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transzendentとtranszendentalの対義語を調べたいのですが見つかりませんでした。

transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?
transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (23件中11~20件)

雨合羽先生 amaguppa という方に御指導受けてらっしゃったんですね。


おそらくこの先生の回答がベストアンサーになるかと思いますが、私からお願いがあるんです。

私こと「情弱」の回答に対してどのように判断されたか、また、どのような印象を持たれたか、
専門家である雨合羽様からご師事を仰ぎたいのです。

不躾とは存じますが、補足でその旨質問していただけないでしょうか。

私は哲学は独学で、自分自身の体験や経験から回答しており、哲学における決定性などについては不勉強です。
文学畑からのアプローチで、なんとか辿り着いたのが現状の回答となりましたが、専門の先生から見ればトンチンカンな回答もあるはずだと思います。

辛辣な御指摘や御批判も覚悟しております。

ここはあくまでも質問サイトであり、このようなお願いは厳に慎むべきことは承知しております。

しかしながら、私自身もこの命題についての知的好奇心を抑えることができないのです。


どなただったか失念してしまいましたが、「文系はアインシュタインを読め。理系は文学を読め」というようなニュアンスの言葉を思い出しました。

どうか、「垣根を越えた知の蓄積」にご協力していただきたいのです。

忌憚の無い印象を伺いたく存じます。

何卒、祈るような思いで、よろしくお願い申し上げます。
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この回答へのお礼

amaguappa先生は、もう7-8年前になりますか、結構昔から愚拙の質問に色々とアドバイスを頂いておりますが、いかんせん、彼女がどの質問に回答を寄せるかかは、愚拙の預かり知らぬ問題でして、、、。

このサイトでamaguappa先生が興味を持たれるような、哲学に関連するけど、決して哲学史関連ではないような問いを投稿して見るのも手と思います。

どうぞあしからず。

お礼日時:2017/07/29 21:31

「超越的」と哲学で使う場合は、神の優越性の、否応なく上位価値にあると〈決まっている〉この決定性に依存するといえます。


しかし、この決定性については、客観(狭義には楽観的な社会通念)でそうあると言えるのでなければ、主観によっては決定されえず判断のうえにおかれることになるので、
文言としては transzendent よりも主観に歩み寄った形になり、たとえば transzendental ego とするでしょう。
-al のぶん、判断や疑いが混じっているとおもえば、腑に落ちるかと思います。

お暇潰しにフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をおすすめしようと思うのですが、お気に召しますかどうか。
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この回答へのお礼

雨合羽先生、お久しぶりです。まだフランスにいらっしゃるのでしょうか?

いやあ、先生の説明をもらってうれしいです。しかし、相変わらず大工には理解しがたいご説明です。

ちょうど昨日、ヨーロッパ初学の危機と超越論的現象学の文庫本が届いたところなんです。奇遇ですね。

で、早速、下記の説にジャンプして解読作業に取り掛かったんですが、当面の問題は、フッサールは「超越論的」に関してカントの概念を前提としてそれとの違いを説明している部分があって、愚拙はカントが分かっていないから、やっぱ理解が進まないですよね。

第二十六節:「超越論的」というわれわれの指導原理についての予備的解明

とはいえ、明日、二科目の期末試験を終われば、長い夏休みがあるので、その間に岩崎武雄先生のカントと、竹田青じ先生、田口茂先生の現象学の解説本などを読んでみようと思っています。
ここはあせらず、たっぷりと時間をかけないとイケナイ局面のう様だし、、、。

先生も、危険なところに近寄らずに、ご安全に!

