私は、どうしても主観と客観を分離してしまうところがあります。
私の主観と客観の認識がまちがっているのかもしれませんが、例えば、私はこのように思うと発言する(主観)に対し、他者から違う意見をもらったら、それを自分の考えに取り入れるか取り入れないかは別として、(客観)的、意見だと認識します。
つまり、私は、主観と客観の中で人とコミニュケーションを成立させてますが、主客合一した思考とはどのようなものでしょか?
自分にこびりついた固定観念を払い除きたく、この哲学サイトをたまに活用いたしております。
私はあまり頭が良くないので、池上彰さんのような、わかりやすい回答をいただければ幸いです。
また質問の立て方が間違っていたとしたらそれを指摘してくだされば、幸いです。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
>私は、どうしても主観と客観を分離してしまうところがあります。
** 主観というものは「自分の意識を元にした見方」のことで、生きている間、誰もこの主観はもっています。問題なのは客観で、よく「客観的な事実に基づいて」などと言いますが、この「客観的な事実」というものが我々主観とは全く別のところに存在する見方だと普通に人は考えてしまいます。こうであろうと客観的に認められた科学法則がある物質を発見したことによりその法則を変更しなければならなくなることがよくあります。
** そうすると、客観なんてものはあるのでしょうか?人間が用いているこの「客観」という言葉は、様々な主観が集まりそれぞれの主観がこれを共通認識としようという約束事に過ぎないのです。この「客観」という言葉をあえて避けて「共同主観」と呼ぶ哲学者もいます。
** よく「主客合一」なんて理想的な言葉を使いますが、自分が死んだら主観も客観も何もないのです。主客合一すらないのです。ただ「主・客」を「自・他」という表現に変えれば「自・他」を意識しない状態になることはできます。人間が物事を判断するのは「自・他」の区別を意識して言語表現をするからであって、その一切の判断を停止し、言語表現にまでいたらない経験があるとしたら「主客の合一」も「主客」すらも存在しない世界もあるでしょう。しかしこれは言語表現の上だけの話しなら、架空の経験として「純粋経験」と呼ぶことも出来ますが、日常生活で我々がこのような境界に入ると、たちまち生活不能に陥ってしまいます。
**「純粋経験」というものは観念上は存在しますし、そのことを想念することが意味がないとは申しません。道元の「只管打坐」による坐禅もまさにその経験をさせることだと思います。親鸞のひたすら念仏をとなえる信の心もこれと同じことであろうと思います。ただ日常生活では「主観」と「主観」のぶつかり合いで、うまくいって「主観」と「主観」の調整までです。そこから「主客合一」などと言えば、自身の心の中で、一種の「飛躍」がなければなりません。日常生活の「主観」と「主観」のぶつかり合いを、自身がひとつ高いレベルから見下ろすことである意味可能になるでしょう。これを超越論的自我と呼ぶ人もいます。
** どういうことかと申しますと、「クレタ人はうそつきだとクレタ人が言った。」という言い回しの「2種類のクレタ人」を同一レベルで捉えれば、両者うそつきでこの提言すら無限の循環に陥って意味をなさないということになりますが、あとのクレタ人をレベルをひとつ上げることで超越論的クレタ人ができあがることになり、この提言も成り立つことになります。この超越論的自己を作り上げることが出来るかどうかで、日常生活での「純粋経験」ひいては「主客合一」も成り立つかもしれません。
>私の主観と客観の認識がまちがっているのかもしれませんが、例えば、私はこのように思うと発言する(主観)に対し、他者から違う意見をもらったら、それを自分の考えに取り入れるか取り入れないかは別として、(客観)的、意見だと認識します。
** "(客観)的、意見だと認識します。"という表現がそもそもの間違いです。"もう一つの(主観)的、意見だと認識します。"が正しい表現法だと思います。自分以外の存在物・対象のことを「客体」と言うことはありますが、その客体が意識を持ったものとしても、その客体の意識の見方を「客観」と表現するのは間違いです。あくまで、他の客体の意識による「主観」を聞いていることになります。
>つまり、私は、主観と客観の中で人とコミニュケーションを成立させてますが、主客合一した思考とはどのようなものでしょか?
