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哲学で「形相」と「資料」と言うものがあるみたいなんですが、とても興味があります。
ですがそこで語られている概念があまりよく分かりません。。
例えば、
レンガの家があるとして、
レンガが資料、
家がレンガが取る「形相」である的なことを書いてあるのを拝読したのですが、
レンガが取る「形相」と言うのは、レンガがどのように積み上げられたか、と言う事なのでしょうか?
それとも、家の「形相」、と言う抽象的な概念自体、真実(イデア?)みたいなもの自体があって
実際のそのレンガの家はそれのコピー的な事を言っているのでしょうか?
どれもはっきりと「形相」の定義みたいなことが理解出来ません。。
哲学に関してウェブサイトで見た浅はかな知識しかない全くの素人なので、どなたか「形相」と「資料」を易しく説明していただけませんでしょうか?
後、そう言う概念を勉強している学問とは哲学でなんと呼ぶのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
常連さんがお二人も回答を寄せられて居られるので、私如きが口出すべきではないでしょうが、質問者と同輩の初心者として、勉強がてら。
形相/質料は、アリストテレスのエイドス/ヒュレーの訳語として、あるいはアリストテレス学派といいますか、アリストテレスにそれなりに忠実であるつもりである方々が使われるのでしょう。その語のラテン語訳は、forma/materiaで、英語では、form/matterとなり、英和辞書によれば、このどちらも色々なニュアンスで使われている多様な言葉ですね。ですから、アリストテレスの形相/質料が、西洋の考え方の中に連綿と受け継がれてきて、form/matterがあるということですね。日本語の形式/内容は、それとは若干ずれていますね。
形相/質料を厳密に定義するというのは、そもそもそういうことが無理な概念なのではないかと思いますが、如何でしょう。何かを規定するという事、何かを概念付けるという事そのこと自体、背後に形相/質料的思考枠組みを持って居ないと出来ないという類いの基礎概念ではないかと思うのですが。ですから、比喩的にこんな感じと言わざるを得ないじゃないか。比喩的に意味を与えた上で、その対概念を使って、何等かの事柄、概念を分析なり、理論の構築なりをし、斯も有力である、ということを示して見せる。それを納得するならば、有効な概念装置であると認められる、という順を踏むのではないか。
>家がレンガが取る「形相」である
という表現は苦肉の策なのでしょう。言いにくいのですね。家には、木の家もあれば、竹のもあるし、コンクリートもあり、レンガもある、というように言えば、何を質料といい、何を形相と言っているか判る筈ですね。しかし、レンガの家と木の家が、同じ家か、と突っ込むと、それも又、はたと困るでしょう。そこで質料の別のものを持ち出さずに説明を済ませようとされていたのではないか、と推察します。
>家の「形相」、と言う抽象的な概念自体、真実(イデア?)みたいなもの自体があって
ここでイデアみたいなものを持ち出すと、形相/質料から離れてしまうのではないか。bragelonneさんは、「第一形相は 精神ないしイデアであり得ます。」とされていますが、初心者から見ると、いきなりのレベルアップでついて行けませんね。
我々の眼前にある「家」は、(木材なり、レンガなり)各種素材が、しかるべき形態(人が家に求める機能を持つものとして要求された)を持って在る、という把握が為されるべき、という考え方が、形相/質料なのではないか。この段階で形相をイデアのほうへ飛び出させてはアリストテレスの趣向が無にされてしまわないか、と思うのですが。そして、レンガも純粋「資料」ではなく、直方体で粘度を焼いたものという形相/質料であり、というように形相/質料が重層的な概念であることを押さえなければなりませんね。その階層を両方向にたどるという作業を、自らしておかないといけないのじゃないか、と。言わば演習の時間を持って、そして次の話に進む。
この概念を「唯心論と唯物論」に持って行ったりするところから、この分野は「形而上学」とも言われるのかも知れません。そうすると、「そう言う概念を勉強している学問とは哲学でなんと呼ぶ」のではなく、「哲学」そのものでいいのではないか。日本語の形式/内容の方へ進むなら、脱「形而上学」をも含む筈ですから。
回答ありがとうございます。
なるほど。形相や資料の定義というのは、幾何学で言う「点」のように基礎観念という事なのかもしれませんね。
確かにレンガの家など、物理的な物事に関しては、資料がレンガであったり、レンガが家という形相を持って、
現実の家として存在出来るみたいなことは分からなくは無いのですが、
ふと思ったのですが、例えば概念そのもの、例えば「文」などにも形相と資料はあるのでしょうか。
論理学で、統語論と意味論があるように、
文を分析する時、例えば文法を分析すること(統語論)、文の意味を分析すること(意味論)、があると思います。
文法で言えば、所謂文の形式のことですよね?
