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1.
我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより誕生したのかもしれない。
しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠に不可知だろうと思います。
むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦(超弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦は何からできているのか、ということになるでしょう。
つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。よって、

「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。この場合、

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

という公理も並立するはずです。よって、

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。

2.
このように、 [ 人類の一員としての我 ] (長いので、以降「一員」とだけ記します)として我々は生まれた、というのが真理なわけですが、 [ 自我としてのこの我 ] (長いので、以降「自我」とだけ記します)としてでなければ存在を継続できないこともまた事実です。
くどくど述べてきましたが、つまるところ我々は、一員として生まれたという真理を忘れることなく、自我として生きていくより道はないのだと思います。
「一員として生まれたという真理を忘れることなく」と言いましたが、しかし、ほとんどの場合において、これは忘れられているのが実情と言って良いでしょう。
さて、ここで強調しておきたいのは、「一員として生まれたという真理を忘れることなく」が(生きていくために)必須の要件である理由・根拠は何か?
という点についてです。
これは極めてシンプルですが、

動物でないという意味での人間であるなら、真理に悖る事柄は受け入れられないような属性がアプリオリに備わっている。( D )

のではないか・・という仮説を提示させていただきたいと思います。
つまり、超自我性の芽がアプリオリに備わった状態で生まれてくるのではないか、ということ。
動物にとっての真理は本能のみでしょう。
また、人間も自我としてのみ生きることは不可能ではありません。実際、そのように生きている人は数多くいます。
しかし、その場合でも、つまり、自我としてのみ生きている場合でも、必ずしも心から納得しているわけではないと思います。
無意識の奥深くで悶々と蠢く、何かしらの兆しを自ら感じている。
しかし、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
が、
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
という定理によって導かれる、つまり(「定理によって」なのだから)真理であるという認識が身についてさえいれば、いや、認識というよりは、すでに空気のように身に纏っているなら、こうした感覚を免れる確率は高くなるでしょう。

3.
前置きが長くなりました。
ここで質問です。

あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい

これは、
神への畏怖、あるいは恫喝を背景としたイエスの言葉としてではなく
また、
人間の偽善や、恣意的倫理としてのヒューマニズムとしてでもなく
あくまで、
真理として 人類が認識できるような方向性を見出すべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
そうなっていないために、見かけだけの愛が氾濫し、見かけにすぎないために無理が生じ、無理が生じるために愛が憎しみに逆転するなどの、本来望まれていない事態の発生する確率が高くなっているようなことはないでしょうか?

思考をまとめる形でしたので、質問者としては自分の考えをつい長く述べてしまったかもしれません。
その点はご寛恕いただき、感想なり反論なりを含め拝聴できれば有り難いと思います。

A 回答 (7件)

>あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい


>>神への畏怖、あるいは恫喝を背景としたイエスの言葉としてではなく
>>人間の偽善や、恣意的倫理としてのヒューマニズムとしてでもなく
>>真理として 人類が認識できるような方向性を見出すべきではないか

難しく考えすぎでは?

1、2の論理展開に、個人的には決め付けが多々含まれているようにも感じるが、
それを一旦留保したとして、


>あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい
この言葉は、自分も隣人も、あなたの言うところの「一員」であると認識しなさい、ということだと思います。


誰もが「一員」であると認識できれば、自分を愛するように、恋人を愛するように、
家族を愛するように、隣人も「自分と同じ一員」として愛することができるようになる。
隣人を愛することができれば、見ず知らずの他人も愛することができるようになる。
見ず知らずの他人を愛することができれば、会ったことも見たこともない何処かの誰かを愛することもできるようになる。
それがつまり、人間愛というものでしょう。

人間を愛することができれば、それが暮らす自然を愛することができるようになる。
そうなれば、自分勝手に、何かを傷つけたり破壊したり、欲に支配されることもなくなるのでしょう。
いや、すべてを愛することが出来ているなら、その欲すらもすべてを慈しむ行動や考えに至るはずです。

