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自分を相対化するとか、相対化できてないなどと、よく見かけますがつまりはどういうことでしょうか?

意味がよくわかってもないくせに、「自分を相対化する」ということは自分の人生にとってかなりのヒントになると、なんとなく感じています。
大人になるというか、客観というか、諦観というか、、、と、勝手な思い込みかもしれませんが。

「自意識」についても、関係があるようでしたら上記とからめてご教授おねがいします。

A 回答 (12件中1~10件)

相対化は絶対化の対義語です。


人間が実際に行う行動としては、~~するべき、~~しなければならない、といった固定観念を捨て、色々な物事を、あくまで選択肢の一つとして考えるという事です。
東大は日本の最高学府とされていますがそれは絶対でしょうか?東大以外の大学からも発明・発見をしてる優秀な人はたくさんいます。
総理大臣は日本で一番偉いのでしょうか?w
東大はあくまで偏差値上の話、総理大臣は民主主義的に選出された与党から民主主義的に選出されただけの人。
というようにというように「偉い」「賢い」といったイメージだけのものを、その根拠にもとづいて分析すればおのずと相対化ができます。
基準さえあればどんなものでも相対化できます。というかされてしまいます。
「賢い」や「偉い」というのも「良いこと」として絶対化されがちですが、あくまで人間の状態や評価の一種にすぎません。
質問者様は「相対化するという事」を絶対化してしまっています。
相対化したからといってどうなるものでもないからです。
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私からは、質問された方が自分の人生に引き寄せて考えようとしている点に何らかのきっかけが与えられればと思います。


いままでに理論は回答されているのだろうと思います。ただ、そのあり方を生きる上で必要だと思われることがあります。それは自己の確立がなされていることではないかと思います。
自己の確立が非常に困難な社会の状況にありますし、拡散している人もけっこういます。自己を絶対化している人の中には、このような発達課題に取り組んでいる人もいるでしょう。自己が確立し、他者の存在を尊重できるようになってはじめて、自己を相対化することが可能になるのではないでしょうか。
私もつい最近まで自己を絶対化してきましたが、自己を相対化することができる人に出会って、自分も影響を受けて変化してきています。
頭の理解だけでなく、身近な人間関係のなかで自己を相対化しているなと思われる人に接触してみることをおすすめします。
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欲に対しても相対化できるかということ。


今日のご飯やおかずの量
おこづかいや
給料や
財産や
家や
土地や
すべてにおいて。

これは相対化しますが
あれは相対化できません。
君は今度この仕事であそこに行って住んでください。
それを
自己を相対化して受け入れられるかということ。
できなければ
自分の都合によって絶対化と相対化を使い分けていることになる。
自分が引き受けなければ誰かが代わりに行く。

総ての人が相対化した状態になれるかということ。
欲にまみれた生き方は地に堕ちるというのが仏教の教えだったりするが
今の世は反対。
お金を基準にするから金のあるものは人格的に偉く、
お金を使うときは神様となる。
お金が絶対的な意味を持つ。
拝金主義だね。
で相対化がどうしたって?

言葉でいうのと実践の違い。
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自分の判断が必ずしも正しいとは限らないということを自覚することが自分を相対化することだと思います。

つまり、自分が絶対に正しいと思うことと、相手が信じることは同等であるという自覚です。世の中には複数の宗教や政治体制の根幹になる思想がありますが、この多様性は人間の理性の限界を示すものであると思います。人間の理性には限界があって、自分もその例外ではないという謙虚さが自分の相対化とセットであると思います。自分を相対化するようになると、自意識過剰、すなわち、傲慢さが弱くなると思います。対立する意見の人間と話す場合には、自分を押し通すことや弁護することに執着するのではなく、相手の判断のプロセスや理由に関心が向くことでしょう。そして、常に自分の価値判断を修正する用意があると思います。そのような人が、自分を相対化している人といえるのではないでしょうか。
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ただし


それを共通認識とする場において
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個の意思は尊重される。


物事を決める主体は外にある。
自己の中部において相対的であることを絶対化する。
自己の内部においては絶対は絶対である。
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まあこれはやらなくても良いかもしれませんですがやったほうが良いです。


