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transzendentとtranszendentalの対義語を調べたいのですが見つかりませんでした。

transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?
transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (23件中1~10件)

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。


「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ語ができないなら回答しない方がよい、ということで、
immanent, immanentalが挙げられていますが、そんなに簡単な話ではありません。
immanentalという語形は、英語では使いますがドイツ語では使いません。
そもそも、transzendentalという語を哲学用語として新たに導入し、
transzendentとtranszendentalは同じではない(nicht einerlei)とカント自身が書いている以上、
対義語が同じimmanentに由来する語になるはずはないのです。

哲学用語辞典の前に、一般的な辞書、Dudenを見てみます。

transzendentはラテン語のtranscendens(動詞形transcendere: überschreiten, übersteigen超えること)に由来、
哲学用語としての意味は、
「経験、および感覚的に認識可能な世界の境界を踏み越えること、超感性的、超自然的」
die Grenzen der Erfahrung und der sinnlich erkennbaren Welt überschreitend; übersinnlich, übernatürlich
対義語:immanent

transzendentalは中世ラテン語のtranscendentalis(übersinnlich: 超感性的)に由来、
哲学用語としての意味は、
「あらゆる主観的経験以前に在り、対象そのものの認識を最初に可能にすること」
vor jeder subjektiven Erfahrung liegend und die Erkenntnis der Gegenstände an sich erst ermöglichend
対義語:記載なし

カントにおけるこの二語に関しては、ドイツ語による哲学語辞典や研究書の解説は一貫しています。
結論から言うと、質問文に書かれているとおり、
transzendent ⇔ immanent
transzendental ⇔ empirisch
となっています。
ただし、カントにおいても、まだこの二語の使い分けは必ずしも明確ではなく、
ほぼ同義に使っている個所もあるということが、ドイツ語の各種研究書に詳しく書かれています。
この点については、三一書房刊のロングセラー、「哲学・倫理用語辞典」でも注意されています。

ドイツに、学術的な書物を多く出しているUTBという出版社がありますが、
その哲学用語辞典では、transzendentに関しては
名詞形Transzendenzを見よとなっているので、その一部を引用します。

Transzendenz
「超越(Transzendenz)」の概念においては、人間の原経験は、有限な存在であることを言い表す。なぜなら我々は、洞察可能かつ把握可能な現実の一部として存在はするが、その一方ではこの現実を、我々の認識能力の有限性を通して、それと同様限られたものとして体験するからである。この二重の境界経験は、思考に対し、我々の存在の内在的実在性(immanente Realität)が止揚される超越的現実(transzendente Wirklichkeit)の必然的予見を生じさせる。Transzendenzはつまり、Immanenzという概念に対応した相対的概念であり、Immanenzの概念をどのように理解するかによって、Transzendenzに相対する概念としてExistenz、Erleben、Daseinなどが考慮の対象となる。Xavier Tilliette (1921-)は、Transzendenzの本来の対義語は、「落下」「沈下」を意味するDeszendenzという概念によって成されるのではないかという。Transzendenzは、常に不完全なものとして見られる目の前の現実(Immanenz)からより高次の領域へ入ることを意味するゆえ。
カントの批判的認識論においては、Transzendenzとは、過剰(überschwänglich)な、かつ許容されざるかたちで感覚的経験から導き出された対象把握の使用を意味する。このような超越的使用(transzendenter Gebrauch)は詭弁であり、客観的認識の根拠とはなり得ない。
ドイツ観念論においては、Transzendenzに関わる問題は、主観・客観という弁証法的対概念に変化し、「彼岸(jenseits)」–「此岸(diesseits)」(Transzendenz – Immanenz)という意味論的な対義から「絶対的(absolut)」–「限定的(bedingt)」へ変換される。

