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お世話になります。
現象学について、いま一つ理解できません、質問も整理が出来ないようです。
個々に感じる疑問を羅列してみますが、誤解している点を指摘していただけると幸いです。
1)現象学は、感覚が絶対的なものではなく、したがって、認識を放棄して、現象を本質直観により現象学的還元を行い、人間にとっての有用性を、考察することとすると、
これは、遠回りして、物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。
2)個別諸科学も、最後の観察によって(コンピュータで解読された数値を読み、二重螺旋を顕微鏡・あるいは模型で確認する)その絶対性に、疑問が表れます、経験によらない知覚が無い以上、フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません。
3)我々の知覚が相対的で、生きるために与えられた器官だと言う事は、理解できるのですが、それでも私は尋ねてみたいものです「光は有るのかと」
不出来の質問で、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
以前「脳の中の幽霊~」でお答えしたものです。
私がせいぜい答えられそうなのは1)だけです(勉強不足です)
>物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるの
でしょうか
うーん、ニュアンス的にはそんな感じだと思うですが、「戻る」と
いう表現は私には新しいです。
本質直観は言われるように、現象学的な還元を行って、できるだけ
憶見(ドクサ)を排除した側面(不可疑的な側面)を取り出すこと
によって、確信成立の条件を探す方法です。
ドクサを排除するために、物質と表象を「ノエシス-ノエマ」、又は
「内在-超越」の構造によって整理します。
※ノエシス-ノエマの構造のポイントは、「現に知覚されている
もの」と「そこから思い込まれる全体像」という対比、
内在-超越の構造のポイントは「疑えないもの」と「疑えるもの」
という対比です。
よって物質と表象を分ける前ではなくて、物質と表象の構造を分け
た後だと思います。
ご存知かもしれませんが、現象学の還元方法のルールとして、
「自分の感覚や、五官を疑わない」というものがあります。
これは結構重要なところで、デカルトのコギトとは一線を画す
ルールです。
フッサールはこのルールの説明として、「もしこの感覚や五官すら
疑わしいものであるなら、人間は現実についての、どのような
確信すらも成立しえない」というところに基軸を置いています。
…なかなか言葉で説明するのは厄介ですね。自分が如何に理解して
ないかがよく分かるというものです。
2)や3)については他の方に頼らざるを得ません。
すみません。
とんでも有りません、ご回答有難うございます。
>ご存知かもしれませんが、現象学の還元方法のルールとして、
「自分の感覚や、五官を疑わない」というものがあります。
ありゃ、全然知りませんでした。
それで、
>「もしこの感覚や五官すら疑わしいものであるなら、人間は現実についての、どのような確信すらも成立しえない」
私は今この状態ですね(笑。
No.14
- 回答日時:
3)ですが、『光はあるのか』ですが、本質と実存についてでしょうか。
光というもは人間が明るいと感じるので存在しているのか?
「いいえ」ですよね。
人間が光の本質をだいたいにおいて定義する前から存在しています。
重力だって人間がその存在を発見する前から存在していたし、その本質 つまり定義をあらかた決める前からあったエネルギーです。
ところがペーパーナイフ。
これは人間が本質 つまり定義をしないと実存しません。
神、人間がその本質 つまり定義を決めないと実存しません。
人間が知覚できないものは星の数ほどあると思います。
しかし、それらを知覚する能力が無いことが人間の実存を危うするほどの影響を与えてはいないと思います。
危ういのならとっくに人類は滅んでいたでしょう。
逆にいうと、便宜上 今の知覚は人間が生活を営む上で必要になり進化して現在に至っているのかもしれない。
人間の記憶を増幅させる一番の薬品はサリンなんだそうです。
サリンを浴びた人は今も常に脳に過剰のアクセスが起こり、心がボロボロになっているそうなので、今の健常者のアクセスの度合いが、一番環境に適合できるレベルなのだと思います。
それ以上知覚が進むと狂気や混乱の世界を見て、短命になり、やがて人間は滅ぶかもしれないし。
と、我々の知覚が相対的である程度は今の環境にあっており、「ひなたぼっこをして 確かに暖かいと感じるけど それでも光は有るのか 実体は感じ取れない」と思う程度が一番環境に順応できているのではないかと思います。
確か映画にπ(パイ)ってあったと思います。
ああなってしまうと、とても日常生活は営めないと思うので、ちょっとお馬鹿程度で知覚が鈍い方がいいんじゃないかと。
ご回答有難うございます。
>3)ですが、『光はあるのか』ですが、本質と実存についてでしょうか。
皆様に誤解を与えてしまった、不出来な質問でした。
光を現象学的に還元してしまうと、見失うものがあるのでは、といった疑問です。
生活世界を誤解すると、このような疑問が出るのかもしれません。
単純に、生活世界を、現象するままの世界、と考えた、「ちょつと」以上のお馬鹿さんでした。
サリンについては、興味深いことを有難うございます。
私もたまには、フィクションの世界も覗かないと、ダメですね。
大変参考になります、有難うございました。
No.13
- 回答日時:
手元に講談社メチエのシリーズ『フッサール 起源への哲学』(斉藤慶典)があるのですが、そこに「生活世界」についての記述があります。