それがキリスト教でいう、アガペーであるかもしれないし、
仏教でいう、悟りというものではないでしょうか。

そう考えると、多くの宗教は、崇める対象が違うけれども、
行き着くところは似通っているのかもと、個人的には感じました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>誰もが「一員」であると認識できれば、自分を愛するように、恋人を愛するように、
家族を愛するように、隣人も「自分と同じ一員」として愛することができるようになる。

ここは実は難しい点でして、今後の検討課題と考えているところ。
[ 人類の一員としての我 ] と同時に[ 自我としてのこの我 ]としても生きているわけなので、一筋縄ではいかないのでしょうね。

>アガペー

新しい言葉を覚えました。
検索してみましたが、人間に対する神の無限の愛、なのですね。

>多くの宗教は、崇める対象が違うけれども、
行き着くところは似通っている

本当はそうであるはずなんですけどね。
上の記述とも関係してくるでしょうが、なんで、これほど諍いが絶えないのか。

お礼日時:2016/02/08 17:50

>ご自身ではどう思われますか?



 ど~うでもいい事と思っています。
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この回答へのお礼

\(-_-;)/

お礼日時:2016/02/01 22:47

こんにちは、はこぶるさん。




取り急ぎ間奏。



1.
わたしが思うに、現代社会の課題としては、
>あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい
:ではなく、矢印の向きが逆で、正しくは、
→あなたの隣人を愛するようにあなた自身を愛しなさい

なのぢゃないかしら。

これは、
>見かけだけの愛が氾濫し、
>見かけにすぎないために無理が生じ、
>無理が生じるために愛が憎しみに逆転するなど
:これの結果ではないかと思います。




2.
>超自我性の芽がアプリオリに備わった状態で生まれてくる
:う~ん・・・(。-`ω-)
たとえば幼いころから狼に育てられたヒトがいます。
映像をご覧になったことがありますか。
彼らは【超自我性】を徐々に失うのでしょうか。

わたしとしましては、人と人が係り合って、
(たとえば赤ん坊と親など)
なんらかの感情を持ってはじめて【超自我性】
が芽を出して発達する、ような気がするのですが。


また、人類以外のすべての生き物も、
生まれつき【善いこと】しかできません。
哺乳類も鳥類も爬虫類も両生類も昆虫も軟体も
魚も単細胞もみんなそうです。
それぞれが、種にとって【善いこと】をします。
なぜなら【悪いこと】をする理由が無いからです。



むしろ人間だけぢゃないでしょうか。
嘘をついたり秘め事をしたりするのは。





すみません、取り急ぎの間奏でした。
もう一度ご質問文を読み直し、
気が向いたら出直します。

お読みいただきましてありがとうございました。



追記。
娘がもうすぐ中学3年生に、
息子はもうすぐ6年生になります。
彼らの好きな間奏を貼っておきます。



ではでは。(*´▽`*)/
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>あなたの隣人を愛するようにあなた自身を愛しなさい

こちらの視点も当然ありますね。

お礼日時:2016/02/02 16:25

この標題を 哲学からひとつの命題としてどう扱うか? この見方からその説明につ


いてのみ述べます。

問題は 《愛する》という言葉にあるというよりも 《隣人 あるいは 隣人になる》
といった表現にあります。

またその意味で きわめて具体的な経験思想であり経験的な行為の問題として提示さ
れていると見ます。
(神学の方面でいろんな観想やまた議論があり得ましょうが それは放っておきます
し そういう方面のことはむしろ言われていないと見ての投稿です)。




隣人になるとは よきサマリア人のたとえで説明されています。すべての物語やら何
やらを端折ってかんたんにその帰結のみを捉えるなら こうです。:
▲ (ヰキぺ:善きサマリア人のたとえ) ~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8D …

§ 3 善きサマリア人の法
現在、アメリカ合衆国などで導入されている善きサマリア人の法(good Samaritan
law)とは、

「窮地の人を救うために善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失がなけれ
ば責任を問われない」

といった趣旨の法である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 援けの手を差し伸べることに躊躇しなくてよいといった趣旨です。