以上の意味から、transzendentの対義語はimmanentとなります。

transzendentalは、カントの定義では、a priori(つまりempirischではなく)とみなされる認識に関わることであり、この認識は、対象を直接にではなく、我々が対象をどのような方法で認識するか、その方法によって規定する、とあります。
「対象とではなく、a prioriに可能な限りにおいての我々の対象認識の方法と携わるすべての認識をtranszendentalと名付ける」

transzendentalの上のような意味と、その語源の意味がübersinnlichであることから、カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

また、これらのラテン語由来の述語をカント自身がより一般的なドイツ語に置き換えていますが、
transzendentはüberfliegend(飛び越える)、またはüberschwenglich(過剰な、感情過多な)、
immanentはeinheimischと訳されています。
(注:überschwenglichは、こんにちではüberschwänglichと綴ります。)
なので、この場合のeinheimischは「土着的」ということではなく、
immanent(内在的)のドイツ語訳です。
heim(家)という語が含まれていることからもわかるように、
古くは「在宅する」の意味で使われた形容詞です。
以下、Georg Samuel Albert Mellin著のEncyclopädisches Wörterbuch der kritischen Philosophieからの引用です。

Einheimisch
immanent, domesticus, domestique, immanent. So heißt im Theoretischen diejenige Vorstellung, die nur auf Erfahrung geht, oder auf Erfahrung eingeschränkt ist, weil sie dann in ihrem Gebiet ist und bleibt. Eigentlich heißt also einheimisch oder immanent seyn, in seinem Gebiet seyn, transcendent seyn dagegen, über sein Gebiet hinausgehen.
(einheimischは、自らの領域にとどまること、transcendentはその領域から出て行くこと。)

以上をまとめると、ラテン語由来の述語とその対義語、およびそのドイツ語訳は、以下のように対応します。
(apriorischのみはラテン語由来のままです。)

transzendent ⇔ immanent : überfliegend/überschwenglich ⇔ einheimisch

transzendental ⇔ empirisch : apriorisch ⇔ erfahrungsgemäß

(Fritz Mauthner: Wörterbuch der Philosophieの解説より)

『純粋理性批判』の複数個所で、「transzendent - immanent」「transzendental - empirisch」が同義に使われているということが、
Christoph Asmuth著のKant und Fichte - Fichte und Kantの解説中に見受けられます。
区別が明確になるのは、Prolegomenaにおいてだそうです。
ほかにも、Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)
という書物を見つけたのですが、残念ながらいま仕事が忙しくて読み込めないので、
ここまででご勘弁願います。
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この回答へのお礼

TastenKastenさん、ご無沙汰しております。

今回もまた、緻密かつ網羅的なご回答をいただき、まことにありがとうございます。

実は講談社の独和大辞典に、transzendentの対義語はimmanentとあるが、transzendentalの対義語は出ていなかったので質問をした次第ですが、Dudenでも対義語の状況は同じなんですね。

>カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

私が素人なりのアタリを付けたのと、Tastenkastenさんが御調べ頂いたのが同じ回答だってのは大変うれしいです。ただし、あくまでカント用語ってことですね。

>Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)という書物を見つけたのですが、、、、

いやはやこのタイトルで本が一冊書ける程の広がりがある概念なのですね。
下記に骰子さんという回答者が「簡単じゃないぞ、よく考えろ」とアドバイスしてくれたのは、このような背景があっての事なのかもしれません。

大変参考になりましたし、それ以前にTastenkastenさんの回答を読んでいると頭が下がります。
重ね重ね御礼を申し上げます。

お礼日時:2017/07/30 01:02

もう、充分適切な回答は得られているようなので、蛇足となってしまいますが、カントとフッサールでは、内在する観念の範囲が違う事により、解釈が異なってしまうと言う事ですね。