お礼日時:2017/07/27 18:30

再度回答します。



なるほど、トランセンデンタルの日本語訳への対義語が知りたかったんですね。

主文から言えば、極めて困難だと思います。

理由を説明します。

トランセンデンタルの日本語訳の対義語を知るには、日本語におけるトランセンデンタルと言う概念を熟知しなければならない、というのがひとつ。

私は「トランセンデンタルな状態」とは、「俗世、あるいは自我から解放されて、より高次な意識、あるいは無意識に近い状態」であると体験しました。しかし、そのような状態の対義語を考えると、そもそもの「そのような状態以前の状態」となってしまうため、パラドックスが生じてしまうからです。

尚、「自我から解放されて、より高次な意識(あるいは無意識に近い状態)」について、私の経験と体験を書き添えます。

これは昔、レイヴパーティーでのダンスで体験しました。

「踊らせるためだけに創られた、快感を誘うトランスミュージック」に身を任せて、ただただ、ダンスする(もちろんダンスとはテクニカルに踊るのではなく、リズミカルに身体を小刻みに動かすだけも含みますので、身体に支障が無ければ高齢でも可能です)。
最初は「この気持ちいいダンスミュージックで踊りたい」と言う自我から踊リますが、しばらくすると意識が朦朧としてきて、ダンスミュージックに合わせて勝手に身体が踊り出す、という不思議な現象。それを1〜2時間続けると、身体や精神にも不思議な変化が現れます。
深夜、大自然の中で大音量の音楽が流れる中、勝手に身体が動き出す。
天を仰げば、星しか見えない。
オカルト的な表現になってしまいますが、何故か突然、ある瞬間から、宇宙と一体化したような感覚、また、これも不思議なんですが、何故か涙が出てきて、何者かに感謝したくなる感覚というか、言葉では言い表せない陶酔感が生まれました。

一時期ブームになった「脳内革命」という本では「ポジティブに考えれば、エンドルフィンという脳内麻薬が出る」と記載されていましたが、それはあくまでも、禅などを実践しないと、頭の中で考えるだけでは不可能だと理解しました。

そして、この感覚はいったい何か?と自問自答しました。

トランスパーソナル心理学の本を読んだり、南方熊楠の書籍などを読んだり、禅の書籍などを読みました。

そこで辿り着いたのが「自己超越の思想」という書籍でした。

私の疑問を氷解させる書籍でした。

この書籍の中で分かりやすいのは、志賀直哉の暗夜航路のラストシーンについて触れられている箇所です。
「自分が宇宙と一体化して、芥子粒になるような、自分が自然に【溶けてゆく】ような感覚」について見事に描写されており、まさにこれこそが「トランセンデンタルな状態」であると確信できました。
現代文学ではこの感覚について、村上春樹の「神の子たちはみな踊る」で、実に見事に描写されています(この書籍は短編集のタイトルで、「神の子たちはみな踊る」という短編だけなら、立ち読みできるボリュームですので、御一読をお勧めします)。

哲学というのは思索によって人間の根本原理を明らかにしようとしますが、人間の思考だけでは限界があり、しかもサイエンスと異なり、証明することは極めて困難であり、その限界を超えるには身体性が不可欠だと、実体験から理解しました。

ソクラテスの「歩きながら考えよ」という言葉の重みが身に染みます。

主文からの説明がかなり長くなってしまいました。

私にとっては、哲学とは「宇宙に於いて、人間という存在は何者か」という問いを「理解したい」という、「思考することを与えられた人間」に課せられた最大の命題だと痛感させられました。

とどのつまり、トランセンデンタルの状態を理解することは、精神性もさることながら、身体性によって体感しなければ言語だけでは不可能であり、哲学する側の個々が、答えの出ない命題で苦悩に陥り、「なんとか答えを知りたい。しかし、どうしても答えが出ない」という苦しみの中で、精神性を越えた身体性に寄り添わなければ決して辿り着けず、哲学本来の意味からかけ離れた「頭の体操」に陥ってしまうことを、私自らの精神性と身体性に於いて理解しました。

となれば、トランセンデンタルの日本語訳である対義語を知るには、「人間とは何者か」という命題に、近代日本文学者のように、追い詰められるほどに苦悩しなければ、身体性まで到達することはできず「知識」のままとどまってしまうでしょう(私はこのような命題でノイローゼになり、精神科に通院しました)。

以下に、質問者様にとって参考になりそうな書籍を記します。

踊る旅人(レイヴ トラベラー)
レイヴ力
神の子たちはみな踊る
自己超越の思想
すいてんの思想(漢字変換ができないため、画像を添付しておきます。かなり抽象的な南方熊楠の思想を解説しています)
2001夜物語(全3巻。鋭い漫画、否、劇画。これが一番お勧めかもしれません)


