全な形而上的愛は、人の魂が、この世を離れて後に実現するというような考え方もできるのです。

概念については、概念を普通、形而上などとは言いません。言葉や概念は、この地上にある精神機能に付帯するもので、形而上的精神との関係が密接ですが、あくまで地上のものです。

しかし、天使の言語とか、概念の根源にあると考えられる「普遍的概念」のような、非この世的なものは、形而上的と考えられます。

正義や善や倫理や美も、その普遍的・イデアー的側面が、形而上的なのであって、それら自体は、形而下です。

アメリカ人が、聖書に手を置いて、裁判所で宣誓するのは、少なくとも、その身も言葉も証言も、この世のもので、形而下であるが、神への祈りを精神を通じて行い誓うことで、世俗の、地上の、形而下的世界の思惑や利害を離れ、純粋に、「真理」を善の意志に基づいて行うことを誓うので、神という形而上的存在と人間の精神の祈りのあいだで、証言に「普遍性」、ある意味の「形而上性」を与えるためにするのです。

しかし、これによって、証言が、形而上のものとなる訳ではありません。「真理」や「正義」は、真に神のみ知りたまうのです。形而上の真理や正義との「結びつき」を試みようとするのが、この宣誓です。

「形而上」というのは、日常生活で出会う出来事や事物や経験や、思考や構想に、簡単に名付けられるものではありませんし、そういう使い方をすると、何を言っているのか分からなくなります。

日常生活で出てくるものや扱うもの・こと、科学・自然科学で扱うもの・ことは、すべて形而下だと考えるのが、無難です。概念も、言語学の対象でしか過ぎません。ただ、「言語の本質」という問題になって来ると、「言語哲学」が成り立つように、形而上的問題が関係して来ます。

「形而上と形而下」について、以上、かなり丁寧に説明しましたが、「抽象性の高い言葉」は、色々な情報や知識や、その言葉が使われる場面、その言葉の由来や背景の事情などが分かって来ないと、普通、分かりません。

早急に答えを求めるのでなく、時間をかけて、学ばねばならないことです。

「形而上」というような言葉は、西欧哲学の伝統的用語ですから、そんな日常で使う言葉ではないのです。

また、19世紀から現代に至るまで、「形而上学批判」を多くの哲学者が行い行っていますが、そもそも、これらの批判する「形而上学」は、批判する者で色々な意味に捉えられており、色々な人が論じているので、分かり易いことだろうということは、まるでないのです。

むしろ、何か分からない問題が多々あるので、形而上学について、色々な見解があるのです。
 
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この回答へのお礼

asterさん、丁重な回答を頂き感謝の言葉がありません。
通常、形而上と言うと、図形や神学的な非現実的な部分と考えていましたが、辞書の説明から、かえって混乱してしまったようです。形のないものといわれると、社会・経済・価値は形のないものになってしまいます、私は、趣味的に価値について考えていますから、形而上のことなら思考方法や認識方法が形而下のものと変わるかもしれないと考えたことがこの質問の動機です。丁重なご回答を大切に味合わせていただきますが、無批判に受け入れる愚かなことは致しませんからご安心下さい。
マルクス経済学で言う「物神性」の考え方と比較すると面白そうですね。有難うございました。

お礼日時:2002/06/02 05:59

ゲルマンの迫力に圧倒されているうちに、締め切られてしまい仕方なしに先の続きを


コメントします。
当然のことながら、人間存在を消してしまっては人の営みに対する形而の上下の問題
は見えてきません。
愛であるとか、経済であるとか、家族とか、また学問や戦争であるとかが見えづらい
のです。
本心としては遊び心とともに、ゴリラやオケラももつであろう純粋経験を借りて、形
而の上下をキーワードに人間の精神世界と営みを眺めたらどういう事になるとかを、
考えてみたかったのでした。
多角的な視点を哲学の活力とするなら、形而上の想像・創造はとても大切なことがら
でしょう。
そのことに気付かせていただいた質問でした。

計らずも aster さんが、人間的な解を纏めてめてくださったので、実のところ
ほっとしています。
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この回答へのお礼

この回答こそ、形而上の世界から、形而下に射して来た「普遍の光」でしょうか、asterさんの回答をゆっくり読み返した結果、この質問に対してこれ以上の回答を期待することが礼を失するのではと、直ちに締め切りました。しかし、よくよく考えてみると、回答を一読してお礼を書いてしまい、解答の締め切りと重なってasterさんに感謝の真意が届いていないのではと危惧していました。
顔を見ず、声も聞かずに、文章のみで意見を交換すれば、真意が伝わるどころか逆の意味での誤解を受ける可能性が高いと思っています、しかしながらそれを承知で、このような意見交換の有益な部分を評価して参加する以上、意思が伝わらないことはある程度仕方のないことと諦めていたところです。
mcqgogoさんの回答は、私の意思が上手く伝わっていなかったことを察知され救いの手を差し出していただいたと確信しています、決して私の詰らないあそび心のせいでは無いでしょう。

aster さんの回答で、形而上・下の区別がハッキリした訳でも有りませんし、価値が形而下なのか、価値の形而上的要素とは何か、簡単に理解することはできません。しかし、価値の哲学、貨幣の哲学が仮に存在できるとしても、この事を考える為に、形而上・下の区別にかかわる必要のないことだけは確認できました(余計な回り道をしなくても良いことは私にとっては大きな収穫です)。