ですが、文とは何か?例に上げると
「犬が吠えている」という文があって
「犬がワンワンと鳴いている」と意味はほぼ同じですよね?
つまり、家の例に例えると、
仰る通り、レンガで出来た家も木で出来た家も同じ「家」と考えられます。
そのことから考えれば、
二つの文の本質、つまり形相は文の「意味」であり、変化しうるのは文の「形式」となり、
文の形式=資料、意味=形相
みたいに全く逆の位置づけが出来るのではないでしょうか??
そう考えると、又「形相」とは何か「資料」とは何か、
形相は形式ではないのか、資料とは意味、内容に位置するものではないのか。。
この矛盾は日本語の形式/内容が違うからなのでしょうか??
No.9
- 回答日時:
資料と形相、ですか。
なるほど、アリストテレスが考えたのはそういう事なんでしょうね。質量と形相、というのは、誤訳、解釈違い。だと思います。
質=量 質×量=質量 と、形=相 形×相=形相 と置くと
形=質量 であり。
質量と形相、という言葉には、等価性(=)、一体性、(×)がなく。
並存(+)的 ですよね。
そういう概念を勉強している学問を形而上学と言います。
マルクスが、アリストテレスの形而上学が、知恵、台無しにした。と「形而上学批判」に書いていましたが。
アリストテレスの形而上学とは、一つの言葉、対象、に対した、誰でもが同じ概念、認識を持つようにしなければならない。として、対象、事象、を定義し、概念の統一、を目指した。
結果としてそれは、知恵を知識に置き換えた。アリストテレスやアカデミ-学舎が、考え、導いた、定義、が
真理、だと決められ。人々は、定義=真理 を知識、学問、として学び記憶すれば、自分で考える必要がなくなる=考える能力を退化させる。老子が言う「知識はかえって智をあやふやなものにする」なのです。
歴史を見ても、アリストテレスがギリシャ哲学の最後、完成=終焉、となっています。
その後、ギリシャの哲人、に比肩出来るような人物は、登場してない、みな、知識を並べ変え理屈をこねる、形而上学者ばりであり。近代になってなお、愛とは、(神の)実体とは。などとやっているのです。
定義、によって、真理、を決める、形而上学は。皆に同じ心、同じ方向、に導こうとする、宗教の思惑にも都合の良いものであり。
技術=知恵の悪用? の時代となるロ-マ時代となり。パンと快楽、とか、パンとサ-カス、どと評される
、ロ-マ帝国の繁栄=退廃 の時代に、人はパンのみによりて生きるにあらず、と説く、ユダヤ教の青年
、イエス、が登場し。人々の心の支配を目論む宗教が権力からのに弾圧を受けるのは、必然、の意味もあり。イエスは十字架に架けられますか。権力の意図は、裏目、に出たようで。3日後からか。イエスは復活した。彼は本当に神の子だった。との噂が広まり、かえって信者が増えることとなり。
ペテロ、パウロ、などが、ユダヤ教の経典を新訳聖書として改ざんし。キリスト教の誕生となったようです。
やがて、アリストテレスの形而上学は、キリスト教形而上学、へと転化し。
アリストテレスの、定義=真理 は、当然、さしあたり、の真理=定義、であったものが。
キリスト教形而上学(スコラ哲学)では、神は存在する。イエスは神の子であった。などと言う、定義、が、
絶対的真理、と押しつけられる事になります。知恵の後退ではなく、知恵の消滅、ではないでしょうか。
近代になって、形而上学、定義、は、時間=変化 が無視されている。変化する事象を、固定的に捉え
定義しても、存在対象と認識の一致にはならない。どのように変化するか、を考えるのが、知恵=哲学
ではないのか。というような考え方が、ドイツに起こった、弁証法哲学、であり。2000年ぶりに、
ギリシャ哲学の復活の兆し、とも見れますが。
カントが、「幸せとは、周囲が自分に都合良く回転している状態を言う」と、定義、した為に
「幸せとは、周囲を自分に都合良く回転させる事、支配権を獲得すること」と解釈したのか。
へ-ゲル右派(ナチズム)もヘ-ゲル左派(マルキシズム)も、闘争、支配権の獲得、に固執し、弁証法哲学を