transzendent(超越)の対義語は、カントにおいても、フッサールにおいても、それ自体が外在する(主観の外にある)と解釈しうるならば、immanent(内在・主観)で問題無いでしょう。(ただし、この定義だと超越論的主観性においても、カントとフッサールとの区別が必要と思われます)
transzendental(超越論的・先験的)は、存在に関して先行するものに対する認識を問題とする事ですから、その超越に関する概念が問題になります。
カントもフッサールも観念論であるので、観念の境界が、内在(これは人間に関してです)の境界と一致するかが問題になるわけですが、カントに関しては、それは厳密に一致していると考えて良いでしょう。
フッサールの場合は、内在の中に部分集合として観念が存在するので、内在と観念の間でも超越が生じています。(内在には、観念の外の領域があると考えています)
empirisch(経験的・実証的)が、内在が受け取る、外在の感覚を含むとすると、フッサールにおいては、それはtranszendentalの対義語とはなりませんが、経験は観念による認識と考えれば、対義語としては使えそうです。
カントにおいては、観念の境界が内在と外在の境界なので、問題無く対義語となります。
現代の哲学者(哲学研究者)においては、フッサールの現象学は、フッサールの研究者以外では、それほど重視されていない事情もあるので、どちらかと言えば、カントの定義によると考えた方が良いのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なぜか、フッサールの評価はカントよりも低いようですね〜。

フッサールとカントの違いを研究してみたいと思います。

お礼日時:2017/08/09 16:27

★ (№20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~


(ほ) フッサールは客観というものが人間には可能でないことを洞察し、
そうでありながらも、客観を現出させるために無限的存在を借用することを
拒んだんですよねぇ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (ま) そういう離れ業〔あとで(や)以下に触れる〕を試みたかも分
かりませんが もともとは やはり《真理》が大前提であり それは《無限
的存在》のことです。



▲(フッサール:真理の客観的概念)~~~~~~~~~~~
(み) 真なるものは絶対的であり 《それ自体に》真である。

(む) 真理は これを判断によって把握するものが人間であれ人間以外の
ものであれ 天使であれ神々であれ 同一である。
 
(め) 人種 個人および諸体験のリアルな多様性に対立する このような
イデア的統一性における真理について論ずるのが論理学の諸法則であり そ
してまたもしもわれわれが相対主義的な混乱に陥っているのでなければ わ
れわれは皆このような真理について論じるのである。
(『論理学研究』LU.I, 117f   立松弘孝編『フッサール・コレクション』
2009 p.172)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆(も) ただし確かに 次の場合の《真理》は 経験事象にかかわってお
り それはまた人間の思考や知解におけるそれであるようにも捉えられます。
ということは なかなか全体の姿がつかみにくいようであります。


▲ (真理と明証) ~~~~~~~~~~~~~~~~
(や) 明証とは真理の《体験》にほかならない。もちろん真理が体験され
るのは 一般にイデア的なものがリアルな作用の中で体験されうるのと別の
意味においてではない。(同上書 LU.I, 190f )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (射 yi ) 何のこっちゃ? 《無限的存在》が 体験されると言う。
それは 特殊絶対性であって 或る個人の主観内のことであるに限るはずだ。

(ゆ) いや。つまりは ここでフッサールの言う《真理》は ただの経験
事象をめぐる人間の成し得る認識としての真実――事実と一対一に対応する
内容と見なされるもの――のことでしかない・・・のかも知れない。



▲(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~
(江 ye ) 換言すれば 真理は一つの理念(イデー)であり 明証的判断
におけるこの理念の個別事例が顕在的体験である。
~~~~~~~~~~~~~
☆ (よ) これは 観念である。思考と想像とによる神の――つまりむろ
ん人間による――創造である。神は 理念ではない。



▲(承前) ~~~~~~~~~~~~~
(ら) しかるに明証的判断は本原的な所与性の意識である。〔・・・〕思
念と 思念が思念する自己現在的なもの(セルプストゲーゲンバルト)との
一致や 言表の顕在的意味と自己所与的(ゼルプストゲゲーベン)事態との
一致の体験が明証であり そしてこの一致の理念が真理である。 
~~~~~~~~~~~~~
☆(り) 真理をハイジャックできたとでも思っているのだろうか。純粋意
識ないし純粋概念なら――つまり理念なら――よいと思い込んでいる。