あそびと真面目の間をゆらゆら揺れる上皿天秤を眺めながら、頭にもいい汗をかきたいと思っています。
ご回答感謝しています、今後とも宜しく。

話は変わりますが、うちの金魚、「つみれ」にされる不安から、最近元気がありません。おっと時間だこんなことはしていられない、又お会いしましょう。

お礼日時:2002/06/04 17:51

●金貨(等価)から貨幣への変化をおっしゃってたんですか。


 それならば「●貨幣は形而下から形而上に変化した。」は
 ただしい解釈だとおもいます。

●愛の本質は形而下にあることについて すこし・・・。
 光や音は形而下にあることは 理解できますよね。
 E=mc2ですから 物質と同じなわけです。
 さて 愛とはなんでしょうか?
 それは DNAに書かれた情報なんです。つまり見れるし触れるものなのです。
 もちろん感じることですよね。
 感じるということは 基本的には見れるし触れるものなんです。
 なぜなら その雛型を遺伝子の情報として既に持っていなければ
 皆同じように感じることは不可能だと考えるからです。
 概念も情報となり得るわけですが たとえば「ある=ないでない」←これは
 自然界には存在しないわけです。つまり形而上にあるわけです。
 さて なぜ形而上と形而下を意識しなければならないかを考察すると
 そこに見えてくるのは 本質を見誤らないための方法論ということです。
 いまは 人間が作り出したものと 自然のものが比較的区別できますが
 たとえば将来 遺伝子を編集して優秀な人間がクローンとして
 存在しはじめ また錬金術より高度な物質生成マシーンができたとしましょう。
 そんな時代に目の前のモノが形而上にあるものが具現化したものか あるいは
 形而下にあるものなのか まったく区別がつかなくなる可能性があるのです。
 形而下にあるものが形而上にあるものによって駆逐される危険もあるでしょう。
 実は既にその危険は わたしたちの日常にも影を落としているのです。
 様々な概念によって 本来あるべき姿が歪められている危険性です。
 だから わたしは けなげな抵抗の意味で 薬指をクレヴァスに這わすのです。
 Made in USA のソーセージを見てドキドキしてしまうのは わたしだけでしょうか?
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この回答へのお礼

chihokoさん、またまたご回答有難うございます。
貨幣の形而上化にご賛同を頂き感謝いたします、しかし、#6の回答を同時に見てしまい複雑な心境です。
愛の本質について詳しく説明を頂き参考になります、残念ながら愛について語る資質が私にはありません、ここでも沈黙させていただきます。
>Made in USA のソーセージを見てドキドキしてしまうのは わたしだけでしょうか?
私の貧しい経験上は、あなた以外には知りません、感動できることが多いことは羨ましい限りです。

お礼日時:2002/06/02 05:28

●すこしわかりやすく 具体例をあげてみたいとおもいます。


 DQと表記します。
 ある人は ドラゴンクエストと感じ。
 また ある人はデジタルクゥオーツと感じます。
 そして ある人はあのなつかしい どんキューと感じるかもしれません。

 つまり「愛」は その本質として形而下にありますが。
 その形而下にある「愛」を概念として認識する時点で形而上に至るわけです。
 わかりやすく言うと 解釈はひとそれぞれになると言うことです。

 つまり
●商品は形而下で、価値は形而上である。 を考察すれば
商品は総称なので 個別に考察するべき。価値は概念なので当然形而上。
となります。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。 を考察すれば
貨幣の機能は価値ですから形而上にあり。
貨幣の機能以外のモノは 紙に福沢諭吉を印刷した 意味のないものですから
意味のない形而下のものを 思索に加えることは意味がありません。
つまり貨幣は形而上にあるのです。サイバーマネーと同じです。
その形而上のもので きゅうりやソーセージが買えるのですから。
世の中おかしくなってあたりまえですよね・・・。
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この回答へのお礼

chihokoさん、再度のご回答有難うございます。
質問者に合わせて判り易く説明していただき、有難うございます。「愛」については、今ひとつ難解な点があるような気がしますが。
貨幣の件は、金属貨幣(金貨)から現在のお金への変化を念頭にいていましたが、上手く伝えられなかったようです。
余計なことですが、なぜ、きゅうりとソーセージが出てくるのか違和感を覚えるのは、chihokoさんのペースにはまっているのでしょうか。