、哲学そのもの、を道連れに滅ぼしたようです。
困った事に?か、現代の日本の学校教育では、スコラ哲学を教えている節があるようで、宗教思想と哲学を混同し、同じ者だと思っている人が多いようですね。
宗教は心、であり、哲学は知恵であり。知恵と心は、対立物、今、心にとらわれているなら、知恵は消滅している。逆に知恵が想起し働いているなら、心は消滅している。という在り方です。
だから、釈迦と老子に代表される、東洋哲学、では。知恵を目覚めさせる為に、心を捨てよ、執着を滅せ。 なんですね。
回答ありがとうございます。
アリストテレスの形而上学というのは色んな方面に影響を与えたんですね。
仏教は少しかじった程度で知っているのですが、そこにも通じるものがあったんですね。
やはり形而上学を勉強する事は中々意義があるように思えます。
No.8
- 回答日時:
仰せの向きはほぼ分かるつもりですが、その結論として、
(1)形相/質料を単なる二項区分であるとして、さしたる有効性を持たない概念であるとする。
(2)対象がそのような言語領域では、有効でないとする。
(3)形相/質料の区分の仕方に、問題がある。つまり、一方を固定という仕方に。
などが考えられます。
どう結論づけるかはさておき、検討されるべきこととして、アリストテレス的にはどうか、という問題が残っていますね。ちょうど、私にとっても救いの手としてR40kuro-zさんが登場されたと思われます。形相/質料の前提に、世界観と言いますか自然観と見ますか、一定の見方が控えているのですね。アリストテレスの持つその背景を脱色して、現代的な見方が、その一つとして形式/内容が、---唯名論を通してだと思いますが---生まれてきた、ということであったのではないか。
回答ありがとうございました。
中々難しい問題だとは思いますが、恐らくアリストテレスの所謂物の捉え方にとても興味が湧きました。
本格的に勉強してみたいと思います。
No.7
- 回答日時:
アリストテレスは、自然学、動物部分論のなかで、言葉を残しています。
「ところで、生成における順序と実体における順序は逆なのである。というのは、生成において、より後のものが、本性上はより先のものであり、生成において最後のものが本性上は最初のものである。現に、家が煉瓦や石のためにあるのではなく、これらが家のためにあるのであり、他の質料についても同じことである。」
しかるに、質料とは、自然がもっている可能性を意味するものと、私は思います。
おのずと、形相とは、目的に適した形を意味することになります。
ここで注目すべきは、安全に暮らせる、家という目的が先にあるのだということです。
つまり彼は、質料と形相の間には、目的をもった何者かが介在していると考えたのです。
そこには、イデアはありません。目的があるだけです。
では、アリストテレスの自然学にちなんで、たとえをあげます。
楽器の演奏、コンサートなどを考えてみましょう。自然界には音があります。その音源が質料です。それは木であったり、石であったりします。その木や石を、人が介在して音程をもった楽器に仕上げます。この楽器が形相です。目的は演奏ですね。
回答ありがとうございます。
アリストレスの形而上学の講義の動画で、仰るように「目的」という概念が出てきました。
楽器の例えは分かりやすく、なんとなくわかって気がしました。
No.6
- 回答日時:
アリストテレスがこの概念・形相/質料を何処まで拡げて使っているかということに関しては、申し上げられるような知識は持ち合わせて居りません。
悪しからず。質問者さんのお考えの向きは、どちらかというと、bragelonneさんの領域のようですから余計なことは言わないとして、私が挙げた例が、質料を変えた例であったので、その例に添って受け取られた訳ですが、レンガを敷き詰めれば歩道にもなるし、単純に積み上げれば門柱にもなりますね。
「犬が吠えている」という文があって
「犬がワンワンと鳴いている」と意味はほぼ同じですよね?