(る) エドムンドくん 錯乱せり。

(れ) ですから カントやフッサールから自由に 超越論的なる概念につ
いて考察しなければなりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/08/09 16:24

返信ありがとうございます。


また、畑違いからのアプローチで長文の回答をして貴重なお時間を奪ってしまいました。
文学と哲学とではトランセンデンタルの使い方が違うことも勉強になりました。
尚、南方熊楠については、私なりの、人間における抽象的な疑問を模索していて書籍を読み漁っていたら、何度も名前が出てくるので、必然的に辿り着きました。しかし、スピリチュアル的な本にはよく南方熊楠が出てくるのも確かですね。

尚、この度は不躾なお願いをしてしまい大変申し訳ございませんでした。
返信にて、私の希望は叶わないことは理解できました。
この件について、どうかお気に病まれないと良いと良いのですが。


哲学という学問が、最初に人間の存在理由について疑問が持たれた有史以前から少しずつ蓄積されて現在までに至っていることを考えると、質問者様のみならず、学究者にとっても非常に時間が足りない学問であろうと想像します。
そのことを考えると、今年の4月からの2年間という限られた時間の中で、質問者様が哲学という学問を効率的に(言葉は良くないかもしれませんが)学究することができますよう、陰ながらお祈り申し上げます。

この度は私のような門外漢にお付き合いいただき、大変ありがとうございました。
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この回答へのお礼

どういたしまして。

>質問者様が哲学という学問を効率的に学究することができますよう、陰ながらお祈り申し上げます。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2017/07/30 22:22

入力のエラーがありました。



x (せ) けれども (え)と同じ一文(判断)なので 
○ ・・・・・・・・・(か)・・・・・・・・・・・・

x (へ) ・・・(に)は 現象学的錯視である。
○ ・・・・・・・(ね)・・・・・・・・・・・
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この回答へのお礼

はい。

お礼日時:2017/07/30 22:21

▲ (フッサールの超越論的領域) ~~~~~~~~~~


(あ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界
および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そし
てこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり
(『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』
2009 pp.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』
1976)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆(い) すでに《超越論的主観性》が出てしまっている。これは す
でに《非知なる神の霊》が――アートマン(霊我)やブッダター(仏性)
やあるいはルーアハ(霊)やプネウマ(霊)として――わたしたちの自
然本性にやどっていて しかも(重要なことに・すなわち問題となるこ
とに)すでにこの霊なる主観性を 人間が用いることが出来るといった
ニュアンスで語っている。

(う) なるほどそんな離れ業が出来るのなら《ラヂカルな哲学》にな
ること 請け合いであるが そうは簡単に問屋が卸さない。

(え) 人と神とのあいだには なおまだ問屋があるはずだ。超越論的
主観性が 直接に具象的に《可能となる》とは思えない。《経験世界と
の区別》が可能になるだけだと言っても どういう区別かが重要だ。

(お) おまえの問屋は どこのどういうものだ? それを明らかにせ
よと問われるはずだ。――だとすれば 《区別》すら 人間が勝手にお
こなう《想定》に成るものなはずだ。





▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(か) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部
で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (き) そうだとしても 《超越的なるもの(場・領域)》につい
ては 勝手に経験事象と同じ扱いをしてはならない。出来ない。人知を
超えているのだから。

(く) だから 重ねて言えば 超越的なるものを哲学するに当たって 
つまりは神を これこれと想定しますとまづことわらなくてはならない。

(け) 《世界の存在に先立つもの》が どうして何の造作もなく人間
に分かるのか。

(こ) これでは 神を 引きずり降ろして来て 超越論的主観性と言
いかえたにすぎない。しかも 人間の存在と能力の内に据えてしまった。

(さ) つまりは 昔からの《ひとの自然本性にやどる霊》のことだと
言うのなら――つまりは そういう想定だと言うのなら――分かるとい
うのに。




▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(し) 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的
に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (す) ここだけを取り上げるなら 人間は経験世界を認識し得る
と言っただけである。

