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ご自身にとってのそれは、何だと考えていますか?

死ぬまで揺らぐことのないものだと思いますか?

これらについてのお考えがあれば是非是非お聞きしたいですので、よろしくお願いします。

A 回答 (24件中1~10件)

No.12,13,19,22,23です



難しくて申し訳ないです。

>>> No.23 お礼欄
「わたし」は「総体」とは切り離し不可能な存在である。
<<<
ここは良いです。

>>> No.23 お礼欄
また、「この・わたし・こころ・魂」の境界は無い。
<<<
ここは異なりますが、「そう考えてもいい」ということになります。

大別すると
1:「全体の内部にいて、それぞれの個として中心があって、境界があり、個々に影響しあって存在しているという時」
という状況と
2:「境界が消え去り、全体・総体の内部に特定できない情態で含まれている時」
という状況になるでしょう。
1の場合に「死後もそうである」と捉えるのかどうかの差異があっても、基本的には「全体の内部」での変化になるということです。

また、1の場合で「生きている」状況下においても、自分自身という境界は、想定の仕方によって移動すると言うことです。

魂を想定し、魂以外の身体は「本質的に交換可能だ」と想定する人もいれば、
脳に本質を求め、脳以外の身体は「本質的に交換可能だ」と想定する人もいる。
また、身体の境界を「私」とし、所有物や自身の言動による影響に頓着しない人もいる。
あるいは、身体の境界を越えて、自身にとって好ましい所有物や言動の一定範囲について「私」ないし「私の範疇」を想定し、自身から排除したいものや言動を「私以外」と想定する人もいる。
さらには、自身の意志にて決定される集団、都市、国を自身の境界同様に扱い、独裁的に振る舞う人もいる。

>>> No.23 お礼欄
よって「魂」も「総体」とは切り離し不可能なものである。=皆の魂は元来ひとつのものである。
<<<
ここも若干異なります。「そう考えてもいい」ということになります。

「元来」という言葉ですが、外部・全体・総体から「分離・独立」しているように思い込む状態(主として、生きている状態)を「元来」とする見方もあり得ます。

逆に、そうではなく、境界が消え去ったと思われる状況を持って「元来」と考える立場もあるでしょう。

随分以前に繰り返し記述した文章になります。直接的に記述した部分がありました。
こちらの方が判りやすいかも知れません。

>>> 総体(全体)と個と。。。 http://jinen.exblog.jp/1714917
(2005.01.15 01:15、文字装飾変更)

あらゆるものが全体から派生したという概念は、非常に重要な静的かつ共通の概念になろうかと思います。

「意思・自我」というものが、「産んでくれとは頼まなかった」なんて捨て台詞を叫ぶときですら、「産んでもらった」という意識はあるわけです。
(中略)
魂と呼ばれる類のあらゆる精神活動や心という概念(「主体」という概念にもなる)は物質(「対象」という概念にもなる)と切り離されない以上、また、「生きている」という概念と「わたし」という概念が身体性(物質)を介していることで認識される以上、あらゆるものが全体から派生したという概念が成り立ちうると思うわけです。
もし、魂だけが別世界から送り込まれたという概念を持ったとしても、「送り込まれた」段階で「この世界」と「別世界」とは繋がっているわけなので、その別世界を含めた全体を一塊として想定することができます。

『「あらゆるものが全体から派生した」という概念がある』ということは、すなわち『「あらゆるものが全体から派生した」という概念が全体から派生した全ての存在(生命体を含む)に共通かつ静的な概念である』ということと全く同じことになるわけです。

繰り返しますが、この「共通かつ静的な概念」の存在は、あらゆる問題を考える上で、基本的な概念になろうかと思うわけです。

人々が「自我」を得て、「自由に考える」という「自由意志の存在」を強く信じたとしても、その「自由意志」は、全体から切り離されて存在することはない。瞑想という状況下にて、「知的」(幻想的)に切り離し可能であるが、そういう状況を作り出すという環境との切り離しはできないでしょう。
いかなる状態であっても、常に「ともし火」と「わたし」が対峙するように、全体(ないし全体の一部)と私とが対峙している。
まさに「知的切断」の限界をあらわしていると思います。
(後略)
<<<

