No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
詳しい議論は知りません。
あえて 次のような経験事実を挙げてみます。なぜならその経験事態において あたかも先験的な(超越論的な)事象が与っているように思われるからです。
○ うそをついたり偽りをおこなったりするとき ひとは こころにやましさを感じる。(慣れっこになっている状態の以前には このような経験事態をほぼ誰もが持つと言えるでしょう)。
○ 次の事例は必ずしも上の《うそ∽やましさ》といった一筋の相関関係にあるとは限りませんが それでも ひとによっては恥づかしいという思いにつれて 顔が赤くなります。あるいは 恥づかしいという思いを覚えるより前に 赤面や吃音といった身体の変化が生じることがあります。
○ わたしたちはかなり面の皮が厚いようで やがて慣れっこになると このような顔のほてりややましさにうろたえるといった経験を隠しおおせるようになりますし それどころかこれを操作して都合のよいように見せかけるという演出さえするようになります。
○ それでももしそのようであるなら 何を隠そう そのような自分の中での制御や操縦という事態そのものが 初めの《うそ∽やましさ》にかかわる良心の問題を――ひとの先験的な自然本性の問題として――語っているのではないでしょうか?
☆ 論証しえぬまま 公理としてよいのではないでしょうか? 新知見やあたらしい理論が出たなら そのときに考え直しても遅くはないというべき事態ではないでしょうか?
言いかえると このような単純な《良心・信教の自由――ないしひとの自由意志――》の命題を互いに共同の主観として共生していくことに特別の間違いはないし 差し支えはないと言えると考えます。
というのは 哲学の詳しい探究は――むろんこれを自由にいとなんで行くのですが―― いま現在この公理をもとにして社会生活をいとなむ過程においてこそ 進められるべきだと考えられるからです。
言いかえると 経験論による命題にしろ超越論的な生得観念などの命題にしろ それらの認識が先行するのではなく いま・ここの実践(生活)が先行すると捉えなければならないと考えるからです。この先行性は 時間的なそれであるよりは 考え方の上でのそれです。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
まず、先験的自然本性についてなのですが、これを「超越的」であると同義とすると、生物学が言うところの「本能」以上の意味を含むということと思われます。そして、私はそれを論理的に否定しうると考えています。
自我(理性とも言えるでしょうか)の発達の始めに、言語の獲得があり、言語の獲得にあたって自己自身を対象とする(自分の言葉の意味を理解する)必要があります。この「対象としての自己」は、一般的他者すなわち社会的共通認識を反映したものであり、その意味で自我の成立と自己の社会化は不可分です。
そうすると、コミュニケーションの秩序があたかも先験的な倫理的要求であるかのように我々の自我あるいは理性が感じることも当然で、倫理的要求を考えるにあたって超越的概念の導入を行うことは誤りだと思えます。
それで、人間の倫理的判断は快不快を分別する「本能」と記憶能力以外の何物にも依存せず可能という考えを持つに至ったのですが、どうでしょうか。
上手く言えないのですが、リアリティに左右される実践にはとても誤解が多く、しかし我々は自らその誤解を除くことができます。人間の精神活動の成り立ちを理論的に体系化することの意味はそこにあって、雷の正体が電気だと科学が暴いたのと同じように、余計な解釈を避けた理解のあり方、客観知を示すことにあると思います。
経験論と合理論あるいはカント哲学との「止揚」は、上のような社会心理学・社会哲学の発展を経て現代に至って更なる段階を見ようとしていて、当然ながら哲学はそれを追究しなければならないはずだというのが私の感想です。ですから「とりあえずの公理」という着地点(妥協点)はまだ先にあると思うのです。
専門知識もろくにない初学者ですので、用語の扱い、論理展開に不備もあるとは思われますが、よろしければお付き合いくださいm(__)m
No.8
- 回答日時:
Hidocchiでございます。
ご心証を害する表現をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
小生も深く反省致しております。
この場をお借りし、深くお詫び申し上げます。
??