わかりやすく書かれているので、そこから引用しつつ、まとめてみます。もし興味がおありでしたら、ぜひご自身でご一読なさってください。二次文献的知識は必要ない、というのでしたら、どうか読み飛ばしてくださいね。
まず、この本では「生活世界」の説明がこのようになされています。
「近代科学の成果と成功が圧倒的であるがために、ともすれば私たちは近代科学が捉えた世界の姿こそ世界の真の姿だと思い込みがちである。だが、それらは、いわばみずからの「前身」をもっているのであり、その「前身」の内にみずからの真理の起源を有しているのである。そこでフッサールは、近代科学とは何であり、いかなる構築物であるかを理解するためには、それらがそこから生まれてきたはずの次元へと、いったん還帰しなければならないと考える。…つまり「生活世界」とは、まずもって科学的世界の基盤をなしていながら、私たちのもとではすでにその科学的世界によって覆われてしまっている世界のことである。」(同書p.239)
こうしてフッサールは「生活世界」を覆っている科学的世界の成立に、決定的な影響をあたえたガリレオの考察に移っていきます。
まず、科学に先立つ「生活世界」のなかから、どのように数学という純粋に理念的なものが「発見」=「構成」されたか。
私たちの直接の経験世界にあっては、「机の上がすべすべしている」「この石は丸い」といった「形態学的類型」として捉えることはできても、そこから「平面」「円」といった「純粋に数学的=幾何学的理念」へは、一種の飛躍が必要です。この飛躍を、フッサールは「極限化」と呼びます。
この「極限化」によって思考された「平面」「円」は、私たちの知覚的経験世界に対応するものはありません。つまり、ここで新たな世界が「発見」=「構成」された。
この新たな世界での言語によって、私たちの経験世界を読みとることができるのならば、それがどうして可能になったか、が、まず明らかにされなければなりません。
しかし、ガリレオはそれをしなかった。
自然を数学で読みとったらうまくいったことで満足し、つぎつぎに進んでいった。
うまくいった、というのはどういうことか、とフッサールは問います。
経験世界を単に数学的理念世界の「近似」とみなしただけではないのか。
つまり「私たちの経験世界が数学的な〈理念の衣〉によって覆われた」。
さて、覆われた、隠蔽されたものは、暴かれなければなりません。
この机が「素粒子」からなっており、そのふるまいは数学的な確率によって捉えられるとしても、私たちが見ているのは見えているとおりの「机」であって、素粒子の確率的表現ではありません。
つまり、ここで言えるのは、科学的世界は、生活世界のすべてではない、ということです。
けれども、生活世界のなかから、見出され、構成された科学的世界は、なによりもそれがもたらす成果が、私たちの経験世界においても重要な役割を演じている。
つまり生活世界は、みずからが新たに産みだした科学的世界をみずからの内に「沈殿」させている、ということになる。
ちょっと待って。
科学的世界というのは、生活世界を基盤として、別個に生まれたものでしょう?
たとえば机の上に本が載っているところを考えてみましょう。
「机」が生活世界、「本」が科学的世界、ということになりますね。
とすると、生活世界が科学的世界を「沈殿させる」、ことばを換えると包括している、というのは、おかしいんじゃない?
包括する、そのなかに含む、ということは、結局は地続きの、同じ世界ということになるでしょう? 「机」のなかに「引き出し」がある、この「引き出し」は「机」の一部、と考えられるけれど、「机」と「本」のように別個に独立しているわけではない。
「基盤」としながら「包括する」? この矛盾はどう考えたらいいの?
フッサールはこの矛盾は、両者をすでに構成された「もの」(ノエマ)としての世界と考えるから生じてくる、と考えたんです。
生活世界は単にノエマではない。「世界」とは、単に存在するすべてを寄せ集めた「総体」に尽きるのではなく、そうした存在者を構成する「はたらき」(ノエシス)を内に含んでいる。
ここで、「地平」、「キネステーゼ」と重要な概念が出てきますが、これをまた説明し始めると大変だし、わたしよりそれには適任の方がいらっしゃるかと思うので、そちらに譲ることとして、ここでは一気に結論にいきます。
つまり、フッサールは科学的世界を還元することで、私たちの知覚的な世界を中核とする直接的経験の世界である「生活世界」を明らかにしなければならない、と考えたわけです。
けれどもそこでも形態学的理念(「すべすべ」「丸い」)というかたちで「理念」は構成されている。この段階での生活世界がすでに構成された世界(ノエマとしての世界)であるかぎり、真に基盤としての世界ではありえない。構成されたノエマとしての世界を手引きとして、それを構成するはたらきであるノエシスへと遡らなければならない。生活世界をあらためて「超越論的エポケー」が必要であり、「超越論的主観性」の世界へと進まなければならない。
これでなんとか
>フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません
という問いの回答になったでしょうか。
なにか読書メモのような回答になりましたが申しわけありません。
わかりにくいところ、おかしいところ、どうかご指摘ください。
日々の断章
クロッキー(習作用の安価なスケッチブック)に、2Bの鉛筆を使って
線を重ねて、均質な面を創り、その面の外延に、また、線を創っています。
物を描こうとするより、この方が、気分転換には、効果的なのです。
面が広くなるにつれて、均質な面を創るのは、段々と難しくなります。
無心になって、線に線を重ね、鉛筆を動かしていると、
「物には輪郭線はない」
誰に聞いたか思い出せない遠い記憶がよみがえってきます。
苦し紛れの「オトボケ」読まれてますかな?