>>> 因果関係と包含関係と。。。 http://jinen.exblog.jp/1725562
「全体から個が派生するという概念」をあげるまえに、
「個と全体が並列するという概念」をまずあげるべきだったかもしれません。
いや、
「個と個が並列するという概念」の方が先だったかもしれない。。。

「卵が先か鶏が先か」
。。。
どの概念の話を先にするか?ということではないです。
この「たとえ話」は、関連する2項の内、どちらが原因で、どちらが結果か分からない状態を意味します。複雑な因子によって構成される疾患などで、よく話題にされるものでもあります。

で、この「たとえ話」で取り扱いうるのは、「個対個」です。
けっして「全対個」にはならない。

「そんなことはない、全体があるが故に、個が存在するんだ」
とか
「いや、個があるが故に、全体が存在するんだ」
とか、
いえるようにも思えます。

個と全体の話をするうえで、切っても切れないものがあります。
それは「そう考える私(個)」です。
私が全体から切り離し可能だという仮定のもとでは、上記論争は意味を持ちます。
そのときには、
「私を除く全体があるが故に、私が存在するんだ」
「私があるが故に、私を除く全体が存在するんだ」
ともいえますし、もう一歩引いて
「(これを考えている私を除く)全体が存在するが故に、個が存在するんだ」
「個があるが故に、(これを考えている私を除く)全体が存在するんだ」
ともいえます。
で、奇妙なことに、「そう考える私」を切り離そうとすると、「全体」が「部分」にしかならなくなる。
すなわち「因果関係」として記述可能なのは、「切り離し可能(性の非常に高い)事象)」同士に限られるわけです。
で、どうしても「全体」を相手にしたければ、「わたし」を含めた「全体」でなければならないため、もはやそこには「因果関係」というより「包含関係」しか存在し得ない。(このことは、二元論を主張し続けようとすると、量子の存在としての粒子性と存在としての波動性の説明において矛盾が生じるということにも相当します)

「全体」という概念を上記のように認識すると、全体が変化することで、包含されている「わたし」が生まれるという概念が、自然と生まれてくる。
あえて因果関係を求めるならば、「全体」ではなく「全体の変化」(という全体の一部)が「わたし」を生じせしめているということになろうかと思う。

ようするに「卵が先か鶏が先か」は不明でも「卵も鶏も全体から生じた」ということは言えるわけです。

したがって「個は全体から派生する」という概念が生まれてくるわけです。
<<<

>>> 個にして全、全にして個。。。 http://jinen.exblog.jp/1755946/
前回、

あえて因果関係を求めるならば、「全体」ではなく「全体の変化」(という全体の一部)が「わたし」を生じせしめているということになろうかと思う。
ですが、
「生じせしめている」
というより
「そのもの」か。。。
すなわち
「全体の変化」=「わたし」
ということになろうかと思う。

(中略)
わたしの境界」の認識は、「わたしの知的切断面」に依存する。
それは、あたかも「多義図形・だまし絵」における「静的概念の認識」に似る。。。


そうして、そういった一元論的認識もまた、「わたしの知的切断面」であるがゆえ、「わたしの境界」として「多義図形・だまし絵」に立ち表れる一つの静的概念に相当するに過ぎない。。。

「全体の変化」=「わたし」
としたとき
「全体の変化」=「あなた」
となる。
変化の内容は決して同一にはなりえない。
それゆえ「わたし」≠「あなた」である。
にもかかわらず、「あらゆるものは全体から派生する」という静的な概念を、知的幻想的に共有可能だとするならば、「全体の変化」=「個」という概念も、知的幻想的に共有可能になる。

「全体の変化」が、「局所の変化」として認識されたとしても、「全体」とは一つのつながりを持っていて切り離し不可能ということ(これは定義でもある)から、「個」は時間軸を無視したときに「全体」と区別がつかなくなる。
すなわち、「わたし」と「あなた」との境界は時間軸を無視したときに消滅し「わたし」=「全体」=「あなた」という概念にまで拡張される。。。