(せ) けれども (え)と同じ一文(判断)なので 《世界に先立つ
わが超越論的主観性》が すでにそのハタラキを得て 実在する世界を
認識し 理念としてもまとめて捉える・・・と言ったことになる。

(そ) そうではないであろう。われわれは 相対的で限りある能力を
尽くして 世界認識をおこなうのであり そこにちらっと真理のかけら
を見たかも知れないと言うことはあっても われは超越論的主観そのも
のに成ったなどとは言わない。言うものではない。

(た) つまり フッサールの意を汲んであらためて捉えるなら われ
われ人間であっても 神なる超越的な場から問屋を介して何がしかの真
理――それは むしろ知解と判断のチカラである――が得られるかも知
れない。というほどのことであろう。




▲ ~~~~~~~~~~~~~
(ち) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 
換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越
的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的 ‐ 現象学的還元とに
よって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共
に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引
き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開か
れたのである。
~~~~~~~~~~~~~
☆ (つ) もしそう言おうと思えば 問屋を介して神からの霊感を得
て 世界が分かると言ってみる場合・・・まづそのとき 《判断中止》
が不可欠なこととして要るわけではない。

(て) 問屋に問うときには 経験的な思考も判断もおこなっていてよ
ろしい。中止してもよいが 問題は 問屋(天使?)ですら 人知を超
えているということである。

(と) 超越的なる場は 単に《カッコに入れられた》ものなのではな
い。カッコに入れたともしするのなら それは 経験と非経験との区別
だけであって カッコに入れたと思った非経験の場が それによって分
かったわけではない。

(な) 《超越論の手引きが機能する》とは いったいどういう根拠で
言うのか? 《超えている》という意味で区別を成し得ただけのはずだ。

(に) 要するに 《超越論的 ‐ 現象学的還元》を人間が成し得ると言
っているとすれば それは 大バカ者だ。《超えている》と初めから言
っていたではないか。

(ぬ) 《具体的な超越論的存在領域が開示され》・・・これが 矛盾
である。そう――主観の内に――思えた瞬間があるといった程度のこと
だ。要するに おれは神を見たと 誰かが主観内のことして 自己表現
することまでは 自由である。




▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~
(ね) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》
の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性
(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆(の) 《相互主観性》にしろ《超越論的主観性》にしろ 人間の主
観が――それをいかに超越論的に捉えたとしても―― 《超越論的領域》
をそのまま受け容れ引き継いだものとなることは ない。

(は) 《そのまま》はあり得ない。問屋も簡単には卸さない。

(ひ) (実際には 信仰を介するということ。その非思考の庭に ヒ
ラメキや良心となって あたかも現われると思うときがある。
つまりこれは そんなことはあり得ないという他方の見解と同等であり 
両見解は 互いに両立する。問屋も神もあり得ないという神論も そう
いう信仰なのだから)。

(ふ) 《自我の内部に〈他者〉が構成される》というとき この他者
が 大文字の他者である・つまりは神のことだとすれば それは先ほど
のヒラメキや良心としてあたかも受け取ったという場合があり得たとし
ても 神がわが心に鎮座ましますと分かるわけではない。

(へ) 神は 理念ではない。理性でも精神でもない。問屋ですらその
まま 経験事象であるのではない。(に)は 現象学的錯視である。
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この回答へのお礼

フッサールは客観というものが人間には可能でないことを洞察し、そうでありながらも、客観を現出させるために無限的存在を借用することを拒んだんですよねぇ。
凄い人だと思い居ます。

フッサールの様な知的冒険者が居てくれたことに感動、感謝しております。

お礼日時:2017/07/30 22:24

№18ですが:



27. カントは しかるべき超越論的哲学を構築し得ていない。ゆえに
カントをも超越しなければなりません。

☆ という意味です。ひとりドイツ語の問題であることをも超えるはずで
