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「真か偽か」という判断をしますか?

  する場合、何を根拠として「真」/「偽」としますか?
  また、「私」が実在することの真理性の論証は果たして本当に可能なのでしょうか?



  私には、どうしてもできないのです。

A 回答 (13件中1~10件)

不完全性定理の無謬性の根拠は?

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>"私"の実在性を疑う"私"がいるということは


「事実」なのでしょうか?

これが事実でないと先に進めませんからね。

>たとえば、"私"の実在性を疑っているという行為が
"私"によって行われていない可能性はないでしょうか?
人間が知覚できる概念を超えた次元の概念が存在するとしたら、
あり得ない話とも言い切れないのではないでしょうか。

"私"が実在しないとすると、誰が、「"私"の実在性を疑っているという行為が"私"によって行われていない」と認識したり、「人間が知覚できる概念を超えた次元の概念が存在する」と認識したりできるのでしょう。

"私"が実在しないとすると、この宇宙の森羅万象は存在しないでしょう。この宇宙を認識できる主体は"私"だけです。"私"以外の何者かが何かを認識したとしても、それは"私"には知ることはできません。
この宇宙が"私"の夢の産物だとしてもその夢を見ている"私"は実在するでしょう。
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大変短い回答で申し訳ないのですが、人間がそれ(真か偽か)を判断するプロセスは信じるか信じないかです。

実際、心はそうしていると思います。
トルストイは人間はすべて好き嫌いで動いていると看破しています。これを知った時にそんな単純にものではないだろうと憤慨しましたが、真偽の判断のプロセスは信じるか信じないかと結論付けた時にこれも単純だなと思いました。
もしかしたら、好き嫌いで判断しているかもしれません。
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ここも、かなり内容が濃くなってきましたね。


万物は多面性で満ちあふれている、というのが適切な表現でしょうか。
要するに、回答は1つではない、と。
確かなものなど、この世に存在しない、とも言えるかもしれません。
そう考えると、人生が楽になるし、この問題も解決するように思います。
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>「真か偽か」という判断をしますか?


真偽の判断はしません。おそらく不可能だからです。
仕方が無いから、適不適の判断でもっぱらやってきています。
抽象論は嫌いだから、具体的にお話ししますと

大■屋で、エルメスのバッグを買うとき、本物か偽者かを判断していません。
おそらく、この業者が扱うものにコピー品はないだろうという、推論で判断して
います。偽物には、際限なく本物に近い偽者がありえます。
事実、エルメスが外注している職人と、皮革を使って同じデザインで作れば
それは、限りなく本物に近い偽物
ですから、これを本物と判断するに十分な条件を備えていれば適格であるし
備えていない場合は不適格という判断になります。
これが厳密に言えば真偽の判断ではないです。

もうひとつ
彼女が浮気したという事実の真偽
それは、
「ラブホテルの前から二人で手をつないで出てきたこと」
でも、まだ真実と
いう証明には不十分です。
(1)彼女が女優でTVドラマのロケというケース
(2)彼女は素人で、ラブホテルには入ったけど、何もしていないというケース
(3)彼女はラブホテルの経営者の娘で、手をつないで出てきたのは仲のいい弟
(4)彼女はラブホテルの従業員で、隣の男は目の不自由な経営者。
など、いくらでも「浮気でない可能性は存在しうるからです。

じゃどうすれば、浮気という事実が判明するか。

いっしょに、ホテルに入って行為を観戦するか・・・それはもう、その時点で
浮気を公認しているわけで、隠れてするという意味での『浮気』という事実とは
ことなるものです。

主観にとって、自分の彼女が浮気したかどうかの真偽は、当人が認めようが
目撃者が証言しようが、真偽の証明にはないれない。それは、主観が定めた
「浮気」という概念に適合するか、不適合かの判断にすぎません。

>「私」が実在することの真理性の論証は果たして本当に可能なのでしょうか?

本当に、おっしゃられても、誰かが可能と言ったのかどうか私は知りませんから
お答えしようがないのですが、
「私」というのは、哲学で言うところの「主観」という意味だととらえると、主観というのは
「観察し、考えて、行動する 主体」という程度の意味だと思ってください。

個のアイデンティティという、問題についておっしゃっているのかなぁと思います。

つまり、昨日のボクと今日のボク、まったく一体感を感じないけど、これでも実際に
「私」というものは実在するって言えるの?
そういう疑問ではないでしょうか。

だとすると、答えは簡単です。「私」はユビキタスな存在だと思ってください。
最初から、あまねくあらゆる時空に存在しています。
ただ、意識が、その「私」を時系列に選択していくので、時間の軸でみると
「私ってとってもリニア」みたいに見えるだけです。
なかには、極めて強い的に、継続性を拒絶する思考で生きている人もいて
彼の中では、人生は複数の人格に自分をのっとられたみたいな気分なのだと
おもいます。
時空と身体は不連続ではありえませんが、意識は極めて不連続であります。
環境を安全と意識していたものが、突然不安に襲われる。すると次の瞬間
トラが背後に近づいていたら、それはジャングルですけど、オフィスが急に
ジャングルに変貌することはないかわりに、解雇通知を手にした課長が
あなたの後ろに立っていることはありえます。
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>私としては真理が存在すると信じたいです。


>ただ、その方法が見つからないのです。
wld1akさんの中に、矛盾が生じているようですが、それは、何を根拠として「真」/「偽」としているのでしょうか?