これは、すなわち、水面に落ちるそれぞれの雨粒の波紋が、ある時刻という切断面では境界を持つにもかかわらず、互いに包含し合い、全体にまで広がっていく様に似る。。。

全体から派生したものは全体へと帰っていく。。。
---
同時に、
派生した個は、個として全体に対峙している。。。
あたかも、風の谷のナウシカ、全7巻が提示したごとくに。。。
(後略)
<<<
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなってしまい、もうしわけありませんm(_ _)m

物事に対する考え方は人それぞれだが、「あらゆるものが全体から派生した」という概念は皆共通して持っていると言うことですね。

「魂」という精神活動も人それぞれ異なるが、根本は「あらゆるものが全体から派生した」という静的共通概念にたどり着く、ということでしょうか。

最後のほうに書かれていた、“境界は時間軸を無視したときに消滅し「わたし」=「全体」=「あなた」という概念にまで拡張される”という箇所についてですが、確かに理屈ではそう考えられるかもしれません。しかし、「実際に」そう思えるかどうかは難しいのではないかと個人的には思います。これも日々の心構えが重要なのかもしれませんが。

「元来ひとつのものである」ということは、確かにスピリチュアルな見方をせずとも、理論的に自然に理解可能に思えますね。

回答者様は、いったいどのような問題意識を持たれてこのような深い理論を考え出したのでしょう?そこが不思議であり凄いことだと思います。前の回答には、お父様に叱られていた過去があったと書かれていましたが・・・

何度もありがとうございました。私も、自分自身を見つめ続けながら生きていこうと思います。この数年間で思ったことですが、人間の考え方って様々変化していきますね。最近自分でも驚いているところでもあります。


ひょっとしたら間違って解釈した部分もあるかと思いますが、ご容赦ください(汗)

長くなりますので、そろそろ質問は閉じようと思います。

この度はありがとうございました。

お礼日時:2012/10/07 11:06

No.12,13,19,22です



No.22では回答欄に十分記述できず、難解な引用先を示してしまい、申し訳ございませんでした。
別の質問にて、同様の内容をまとめたものを昨日回答として投稿しました。

よろしければ、御確認ください。

死ぬ事への恐怖を無くすには?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7677851.html

での、No.26の回答になります。
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この回答へのお礼

拝見させて頂きました。

わかりやすい説明を引用してくださったのに申し訳ないのですが、僕には難しい内容のようで、あまり理解できませんでした(汗)

「魂は元来一つのもの」というのはどのように理解できるか、というテーマでの御回答して頂いたわけですが、僕が理解した範囲内では、

「わたし」は「総体」とは切り離し不可能な存在である。また、「この・わたし・こころ・魂」の境界は無い。よって「魂」も「総体」とは切り離し不可能なものである。=皆の魂は元来ひとつのものである。

苦し紛れの解釈ですが、こんな感じでよろしいんでしょうか・・・?「この」とか「わたし」などの言葉の一つ一つの定義がよく読み取れずに、おおざっぱな解釈になってしまいましたが。

k_jinenさんのサイトを拝見しまして、日々とても深く考えていらっしゃるのが伝わってきます。しかし、僕の頭では理解が難しいようです(><)

前回の御回答にて引用してくださったブログ記事の中で、中島みゆきさんの歌詞の「・・・誰とでもきっと 合わせて生きてゆくことができる・・・」という部分が印象的でした。このような心境に至ることが「魂は一つである」という感覚に近いのでしょうか・・・?