No.12
- 回答日時:
こんにちは。
フッサールは読んだことがないので、2.はわかりません。
全体に典拠としているのが、わたしがどこでも引っ張り出すイーグルトンの『文学とは何か』です。
>物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。
素朴な直観、ではないと思います。
fishbowlさんが現象学的還元という操作をしたと仮定します。
すると世界は素朴な実在であることをやめ、純粋な意識的生の流れのなかに現れるがままの「現象」となるのです。
つまりいまわたしたちが持っている、素朴実在論的な、実体的世界像をいったんぜんぶ取り払って、疑うことのできない純粋意識から出発して、どのように「現象」から対象的世界が意識のなかで作りだされているのかをあとづけようとするのが「エポケー」ということなんです。
素朴な直観というのは、ものにすべて実体がある、という感覚ではないんでしょうか。
わたしたちが「現実」と呼んでいるこの世界が、あたかも実体を持って実在している、と漠然と思っているのが「素朴な直観」であるとしたら、こういうものこそ、取り払われるべき感覚なんです。
以前の認識論では絶対的な客観世界は存在すると考えられてきました。
これが存在する限り、どこまでいっても「正しい認識」という問題はついてきます。どうしたら「正しい認識」ができるのだろうか。
そうではなく、現象学がやろうとしたのは、意識のなかに構成される世界を「ありのまま」に記述しようとすることなのです。
どうでしょうか。こんなところで。
3.>「光は有るのかと」
わたしたちが「光」と呼んでいるものは、それ自体として出現するものではありません。人間の主観に対して出現するのです。わたしたちは闇がなければ光を認識することもできません。世界のなかから「光」と呼ぶものをとらえ、闇でないほう、と切り分けてきて初めて、光は存在するんです。
単純化し過ぎたかもしれません。わかりにくいところがあれば、補足お願いします。さらに、変なところに気がつかれた方はご指摘お願いします。
お世話になります、
判り易いご回答をいただきながら、
自分の理解不足について考えているうちに、
(2についても、ご回答いただき、益々、お礼が遅くなりました。
お礼が、出来るだけ長くならないように、むちゃくちゃ大胆に(笑。
カントが、観念論的に、物自体を認識できないものとし、ベルクソンは、物質としての知覚と、精神としての記憶をいわば和解させ、フッサールは、記憶の中から「理念の衣」を剥そうとする。
(1(2の問いかけには、ある程度の理解は出来そうですが、そうなると、記憶の中に「理念の衣」とそれ以外のものが在ることになる?
私は、この様に考えながら、自分の意識の中に益々言葉を使わないとなぜ考えられないのだろうかという疑問が拡がって来ます。ご回答者様に以前ご紹介いただきながら、結局いまだに読むことのできない丸山さんの書名を記した付箋がチラチラします。
この様な状態では、現象学は簡単に要点を拾ってパス出来ませんね、それこそ「エポケー」して、言葉のことを先に考えてみることにします、なにやら遠回りばかりで、本当に山頂に向かっているのかと、不安は有るのですが。
光について、伝えられなかったことがありますので、少し書きます。
光のことを考える場合、私は最初に、光合成のことから考えます。
生命の食物連鎖から考えれば、
私たちも光をエネルギーとして、生存しています。
ある意味では、比喩ではなく、私たちを「光の子」と言えるかもしれません。
現象学的還元が、この事を、過小に評価しているとすれば、
生命倫理学の「危機」(笑。
そんなことは無いのでしょうが。
勉強になります、有難うございました。
No.11
- 回答日時:
全体の大きさが解るから
素粒子
もしくは
量子として
認識できるのだよ.
重ね重ね、ご回答、有難うございます。
不出来な質問ですが、質問に対する質問には、お礼を割愛させていただきます。
さて、なぜ、この様なすれ違いが起きているのかは、
「光は有るのか」この記号が、質問者と回答者様の、個別な記憶とつながり、まったく別の印象を与えていると考える以外に説明のしようが無いように思います。
まさに、理解不能でしょう。
質問に戻ります。
全体の大きさが解るから・・・認識できるのだよ。
これは、超弦理論から結論されるのですか、
最後の認識は、結局、人間が感官を使用しせざるをえないはずですが。
もし、ご回答者様の、誤解であれば、不出来な質問をして、誠に申し訳ないと考えます。
通常、この質問は、締め切るのが常識ですが、
実は、現象学をパスして、その先に進みたかったのですが、勉強不足もあって、この問題に大きな誤解が有った様で、もう暫らく待つことに致します。
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