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自分を相対化するとか、相対化できてないなどと、よく見かけますがつまりはどういうことでしょうか?

意味がよくわかってもないくせに、「自分を相対化する」ということは自分の人生にとってかなりのヒントになると、なんとなく感じています。
大人になるというか、客観というか、諦観というか、、、と、勝手な思い込みかもしれませんが。

「自意識」についても、関係があるようでしたら上記とからめてご教授おねがいします。

A 回答 (12件中11~12件)

よく言われているように見ている自分と観られている自分を区別するということではないでしょうか。

自意識というのは見ているほうの自分です。この見ている自分は見られている自分には絶対ならないことを知ることが諦観と言われるものなのかもしれません。私は西洋のことわざで「汝自身を知れ」というのがありますが不思議でなりません。この汝というのはどちらの自分のことなのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/24 10:29

「相対化する」という発想の裏側には己を「絶対化」するという発想があります。

己を絶対化しない=己を相対化する、ということ。
意見が「対立」した時に自分の主張を繰り返して他者の意見から学ぼうとしない場合、そういえます。己の「判断」や考えは、チョッと横に置いといて、対立する他者の意見を「分析的に」聞く事、何故、自分と違った主張をするのか、問題意識の相違はどこから発生するのかとか、相手の立場に身を置いて相手の内側から想像力を働かせながら「理解」することが必用です。その作業を通じて己が気がつかなかったことを発見したり、己の判断の正当性を再確認したりできるのです。
また、大人が子供の主張や要求に大人である自分の「論理」でぶった切るのも「絶対化」の一例でしょう。身の回りの「会話」を注意深く聞き耳を立てれば、いくらでも「絶対化しているな」という事例は発見出来ます。それを収集する作業をするだけでも「相対化」するということがどういうことかが見えてくるものですよ。
昔のことわざ、「一寸の虫にも五分の魂」「泥棒にも三分の理」とか。現代でも通用する素晴らしいことわざだと思います。
一般的に己を「絶対化」する人は人間関係の作り方がへたくそな人、エリート意識があって他者を見下すくせのある人、個々の問題での批判がされたにすぎないのに己の人格が否定されたように感覚するひと、権威に弱い人、劣等意識が強い人、ようするに「寛容」の精神の乏しいということかな。えらそうな事をいいましたが、私もその意味が身体でわかったのは50才近くになってからで、それなりの人生経験が必用なのかも知れません。
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この回答へのお礼

なるほど、普段相対化の反対の絶対化をしているという前提があるのですね。
わかりやすい説明どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/06/24 10:28

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