お礼日時:2012/09/23 11:55

No.12,13,19です。



>>> No.20 お礼欄
魂が元来ひとつのものであることを知る。これは一体、どのような境地なのでしょうね。
<<<

スピリチュアルな見方もあるでしょうが、個人的には「そこまで」考えなくても、「元来ひとつのもの」であることは、本来、自然に理解可能になるものだと思っています。

「(生前や死後の)魂の同一性」ががあるにしても、ないにしても、「元来ひとつのもの」だということです。

以下、私自身が経験し思索したことによって、感じたことと考えたことを散発的にまとめています。
よろしければ、ご参照願います。

花と葉と。。。
http://jinen.exblog.jp/2910195/

「私」と「境界」と「宗教」について。。。
http://jinen.exblog.jp/353004/

情の知的分断と情への回帰。。。そして排除の可能性。。。相補的。。。
http://jinen.exblog.jp/1168009/

「こころ」の能動性・内発性・主体性。。。そして閉鎖系と開放系。。。二元論と一元論。。。
http://jinen.exblog.jp/5577118

この回答への補足

何度もありがとうございます。

すみませんが、内容が難しいところもあり、今読んでいる最中です。とても深みのある文章ですね、読んでいて「なるほど」と思ってしまいます。かなり前からブログを立ち上げてらっしゃるんですね、凄いです。


お礼が遅くなるかもしれませんが、もう少しお待ちくださいm(_ _)m。

補足日時:2012/09/16 18:49
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興味を持って頂き、私も嬉しいです。



最近読んだ本を3冊をご紹介します。

(1)
「降参のススメ」 阿部敏郎 雲 黒斎(うんこくさい)著
非常に読みやすい本です。
お二人とも、人気ブロガーです。
阿部敏郎さんは、http://abetoshiro.ti-da.net/ 
雲 黒斎さんは、http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/8f6c8fe85b4 …
本の内容は、ブログと重複している部分も多々あります。

(2)
「人間やりなおし」 空不動 著 (文庫版)
著者の方は、宗教が大嫌いで、会社経営のビジネスマンです。
私も、宗教団体が大嫌いです。
非常に読みにくい本ですが、最近この本にのめり込んでしまいました。

(3)
「ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み」 おおいみつる著
一つの魂については述べていませんが、中村天風師の悟りについて述べています。

それぞれ、色合いは違いますが、非常に感銘を受けた本です。
ご参考になれば、幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


まずは、ブログを覗いてみますね。紹介してくださった書籍も、買って読んでみますね。

アマゾンで探したところ、どれも評価が高いものばかりですね。「人間やり直し」がお手ごろなので、まずはこれから読んでみようと思います。


どうもありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/14 19:41

「☆☆☆の進歩発展のため」だと思います。

(受け売りですが。)

スピリチュアル系の考えですが、まず、全ての生命、知性の元となる人格が宇宙に存在するとします。
宗教上では、神や仏と呼ばれている存在です。
それをここで既存の宗教による色づけを避けるために、「☆☆☆」と呼ぶことにします。
我々の生命は、☆☆☆から分かれた枝の一つであり、すなわち、我々自身の生命や魂も、☆☆☆の一部です。
枝と言うことは、☆☆☆と根元でつながっており、実際には、一つの物です。

☆☆☆の世界は、思ったことが全て実現する世界であるため、感情(喜び、苦しみ、悲しみ)という物を経験することができません。
そこで☆☆☆は、自身の一部を現世に表現し、感情というものの経験をしようとします。
それが人間です。

赤ん坊として生まれたときは、無自覚で☆☆☆とつながっていますが、母親など、成長した人間は、自我という物を持っているため、☆☆☆とのつながりに気付く事ができません。
赤ん坊も成長するに従って、親に習って、自我という物を作り上げ、☆☆☆とのつながりを忘れてしまいます。
人間は、生きている間、あらゆる感情を経験しますが、死後に☆☆☆とのつながりに気付く事で、救われます。

しかし、まれに存命中に、この事実に気付く事のできる人もいます。
それが、いわゆる、悟った人です。
悟った人とは、自身の感情を瞬間的にでも克服する事によって、☆☆☆とのつながりを垣間見る事ができた人の事です。
これを実現する事が、それぞれの魂の目標としての進歩発展であり、全ての魂の根源である☆☆☆自身の進歩発展でもあります。

