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永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    言い忘れました。

    >これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので

    と仰いましたが、これって証明できるんですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 00:52
  • №3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
    要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
    ということであって、根本的に異なる問題です。

    その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 01:45
  • 相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
    わずかしかいないとよく言われます。

    哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
    といいますから。
    まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
    たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
    理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
    る人はいないでしょう。

    それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
    かるでしょう。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/30 03:57
  • (つづき)
    仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。

    つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。

    宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
    結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。

    従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。

    今回は余談で終わってしまいました。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/05 09:13
  • 次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/06 23:45
  • 唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。

    そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
    夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
    人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。

    一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/07 14:51
  • どう思う?

    書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。

    主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
    それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
    るでしょう。

    環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
    計が人生だとも言えると思います。
    その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/09 15:00
  • これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。

    大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/10 00:01
  • 「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
    理解しなければいけないと思います。

    >うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね

    声聞・縁覚の幸せですね。

    失礼、また長くなりました。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/11 09:37
  • ここにコピーさせていただきました。

    「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の補足画像10
    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/14 16:23

A 回答 (85件中1~10件)

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな


るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということになるのでしょう。

でた、中。空の面でも同じことが起きているのではないか、となるとそれは考えられ得るでしょう。で、”中”の抽象化における働きですが、これが、先ほど疑問を持っていただいた”飛躍”の話ともつながって来るようです。

私どもは概念によって思考する訳ですが、今話題にしてるのは概念よりもずっと広大な世界についてです。概念はどうやってそんなことができるのかという事を説明するのが”飛躍”です。概念の本質に”中”があるというのは前に少し話題に上りました。私が思ったのは、あらゆる世界の階層の境界に、”中”が存在していて、一度この”中”を知ると、どの境界にも一瞬に思考を飛躍させることができるのではないか?という事です。概念を極めてその本質である”中”を知った時に、同時に”中”を介して他の世界、例えば生命とか、時間とか、混沌とか、あるいは一なる存在とか、言葉について知ることができる、と。

>「無限の非存在」「存在でも非存在でもないもの」「あらゆる可能性」…
存在に非ざるもの、存在・非存在に非ざるもの、あらゆる可能性、観念でない理解をしよう
と努力しましたが、どうも発想が出ないですね。

いや、これは発想が出なくていいんです。もし混沌について具体的な何かが発想できたならその人はどこかぶっ飛んでることになります。

>キサラギさんとしては「あらゆるもの、すべてのもの、全きもの」というものを想定してい
る、ということに意味があるという風に私は理解していますので、まずはこれでよいかなと。

あらゆるもの=混沌ですが、すべてのもの、全きものというのは、一なる存在のことです。
にゃんぽこさんのおっしゃる空に、ある意味で混沌は似ています。その内実は知りようがないという点が、似ているのです。

さて、抽象化に話は戻りますが、抽象化とは純化の一種ではないかとも思えます。そのものがそのものであることの根拠を満たしている、そのようにすることが抽象化ではないのかと。易しい言葉で言えば、形(すがた)を与えるということです。だからこれは、”中”の働きという事になってくるのではないか。
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この回答へのお礼

>”中”の抽象化における働きですが、これが、先ほど疑問を持っていただいた”飛躍”の話とも
つながって来るようです

その通りですね。仏教において「中」は生命の本質のことであり、キサラギ世界観においては
あらゆる現象の「原動力」ということになると理解しています。

大乗仏教における「中」とは、全宇宙に漲る「力」、あらゆるものを「個別化」する力、そして
個別化された生命に漲る力、更に、個別化された生命がそこから個別化された生命を生み出す力、
そのように理解しています。

ですから、人間が生み出した文明・国家・文化等、あらゆる概念が生命である、ということにな
ると考えています。
これが、「創造」であるのか「発現」であるのかという問題は、今は少し置いておくことにしま
す。