いえ、hidocchiさんが謝罪するようなことは全くありません。前の回答のお礼が遅れてしまったのを気になさっているのであれば、反対にこちらが申し訳なかったという思いです。
前の回答に関しては、私としてもhidocchiさんの疑問、問題の切り口を追究したいと思った次第です、参考になる回答をありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
>ざっと調べたところ、不完全性定理は数学(あるいは経験的知識体系?)が最後の最後、まさに真理としての完成段階において自身の無矛盾性を証明できないという点で強烈なインパクトを残しましたが、それは体系自体の欠陥を示すものでは断じてないように見えます。
確かに、仰るとおり、”この証明だけ”では欠陥を示すものではございません。ただ単に、完全性を証明尽くせないというだけかもしれません。
ですが、それは現時点のことであり、「微細な欠陥」により、一気に”崩壊”の危険性が絶対存在しなとは断じることはできるのでしょうか。つまり、「今後未来永劫矛盾が見つからない、またそのようなことは起こり得ないということは決して断言できない(前述の数学ノートからの抜粋でございます)」のではないでしょうか。
>言わば盲点と視界全体との関係のようなもので、原理的というか構造上、あるいは本質的に避けられないがしかし微細な欠陥であるに過ぎないというように思います。
今回は”数学”の問題でしたが、では、現在も悩ましている”経済学”に分野を移してみたいと思います。
ブラックショールズ方程式なるものがございます。
これは、ロバート マートンにより、数学的に”証明”されたと言われています(その業績により、1997年ノーベル経済学賞を授与されています)。
しかし、この方程式により、以下の不測の事態を生じさせたのも事実でございます。
1 ブラックマンデー:この方程式によるコンピュータの”誤(?)操作”により、発生したというのが、要因の1つとして挙げられています(現在では、通説かと.....)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ブラックマンデー の”要因”の箇所をご参照ください
2 LTCMの崩壊:これは史実でございます。その救済には多額の費用が費やされました。
3 サブプライムローン問題を端とする、金融危機(以下をご参照ください)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=642125
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20090103/taleb_ …
この ”厳密に証明された” 方程式なるものが、一般市民にまで、甚大な被害を被らせました。
これらは、単に数学の「微細な欠陥」によるものかどうか、もしくはこの方程式を導くにあたり、その前提とする経済学上の”定理・法則・公理”に起因するのかどうかは、小生にも判断できませんが、被害を与えたことは史実でございます。
>アプリオリな形式・様式についても、やはり自我発達の社会的性質に還元可能であり、超越論的哲学の展開には至らないと考えます。
デカルトの有名な言葉「我思う、故に、我あり」は、今この世界が(”我”がある世界が)、たとえバーチャル世界だとしても、これだけは断言できるものである。と小生は解しております。
では、この”我”と感ずるのも、また”思う”ということも、社会的性質に還元可能であるということでしょうか。これは恥ずかしながら、小生にも未だ決着がついていないところでございます
ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。
No.6
- 回答日時:
経験論の原理的問題点ということですか。
齢60がまじかになると確かに経験論だけでは説明できないことが多すぎますね。
小中学生までは様々な能力や知識なども五十歩百歩なんですが年を重ねるにつれ努力や経験だけでは説明ができない差異が出てきますね。
学者になるものは多いですけどノーベル賞、フィールズ賞をとるような学者になれる人はごくわずかですし、殆どがサラリーマンになっても社長になりたい、なれる人はごくわずかですし、画家や音楽家、全ての分野で明らかな差異が生まれてますね。
経験と努力の多寡だけではこれほどの差異は出ないはずですね。
ここに生得を感じずにはいられない現実が存在しますね。
誰でも努力と経験でカントやヘーゲルになれるのなら、カントやヘーゲルだらけになっているはずですね。
経験論でいえばヒュームにはなれるかもしれませんが、現実は生得慧が大きく影響して差異が生まれているように思いますね。
回答ありがとうございます。
mmkyさんの指摘により、私の立場をより明確にできるように思いました。
私は「生得」のものがあるということは自明だと思っています。ただ、私はそれを唯物論的に解釈しているだけなのです。才能は、脳と、感情に関わる分泌物、そして経験をもたらす環境が決定しているという考えです。
No.5
- 回答日時:
ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
>hidocchiさん(硬い言葉が得意でないので、「さん」で呼ばせて頂きます。失礼でしたら済みません。)
どうぞ。OKですよ。
>仰られている数学あるいは論理の限界についての問題は、帰納的論証の反証可能性に当てはめて考えてよいでしょうか。
はい、数学の限界の問題は当てはめていただいても結構かと考えています。つまり、ここでどうして数学、特にゲーデルを持ち出してきたかと申しますと、彼の”不完全性定理”が、数学よりも、哲学(主に認識論)に与えた影響が強いからでございます。
また、ヒューム自身が「ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立の過程をそのそもそもの源泉を問うというやり方で問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めた」とされていますが、その数学も「非常に不安定」な状況下にあるということです。
>求めているのは経験論哲学への反証のみだと考えて頂いてよいです。
承知致しました。
>カントの言葉を借りれば、独断の眠りに落ちない、そうした哲学がどこまで行けるかを確かめたいのです。
上記ご質問を、「ひとが、学問(もちろん、数学、哲学を含みます)がそれらを用いて、どこまで、対象を”認識”可能なのか」と解して、特に”数学”に主眼をおいて、述べさせていただいた次第です。と申しますのも、おそらく、”数学”は仰られる『 独断の眠りに落ちない』という前提に立っているからでございます。
>もし話が噛み合っていなかったら、済みません。
おそらく、噛み合っているかと存じます。
> 例えば合理論や観念論における「論証できないが公理として扱う」という態度は、経験論におけるそれとは別物だと思われます。
どうしてでしょうか?