いろいろな本を読むと、表現は違いますが、だいたいこうした事が書いてあります。

私も何となくですが、これを信じているような気がします。
つまり、全ての人間の魂は、元来一つの物であり、それに気付く事さえできれば、自他の区別も無いため、争いもなくなり、何の不安も無く、全ての人を愛せるようになるのです。

大げさだと思うかも知れませんが、その境地に到達する事が、私の生きる意味であり、目的であり、生きる糧です。
(肩肘張って、深刻に考えている訳でなく、あくまで、何となくですが。)

ちなみに、☆☆☆を「アルケー」と呼んでいる人もいるようですね。
☆☆☆とアルケーが同じ物かどうかは、知りませんが。

あ~アルケー。あ~。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

興味深い内容でした。魂が元来ひとつのものであることを知る。これは一体、どのような境地なのでしょうね。

よろしければ、お勧めの書籍などがあれば紹介してもらいたいのですが、いいでしょうか・・・?


この質問をしてから、皆さんの回答を参考にしながら色々と考え、今のところ、感情に素直に生きていこうと思っているところでもあります。nungさんの御回答内容にも興味があり、もっと知って勉強してみたいですね。


御回答いただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/14 08:28

No.12, 13です。



少し付け加えさせていただきます。

>>>お礼欄
考え続けるために生きる、ということですね。

僕は正直、考えず苦心せずに生きたいと思っています。

考えることをしなければ、善だとか悪だとか、矛盾だとかに苦心せずに済みますから。

生きる意味や目的といった、しっかりした結論の出ない事柄について考え続けるということは、それ自体がとても辛いことですし、積極的に目的とすることは、僕にとっては厳しいです。
<<<

純粋な論理的な思索には限界があることを知ってから、情や繋がりといった概念についても積極的に考えるようになりましたが、この変化自体は、「深く考えて行動しても、あまり深く考えずに行動しても、見かけ上さほど大差はない」ということから来ています。

このことを人生にそのまま当てはめるのは良くないかも知れませんが、簡単に言えば「考えても、考えなくても何れは死ぬ」ということになります。言い換えれば「下手な考え休むに似たり」まで考え込んでも仕方ないということでもあります。

でも、やっぱり、同じ行為を行うにしても「全く考えないで行動する」よりは、「考えて行動」したり、「行動してから考える」ことをくり返したくなるのが脳を持つ人間の性(さが)なのだろうだと思っています。また、考えずに行動し続けると、避けてきたことが避けきれなくなって身動きが取れなくなる可能性が高くなるように思われます。

ただし、思っていた以上に困難な自体にぶつかったり、老化等で思考能力が劣ってしまい、徐々に自分自身でも情けない状況に陥っていく機会が増えるであろうことは容易に想定できます。実際、自分自身がそうなりつつあります。

No.17の方が、私が触れていなかったそういった側面を明示しておられます。人生において避けられない堕落に対し、自殺ということを考える方がおられるのも事実ですし、私自身、今まで何度かそのようなことを考えたことがありました。

しかしながら、まさに「下手な考え休むに似たり」で、自殺というものは「その人生」において永遠の「休み」を選択するということに他なりません。無論、死後の世界というものを想定される方もおられますが「死」は何ものにも代え難い境界概念です。

他者との関連性を断ち切って生き抜こうとする場合には容易に自殺にも繋がるでしょうが、他者との関連性を完全には断ち切れないものです。(死後の世界があるにしても、ないにしても「死」によって他者との関係を断ち切ることは不可能です。自身が意識できるかできないかの差でしかないでしょう。)

(死が怖いとか怖くないとかいったこととは関係なく)「誰だっていつかは死ぬ」のであれば、他者と積極的に関与しつつ生き抜けるところまで生き抜くことを選択していく(共に生きる)ことで、変えることが不可能だと思われるようなことも変わっていくのかも知れません。

ソフィアの深淵。。。perfume。。。edge。。。
http://jinen.exblog.jp/9665643/
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この回答へのお礼

