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現象の無実体性を説く仏教的世界観のなかでは、科学・技術や教育・訓練はどのように位置づけられるのでしょうか。

我々の生活の圧倒的な部分を占める科学や技術は、世界の恒常性に依拠して生み出されかつ利用されています。仏教がこの世界はたえず変化して寄る辺ないものであると考えるのだとすると、そのなかで科学(世界の恒常性の発掘)や技術(恒常性の利用)はどう位置づけられるのでしょうか。

とくに僧職のかたからの回答を歓迎・期待します。

(同様の疑問は人生や世界の一回性を主張する実存哲学などの現代哲学にも感じますが、今回は話題を仏教に留めます。)

科学・技術はすでに我々の生活の圧倒的な割合を占めており、その役割の大きさは隠れも無いものになっています。それを仏教的世界観はどう説明するのでしょうか。

さらに、世界にも自我にも恒常性を認めないのであれば、教育という営為、より主体的に言えば訓練(通じ的に利用可能な知識や技術の習得に労力や時間を割くこと)はどう位置づけられるのでしょうか。

A 回答 (7件)

 教育や訓練の位置づけについての回答を付け加えます。



 教育や訓練は、「空」に込められた諸法則の根源やここから派生する規則性を探求し、活用できるようにすると言うことだと考えます。

 私達人間は、空に込められた諸法則やここから派生する規則性のどこまで探求出来ているのか分かりませんが、未知の領域がまだまだありそうですね。
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 「空」は「むなしい」と言う意味ではありません。

アマチュアの宇宙論愛好者として、一つの解釈をご説明致します。同様の解釈をなさる方がいらっしゃるかどうかは分かりません。判断は、これをお読みになる方にお任せ致します。

 ご存知のように、2008年、南部陽一郎博士がノーベル物理学賞を受けました。博士が初めて提唱した理論の一つに「弦理論」があります。紆余曲折を経て、様々な研究者が修正を加えながら発展し、「超弦理論」となり、現在は「M理論」に発展しています。

弦理論 :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E7%90%86% …
超弦理論:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6% …
M理論 :http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96

 私たちがいる世界は、縦、横、高さの三つの次元からなる空間に、一つの時間が加わった四次元です。M理論では、この他に七つの次元があると言っています。

 そして、この四次元と七次元は、元々は一つの11次元世界でした。これが二つに分かれた時に起きたのが「ビッグバン」と言う宇宙創造です。(ここまでは、物理学の理論です。ここから先は、私が信じている一つの想像ですので、そのつもりで、お読みください。)

 この一対の関係は、ちょうど、「色即是空・空即是色」と同様です。
 私たちが認識でき、常に移り変わっている四次元が、「色」に相当します。
 直接は見る事も聞く事も嗅ぐ事もできないけれど、諸法則の根源が込められ、宇宙に普遍的に広がり、変わることがない七次元が、「空」に相当します。
 私達がいる宇宙全体の過去から未来まで無限とも思えるくらいの広がりを持っている四次元ですから、七次元は、それよりどんなに大きいかと思われるかもしれませんが、七次元には四次元的大きさはなく、極小の状態で四次元のあらゆる所に分散し、行き渡っています。

 この四次元と七次元の関係は、言葉だけでは説明しにくいので、参考までに下記のURLの図解説明もご覧ください。

表裏一体の色と空:http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page014.html

 如何でしょう、現代物理学の先端理論と「色即是空」は、とても似通っていますね。
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仏教はシステムを否定してはいません。



一定のルールの中、全ては一瞬も止まることなく変わり続けているといっているのだと考えます。心も物質も。

心のシステムをうまく利用して苦しみを取り除き、次いで悟りに導く。これが八正道という仕組みです。

科学は物質のシステムをうまく利用して、何かしらを構築する仕組みです。
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インド仏教の文脈でお答えします:



仰せの如く、仏教の(とくに中観学派は)「現象の無実体性」を説くのですが、かりに、修行者が、無実体性について、知識のみならず、宗教体験的認識(覚り)をしたとしても、世界の諸現象はなくなりません。これは至極当然のことです。