>その問題はどう解決するのでしょうか
その方法は、弁証法で解決するんじゃないでしょうか。
テーゼとアンチテーゼを対極に位置し、永遠に混ざらないけど、それを昇華してジンテーゼになる。第三の道です。それによって成り立つ。

政治だって右と左にわかれて、お互いが批判しあってベストを道を見出そうとする。第三の道ですね。

第三の道が真ん中とするのなら、仏教でいう中道と同じなのかな。もしそうなら、その問題を解決するには悟るしかない。(笑)でも弁証法は、哲学なので、勉強すれば理解できるのかな。

哲学を学問したことのない素人の意見です。
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真・偽の判断の可能性についてですが、


数学的な真偽は自明のことのようですが、けっこう奥が深いです。例えば幾何学について考えると、平行線の定義で
「二つの平行線は交点を持たない」はユークリッド空間では真ですが、球体などの非ユークリッド空間では偽です。
地球儀を考えてもらえばいいのですが、平行線は二つの交点(北極と南極)を持つのです。
数学の話を引っ張り出してきて何が言いたいのか、といいますと、真・偽判断について考える場合に、無条件・無媒介的な真偽判断はありえず、それに先だって、判断しようとする主体が、判断基準というか、それを適用する世界というか、を自覚的にせよ無自覚であるにせよ、選び出しているか、あるいは、他から与えられてしまっている、ということです。
従って、まったく完全に中立的な「真・偽」判断ということはありえないのではないかと思います。

むしろ重要なのは、わたしが(あなたが)、自分自身の存在の客観性をすべて疑っても、疑っているわたし(あなた)ということを否定することはできない、(これは、古くはアウグスティヌスやデカルトの論ですし、ちょっと最近ならフッサールあたりの論ですが)という点です。

あなたもわたしもこうして真偽について思いをめぐらしている以上、そこでなんらかの判断をすでにしているのです。

「私にはどうしてもできない」という判断は真でしょうか?もしそうであれば、真偽の判断が可能であるということで、「私には判断できる」といっていることになります。ところが、これは出発点の「できない」に矛盾します。こういう矛盾が起るのは、真・偽判断のルール運用上の問題なのですが、、。このへんは数学の論理学を良く知っている人に聞くほうがわかるでしょうね。(わたしはどっちかというと文系です^^;)

完全に客観的な判断はあり得ません。主観的な判断からしかわたしたちは出発できません。そうして、主観的な判断を互いにぶつけ合わせて、少しはましな客観的判断もどきを作り出す以外にないのではないでしょうか。
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>>「真か偽か」という判断をしますか?


判断します。わからないものについては後にとっときます。
真実は真実です。偽のなかにも真実が含まれている場合が多いですが
少ない場合は切り捨てる場合が多いです。
純金の指輪と純度のひくい合金の指輪があったとしたら、合金の指輪は
あまりありがたくないということですが、指輪には変わりないので指輪は指輪です。しかし品質が悪すぎるとかぶれたり、痛んだりしますので、捨てます。
>>何を根拠として「真」/「偽」としますか?
利害を離れた第三者の見かた、自分のこだわりから離れた素直な見かたでしょうか。ものの本質を素直に受けとれるのではないでしょうか。(如実知見)絶対的価値が含まれているか、いないかでしょうね。
見極めたいですね。
絶対的価値とは真理です。純金の部分です。法、教え、真理を自分の体験を
とうして得た物差しはよく使いますが、間違いもよくあり、ものさしの
細かいめもりの修正なしには使えません。
>>「私」が実在することの真理性の論証は果たして本当に可能なのでしょうか?
仏教的真理で当てはめると、自分の個性、深いところから影響する部分が存在し、いろんな判断をしてしまいますが、転生輪廻の法則どうり「魂の癖」が人それぞれあり、いいも悪いもカルマを背負って生きている、人の数だけの個性があるという事が自分も他人も実在するという間接的証明の一つです。
他の人に対して、直接証明する事は難しいか、不可能か、わかりませんが
信じるという行為をとうして、自分の中での直接証明になりえる。
確信できるという事と自覚しています。
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「真か偽か」という判断をしますか?



A 判断いたします。

する場合、何を根拠として「真」/「偽」としますか?

A 虐げられし者の「経験」を根拠として

また、「私」が実在することの

A 虐げられし者にも保証はされているようです。

ことの真理性の論証は果たして本当に可能なのでしょうか?

A 「真理」は虐げられし者には不快です!
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この回答へのお礼

mineosanさん、お礼が大変遅くなりました。
回答ありがとうございます。

mineosanさんは神との契約の話をされているのでしょうか?
「真理」という語句を持ち出された場合
私は口を閉ざさずにはいられないのですが、
実際に社会生活を送るにあたってそういう態度を貫くわけにも行かず、
非常に悩ましいところです。

お礼日時:2005/11/18 00:17

私は、ものごとの真偽は、トンでも情報も含めてできるだけ情報を集めて決めます。



私が実在するということの真偽については、"私"の実在性を疑う"私"がいるという事実を持って実在していると考えます。
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この回答へのお礼

Quantさん、お礼が大変遅くなりました。
回答ありがとうございました。

勝手ながら、コギトエルゴスムのお立場と理解致しました。
ここで疑問に思うことがあるのですが、
"私"の実在性を疑う"私"がいるということは
「事実」なのでしょうか?
たとえば、"私"の実在性を疑っているという行為が
"私"によって行われていない可能性はないでしょうか?
人間が知覚できる概念を超えた次元の概念が存在するとしたら、
あり得ない話とも言い切れないのではないでしょうか。

お礼日時:2005/11/17 23:56

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