恐怖だとか悲しみだとか、痛みだとか、

このような感情は、「感じる」のはその時だけです。それについて「考え」れば、長い間苦しめられます。


僕は、その「考え」ないために、人生においての強烈な目的意識が必要だと思ったのです。すごく単純に、考えることを忘れられるからです。


そんなものは無いんだという気持ちで、でも内心は少し期待をしながら、皆さんの考えを聞きたく、質問した次第です。



「誰だっていつかは死ぬ」のであれば、他者と積極的に関与しつつ生き抜けるところまで生き抜くことを選択していく(共に生きる)ことで、変えることが不可能だと思われるようなことも変わっていくのかも知れない

→そのようにすれば、人生における強い目的(一生揺るがないものでないとしても)が見つかるかもしれないと思いました。


ご回答ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/08 00:59

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、認識されることによって派生しています。


換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです。

認識する事と存在する事が同根である時、生きる事は存在する事だけではなく、認識を深める事を包含し、生きる目的に於いて物質的繁栄は部分的要素であって、真の生きる目的は「人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)」となります。
まとめると、下記のようになります;

        存在すること
           ↓
生きること    +   認識を深めること
   ↓                ↓
組織化(分業=助け合い)の追求:精神的充足量の追及
   ↓                ↓
自律的社会行動(生産)× 社会生命的自覚化(愛)
(エントロピー増大の反力としての反エントロピー)


1. 我等は、認識する個体である。

2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。

3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。

4. その個体的追求は、生存と認識に於いて為される。

5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。

6. より大なる学習は、より大なる社会的生産を可能にする。

7. また、より大なる生存に於いて、より大なる認識は可能になる。

8. これらの過程の認識とその意志化は、最大の生存と最大の認識に於ける、完全な充足を実現する。

9. そして、それらの統一的計量は、認識の深まり及び有効エネルギーの不可分な指向として、反エントロピーとして求められる。

10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性~進化)の定性化である。

11. 潜在的認識性に対する相補的環境は、その認識の有限性による相補性の非自覚化により、他律的対象(=時空仮説)化する。

12. その他律的環境への反エントロピーの敷延は、自己矛盾として生じる環境を、その先入たる、仮説的時空性に於ける個体的有限性を、超越する意志化により、補償するものである。

13. 換言すれば、真理の限界は、愛により補完され得る。

14. 先述の要素との対応に於いて、真理とは認識の深化であり、愛とは社会的生産への意志に他ならない。

15. 宇宙の原理的本質は、自我成立の為の相補であり、そこに於ける完全な自覚に基づく完全な意志は、真の環境としての無限性=完全な自由を保証される。

16. この、利己と利他、あるいは唯物と唯心を包含した、完全な“自己”完結的過程には、金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。

17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。

この回答への補足

確かに、不幸になるために生きようとする人なんていないでしょうからね。


幸福になるにはどうすればいいか、考えて生きていこうと思います。

皆さんの様々なご意見を聞き、今では精神的に落ち着いてきたような気がします。ありがとうございました!

補足日時:2012/09/17 00:20
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この回答へのお礼

何度も読み返しましたが、やはり理解できません。

回答者さんはきっと、様々考えられてこのようなお考えを持ったのだと思いますが、僕にはその深いところを理解するのが難しいです。この回答文を読むにあたっての、前提となるような価値観のようなものが、すっぽり無いような感覚です。


人間は、幸福になるべくのみ「存在」するということですが、この結論に至るまで様々な思考があったと思います。それを全くくみ取れない自分が残念でなりません。


ご回答ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/09 20:48

生きる意味は、死にたくないから、ということになりますか。

こういう消極的な考えしか持てないのは、自分が生きる意味だと最初に定めたものが、あまりにもあっけなく失われてしまったからです。

何が目的だったのか。ただの凡庸な恋と言ってしまえばそれまでです。相手はあまり考えがなかったのかもしれません。しかしその事を考えていた結果、人間ってくだらないなと思い始めました。そして、そのくだらない人間に日増しに私自身がなっていくのであり、生きれば生きるほどに下降していくのです。