>私どもは概念によって思考する訳ですが~

以下6行の文章が難しいですね。

>概念はどうやってそんなことができるのかという事を説明するのが”飛躍”です

まず、この部分がいまいち理解できません。

お礼日時:2018/09/23 15:17

今回のお話は、大変難しい議題だったにもかかわらず、挑戦的で、かつ相手の言っている事をなんとか理解しようと努めたことが良い結果につながったのだと思います。


おっしゃる様に、お互いに努力と配慮のあった話合いだったでしょう。

ありがとうございました。
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この回答へのお礼

今回の質問は、回答数も多く、大変有意義なものとなりました。

殊にキサラギさんは多くの回答を寄せて下さり、貴重な時間を費やして
いただいたことは尋常でないことと思っております。

お礼日時:2018/09/30 22:23

なるほど、混沌にはその様な解釈を与えることも出来ますか。

話をして、自分の考えが変質したり、新たな発展を見せたりするのも楽しいですね。

にゃんぽこさんの質問にも全部答えられなかったと思いますし、抽象化の事もまだ思索の入り口ですから、お話を続けても良いのですが、この何となく良い感じの空気感で一先ず話を終えても良い気がします。

どうでしょう、少し休憩しますか?^_^
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この回答へのお礼

これだけ長くやり取りすると、さすがに処理速度が遅くなった感があります。
デフラグするという意味で、一旦終了し、続きをするなり新しいテーマでやり直すなり、
その時の気分でやりましょう。

まあ、50%分かり合えたと思えるに至ったのは、私も一般的なものの言い方ではなくどう
すればキサラギさんに通じるだろうかと一応努力したということと、キサラギさんも同様
に配慮してくださった結果であると思っています。

お礼日時:2018/09/26 20:13

カントの認識形式の方も面白くなって来てますね^_^



そうですね、中を通じて、上流に向かうものを飛躍、下流に向かうものを流出と、キサラギの世界観では一先ず言う事としましょうか。これを一歩踏み込めば、流出は創造と言えるでしょう。飛躍は、これは悟りという事になるかもしれません。

正直、ここまで話が発展し、しかも話が通じるとは思っていませんでした。五割くらい、互いの話を理解していると感じています。この数字を大きいと見るか小さいと見るか、正直、大きいと思います。

人間が物質を創造できるかどうか、今はまだ分かりません。遥かな未来、できるようになっているかもしれません。その時は、人間とはもう呼べないものになっているかも知れませんが。抽象化の果てに、何があるのか。
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この回答へのお礼

50%、そんなところでしょうか。
これは、私も大きいと思います。

この長丁場のやり取りをしているうちに、新たな疑問が随分生まれてきました。
必要と思えば、質問を立て思索をしてゆきたいと思っています。

人間が無からの創造をするということはできないと考えています。しかし、物質を
作るとか、生命体を作るということは可能ではないかと思います。

それは、現実にこの宇宙の中で物質が生まれ、生命が生まれているからです。生ま
れるということは、そのプロセスがあるということで、それを再現する方法という
ものがあるのではないかと考えています。

そればかりかあらゆるものを生み出すことが可能なのではないかと思います。あら
ゆる可能性が「空」というか「中」に内在しているのではないか?
つまりそれは「混沌」。

お礼日時:2018/09/26 03:46

難しいと仰った部分について。


これは、例えば、"人間は考える葦である"と言う台詞の意味するところと同じです。か弱く小さな葦のようである存在が、この宇宙を包摂するような考えを持っている。どうしてそのような事が出来るのかという事です。短絡して言えば、小が大を包み込んでいるこの関係は何故可能なのか、と。そこに抽象化と概念の主要な意味が存在しているのではないか、と思うのです。
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この回答へのお礼

「海よりも大空よりも大きなものは、人の心である…」
という詩を子供の頃に読んで不思議な思いをした記憶が蘇ってきました。

確かに人間の心はあらゆるものを「認識」する力を持っているように思えます。

今ある物質的なもの、今ある形而上的なもの、を認識しているうえに、今ない
物質的なもの、今ない形而上的な概念を創造する(発現させる)ことができるの
が人間です。

この二つが人間のする「抽象化」であると考えます。キサラギ説とは起点が違う
気がしますが、方向は同じだと思いますがどうでしょうか?

では、この「抽象化」=「概念化及び概念の物質化」というものを、どう認識し
たらよいのか?