** ここの表現も「私は、自分の主観と他人の主観の中で人とコミニュケーションを成立させてますが、主観と主観が合一した思考とはどのようなものでしょか?」としなければなりません。
** 答えは「共同主観」です。
>自分にこびりついた固定観念を払い除きたく、この哲学サイトをたまに活用いたしております。
** この「共同主観」という用語に初めて遭遇したのは、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』という書籍を読んだ時でした。この本はあまりにも難解でおすすめできませんが、一応「共同主観」という語がたくさん出てきます。廣松渉の文は漢文にも似たガチガチの文体ですので、彼の書いた文を英語に直せば日本語より分かりやすくなるとは思いますが、今のところまだ見あたりません。
**「自分にこびりついた固定観念」ということですが、誰もそうですからご安心下さい。この件だけのアドバイスしかできませんが、他者の主観で書かれた書籍を多く読むことでその固定観念がほぐされていくと思います。
>私はあまり頭が良くないので、池上彰さんのような、わかりやすい回答をいただければ幸いです。
** 悪くはないと思いますよ。少なくとも純粋に物事を求めて行く態勢はお持ちです。これからの勉強次第だと思います。
>また質問の立て方が間違っていたとしたらそれを指摘してくだされば、幸いです。
** この哲学カテでは疑問があればどのような質問の立て方でも誰かが答えてくれるはずです。
なるほど、目からウロコです。
私は、ものごとを考えると視野狭窄になるところがあり、泥沼にはまりがちです。
このサイトを利用していると、このような泥沼から引き上げてくださる回答者様がおられ、いつも感謝いたしております。
私は、特に科学というものが出来る前の、哲学者達の世界というものを考える発想力の柔軟さに、哲学の楽しさを感じております。
おしゃるとおり、もっと書物を読み込み、勉強あるのみですね。
刹那的快楽だけだと私はむなしさを感じ不安に陥りがちです。
また、泥沼にはまったら、投稿いたしますので、稚拙な文章と考えとお感じになったとしても、回答をいただければ幸いです。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
西田幾多郎が扱っている問題ですね。
『善の研究』は読まれましたか?認識において、色を見る場合、見る私が主体で色が客体です。
音を聞く場合、聞く私が主体で音が客体です。
考えをつむぐ場合、考える私が主体で考えが客体です。
認知症の方や、脳機能を損傷した方は、知覚しても認識に至らないことがあります。
すると、主体になることができません。
そのような場合、色を見ても、色というカテゴリでとらえることがなく、
カテゴリでとらえられないということは、他の事物や周りの世界と色との関係性を、整理できないということなのです。
構成的なものにならない、世界を構成する要素にならないのでは、
目に映った色は、対象として浮かび上がることがなく、それでは客体とはいえないのです。
さて、ふつう、色を見てそれと認識するわたしたちは、主客合一しているのだと西田は考えます。
いわば、主客合一は、世界とわたしたちの整合した関係を保証するペースなのですね。
そして、もし色を見た経験を振り返って思弁に直すとすると、
「我は色を見た」という段取りになるので、
ようやく主体と客体が分かれている構図になるというわけです。
西田哲学では思弁前の合一状態を純粋意識と呼びます。
ただ、現代の認知科学からすれば、なぜ主体と客体は経験の事象において分離されないのか、というところだと思います。
世界を有機的に構成するための脳の中の地図みたいなものが、概念カテゴリですが、
そのおかげで事物は対象化し、それと認識され、そのときわたしたちの中の世界と外の世界は、関係を持つことにおいて同時に構成されるのですね。
だから、色があるとか、私があるとかの問題ではなく、見ることの関係ただそれだけがあると言うことができ、色も私も、その関係のうちに、構成的に生まれているのですね。
西田幾太郎の「善の研究」。題名に惹かれ読もうとしましたが、原書は旧字体で、その上難しいことがかいているので、とてもたちうちできず、現在、西田幾太郎の思想の噛み砕いた解説書を読んでます。
お恥ずかしながら、それでも難しい。
>認知症の方や、脳機能を損傷した方は、知覚しても認識に至らないことがあります。
>すると、主体になることができません。
なるほど、認知科学からの具体例的ご意見、とても参考になりました。
わたしもamaguappaさんの回答を何処まで理解できているかわかりませんが、自分と世界(例えば野の花でもいい)が一体になるの感覚まず先で、それから、主体と客体が生まれてくるということで、いいのでしょうか。
私も野の花のスケッチをすることも趣味にしてますが(下手の横好き)、じっと集中して観察していると、花と一体になったのではというような不思議な感覚におそわれることがあります。
グローバル化の中、日本人に生まれたことに誇りを持ってますが、しっかり発言できる者になりたいものです。
しかし、西田哲学に惹かれますが、仏教的土台がないと、やはり泥沼でしょうか?
No.4
- 回答日時:
只座る 主客が一つに、世界のありのままの姿だと直観
只座り、自我の全てのとれわれから離れたら、ありのままの世界が、ありのままの世界には自己さえ溶け込んでいる
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」かもしれないですね。
道元「正法眼蔵」「現成公案
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。
万法に証せられるといふは、自己の身心
および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり。」 かもしれないですね。
」
回答ありがとうございます。
ri-zyuさんは仏教的に悟りの境地にあるか、近づいていらしゃると思いますが、このような、主客合一した思考方法の世界に到ると、世界がどのように見えるようになるのか、興味があります。
私はキリスト教に傾倒しておりますから、宗教として信仰というものになってしまうと、教義の違いというもので、仏教とキリスト教の両方を信仰すると言うわけにはいけないでしょうし、限られた人生の中で両方を学ぶ時間はないと思います。
しかし頭は柔軟にしたいものです。
物事の発想方法が変わったということはありますか?