潔い人だとか、合理的な人は、下降するのは堕落であって、せめて善であろうとするのなら、死んでそれをとめるべきだなどという発想を持つかもしれません。しかし死ねはしないのです。死が怖いからであり、美味しいものを食べたいからです。精神的な欲求ではなく、肉体的な欲求です。私は思い出を糧に生きています。

これが一生続くのか分かりませんが、既に十年続きました。ちなみに恋人は作ろうと思えば、作れるようです。でも人間って嫌だなという厭世観から抜けきれません。これは死ぬまで揺らがない事だと言えるでしょうか。いえ、質問は積極的な意味を聞いているようですから、そうではないかもしれませんね。一生消えない痛みとして心に傷が残ったという事ですから。

匿名だと、逆に本音が書けますね。

この回答への補足

皆さんの様々なご意見を聞き、今ではだいぶ精神的に落ち着いてきたような気がします。ありがとうございました!

補足日時:2012/09/17 00:22
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この回答へのお礼

回答者さんにとっては、恋愛が、人生において重要なものだったのでしょうか。


「恋人はいつでもつくれる」とのことから、単純に恋人の有無はあまり重要ではないのですね。それよりかは、自分が理想とする関係を築くことを重視しているように思えます。


一生消えない傷かどうかは、これからの経験によって考え方が変わるかもしれません。そう信じたいです。


ご回答賜りまして、ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/06 22:39

>生きる意味、目的、生きる糧、などご自身にとってのそれは、何だと考えていますか?



意味は、人生を楽しむことです。
千載一遇でこの惑星に産まれた以上、生きる意味はこの惑星での限られた時間をエンジョイする以外にありません。
楽しみの内容によって、人品の差が生じるだけの事です。

たまたま生まれてきた人間に、生きる目的は有りません。
したがって、「目的を達成して死ぬ人」、「目的を達成しないで死ぬ人」の区別はありません。
みな同じようにお終いになり、同じように忘れ去られます。
五十歩百歩の議論に振り回されないことです。

生きる糧はカネです。
カネを使わず自給自足で生きるなんてのは困難で、苦痛すから、カネを得て、それを生きる糧にします。
カネは所詮、生きる糧にすぎないので、カネを余計に獲得するために人生の意味(=人生を楽しむこと)を犠牲にしてはいけません。


>死ぬまで揺らぐことのないものだと思いますか?
そんなものは、いつでも変わるものです。
人間とは自分で考える存在であり、考え続ける以上、いつでも変わる可能性を認めないくてはなりません。

この回答への補足

お礼が簡単になってしまい、すみません。


なんというか、答えをビシッと言われたような感じで、疑問を挟む余地がなかったといいますか。僕も回答者さんのようにしっかりとした考えを持ちたいと思いました。


皆さんの様々なご意見を聞き、今では精神的に落ち着いてきたような気がします。ありがとうございました!

補足日時:2012/09/17 00:16
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この回答へのお礼

考え方、参考になりました。貴重なご意見ありがとうございました。


m(_ _)m

お礼日時:2012/09/05 10:29

生きる意味が無いという事は、


どう生きても良いという事でもある。

目的が無いという事は、
どこに辿り着いても良いという事でもある。

生きる糧が無いという事は、
何物にも囚われない自由を意味している。

揺らぐものが無いからこそ、
真の自由は揺るがない。

しかし、人間は自由を恐れ、束縛を好む。

だから、それが問題だ。

この回答への補足

こうして回答を頂けるだけで、心の支えになります。


皆さんの様々なご意見を聞き、今ではだいぶ精神的に落ち着いてきたような気がします。ありがとうございました!

補足日時:2012/09/17 00:27
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この回答へのお礼

自由を恐れ束縛を好むからこそ、生きる意味や目的や糧を求めてしまうんでしょうか。


自由を恐れ拒絶してしまうからこそ、真の自由も手に入らず、生きる意味・目的・糧も揺らいでしまうのでしょうか。


人はなぜ自由を恐れるのか、その理由が気になりますね。考え方参考になりました。


御回答いただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2012/09/05 00:55

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