つまり、ゲーデルが証明したのは、簡単に申しますと、「ある公理系(例えば、数学です)では、どうあがき苦しんでも、証明できない”命題”が必ず1つは存在する」とうことです。
ということは、 「ひとが、どこまで、対象を”認識”可能なのか」もしくは、「知の完全性という点について、”限界”が示されたしまった」
ということに対して、1つの回答を与えたからでございます。
上記の内容でさらに追加させて頂きます。その前の2つばかり、ご質問させていただきます。
「 ∞ × 1」はいくつでしょうか? さらに、
「 ∞ × 1超の1超倍」はいくつでしょうか?
小生が知る範囲は共に、 ∞がその解かと思っています(少なくとも、そう教えられてきました)。ですが、これを観察したのはいるのでしょうか?
おそらく、今までの”経験”から、そう考えたからではないでしょうか。つまり前述しましたが、「小学校を卒業すれば、誰もが自然数の足し算やかけ算を扱えるようになる。我々の社会はそれを基盤にしていて、しかもそのことによる問題は全く起こっていない。」という”安心感”から、そう考えているのではないでしょうか。
つまり、”数学”も「経験」則の範疇からは、脱してはいないということです。
>哲学がなすべきはまず、自明な事実からのみで人間理解を打ち立てることであり、ですからまず経験論の限界を見ることなしに超越論を用いてはならないのではないでしょうか。
経験論の限界は見えているようには、小生には思えるのですが.....
もちろん、哲学(はっきり申しまして、数学同様、厳密な学問との前提でございます)からは、経験論の限界を知らずして、もしくは除外して、トンデモナイ超越論を用いてはならないのではない。と小生も考えております。
>「叡智の世界」の理論を射程にいれる”先験的観念”を導入する必要がないのではないか。
小生には、「”先験的観念”を導入する」ことなしに、「本能」でことが足りる、とそう仰りたいのかと推察致しました。
では、その「本能」を用いて、どのようにして「智の世界」に辿り着けると仰るのでしょうか。おそらく、その「本能」の中に「生の合理性を求める傾向」が在るものと、考えておられるかと存じます。
しかし、ヒトがア・プリオリに持つ「(ある種の)形式・様式」がなくてはならないと考えているのですが、いかがでしょうか。確かに、ここら辺の曖昧性については、後のフッサールらがさらに厳密に解きほぐしていこうとしているのでしょうが。
ご一読いただきまして、ありがとうございました。
この回答への補足
なるほど、不完全性定理、確かに「原理的限界」の追究には避けられないようですね。示唆に富んだ回答をありがとうございます。
現時点での考えですが、ゲーデルの指摘した論理の不完全性が、経験論哲学におけるいかなる理論的不備を明かすかは不明瞭であり、それが公理系全体にとって致命的か否かもまた検討の余地があるのではないでしょうか。
ざっと調べたところ、不完全性定理は数学(あるいは経験的知識体系?)が最後の最後、まさに真理としての完成段階において自身の無矛盾性を証明できないという点で強烈なインパクトを残しましたが、それは体系自体の欠陥を示すものでは断じてないように見えます。言わば盲点と視界全体との関係のようなもので、原理的というか構造上、あるいは本質的に避けられないがしかし微細な欠陥であるに過ぎないというように思います。
アプリオリな形式・様式についても、やはり自我発達の社会的性質に還元可能であり、超越論的哲学の展開には至らないと考えます。
No.4
- 回答日時:
No.1&3です。
○ ほとんど同じような中身をもって ほぼ同じ方向で進んでいる。
☆ と言っていいのではないでしょうか?