つまり、レンガの例に例えると、
歩道もレンガで出来ており、門柱もレンガで出来ており、同じレンガと考えられます。
そのことから考えれば、
二つの文の本質、つまり質料は文の「意味」であり、変化しうるのは文の「形式」となり、
文の形式=形相、意味=質料
即ち、形相/質料の対概念は方向性があって、単純な「左右」などのように入れ替えても全く同じという「対」ではないようです。そこでポイントとなるのは、この概念の階層性であろうと思いますが如何。
回答ありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ありません。
んー。面白い発想ですね。
確かに仰る通り、何かしら変化しうるのが形相とも取れます。
ですが、逆に言えば
例えば、「壁」という形相があるとして、
それは石でも、レンガでもいいわけで、
この場合、変化したのは資料で、形相は変わっていません。
同じように文の意味があるのを前提に話せば、確かにその表現は様々ですので、
変わらないもの=資料、変わりうるもの=形相
だとすれば、意味=資料、表現の仕方=形相
ともとれますが、
表現の仕方を前提に話すと、
例えば、机の上のランプを示すとき、
指を指して、「これ」
ということも出来るし、
「机の上のランプ」
と表現することもできるし、
「吉田さんが去年お土産にくれたランプ」
とも表現することが出来ます。
この場合、変化しないものは実在するランプ、で変化したのはそれを表現する言葉だと思います。
逆転して、
「これ」と言いながら横の本棚を指差すことも出来ます。
「ランプの横の本棚」
「田中さんから頂いた本棚」
とも表現出来ます。
この場合も、変化しないものは実在する本棚、変化したのは表現する言葉です。
がしかし、我々は多分
「これ」という表現、「なになにの横のなになに」というような位置を示した表現、「誰々からもらったなになに」とその入手のいきさつの表現、
それらに共通項を産み出し、これを「型」とか文法みたいなのに分類されると思います。
この場合、変わったのは実在するモノや、語が繰り出す意味です。
逆に変わらないのは、「文法」や「型」だと思います。
つまり、表現の仕方(型)は不変で、意味が変わります。
すると、今度は形式が資料になり、意味が形相になりうらないでしょうか?
あまりよくうまく説明出来ず、申し訳ありません。
No.5
- 回答日時:
#2の者です。
>例えば、観念自体にも形相や資料はあるのでしょうか?
観念論は、観察自体が本質であるとするものであり、
その質料(資料ではありません)は「色即是空(本質を
追求すると実体はなくなる)」である、というような立場
になります。
それは、最新の量子論において、「原理的に確定化
すると無限不確定に拡散(不確定性原理)する本質を、
不完全な認識において階層現象表面的に定性化する
事で有限的存在性が派生する」という観点に通じるも
のがあります。
回答ありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ありません。
この「本質を追求すると実体はなくなる」というのはかなり興味があります。
観念も又、追求していくとわけがわからなくなるような気がします。
例えば、りんごごいう観念がありますが、
リンゴとは何か?と追求していくと、どんどん訳がわからなくなって日常的に使っている言葉なのに定義など出来ないのではないか
曖昧さがあるからこそ、現実世界があるのではないか、そう思えます。
No.4
- 回答日時:
No.1です。
せっかくおーるどしょーさんから助け舟を出してもらっているのに 横から口出しすることになりますが。
まづ 《文字》については:
形式:線のつくるかたち
内容:線
ですよね たぶん。
ただし 文字は 《何かを指し示す記号である》という意味もあります。これは 文字をひとつの形相として捉えたときのあり方なのでしょうか。
では 文字列としての《文》については どうか:
形式:文字としてのかたちや記号としての並び
内容:かたちをつくる線
といったようにやはり 味気ない捉え方になるのではないでしょうか?