これを、私の大乗仏教の哲学の理解によれば、「生命の力」による、という結論
にとりあえずなります。
もう少し詳しく言えば、これまで学問等で学んできた様々な生命現象と自身の経
験から学んできた人間というものの活動などから総合的に認識するに至った生命
というものの概念、ということになると思います。

これを不十分ながらも私の「哲学的悟り」といって間違いではないと思います。
そしてこれを自他ともに納得させるための理論づけを現在やっている、というこ
とになります。

キサラギ世界観では、「混沌」(これを「空」と結びつけようという発想は面白い
と思います)から「存在」を「炙り出す」力、またはより下層のものを「明らかに
させる」力のことを、「跳躍・飛躍」という言葉で概念化しようということなんで
すね?

この概念を更に一歩踏み込んで表現するとどういうことになるのでしょうか?

難しくなってまいりました。ともすれば「混沌」の中に吸い込まれそうな気になる
こともありますが、頑張って思索しようと思います。

お礼日時:2018/09/25 12:36

発想の範囲を超えるか超えないかについては、私は次の様に思っています。



確かに仰るように、人類の叡智の出所は自然の観察による所が大きく、自然を利用する事で形を為して来ました。その蓄積が文化や文明を形成して来たのだと言って良いと思います。その過程において、概念化、抽象化と言うのは中核としてあったでしょう。
この抽象化と言う行為はどこから生まれたのか?脳の中に世界を再構築し、それを見ている私達であるが、この脳は何故生まれたのか?この現象自体が、我々の見ている世界は自然の射影では無いか?とも思われます。抽象化とはそう言う事なのだろうか、と。とするなら、全ての世界の階層の境界において、脳のような構造が存在し、抽象化が行われ、射影現象が起きているのか?
うーむ。

私は、原子爆弾や原子炉の発想、反物質の存在、あるいはビッグバン、宇宙の年齢、更には人体のミクロな構造、雌雄の存在、或いは言語の存在、国家、善悪、感情、ありとあらゆるものの発見や発明が私の発想を超えており、私はこれらの何一つ為すことはできないだろうと思っています。自然物にしても、人工物にしてもです。乾電池一つ、私の頭では発想出来ません。豆電球も厳しいと思います。ピラミッドも無理ですし、天体を見て航海することも無理です。石器、弓矢、依頼、まぁここら辺なら発想できると思います。火は微妙ですね。要するに私の発想なんてのは、せいぜい良くて原始人くらいのもんです。現代、同じ人間の中でも、私の発想し得ない事や、超えた事を発想する人は沢山いるでしょう。それは単に私と言う個の発想の独自性と限界は、表裏であるからとも言えますが、それにしても、です。遠くの景色が映る鏡、離れた人と会話し、何千キロを一日とかからずに移動、壊れた体の部品を作る、現代社会の常識はどれも、私の想像を超えています。ただ慣れ親しんだ故に違和感を感じないだけでしょう。発想が技能を呼び覚まし(摩擦で火が起きるのでは無いか?)、技能が更に発想を飛躍させる(火を使える事によって更にアイデアが生まれる、湯を沸かすなど)、この連鎖が何千何万と積み重なった結果が今の人類の文化文明だと思うのです。摩擦すれば火が起こるのでは無いか?このように考えた者は最初、遊びだったかもしれない。バカにされたかもしれない。しかし、火は起こった。

いずれにせよ、この現実に知り得る多様性のある故に、この存在系の世界は混沌の射影であると考えるのです。私の知らないことも含めれば、多様性は更に膨大になるでしょう。混沌のあらゆる可能性と言うのは端的に言えば存在系以外の世界のことですから、当然認識することも言語化することも出来ません。しかしそれらの可能性は認める事が出来るだろうと言う事です。その混沌が、一なる存在を通じて生まれて来たものがこの世のありとあらゆる現象なのでは無いかと考えた訳です。

炭素系の生物か、ケイ素系の生物かと言うのは、キサラギの世界観で言うと、物質・生命の段の話です。時空が異なると言うのは、これは時間の段の話となります。
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この回答へのお礼

人類が文明の中で行なってきたあらゆる「創造」を「抽象化」と言っていいと思います。
この「抽象化」を、生命の創造(あるいは発現)とすることを、私は仏教哲学の応用的解釈
だと考えています。

とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。これが、

>全ての世界の階層の境界において、脳のような構造が存在し、抽象化が行われ、射影現象
が起きているのか?

