家の中でのこだわりスペースはどこですか?

昨日と今日は違うがそれを証明することはできない

ベテラン俳優は子役時代と60歳とで演技が変わってくる

あたりまえだ

砂浜で立っているだけで絵になった110cm程度の男の子が、
数十年すれば2m近くの髭面の男になる

こうやって明らかに見た目が違うのだが、

あくまでも資料の中から、彼の存在を証明することになる

写真や映像、雑誌等々

それらが存在しなくなれば、人がいたのかどうかもわからなくなる

他の話で言えば、

たとえばこの世界が5秒前に存在したのかどうかは証明できない(世界5秒前説)

あるいは、ビーカーの中の液体の温度は常に環境に影響を受け変化し続けている話(苫米地英人博士の書籍から)


このように、世界は常に変わり続けている

いちいちこういったことを考えることはできない、そしてしていない


何が正しいのかがわからない

いちいち正しさについて考えていられない

過ぎた時間はもはや存在しない

今この瞬間も時間は過ぎてゆく

いちいち正しさについて考えていられない

考えてるうちは何も物事は進まない

全部頭の中で話が浮かんでは消えるだけだからだ


今現在まで考えてみたけど無駄だった

だから考えるのをやめる

考え事をしていたらすぐに別のことをして強制的に思考を止める

考えるのをその場でやめる

でもよく考えたらこれは考えた結果の考え方だ


現在、わたしはこのようなことについて思いを巡らせています。

こういった思考に陥った時のその後の人生の流れについて、ご教授賜りたく存じます。

A 回答 (5件)

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カーズ
声 - 井上和彦[3]

しかし、新たに得た「波紋」でジョセフに止めを刺そうとしたところ、彼が無意識に掲げた赤石によって増幅させられた波紋エネルギーが火山のさらなる噴火を誘い、噴出された火山岩に押し上げられて宇宙空間へ放逐される。体内の圧縮空気の噴出による反動で地球への帰還を試みるが肉体が凍結して失敗。不老不死ゆえに死ぬこともできず、最終的に生物と鉱物の中間の物体となって思考を停止し、永遠に宇宙空間を漂うことになる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/戦闘潮流


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なんだかもう疲れたよ。
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神は人として恥じない知恵と人の額に希望という刻印を与えられている。


信ずるも信じないもその人しだい。
疑問に思って理解するも理解しないで信ずるも信じないもその人しだい。
町に出でよ。目に入る者すべてが悩み苦しんでいる。
あせらない、怠けない、飽きない。
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No.1 補足


>そして今私は、強い影響力を持って現代を支配しているのはなんなのだろうという疑問があります。わたしは世の中に対してどんなアプローチをとっていけるでしょうか。

先に述べたように、私たちは、見えない秩序を理解しようとする場合、何らかの概念を構築し、それを通して眺めるしかありませんが、重力の例と同様、範囲が広ければ広いほど、概念の制御力が著しく低下します。物理学のような完成された極めて制御力の高い領域でさえ、統合よりむしろ細分化されているように、具体的にターゲットを決めないと無為な時間を過ごすハメになります。「現代を支配している」では広すぎますね。

「何を専門とし、現実の活動をするか?」は、自分で探して決めることです。科学が非常に素晴らしい進歩を遂げた結果、科学者でさえ、自分の専門外は素人同然になっています。趣味の学問は、所詮、趣味の学問。制御力をほとんど持ちません。昔の村長さんのような「俯瞰的な姿勢」は、もう取れない時代と言っても良いのかもしれません。これが科学でも政治経済でも不確実性となって表れています。

社会的な意味での不確実性は、多分に市場主義が強まっていることに起因していると思います。市場とは、そもそも未来を予想し得ない、あるいは概念構築をして説明できるとは限らない、ということを含意していますので、「現代を支配しているのは、不確実性」と言えなくもないですが、これではとても広いですね。不確実性をターゲットにしても多岐に専門は分かれています。

「悩み」について1つアドバイスしておきましょう。街を想像してみてください。小さな家がぐちゃぐちゃに林立する都会の下町も街なら、碁盤の目のように整然としている京都のような街もありますよね。前者は市場的、後者は設計的とも言えます。貴方が悩むのは「設計的」だからです。だからこそ「現代を支配しているのは」と言った視点を持つのです。市場的なアプローチをとる人であれば、未来などわからないのだから、考えるよりまずやってみろ!的な姿勢でしょう。

設計的な人生の美を強く求める人は、学歴や職歴が「他人から十分な承認を得られるもの」になっているはずです。あるいは設計的であるからこそ自分が醜悪だと感じ、劣等感を抱いているでしょう。苫米地氏は、その心理を巧みに利用して、自己啓発分野で利益をあげているわけですよね。(学者としての功績ではなく、学歴ばかりがずらずら並ぶのが、いわば設計的)でも、これは市場的な人生の美ではありません。小さな家がぐちゃぐちゃに林立しているというのが、市場主義における多数派の人生になります。20代と30代の整合性がない人なんて山ほどいるでしょう。自然科学エリートでも、今時だったら、大学院で原発研究をしたけれど、全く別の分野に就職せざるを得なかった方も多いはずです。このような整合性の無さが、市場主義下では当然のごとく起こります。よって設計的な視点で自分を見ると、その醜悪さに悩んだり、劣等感を強く抱いたりするかもしれません。