す。
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この回答へのお礼

はい。

お礼日時:2017/07/30 22:24

№9です。



17. 
▲ (カントの神論〔の方法〕) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
要するに思弁的理性から 経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ
限り 私は神 自由および不死〔霊魂の〕を 私の理性に必然的な実践的理性
使用のために想定することすらできないのである。
(カント:純粋理性批判 第二版序文 XXX 篠田英雄訳 上 p.43)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 18. 神という超越的なるものを 人間の理性で思考するなら――人知
を超えているものを相手にしているからには―― 《思弁的》で 勝手な想像
と成らざるを得ない。

19. これは 《越権》を承知でおこなうものである。

20. この越権行為としての思索や想像は 何も《経験を超越する》とは称
していない。そうは思っていない。人知は及ばぬと承知している。

21. その上で――きよらかなおそれをもって 顔を赤らめながら―― そ
の何らかのかたちの認識に到る道にすすむ。というのが 越権である。

22. じっさい 哲学は 出来るだけ経験合理性にもとづくという根性をも
ってコトに当たっている。人知が《経験を超越する》などということがあり得
るとは思っていない。

23. 《理性および感性》を超越している対象(=非対象)であると承知し
ているのだから しかも――哲学は欲張りでどこにでも首をつっこみたくて仕
様がないので―― この非対象なるナゾについて 大いに《想定》をおこなう。

24. じじつ ただ《超越的》だと言うだけではなく 《人間の能力と努力
とでは 知り得るか知り得ないがが知り得ないナゾ》――つまり これを《非
知》とよぶ――と言ってこれを想定し あとは仮説法にしたがえば済むことで
ある。

25. 神論として成り立つはずである。
【Q:神論の決定版です:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9855631.html

26. イマヌエル〔イムマ(= with )‐ヌー(= us )、エル(= God )〕
くん へまをやっちゃった。
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この回答へのお礼

カントは無限者的な立場の哲学を、有限者(=すなわち人間)に取り戻そうとしたんだから、立派なもんだんと思います。

お礼日時:2017/07/30 22:52

補足ですが、こんにち哲学でtranszendentalという語は、


ほぼカントが与えた意味でのみ使用される、という記述も見受けられます。
フッサールの場合は、transzendentalをもっとも広い意味で使っており、
Joachim Stillerという人によるフッサールの『ヨーロッパ諸学・・・』への注釈中の§26の箇所では、
「フッサールの最終的な根拠づけは、フッサール自身の要求を満たしていないので無視したい」、
となっているほどなので、フッサールの用語としてのtranszendentalの対義語というのは見当が付きません。
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この回答へのお礼

捕捉ありがとうございます。

超越論的という言葉には、以前より引っかかりがあったのですが、ちゃんと知りたいと強く思ったのは、まさにフッサールの解説本に超越論的が出てきたからなんです。
辞書編纂者もカントとフッサールの両方を知っているからこそ、対義語を絞り込めないという状況があるのかもしれませんね。

私の手元にあるのは「危機」の細谷恒夫、木田元訳のバージョンなので上記の注釈は出ていないようですが、フッサール本人が第26節と第27節で自らこの概念を論じているようなので、この夏、なんとかこの「危機」を読破したいと思っています。その為に、まずは、フッサールおよび現象学一般の解説本を読んでから、「厳密」と「危機」の細谷恒夫訳で挑戦する計画です。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/07/30 01:09

不思議な人たちですね


ドイツ語できないのに回答しないほうが良いのでは・・・?

immanent immanental です。(辞書に載ってるんじゃネ? で フランス語出来たら しったかぶり できるの? へーんなの)

 回答者のレベルが わかります。
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この回答へのお礼

回答者のレベルが分かるのですね。

お礼日時:2017/07/29 21:11

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