★ ただ、まず一つ気になるのは、「先験的はたらきである秩序作用」は、生得観念を必要としないのではないかというところです。
☆ 《はたらき》が 先験的であるゆえ《生得だ》とは言っていますが 《観念》についてはそのカの字も出していないはずですよ。
★ 生得的な生への意志、すなわち生の合理性を求める傾向としての本能があれば充分なのではないでしょうか。
☆ これにつきましては
★ 〔動物におけるものと同じであるところの〕本能
☆ と呼ぶべきか 必ずしもわたしは検討したことがなかったです。
○ あたかも本能のような・したがって必ずしも意識しない自由意志
☆ といった感じで捉えたいとは思っています。精緻な定義の仕方に仕上げられればよいと考えます。
カントらについては しかるべき方がたにお任せしたいと考えます。
よく分かりました。
知と実践、あるいは本質と実存の関係についてはまだお聞きたかったのですが、本来の質問からは離れてしまうので、ここで落着させて頂きます。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
No.1です。
お礼をありがとうございます。
わたしの実践面についてのみの文章ですが いくらか補う必要があると考えふたたび投稿します。
★ 上手く言えないのですが、リアリティに左右される実践にはとても誤解が多く、しかし我々は自らその誤解を除くことができます。
☆ この考え方が 全面的に有効であって それによってのみ有効である場合には わたしの見解はもう用がないと思われますが 少しく反論してみます。
★ (承前) 人間の精神活動の成り立ちを理論的に体系化することの意味はそこにあって、雷の正体が電気だと科学が暴いたのと同じように、余計な解釈を避けた理解のあり方、客観知を示すことにあると思います。
☆ 再反論の意味は したがいまして
★ 理論体系 ないし 客観知
☆ の非実践性を指摘することにあります。
どうも水かけ論のようにも見えるかも知れないのですが こうです。
★ それで、人間の倫理的判断は快不快を分別する「本能」と記憶能力以外の何物にも依存せず可能という考えを持つに至ったのですが、どうでしょうか。
☆ わたしの場合 《倫理的判断》ないし《実践》をめぐって ここに挙げられた二つの事柄を 《くせ(エートス)》としてひとつの生活態度(つまりこれを 思想と言いたいのですが)に括ります。
★ 快不快を分別する「本能」
☆ つまり文字通り《好き嫌い》とその習慣化。つまり大きく《生活態度》。
★ 記憶能力
☆ すなわち 《好き嫌いとしてのくせ》の記憶としての蓄え。であると同時に この場合わたしは その
○ 《記憶》行為にすでに精神の秩序作用を含ませて捉える。
☆ ことをします。ということは
○ 単なる快不快や好悪といった感情のおもむくままの《くせ》の――ある程度の――秩序化をひとは 記憶という能力行為において おこなっている。
☆ と見ます。すなわち
○ 生活態度ないし人間類型としてのくせ(エートス) つまり思想
☆ を立てます。したがって
○ 記憶という能力行為 これが 先験的な自然本性であり 経験論に先立って 存在している。
☆ と考えます。ここにおいて
★ 理論体系 ないし 客観知
☆ については――上でそれらの非実践性と言いましたが―― けっきょく自然本性なる存在つまり人間つまり《わたし》の生きる動態に 包摂されると考えるからです。むろんあくまで そういう《主観》です。理論的に弱くても そういう主観を推し立てるという意味です。
まぁ ここで変な折り合いをつけることになると思いますが 細かく言いますと
○ 記憶行為の秩序作用をはたらかせるのは ひとが社会において出会うもろもろの経験をきっかけとした人の意志行為に始まる。
☆ とは考えます。問題は
○ 経験行為をきっかけにして初めて意志の自由がおのれの自由とそして恣意性との違いを分別するようになる。のであるにもかわわらず その自由ないし自由としての秩序作用 これは 生得のものであるのではないか。
☆ ここにあると考えます。
★ ですから「とりあえずの公理」という着地点(妥協点)はまだ先にあると思うのです。
☆ とは違って そうではなく 《とりあえずの公理》をすでに初めに仮説としてでもまづ立てて そのあと 《意志ないし記憶という自然本性》と そして《経験の積み重ね》とのあいだで 互いに連れ立って 着地点を見出していくのではないでしょうか。これはたしかに
★ 妥協点
☆ ではあるでしょうが そのつど 記憶も意志もそして知解も つねに――むろん相対的で経験的な――妥当性を 競うようにして問い求めて進むと思います。どうでしょう?