この世界の恒常性と言っても、一般の科学的真理などではなく、「存在論的に」恒常性が成立するならば、その永遠不変の「恒常的な存在性」の故に、この世界には、現象が起きないはずだ、という哲学的命題の文脈で「無実体性」が説かれます。

したがって、無実体性の把握は、現象世界の否定ではありません。しかも、(詳細は省きますが、)中観思想では、この世界は、究極的には無実体であるが、なおかつその無実体性に基づいて、この現象世界は現に成立していることを認めています。

その意味で、いわゆる現代科学に似た現象世界の法則性については、(おそらくセム系一神教よりも)明確に承認します。

重複しますが、「究極的には無実体であるが、その無実体性に基づいて、この現象世界は成立している」という立場に立つとき、むしろ、現象世界の規則性を学ぶことなどは、中観派やそれ以降の仏教諸学派では、重視されています。
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僧職ではありませんが・・・



>「永遠の真理とかいうものに捉われない」世界観は科学や教育とどうかかわるのでしょう。

 現代科学は西洋のキリスト教の思想を受けついで
いて、真理を追究するいう点で、キリスト教と
同じです。

 ただ、真理は客観的に実験で証明できるはずと
いう点で、真理はバイブルの中にあると考える
キリスト教と大きく違います。

 キリスト教はバイブルを信じるという信仰
であり、科学は1つのものに囚われず、
常に本当の真理は何なのか理論と実験を
組みあわせて考えて行くという理性に
基づいたものです。

 永遠の動かぬ真実などないという考えは、
すでに現代科学に影響を及ぼしています。

 物理の計算をするときに、変わることの
ない数として、定数というのを用いますが、
この絶対的とも言うべき、定数に対する
疑問から、エルンスト・マッハという学者は
音速の式を発見しました。

 空気中を伝わる音の速さは、定数ではなく、
温度によって変化するというものです。

>訓練(通じ的に利用可能な知識や技術の習得に労力や時間を割くこと)はどう位置づけられるのでしょうか。

 それについては、今大きな疑問が投げかけられて
いるものと思います。
 かつてそろばんが必要だと教育されて、頑張って
そろばんを習得したも、今はパソコンができないと
話にならないということになり、ある意味矛盾が
生じています。

 これが基本だと言われ、自分でよく考えないで
そに従い勉強することは、広い意味での信仰です。

 利用可能な知識や技術の習得についても、
本当に自分の人生に何が必要なのか考える、
理性的判断から教育していくことが求められて
いると思いますが、学校の対応はそれに逆行
しているようです。
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>で、「永遠の真理とかいうものに捉われない」世界観は科学や教育とどうかかわるのでしょう。



 もともと仏教は宗教であり、人間の心を救済するものです。それは現代の科学や教育(つまり俗世間のはたらき)とは無関係なものです。

 ただ「永遠の真理などに捉われない」という考え方は、科学の、科学そのものを固定的に考えないで、既製の考え方を疑い批判しながら、進歩し続けていくのとよく似ているように思います。

 ただし似ているのは両方とも人間が考え出したものだからで、本当は偶然かも知れません。面白いですね。
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「現象の無実体性」という言いかたは誤解を与えやすいですね。


 科学や科学技術が対象としているモノに対して実体が無いといっているのではありません。
 仏教はすべての現象は固定的でない、つまり流動的で永遠ではないということと。
 すべてのモノは部分品でできている、そして全てのモノは何かの部分品である。ということを言いたいわけです。
 これは部分品でできていないモノ、永遠なるモノ、を否定しているわけです。それはたとえば神とか永遠の真理とかいうものに捉われないこと、それらから自由になることを教えていると思います。
 以上のようなことも、絶対の真理であると主張して、自分の言ったことにとらわれてしまうと、反対の考え方の人と論争になり、自爆テロなんかに走ったりして、安らかな人生がおくれなくなってしまう、というわけです。
 それで自信はいつもナシです。
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この回答へのお礼

有難うございます。

で、「永遠の真理とかいうものに捉われない」世界観は科学や教育とどうかかわるのでしょう。

お礼日時:2004/04/01 21:18

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