追記:私は、哲学を標榜する、一般教養で哲学が必修の大学の外国語学部英語学科に入学しましたが、教授は「どうせ学生には理解出来ないだろう」と舐めているのか、延々と「哲学の歴史」を喋るだけ、という講義に辟易し、「この大学では、哲学は既に死んでいる」と考え、二年で中退しました。その後、某大学の英米文学科に入学しましたが、これが大当たり。夏目漱石の孫弟子から直に講義を受けることができ、また、3年生から受講できる講義も非常に優れた教授が多く、「自分は大学でフェミニズムを専攻し、これだけのことを学んだ」と胸を張って言えるだけの充実した学生生活を送ることができました。

費用対効果で言えば「知識」を付けるためには学費を払って大学生として学ぶのは確かに「効率」が悪いですよね。しかし、私の体験談から言って、それでも高い学費を払って大学生として学ぼうと言う質問者様の心意気は大変理解できるものがあります。
私は英米文学科の一般教養で無理矢理ギリシャ文学などを読むことを強要されました。最初は「こんなことが何の役に立つんだろう」と疑問に感じておりましたが、3年目に素晴らしいゼミに当たることができ、それまで読んできたギリシャ悲劇などがいかに価値があるものかを理解し、身体中に電気が走るような体験をしました。
今でも、私の人生における大切な財産となりました。
質問者様が現在の大学生活において、知識だけではなく身体に染みた本当の学問として、一生の財産となりますように心よりお祈り申し上げます。
「transzendentとtransze」の回答画像12
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この回答へのお礼

長文の投稿ありがとうございました。

どうもスピリチュアルの世界と西洋哲学のせいでは同じTranszendentalを別の意味に使っているようですね。

しかし、スピリチュアル系で熊楠の名前がでるとはビックリしました。

お礼日時:2017/07/29 21:13

>私的には時間を買ったつもりです。



費用対効果でご不満があるということですが、どう説明したものか考えました。敢えて、こちらも比喩を使ってみます。

ビジネスモデルとして考えた時、大学の哲学は、予備校というより、高級時計や高級ワインに近いものではないでしょうか。
高級品は微々たる差に凄まじい値段がつきますね。時間がわかればいいとか、飲めればいいということじゃなくて、ほんの少しのクオリティに莫大な値段がつくわけです。しかも「客の作法」というものがあって、不満でもクレーマーにならず、作り手を育てるようにするのが一流の客だと言われています。

大学も似たようなものではないでしょうか。人がものを考えるということは、鈍臭く、大変なことです。本には洗練された答えが書いてあります。わかればいいというなら、良書を1万円で買ってきて、インプットすればいいわけです。
しかし本には、答えに到達するまでの鈍臭い議論は書かれていません。大学は本の100倍近い料金を取るわけですが、舞台裏を見せてくれるわけです。時間・費用はかかる。しかしほんの一瞬、人がものを考える根源を垣間見せてくれます。
ここに無上の価値があると認めれば、満足はいくでしょう。

しかし高級品の差は微々たるもので、そこに費用に見合った価値があるかないかを判断するのは人それぞれです。
ここら辺はご自身で納得していただくほかないわけです。

>これに懲りずにどうぞよろしくお願い致します。

丁寧にありがとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。

正確に言うと、費用対効果ではなく、「時間帯効果」に確信が持てなくなっています。
費用対効果が問題で場合、仮に年間費用の120万円が60万円に下がったら、費用対効果が向上し、わたくしは満足することになるわけですが、わたくしの場合は(下がったら嬉しいけど)60万円になっても、今の悩みが解消しないと思われるので費用対効果の問題ではないと思うのです。

さて、高級品ビジネスモデルで大学の本質をご説明いただきましたが、愚拙としては、大学の本質、とりわけ文学部や哲学科の本質は、高級品/普及品のモデルよりも、贅沢品/必需品のモデルで考える方がしっくりすると思います。
大学教育は、特に人文教育は、贅沢品です。それが無くても生きてゆけるが、あれば人生が豊かになるものが贅沢品だからです。加えて必需品にも遭難救助や急性期医療など高価なものもあり、贅沢品にも書籍やDVDなど安価なものがあります。