良く「勝ち組・負け組」という言葉を使う方がいますが、人生の整合性が取れていれば、こうした言葉は意味を持たないはずです。もっと素朴な人生を歩めるでしょうしね。農民に生まれたら一生農家をやって、それを誇らしく思えるはずです。他人から認められなくても、綺麗な夕日をみるだけで報われるかもしれません。しかし、社会制度や価値観がコロコロ変わる市場下では、多くの人が自分の人生の整合性が取れず、矛盾をはらみ、組織の中では私人格を殺さなければならないでしょう。だからこそ「人生の勝ち負け」という無意味なことに意識が向き、それをよりどころにしなければならないほど、生きることに誇りを持てないのかもしれませんね。

要は人生が綺麗なもの・整然とした秩序のあるものだと洗脳されているだけですよ。だから悩むのです。危険なジャングルを探検していて立ち止まって悩んでいたらヤバいですよね?。ああいうところで「うつ病」とかになっている暇ないのでは?(笑)
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NO.1について。


凡人には無い批判心があってよろしいのだが、後半は崩れているのに悦に入っている。
しかし、後半の概念が真理な訳がありません。、は的確である。
概念は所詮である。

質問についてはいろいろと人生には悩みがあるから。
時の利、地の利、人の利があるから。
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「概念」というものが理解できていないだけでは?。



例えば、重力は「存在しません」よね?。電子の質量は、重力の法則に反しているけれど何故?。重力は「説明概念」です。適用範囲を定めれば、実用に耐えうるだけの制御力を持つ概念ですから利用されています。「存在するかどうか」など問題視しなくても科学はやっていけます。ここを問題視するのは「哲学」になります。数学は証明可能な領域が多いけれど、日常性を相手にする科学領域では、概念が正しいか証明することはできません。「どのくらいの予測・制御能力があるか?」あるいは「既存の予測・制御力が高い概念との整合性がどうか?」が問われている部分です。それが限界という訳です。

日常性を相手にする科学は、「同型性を確認しているだけ」です。例えば、ペンがあり、長さを定規で測ります。これはペンと定規の同型性を取っただけであり、定規が正しいかは無視されています。研究室で用いられる測定器の精度は、きわめて高いので「日常性」から言えば疑う必要はありません。しかし厳密な科学という意味では、そもそも科学では真理などには辿り着けませんし、真理など必要としないのが科学です。(そもそも真理って何?)

言葉や記号を使う思考は、証明云々の前に、言葉で切り取った時点で恣意的であると言うのが20世紀初頭の文系分野の科学です。いわゆるモダンですね。ポストモダンとは、この問題にさらに切り込んだものです。例えば、黒から白の間にある灰色について考えてみます。そもそも純粋な黒とか白は、人には見えません。灰色は、このグラデーションを分ける行為ですが、そもそも分かれていません(笑)5段階に分ける、10段階に分ける、これが数学で裏打ちされていたとしても、実用性に合わせて区切っただけで恣意的な分類です。

また「醜いアヒルの子定理」のように数学的に考えると、モノの類似度はすべて同じになってしまいます。これは数学で証明されています。例えば、リンゴAとリンゴBの類似度は、リンゴAと自転車Aの類似度と数学上では同じになります。よって、すべてものは同等の類似度になるので、分類して比較するって「恣意的」じゃない?ってことになります。まあここをどう解釈するかは見解が分かれるところですが、科学はあくまで人間世界の概念に過ぎないので、人間にとって重要かどうかで分類すればいいんじゃないの?(恣意的)とか、認知的な特性とか、いろいろ解釈はあります。

多くの文系科学、あるいは分類し難い自然科学領域(特に医学)では、恣意的な分類であることを認めつつも、分類の方法を明確にし、分類したもの同士を比較検討します。これが「構造」です。まさに文系分野における「概念」ですね。でも言葉や記号で世界を切り取った時に既に恣意的なのだから、そもそもこの概念が真理な訳がありません。概念が有益だとしたら、それは役立つかどうか?です。ここで昔の哲学のように役立たなくてもOK!ってなると(笑)貴方の頭の中と同様になります。この混沌は、決して悪いものではなく、むしろ混沌な状態こそ、現実に対峙していると言えるかもしれませんし、整然と区切るのは厳密に言えば「インチキ」です。

現在の科学研究は、役立たないと研究費が出ないので、インチキくさい研究が目白押しです。STAP細胞なんてカワイイものかもしれません。貴方が今思考しているのは「趣味の学問」とし、現実をとらえる概念は「制御力で決まるもの」とし、より優れた制御ができる概念が現れたら消えていくものと考えて良いでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとう

はじめまして、こんばんは。

>貴方が今思考しているのは「趣味の学問」とし、現実をとらえる概念は「制御力で決まるもの」とし、より優れた制御ができる概念が現れたら消えていくものと考えて良いでしょう。


「何がこの場を支配しているのか見極めればいいのだな」と考えられるようになり、

正体不明のもやもやが消え、とても晴れやかな気持ちになりました。


そして今私は、強い影響力を持って現代を支配しているのはなんなのだろうという疑問があります。

わたしは世の中に対してどんなアプローチをとっていけるでしょうか。


このことについてご教示賜りたく存じます。

何卒、よろしくお願いいたします。

お礼日時:2017/06/17 19:26

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