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美しいということについて。
感覚的な個人差はあるにせよ、美しいということの本質は
どういうことなのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 結論

    今回はかなり横道にそれてしまいましたが、皆さんのご回答を頼りに、私なりの結
    論に達することができました。
    太古の人類と「美」との出会いは、大自然と女性の子供を慈しむ姿であったと思う。
    母の子に対する思いは、キリスト教の「愛」では少し物足りなく、仏教の「慈悲」
    の方が相応しいと思う。また、例えば太陽の存在は「慈悲」以外の何物でもないよう
    に感じます。
    「愛」「慈悲」のない人はいないでしょう。即ち、生命に備わっているものであり、
    それを「美しい」と感じる心も備わっている。ミニチュアなものを見て、「かわいい」
    と感じる心を誰もが備えているように。
    「美」とは「慈悲の心」である。現在は多様化し複雑になっているが、もとをただせば
    そこにあるということです。

    皆様、今回も誠にありがとうございました。

      補足日時:2015/09/10 21:04

A 回答 (26件中1~10件)

羊が大きいと書いて、美になるのでしょうか。



美しいことの本質を言葉にできたら良いですね。

芸術的な美は、時代(パトロンの好み)にあわせて創造され、庶民は、それを、ひざを屈して受け入れてきました。このところ、美術館などに行くと、昔の人の糟粕を味わっているように感じ始めました。うんざりするほど、美しいものが集められているにもかかわらず。。。

最近は、人の行いの中に美しさを見つけることが多いです。
それは、バランスであり、余裕であり、素直さであり、そして、なぜか質素にも通じます。

回答になっていなかったら、お許しください。
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この回答へのお礼

興味深いご回答ありがとうございます。
「若い女は美しい、しかし、老いた女はもっと美しい」
私も、この辺りではないかと思います。

お礼日時:2015/09/07 14:23

進化の初期の段階で「生存に有利=善」という枠組みがある中で


生存に有利ということでクローズアップされたバランス=美という感覚が萌芽し
その流れが、進化と共に変動する種にとっての外的環境と内的環境との関係なりの
バランス感覚として進歩してきたのが美という感覚だと思います。

個体差が大きいのは、成長の過程で進化と同様の獲得の過程があり
それは各人のそれぞれの成長における環境に依存するものだからだと思います。
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この回答へのお礼

各々の個体が、「生存に有利」な機能を追求した結果が
その個体の姿であるのでしょう。
私は、そこに「自己表現の意志」が加わっているように
感じるのです。つまり、自分を美しく見せようとする意
志です。高等生物ほどその意志は強く、美的感覚も高い
と。人間の美的感覚は、その後の変化はあるにせよ、備
わって生まれてくるのではないか、と。

そして、その美しさは見るものに心の豊かさを与えると
いうもう一つの面がある。人間以外の生物にどの程度感
ずる力があるか分かりませんが、少なくとも人間には、
精神的美も含めて感ずる力がある。
美というものは、人間が豊かになるためにあるといえる
のかも。

ご回答を読んで、少しまとまってきました。

お礼日時:2015/09/09 21:24

お礼、ありがとうございます。



ありがたいですが、過剰な期待を受けていたようですね。

私はガッカリはしてません。
まだまだ時間が必要なようです。
またいつか、機会があれば話しましょう。

では。
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この回答へのお礼

その、あくまで高飛車な雰囲気、嫌いではなかったですよ。

いずれ、また。

お礼日時:2015/09/09 20:24

お礼ありがとうございます。



>その良し悪しは別として、真に得たいものが
>得られる状況かが問題になります。

論点がズレています。

質問はご自身が満足を得るためでしたか。
私が勘違いだったのかも知れませんね。
ご自身が到達するためで、何かを叶えるためかと思っていました。

そこは私の落ち度ですね。
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この回答へのお礼

すれ違いは、シンプルな感情から始まるということが
良く分かりました。
論理的矛盾を指摘することは、実に簡単なことです。

目的があるということは、何度も申し上げているはず
ですが‥‥

良くあることですが、がっかりです。

お礼日時:2015/09/09 08:44

「美しいということについて。


 感覚的な個人差はあるにせよ、美しいということの本質は
 どういうことなのでしょうか?」

これがニャンポコリンさんの質問文です。

そして多くの方が回答を試みました。
質問の意図、真意を推測しながら。

私もその一人です。
私が受け止めた質問の意図は「美の本質に付いて・美の本質は何か」と云うものです。

質問文には質問者の"視点"は現れては居ません。
若し質問条件に、これこれこういう視点でと、断られているのならそれなりの回答がされるはずですが、ないので本来の「美の本質」に付いて皆さん考え、答えたはずです。

回答者は質問に疑問が生じたら補足説明を要求できるのです。
私が補足を要求しなかったのは、本来の美の本質に付いて質問しているのだと解釈したからです。
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この回答へのお礼

本質的な問題に関しては、人から教えてもらうことができない、
という意見がありましたが、私も、とても難しいと思います。

だからこそです、人の直感的な発想を多く聞くことが、とても
参考になると思うのです。これは経験的な私の考えで、だから
質問文がシンプルになったのですが‥‥
そして、多くの回答をいただいて、満足しているのですが‥‥
(??)

お礼日時:2015/09/09 08:00

ご返答ありがとうございます。



質問は、回答を得るために立てます。
適切な回答を得るためには、適切な質問立てが必要になります。
そして適切な解き方で回答を得られます。

何事においても、それは同じです。

では、手段や技術の話しは何処へいってしまったのでしょうか?