必需品は、その品(あるいはサービス)が提供する内容に関して、迷いがない。しかし、贅沢品は、その品(あるいはサービス)が提供する内容に関して千差万別なる趣味的判断が可能です。だから難しい。
必需品ならone-size-fits-allも可能かもしれないが、贅沢品はone-size-fits-allは不可能ですよね。

私の大学は、哲学科だけで一学年60名もの学生数ですぜ。
四年で240名ぐらい。加えて5年目とか6年目も入れると学部で300名。これ、贅沢品としてふさわしいサービスを提供できるマスを超えていると思いませんか?

私が観測するところ、この300名は贅沢品ではなくて、必需品モデルでプロセスしておき、この人々から徴収した「お代」を合算して、学年10名以内の修士と、1-2名の博士課程の学徒に、本来の贅沢品としての哲学教育の場を提供するという戦術を取らざるを得ないのかなという印象をもっています。
つまるところ学部における哲学教育が必需品モデルに成らざるを得ないなら、あるいは哲学の名を借りた「哲学史の講義」にならざるを得ないなら、さっさと事実関係を情報共有してください、加えて、同じ情報を学内ネットにアップしといてくださいよ、ってことです。

お礼が遅くなりましたが、また色々とアドバイスを頂きたく。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/07/29 21:20

>愚拙、この四月から哲学徒として大学で教わるようになった



それは興味深いですね。まあ雑談のお誘いとみなして、この点について少し。

年間60万円くらいの授業料を払っているでしょうが、どうやっても年60万円の本を買って読んだ方が効率が良いはずです。60万円あれば、60冊の専門書が買えます。しかし一年で教われるのは、1冊の知識量もありません。
効率的にぱっぱと教員が教え続ければ、20冊程度はいけるかもしれません。
しかし、学生が量としての知識を買っているのではなく、考える機会を買っているということはできませんか。

対義語はどうか、ドイツ語で考えたらどうか。これらが質問者の工夫であり、知性でしょう。誰かが横から答えを教えたら、仮にいくら正解でも、この知性の積み上げが阻害されてしまう、とは思われませんか。しかし、どこまでがあっていて、どこからが間違っているのかを指摘しておくと、考える上での道しるべになります。こういう老婆心で私は、お答えしたということです。

まああと他の回答の中に十全ではないものの、実は答えか、そのヒントがあるとはお伝えしておきましょう。
質問者様は洗練された「正解」があると考えた上で、直感的に違うと思ったものは取り合わないという印象がいたしますが、これだと大学の集団授業での哲学は難儀するでしょう。人間という愚かしさの塊が苦労を重ねて、「答え」はないけれども、少し知的になってくるというあたりに喜びを見出せないと難しい。いっそ、ご自身も愚かしさをさらけ出していくような心持ちで臨まれてはいかがか。

>アドバイスにしたがい、超越論的という言葉は当面自分からは発しない要に留意します。

いや、こういうアドバイスはしておりません。
思考を積み上げていかれるも、いかれないも、知性の赴くままにご自由にどうぞ。
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この回答へのお礼

雑談にお付き合い頂きありがとうございます。

お礼がてら、愚拙にも雑談させてください。

授業料は100万を超えています。入学金と合わせて2年で240万円超。
年換算で120万円です。

これで何を買ったのか?
私的には時間を買ったつもりです。

還暦までビジネスに埋没し、思い立ってから、退職と入学の準備に1年半。
昨秋編入学試験を受けて、この春、晴れて学部の3年扱いで入学しました。

昔、理工学部で履修した単位で一般教養を免除してもらい、哲学科の専門科目だけで卒業可能という2年間限定の「プロジェクト」に参加している感じなので、当初より時間的な焦りがあります。1つは二年間で何とか卒業しようというプレッシャー、もひとつは私に残された時間です。若い学生とはどうしても違います。