おっしゃるように
★ 文の本質
☆ ということになると どう考えればよいか? 《文》を形相――ないし概念――として捉えるなら どういう成り立ちをしているか。これを捉え返すのでしょうか。
形相として捉えた《文の成り立ち》について:
形式:語の配置の仕方(統語論)
内容:語の持つそれぞれの意味の全体的なまとまり(意味論)
やっとたどりつけました。
そうしますと 形式/内容や 形相/質料といった二項区分は たぶんですが 空想のようなイデアをにらみつつ 現実に就こうとする認識理論であるということかも知れません。
一般の認識では 事実と言葉 あるいは モノゴトと概念といったふうに区分して捉えるということかも分かりません。
お粗末でした。
回答ありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ありません。
んー。。 難しいですね。
形式が、語の配置の仕方、所謂文法などであり、
内容は、それらの配置の仕方やそれぞれの語から成り立つ、意味である
と言うのは全く同感なのですが、
仰る通り、どちらも観念と、現実に我々が五感で感知出来る存在、イデアのようなものと、現実世界のもの
として両方とも分けられているというのは理解出来るのですが。。
果たして、形式/内容、形相/資料という二項区分は、一体一に適応しているのか、
つまり、形式が形相/資料において形相に位置し、内容が資料に置き換えられるのか、
それとも、果たしてこれらの二項区分は全く別物なのか。。。
これはもはや哲学ではなく、言語学になるのかも知れませんが。。。
No.2
- 回答日時:
たとえば、目の前にある「コップ」は、確かに存在している。
しかしそれは、ケイ酸分子化合物=分子の集まりであり、
その分子は、陽子や、電子といった素粒子の集合です。
素粒子が集まって「コップ」という存在を形作る上で、
何か別の物が加わる事はなく、「コップ」とは100%、
たくさんの素粒子の集まりなのです。
しかし、机も、石も、家も、みんな同じ「素粒子の集まり」
であり、何か違う物が混ざって分ではありません。
しかしコップは、机や家とは全く別物で、似てもいません。
果たして「コップ」の“実体”は、どこにあるのでしょうか?
本質は“内在する”とすれば「質料」であり、唯物論に
つながり、そうではない(観察表面~認識の側にある)
とすれば「形相」であり、観念論に至ります。
回答ありがとうございます。
つまり、形相とは、例えばコップであれば、分子の集まりからコップになるための要素のようなものでしょうか。
もしコップの形相というのがなければ、コップの形をしても分子の集まりにしかならず
全く分子の集まりでも、コップという形相があればそれはコップになることは出来る。
つまり形相こそが物の本質である。
これが観念論と言うことでしょうか?
逆に、分子の集まりがコップをコップとして成り立たせている実質であり、
それが唯物論という感じですか?
つまり、どちらも物の本質を指しているのですね。
後
例えば、観念自体にも形相や資料はあるのでしょうか?
アリストテレスは、モノは形相と資料からなっている。みたいなことをサイトで見たのですが、
例えば、「美」という観念は、それ自体が形相の気がするのですが、
この時資料は何になるのでしょうか?
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
レンガの家について:
形式:家の四角なかたちや骨格
内容:家が出来ているその材料としてのレンガ
形相:家という実在から離れて概念としての多面体・立方体
質料:概念としてのレンガ
形式と内容とは つねにそのモノについて一体です。
その実際のあり方から離れて形式や内容を単独に取り出すなら それぞれ形相と質料(しつりょう)になるという用語の規定です。
質料のない形相を 特に第一形相と言ったりします。
形相のない質料は 第一質料です。
第一形相は 精神ないしイデアであり得ます。
第一質料は 物質と呼ばれます。
どちらも 仮想の概念ですから 精神(世界精神)と物質とは けっきょく同じものです。
言いかえると 唯心論と唯物論とは 定義からすると 同じことです。
回答ありがとうございます。
形式、内容、形相、資料、それぞれ違うものなのですか??
なんとなく感覚的にそれぞれがどのように違うのか分かるのですが、
例えば、例にあげてくださったのでいうと
形式と内容は、実際に存在するものの在り方
形相と資料は、抽象的な現実世界とは離れた精神の在り方
を表しているように思えるのですが、
その用語のそれぞれ定義みたいなものはあるのでしょうか?
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