つまり自分を客観視することによって自分を整えていこうとする方向へ持っていけるということです。
自分を客観視ということは今の自分もしくは昔の自分を振り返るということです。
それによって社会人に適した人格になっていこうとこういうわけです。
ただ客観視してもそれを見ている自分は主観なので主観している自分を客観視はできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
人間は結局どこまでも主観なのですね。
でもそれに気づいているだけでもいいなぁと思いました。

お礼日時:2007/06/24 10:17

No1で回答した者です。

No2の方の書き込みにヒントを得てNo1の回答とは違ったベクトルから考えてみました。
己が己を見る、つまり己の行為を評価した内容と他者が己の行為を見て己を評価する内容とは一致しないもの。これは日常的に経験するものです。後者は己が関わる人の数だけ存在しているものでしょう。この他者の頭脳に存在する己が「己」なんだ、という発想がポイントです。なかなかこのような境地に達するのは難しいものですが。
たとい、そこに「誤解がある」「一面的だ」と思われる内容であろうとも、それらを含めて、それらを己の過去の行為の結果としてとらえかえす精神が必用になります。他者の頭脳に己の過去の行為の結果を観るということです。このように考えれば他者から否定的に見られていると気づいても落ち込むこと無く、「あの私の行為がこの人には堪え難かったのだ」とか気づくこともできるでしょう。まず、そこが他者に関わる現時点での出発点でもあるわけです。この自覚のもとに事実認識の相違があれば是正するとか、感じ方の違いを相互に確認するとかの「会話」や誤解を解く為の行為などを通して他者の頭脳に存在する己の存在を修正していく、こうした積み重ねが「己が観る己」と「他者が観る己」の距離を埋めるのであり、他者との人間的同一性を形成していくものだと思います。
「われ思う故に我あれ」ではなく「他者の頭脳に我有り」とでも言えようか?認識の出発点が他者の頭脳に反映された己であり、まず、自分はこう思っているのだ、が出発点ではないのだということです。
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この回答へのお礼

二度もご回答ありがとうございますm(__)m

お礼日時:2007/06/24 10:35

「自分自身を客観的に眺めるように努力する」ということではないでしょうか?



人は、生まれたときの素質、育った環境、経験してきた事物などから、「自分」を形成していきます。
そして、「自己を他者と分けよう」とします。
だから、人は違う意見・思想を持ちます。
これが「主観」です。

しかし、しばしば「主観」は間違った方向に流れることもあります。
この「主観」の間違いは、議論や読書などの「他者との交流」によって浮かび上がってきます。
ただ、間違いを認める事はなかなかに苦痛を伴う行為でもあります。
この苦痛を和らげるためには、一度「主観」を「無」にする必要があります。
そして、この「無」の状態で「主観(今までの自分の意見)」と「他者の意見」を眺め、どちらが正しいかを考えてみる。
もちろん、二者択一ではなくてそれぞれの意見をごちゃ混ぜにした「新しい意見」を作ってもいい。

つまり、「今までの自分よりも、よりよい自分になるため」に「一度、白紙に戻してみる」事だと言えると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり客観なのですね。

お礼日時:2007/06/24 10:32

「自分を相対化する」との記載は違和感があります。

元々「自分」は絶対的存在では有り得ないので相対的と言わざるを得ず、改めて相対化することは出来ません。

いわゆる「相対」は、物質主義、要素還元主義をある意味で超越した相対論、量子論の科学的認識のことを指し示しているのではないでしょうか。

つまり、対象世界を主体により細分化し単純な要素に分解し、それら要素間の関係性や意志、無意識など非客観的存在(観測者の存在など)を無視する思考と、これに対して、絶対的実在や絶対的真理を否定した相対的確率論的な(観測者によって結果が変わる)思考です。

人間の具体的な生活の面でも物質的経済的側面のみが了解され易い事態は、主体が客体構成起源であることを確信している思考でしょう。
これに対して、相対的思考は、多くの主観の相互関係が世界を構成していると捉え、主観と主観の狭間に客観性を見いだす(表現が難しいのですが・・・)思考で物質面だけではなく精神、意志などそれぞれの主観の本質をその関係性から浮き彫りにすることではないかと思います。

元に戻しますが「自分を相対化する」(自分が主体であると言う意味で絶対的存在とする)ことは、物的思考から事的思考へ、物質主義から精神主義への移行を示しているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

もともとは科学用語なんですか。
勉強になりました。

お礼日時:2007/06/24 10:30

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