私にとっての学部教育は、生涯哲学するために必要な基本情報をインプットする予備校の様なものです。予備校にしては、教授陣の目的意識が曖昧な印象を持ってしまいます。

戴いたアドバイスは「自分で答えにたどり着きなさい」ということでした。
私は「意味不明な言葉は自分では使わない」という格率がある為、当面使わないと申し上げました。

これに懲りずにどうぞよろしくお願い致します。

お礼日時:2017/07/26 12:08

№7です。



11. empirisch が ただ《経験的》だけであって 《経験論的》を
意味しないとすれば transzendental の対義語には向かないでしょう
ね。

12. Empirik だとか Empirismus と言わなければならないでしょ
うか。




13. なお 超越論的なる哲学は 《経験事象の範囲内での超越》と
《経験事象を超えた非経験の場》との互いに異なるふたつの対象を持ち
ます。基本として(第一次の問い求めとして) ふたつの種類に分かれ
るはずです。

14. 前者は ふつうの経験科学ないし経験哲学です。
transzendent なるものごとを immanent なるものごととともに対象
として ふつうに認識しようとする。
これを・つまりこの認識方法を transzendental だと言うのは 
transzendent なるものごとをも普通に対象とするからだと思われます。

15. (13)の後者は 神論です。
transzendental なもの(つまり 非経験ゆえに ナゾです)を 
transzendental な視点を交えて問い求める。
したがって・ナゾにかんして問い求めるからには 人為的な勝手な《想
定》による《仮説法:アブダクション》という体裁を採ります。



16. カントは この仮説法としての超越論を回避している。信仰の
席はこれを哲学としても 確保しましょうと言いつつ。
〔(14)に言う経験哲学としての超越論は おこなっています〕。

17. ちなみにヘーゲルは――いわゆるオシヘとしてのクリスチアニ
ズム神学を論じる場合は 当然として別にしつつ―― 次のように《無
限なもの》と言って神論に触れています。
▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~~~~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな
自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 
我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 
人格(* もしくは《おのが固有の時間》)の高さである。
   (『法の哲学』§35 追加 講義録 藤野渉・赤沢正敏訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

三投ありがとうございます。

>empirisch が ただ《経験的》だけであって 《経験論的》を
意味しないとすれば transzendental の対義語には向かないでしょう
ね。

同意します。はげどう。

お礼日時:2017/07/26 08:16

答えは知っているが、その経過がわからないので質問しているという感じですね。

その結果、謎かけみたいになっていますね。ややお人が悪いというか、焦っているというか、そういう感じがします。『カント事典』(弘文堂)に照らしてお答えしてみます。

>transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?

超越的ですね。対義語は「内在的immanent」でよろしい。「土着的einheimisch」の時もある。同時に、「経験的empirisch 」も対義語としてOKなケースがある。これについては答えを知っていらっしゃるのでしょう。簡略的にOKであると答えて終えます。

>transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

超越論的ですね。empirischは明確に、不正確であるか、説明が不十分です。

まず事典で定義を確認しましょう。「超越論的とは、基本的に経験の成立する条件として、そのようなアプリオリ性を認める考え方をいう」。これに基づいた時、経験的なものを対義語とするとどのような不都合が起きるのか。事典の記載で整理すると2点です。
・感性論はこの範疇に含まれるのだが、経験的なものを排除すると、感性論が別の範疇になり間違いとなる。
・また超越論的を経験と対立させるのであれば、カントは「超越的」と「超越論的」を混同しているという誤解も起きうる。
簡単に言えば、質問者の見解だと、超越的と超越論的の区別がついていないことになる。

超越論的の対義語はこの言葉の定義の根幹に関わるところで、複雑な議論が必要となるところです。ここのところで簡単な答えを求めるなら、哲学には向いていないのかもしれませんね。答えるんじゃなくて考える機会を作ろうと思うので、「違う」ということだけはお伝えしておきます。
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この回答へのお礼

含蓄のあるお答えありがとうございます。

哲学業の方ですか?