多くの人は、質問で聴きたいことを書きたいように書き
聴きたいように聴き、気に入ったものを受け取ります。
そこに、求めることが在るとか無いとか関係無く
気にいるかどうかが基準です。

その良し悪しは別として、真に得たいものが
得られる状況かが問題になります。

根拠が説明できない質問立ては、問題解決できないので
延々と同じような質問を立て続けます。

本当の問題は、別に在ると気づかないので
無明のままさまようのですが、それに目を向けなければ
最後まで得たいものは得られません。
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この回答へのお礼

私は、漠然としたものが少しでも分かりたくてこの質問をし、
色々な回答をいただき、満足をしております。
そういう質問の仕方が、適切でないということでしょうか?
適切であるか否かは、このサイトの担当者が判断することで
はないでしょうか?

また、同じような質問を延々と続けたならば、ご迷惑なので
すか?

お礼日時:2015/09/09 07:42

答が有るか無いか分からなくても、有る筈だと答を模索する事が"哲学的思考"だと思えば、こうして美の本質とは?と問われることで、然(さ)して気にも留めなかった事への思索が始まるんです。

そして私はhakobuluさんの回答に触発され、「揺らぎ」なんて言葉を思い付き、だから使ってみたんです。

hakobuluさんの回答に有る"危うさ・崩れそうな"と云った表現と、完全な美は美しいと感じるのか?と投げかける疑問は、物理学者の対称安定性を美と捉えることへの"反発"のようにも思え、それを完全な美とするならば、通常の感覚に発生する美は"完全な姿"が揺らぐからと"思ってみた"んです。

美は魅力。人の心を引きつける。人は凡人ゆえに怪しげな魅力《美》に惹きつけられると思えば、完全さが歪み、揺らいだその瞬間が"本質"の表れ、と思いたくもなります。

でも、まだ、思考は続きます。美の本質を求めて、、、
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お礼ありがとうございます。



まずは、私は人とぶつかるのは嫌いですから
ぶつかって来ないようにお願い致します。

1と2は、分かりました。
3は、同じような考えを私も持ってます。

私は、教えを信じません。
そして疑ってもいません。

おっしゃるように手段や技術と考えていますから、使えるか使えないか。
使える物は、何処で使うか。どのタイミングか。
信じるや信じないとかの範疇ではないと考えています。


話し変わりますが、この質問のやり方が適切であるという根拠を
お聴かせ願えたらと思います。
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この回答へのお礼

ご返事いただきありがとうございます。
この質問のやり方は、流れでこうなったという感じでありまして、
適切かどうかは、考えておりませんでした。

お礼日時:2015/09/08 21:54

遠くに有るリンゴを見て、あれは間違いなく梨だ!


と、思うのが主観。
でも、実際はリンゴ。

客観とはあれはもしかしたら梨ではなくリンゴかも知れないと、知ろうとする事。
これが客観視してみようと云う事ではないでしょうか。

本質を知ろうとする働きです。
主観で結構、なら何でもありではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「客観」について、捉え方が違うようです。
この問題については、以前に何度か議論されているようなので
ちょっと読んでみようと思います。

人間社会は所詮は、主観と主観のぶつかり合いであるべきだと
思います。一人一人の人間は、完全ではなく、「慢心」に陥り
やすいものであると思うからです。
ですから、他人に無関心で、争いを避けるために自分を出さな
いという、今の日本の社会のようでは、進歩が無いといえると
思います。

かといって、無用な諍いは明らかにマイナスです。そこで、我
々はもっと「議論」を上手にすべきです。「議論」というより
「対話」と言ったほうがいいでしょう。
私自身がこれが下手くそなのです。考えの違う人を敵対視した
り、相手を評論してみたり‥

「対話学」なんて学問ができたら、価値的だと思います。

話がそれましたが、ぶつかってきた「主観」を消去することな
く、自分の中に取り込んでゆくというのが、いいと思います。

お礼日時:2015/09/08 09:07

お礼ありがとうございます。



そうですねぇ。
たとえば、自分と戦う理由が分かりますか?

「自分に勝つ」のと「自分に克つ」との違いでしょうか。
自分を殴れば、誰が痛いのか?
暴力(肉体に限らず)で制すれば、何が生まれるか。

ご自分の中に明らかは、何処を示していますか?


話し変わりますが、自律は「律する」のですが
律されるのではありません。
縛りを抑制でと考えるなら、その囚われを観ることが
ありますでしょうか?

自分を知らなければ、足元は見えません。
行先は、暗闇ですよね。


ここの質問に戻りますが、ご自分の「美しい」と思う本質を知らず
聴いても自ら知らぬものを、理解できますでしょうか?

自分が持っているものを「俺、何持ってます?」って
聴き歩いてませんか?

他者との比較で本質が分かると思いますか?

考えるのではなく、自身に問う。
胸から出る気持ちを汲むことですよね。
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございます。

1 「自分に勝つ」と「自分に克つ」は私の中ではイコールです。
自分と戦う理由は、目的を達成させることですから。

2 「自分の中の明らか」とは、以前におっしゃった「羅針盤」と
いうことでしょうか?
それならば、死ぬときに目的を達成した自分を指しています。
ただ、途中のプロセスが今一つハッキリしないということです。

3 信仰は「他律」であると一般には考えられていると思いますが
私にとって信仰とは、目的を達成させるため、幸せになるため
の「手段」あるいは「技術」ととらえていますので、「他律」
ではないと思います。

4 人をどこか「アテにしている」心があることは、ご指摘の通り
だと思います。これは良くないことですね。
しかし、他人と「主観」をぶつけあう「対話」というものは、
とても重要だと思いますので、これからも色々な場で続けてゆ
きたいと思います。それで本質が分かるというよりも、分かる
自分を作ってゆけるということでしょうか。

お礼日時:2015/09/08 14:53

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