もし
▼ あなたの隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい
☆ をそのまま受け取って どう解釈するかでしたら そのときには《あなた自身を
愛するように》または《自分自身を愛するのと同じように》が 重要だと考えます。

ですから 実践的な方針としては 《自分を思い自分のために考え振る舞うときその
前に一秒だけ相手やほかの人たちのことを思う時間を持ちなさい》といった結論にな
るかと考えます。

《愛する》の定義は むつかしいでしょう。
より高い理念を捉えこれを実践しようと志すときには つねに確かに《われわれはそ
れぞれ生かされている》という感覚が大事でそのように《思考を超えたところから得
られるヒラメキのチカラを頼って その理念を――もしその非知なる摂理のゆるすと
ころであるならば――実践する》のだと考えます。




★ 真理として 人類が認識できるような方向性を見出すべきではないかと思うので
すが、いかがでしょうか?
☆ 真理を・摂理を認識することは――つねに主観の内にとどまりつづけるからには
―― 無理です。

ヒラメキがもたらした経験思想〔とその行動〕は すでに――主観にとってのまぎれ
もない真実であったとしても―― 非知なる真理ではありません。
(主観真実に 摂理なる真理が霊として部分的に はたらいていることがあり得ると 
形而上学では言うかも知れません)。

よきサマリア人のたとえについてわたしは 経験的な思想やおこないとしてのみ捉え
て議論しましたが それもこれも 実際のところ《非知なるナゾとわれとの関係とし
ての信仰》にもとづくものにほかなりません。元をただせば そうなります。

信仰を先行させていても ものごとは――神は生ける者の神であるゆえ――経験世界
に帰着します。日常の生活世界が 問題です。と同時にそのことは 経験思想が信仰
(つまり 非思考の庭)に取って代わるということではないわけです。

真理たる摂理が 認識や思考の対象に成るということはありません。仮りのシルシで
人間は忖度するだけです。

忖度としての主観内容をもって 愛とはこれこれこうなのだという経験思想を普遍神
〔の至高の愛〕そのものとすることは出来っこありません。

★ 見かけだけの愛が氾濫し、見かけにすぎないために無理が生じ、無理が生じるた
めに愛が憎しみに逆転する
☆ ような情況のほうが まだすこやかな社会です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 真理を・摂理を認識することは――つねに主観の内にとどまりつづけるからには―― 無理です。
>真理たる摂理が 認識や思考の対象に成るということはありません。

質問文の内容を取り違えておられるようですが、そんなことは言っていません。
( A )~( C )にいたる論理を真理として理解する、という意味です。
>真理を・摂理を

ではなく、
★真理として・摂理として

といった意味。

>《非知なるナゾとわれとの関係としての信仰》

この思い込みがある以上、何を言っても無駄かもしれませんね。
そもそも、信仰と言う以上、いかな修飾語を付けたとしても、それは経験事象じゃないですか。
真理としての絶対的摂理を対象とするのか、非知というまやかしを対象とするのか、という違いがあるだけですよ。

>★ 見かけだけの愛が氾濫し、見かけにすぎないために無理が生じ、無理が生じるために愛が憎しみに逆転する
☆ ような情況のほうが まだすこやかな社会です。

どんな情況に比べて
>すこやか

なのですか?

お礼日時:2016/02/02 16:23

SMの境地。


「右の頬打たれたら左の頬差し出せ」
とか、訴えるぞ。
キリストほど、人間を舐め切った宗教はない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど。

打つより 舐めろ ですかね・・。

お礼日時:2016/02/01 19:26

あほくさ。

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この回答へのお礼

まあ、否定はしないけどね。
所詮、言いたいこと言ってるだけなんで。

お礼日時:2016/02/01 19:24

>いかがでしょうか?



 解釈なんて、人それぞれ千差万別
だから、キリスト教、イスラム教等も
解釈の違いから 同じ宗教なのに宗派が
いくつも別れているのでしょう
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご自身ではどう思われますか?
お聞かせいただければ有り難く。

お礼日時:2016/02/01 19:23

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