愚拙、この四月から哲学徒として大学で教わるようになったのですが、慣れ親しんだ理系業界とことなり、哲学業界の方々って、語彙を曖昧なまま講義したり、書いたりするのでビックリしています。
語彙が曖昧なままの議論なんて日常茶飯事。あ、これは業の方ではなくて、学徒さん同士の議論ですが。
それを是正せずに横で観ているのが業の方という構図。

まあ、自分がやられたからやり返しているのか、それとも学徒さんのレベルが低いので、バカらしくて放置しているのか分かりませんが、業の方々が提供なさる教育サービスの質としてどうかなと思う事あります。

アドバイスにしたがい、超越論的という言葉は当面自分からは発しない要に留意します。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/07/26 08:23

1. 《超越》には 二種の異なる意味がある。



(あ) 経験事象として限度や範囲を超える:先天性・特異点・啓示

(い) 経験事象であることを超える:非経験

2. 《超越論》とは 二種の超越に応じて 二種ある。

3.(あ)の《先天性》について それでも経験事象の限度内と限度超
とがあたかも地続きでつながっているかのごとく捉えて 経験合理性に
もとづき説明する超越論的哲学

4. (い)の非経験の場ないしチカラについてはそれをすでに想定し
て 経験合理性にうったえるかたちで――つまりは 仮説として――理
論づける超越論。

5. 前項も 経験科学ないし思想として哲学であるが 一般には特殊
に神論とよぶ。つまり 非経験の場が 神のことである。普遍神。

6. カントは《物自体》を定義するとき (あ)と(い)とを必ずし
も分けてあつかっていないように思われる。区別はしているが 物自体
については その境目があいまいであるのではないか。

7. ただし (い)の神はそれを想定したなら――それは 絶対であ
るゆえ―― (あ)の先天性(つまり 生まれつきそなわった自然本性)
についてそれを 神とのカカハリのもとに捉えるようになる。

8. 要するに自然本性の内に(あるいは そのぷらす・あるふぁとし
てのごとく) 神の霊がやどるといったふうに仮説している。

9. 神の霊とは アートマン(霊我)やブッダター(仏性)とよばれ
るものと同じである。

10. この種の超越論的哲学は すでに神論である。普遍神を想定し
ている。

☆ 蛇足と言いますか 余分と言いますか。
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この回答へのお礼

蛇足であり、すなわち余分です。

どうもありがとう。

お礼日時:2017/07/26 08:13

追記ー



"transzedent" means everything that one can not simply perceive with the senses, the supernatural."transzedental" is a word introduced by the philosopher Kant and it describes knowledge which does not deal with objects but with the way we recognize objects. Antonyms could be " materiell".

http://www.textlog.de/2132.html

尚、わたしの回答が「万が一」参考になりましたら、すべてポイントはneutralingさんにお願いいたします。

この質問は流石に「外国語」ではなく、「哲学」に投稿されているだけあって、一般のドイツ人にも専門用語として、なかなか回答は難しいようです。
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この回答へのお礼

なるほど。

Real, weltlichに続いて、三つ目の対義語候補がmateriellってことですね。ますます混乱の度が深まってきました。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2017/07/26 00:02

本当は、わかっていて質問しているような気もするけど、補足的な回答します。


まずは英語のトランセンデンタルをググると良いですよ。
概念はなかなか難しいけど、プロフィールを読ませていただいた限り、おそらく質問者さんなら分かるはず。
昔はTM(トランセンドデンタル・メディテーション)瞑想法なんてのが流行った時期があって、一時期はオカルトだってバカにされたけど、実践してみると、ハッキリと効果が分かってビックリした事を思い出しました。
懐かしいな。

回答になって無いけど、「トランセンデンタル」の基本的な意味を理解するには、「自己超越の思想」っていう私の愛読書がとても参考になると思いますよ。
まずは近代日本文学における自己超越とは何かを理解すると、欧米文学へすんなり入れるかと。

質問者さんの向学心がよりいっそう高まることをお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

なるほど。

哲学方面では、transzendentalという言葉、昔は「先験的」、今は「超越論的」という日本語をあてる習慣になっています。
で、最終的には、日本語での対義語を知りたいのですが、超越論的など翻訳語の対義語は意味不明なこと多いので、言語での対義語を確認したうえで、その日本語訳をさがそうと思っています。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/07/26 00:00

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