* もっと簡単に申せば
○ ひとの記憶行為には 《経験事象の記憶》と《存在としてはそれに先立つはたらき・つまり先験的なはたらきである秩序作用》が ともにある。
○ 後者は 前者をきっかけにしてはたらく。
☆ と考えるものです。
この回答への補足
>bragelonneさん
知見に富んだ理解を示して頂き、ありがとうございます。
知と実践の関係性について少し追い切れていないのですが、おそらくbragelonneさんの理解と私の理解には対立するところはそれほど多くないように見えます。
ただ、まず一つ気になるのは、「先験的はたらきである秩序作用」は、生得観念を必要としないのではないかというところです。生得的な生への意志、すなわち生の合理性を求める傾向としての本能があれば充分なのではないでしょうか。私にとって特に重要なのは、ここでカントの言うような、「叡智の世界」の理論を射程にいれる先験的観念を導入する必要がないのではないかという点です。
No.2
- 回答日時:
ご参考になればと思い、筆を取りました。
なお、小生の”回答”が必ずしも、dansunflux様のご期待に添えることが可能とは思ってはおりません。ですが、そこは、”補足”等で埋めていっていただければ幸いです。>特にこの考えの立場を徹底した人物としては、ヒュームが挙げられると思われますが、ヒュームに対するカントの批判などについても、どこか「空回り」の感が避けられません。
確かに、カントがヒュームを論破したという説が広まっているかと思われますが、両者において、どこか「すれ違い」が小生にも感じ取れます。
>超越論的解釈を退けうる経験論の人間(人性)理解の限界について
人間の(人間が持つ)理解の限界ということで、述べさせていただきます(人間を対象とした理解とは異なります)。
以下のHPをご覧いただきたいのですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/ノート:数学者
ヒルベルト プログラムが打ち出された状況下では、「そのゲームをどれだけ続けても矛盾に到達することはできないということを証明しようとするものであった」 つまり、数学では、その命題が全て証明し尽くせると考えていました。
ですが、当時25歳であったゲーデルが”その期待”を”失望”へと変えてしまいました。
しかしその後「多少目的を弱めることによって、つまり有限の立場を広げて解釈することで、自然数論の無矛盾性を示すという試みは、実際ゲンツェンによって達成された」とされています。
ですが、「現在までに、この集合論に関しての矛盾は発見されていない。しかし、今後未来永劫矛盾が見つからない、またそのようなことは起こり得ないということは決して断言できない。」
訳です。
つまり、「小学校を卒業すれば、誰もが自然数の足し算やかけ算を扱えるようになる。我々の社会はそれを基盤にしていて、しかもそのことによる問題は全く起こっていない。」という”安心感”(非常に不安定!)が、その公理なるものを支えているだけ というのが実情かと存じます。
つまり、bragelonne様の仰る通り、
「論証しえぬまま 公理としてよいのではないでしょうか?」
という回答には、
「はい、そうとしか申し上げられません」ということでございます。
また、何かございましたら、ご返答くださいませ。
この回答への補足
「お礼」の内容の続きですが、
例えば合理論や観念論における「論証できないが公理として扱う」という態度は、経験論におけるそれとは別物だと思われます。哲学がなすべきはまず、自明な事実からのみで人間理解を打ち立てることであり、ですからまず経験論の限界を見ることなしに超越論を用いてはならないのではないでしょうか。
この辺りについても意見を頂ければ幸いです。
>hidocchiさん(硬い言葉が得意でないので、「さん」で呼ばせて頂きます。失礼でしたら済みません。)
回答ありがとうございます。
以下、私の直感的理解を多分に含んだ話になりますが、宜しければお付き合いください。
仰られている数学あるいは論理の限界についての問題は、帰納的論証の反証可能性に当てはめて考えてよいでしょうか。
ヒュームがしばしば懐疑論として解釈されるのも同様の文脈だと思うのですが、私は経験論的理論の真理あるいは公理化は不可能であると考えています。ですので、求めているのは経験論哲学への反証のみだと考えて頂いてよいです。
カントの言葉を借りれば、独断の眠りに落ちない、そうした哲学がどこまで行けるかを確かめたいのです。
もし話が噛み合っていなかったら、済みません。
投稿ミスで再質問の順番が前後してしまいましたm(__)m
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