お礼日時:2002/06/01 18:11

形而の上下は、人間が何ものかを区別しようとの試みで考え出した概念です。


ですからこの種の問いはすべからく、概念で概念を考えようとしているので、ややこしさが伴うのだと思います。
それでは、そのややこしさを取り除くには、どのようにしたら良いのでしょうか?ここに、この問題をとく鍵があると思います。
ものごとを分かりやすくする方便の一つに、邪魔なものを取り除くという方法があります。その手法を採用して、この場合には、ややこしい概念の拠りどころとなる人間そのものを消去してみます。すると今現在そこに残されるであろうものが、形而下の事物・現象ということになるはずです。
ですから、人間存在に関わりなくそこに在る事物・現象が形而下、それ以外が形而上の事柄ということになると思います。
この認識を先の例で検証してみましょう

>商品は形而下で、価値は形而上である。

商品を具体的な品物として見なすなら(〇)
もし商品を包括的な概念とするなら(×)
価値は形而上(〇)

>貨幣は形而下から形而上に変化した。

これは「貨幣は、形而上の価値が形而下に具体化された物」と変えたほうが思考の流れからすると自然だと思います。この文脈の中での貨幣は、一般概念ではなく物としての札やコインということになります。

なおゴリラやオケラについての形而の上下は検証していません。悪しからず

以上参考にしながら、よい旅を続けて下さい
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この回答へのお礼

mcqgogoさん、ワールドカップでお忙しいところご回答いただき有難うございます。
出だしは難解そうでしたが、よく読んでみるとなるほどと唸ってしまいました。雰囲気が良くつかめました。
例題に回答を試みれば、ゴリラやオケラは人間の付けた名称ですから形而上となりますが、存在そのものは形而下となるわけですね。
ジダンのいないフランス心配ですね。

お礼日時:2002/06/01 17:57

●あらゆる概念は形而上にあるものです。


 つまり 形而下にあるものを形而下のままに概念として認識することは 人間にはできません。
 人間は 概念での認識があって はじめて本能レベルを超えて能動できるのです。
 つまり 概念がなければ 動物と同じように イメージとしての認識のもと
 イメージの本能的処理によってのみ生きることとなるわけです。
 
 形而上の概念を形而下に具現したと 思うのはそのひとの自由ですが
 どれほどセンスの高いアーティストであっても その具現は ある意味では
 ゴミとなんらかわりあるものでは ありません。
 価値という概念が 形而下のモノとリンクする 経済というシステムは
 形而上と形而下が あたかもつながりのあることのように錯覚させる
 レトリックをはらんでいるのです。つまり おおくの人類の抱える難問は
 正にこの 形而上と形而下のかかわりを安易に肯定するがごとくにふるまう
 かずかずのレトリックによるところが 大きいと考察しております。

 形而上の概念と形而下にある大いなる現実(宇宙150億年の実証を伴うもの)
 とは そう簡単にはリンクできないものなのです。
 ↑このことを しっかりと認識する必要があるでしょう。
 まちがえない ひとつの方法として わたしは「性器」に聞いているのです。
 いつも どこでも やさしく 薬指で・・・。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
またまた、難解な表現で、噛み砕くには時間がかかりそうです、chihokoさんのように便利な性器があればよいのですが。おっと自分のペースが崩れてしまいます。くわばらくわばら。

お礼日時:2002/06/01 13:31

 


 こういう質問には好感を持ちます。 私の勝手な解釈かも知れませんが、この質問の根底には、「誰にでも分かる哲学を」という意図が感じられます。 文章を簡潔に表現しようとするならば、難解な単語の使用が妥当なのかも知れませんが、万民に受け入れられ難いのが難点ですよね。(私自身は、難解な単語が嫌いです。)

 言葉を噛み砕くと、ともすれば、その意味が抽象的になりがちですが、実例を示す事により、ある程度はカバーできるでしょう。 ・・理解されやすく教えるための基本でもありますよね。

 そこで、本題に入りますが、一般的に分かりやすく説明するならば、

 ■ 形而上 ⇒ 形となって目に見えない世界
 ■ 形而下 ⇒ 形となって目に見える世界

 ということになると思います。

 ◆「形而上」の例
  ・宇宙の真理
  ・美の概念
  ・胸が張り裂けんばかりの異性への思い
  ・妄想(悶々)

 ◆「形而下」の一例
  ・自然科学
  ・ファッション
  ・思い続けていた異性に意を決して告白した時の冷たい仕打ち
  ・交わり(恥ずかしいのでアルファベット3文字は避けました。)

 >●商品は形而下で、価値は形而上である。 ←「×」
 >●貨幣は形而下から形而上に変化した。  ←「×」

   ・・面白い設問です。「△」として考えても良いかも知れませんが、価値というのは
   いかなる段階においても形に還元できるものです。したがって、両者とも形而下に
   属するものと考えます。
 
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この回答へのお礼

aoihosiさん、ご回答有難うございます。
aoihosiさんが仰るような雄大な意図が有った訳ではありませんが、折角ですから、その様な事にしておきます。
二つの文のうち、後のものは自分でもラジカルな感じがして賛同される方は少ないと思っていましたが、前の文は正しいのではと考えていました。
危うく知ったかぶりをしてしまうところ、助けていただき有難うございました。

お礼日時:2002/06/01 13:15

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