No.3
- 回答日時:
かわいそうなお人ですね・・・人からなにか嫌な目にあったか対人恐怖症な性質をもっている人はそうなり易いです。
つまり、受け入れられるところは受け入れて受け入れられないところは疑問をなげかけるというような事が出来ない?ということでよろしいですか?そうするとまあ単純に意地を張っているだけという事になるわけですが・・・まあ受け入れるところは受け入れて受け入れにくいところは吟味するというのが大人だと思いますがね?
ごもっとも。teientさんは、大人ですが、お若いのではと思います。私は主義主張をもった、お年をめした年配の方と話しをすると自分の主張が肯定されず否定されると、疲れて嫌になって、そういう人とは話しはしたくないと言う人に結構お会いします。もちろん、そういう方々ばかりでないとは、思いますが、年をとると「自分の人生を否定されること」に拒絶反応がおこる。私はまだまだ好奇心旺盛でいろいろな考えを受け入れるべくこのネットで質問してますが、そろそろ、情報の過食ではなく、そぎ落としていくことが大切かなと思ったりもしてます。このサイトには本当に人生を達観しているなと思わされる方々が多くいらしゃいます。しかし私は「他人の人生を否定しない」ようにこころがけております。
No.2
- 回答日時:
しゅ‐かく 【主客】
1 主人と客。しゅきゃく。
2 主なものと、それに関係のあるつけたりのもの。しゅきゃく。「―処(ところ)を易(か)える」
3 文法で、主語と客語。
4 哲学で、主観と客観。主体と客体。
5 昔、中国で外国からの賓客を接待する役の者。
主観を持つのが主体で、客観を持つのが客体です。
主体は、私が視て触ってなどで(意識を通して)思っていること。
客体は、私が視て触ってなどで感じることです。
主体は、自分の意識を通すので意見などの主観が入ります。
客体は、ただ感じたそのままですので客観となります。
主体「赤くて小さくて可愛い」
客体「赤い、小さい」
主体「冷たくてこごえるよう」
客体「冷たい」
主体は気持ちや思いや感情に左右されて、フィルタをかけます。(歪みが生じる)
客体は事実のみを用います。
主体と客体を使って出した答えに矛盾が無い状態を主客合一と言うと思います。
これをやってみようと思うのであれば、事実なのかを一度自分の中で確かめるといいです。
嫌な気分が出た時は合一ではないので、事実を見直し把握して意識することでしっかりと認識するといいですよ。
嫌な気分は、主体が向いてる方向がずれていますので、自分の気持ちを汲み取ることが必要です。
ん~~~、文字だけでは説明しにくいですね。
せめて図がかければな~と思います。
できればスライドとか、アイテムないと辛いですね。
凝り固まった頭をほぐすような、御回答をくださり感謝したしております。
>主体は、自分の意識を通すので意見などの主観が入ります。
>客体は、ただ感じたそのままですので客観となります。
>主体は気持ちや思いや感情に左右されて、フィルタをかけます。(歪みが生じる)
>客体は事実のみを用います。
>主体と客体を使って出した答えに矛盾が無い状態を主客合一と言うと思います
まだ完全に理解したわけでないですが、大分頭が整理されつつあります。
客体は感覚、主体は思考、しかし、この2つを使って出した答えに矛盾がないと思考する段階で客体と主観が分離していると思われます。
私の頭が固いのか?
時間とお金があれば大学にもう一度戻って学びたいですね。
No.1
- 回答日時:
こんばんは、わたしは、しろうとなので、
二元的なものの成り立ちには、あまり詳しく
ありません。(あえて二元論とは申しません)
わたしの場合、客観的な意見というものを
見たことも聞いたこともないのです。
不思議ですね。あなたは客観的意見を見聞き
されておられるようですが。
わたしは、自分の意見と、他人の意見しか
知らないのです。
たとえば、教室の中では、しばしばこんな意見が飛び出します。
「みんなの意見なんだから、それに従ってもらいたい」
これなどは、わたしにしてみれば、みんなって誰?
と思ってしまいます。
ちょっと話題がずれてしまいましたね。
主客合一についてなんですが、よくわからないです。
現象学でしょうか?
回答ありがとうございます。やはり質問が支離滅裂で、客観的意見というのが、私が勝手に作り出した、個人的な考えかもしれません。しかし、ネットで顔が見えないのが残念ですが、ここで、私とあなたという関係性がなりたちました。ご回答のように、私も、ネットで調べても、主客合一とは、良く説明出来る様に理解はしていません。ここで、たった2人ですが、私とあなたの意見は同じとなり、ネット上で公開されています。みんなではないですが、より多数の意見となると、客観視されるのでしょうか?哲学の辞書を調べると、定義が辞書によって違っていたりして、混乱します。夜分遅くの回答ありがとうございました。
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