というキサラギさんの考え方に通じる私の考え方です。

そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということになるのでしょう。

キサラギ世界観の「混沌」ということについて再び考えてみました。

「無限の非存在」「存在でも非存在でもないもの」「あらゆる可能性」…
存在に非ざるもの、存在・非存在に非ざるもの、あらゆる可能性、観念でない理解をしよう
と努力しましたが、どうも発想が出ないですね。

キサラギさんとしては「あらゆるもの、すべてのもの、全きもの」というものを想定してい
る、ということに意味があるという風に私は理解していますので、まずはこれでよいかなと。

それから、「非~」という概念についてですが、これは哲学的には無限をも意味するのでは
ないか、と思うようになりました。とすると、大変に使い方が難しいのではないかと思いま
した。これも少し考えてみます。

発想ということについて、

人間は文明の中で生きながら、ほとんどのものを教えられ、吸収をしていると思います(個人
差は大いにあるでしょうが)。
私が現実に作れるものの最高に高度なものはカレーライスくらいでしょうが(笑)、教えられれ
ば何とか理解はできると思いますし、何とか作れるものも少なくはないと思います。
つまり、発想の「素」を得ているのだろうということです。

お礼日時:2018/09/16 04:33

ここで言うイデアや本質、中に至ることによる"跳躍"についても話さなければと思いましたが、一先ず置いておきます。

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この回答へのお礼

これは、どういうことなのでしょうか?

お礼日時:2018/09/18 11:41

良い筋だと思います。


概念の本質をイデアとするならば、我々はミクロのものによって、五感だけでは届かないマクロの世界を旅することが出来ます。
プラトンのイデア論では、現実や物の世界はイデアの影のようなものとされています。この影を仮、イデアを中と呼ぶ事も無理では無いと思います。

創造について
マクロなものからミクロなものへの流れはどの様にして生じるのか?
これはあまりにも難しいので、マクロなものからミクロなものが生まれたと言う見方自体が不十分な見方なのではと思えるほどです。
例えば、人間は言葉を使うので人間であるわけですが、では言葉から人間が生まれたのかと言うと、そうではない。言葉を使うと言う人間の本質は、人間の現実存在よりも後に来ているように思われます。
この宇宙も、生命や自然や多様な実態を有するので宇宙であれるのだと思うけど、生命や自然や多様な実態が宇宙を生み出したのではないはず。
いや、もしかしたら、宇宙と言うのは生まれながら拡大して行っているのではないか?
万象の起源は無で、創造の力は混沌であると私は考えますが、この、創造されたもののバリエーションの豊かさ、時間があり、物質や物理があり、自然があり、生命があり、人間がおり、概念がある、と言ったようなバリエーションの飛躍をみるにつけ、混沌ではなければこれらは生じ得ないのでは無いかとも思います。

しかしながら、別の角度からもこの創造というものを見てみたい。もし、抽象化と言う過程を経ることで新しい世界が生まれるのだとするなら、冥伏している世界は顕現している世界よりも遥かに、桁違いに豊かで大きい可能性があります。
何が言いたいかと言うと、マクロなものほど冥伏しており、細かなミクロなものほどくっきりと顕現しているのではないかと言う事です。

難しい話になってまいりました。いや、初めから難しかった訳ですが(笑)
でも、お話しして来て、何か進んでいるように感じます。
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この回答へのお礼

そうですね、プラトンのイデア論では、イデアが先行して物は影であるということですから、
三諦論とは違いますが、今は「似たようなもの」としておきましょう。

人類はおそらく人類になる少し前くらいから、複雑な言葉を使うようになり、衣食住を整え、
文化をつくり始め、戦争も始めたということなのでしょう。その長い歴史の中で実に様々な
概念を認識し言語化してきたわけですが、私がよく思うことは、どの文明においても(詳しい
わけではありません)理解不能な発想のものはないということです。

せいぜいピラミッドかナスカの地上絵くらいのもので、これらにしても私の発想の範囲を超
えるとは言えません。

これはどういうことかと考えますと、人類は自分たちが依っている自然のあらゆるものから
学び取り、形にし、概念化・抽象化しているということにならないでしょうか?
つまり、自然が作り出したものを応用・発展させたものではないかということです。

逆を言えば、人間は見たことも聞いたこともない発想のものは理解もできないでしょうし、
そういったものを作り出すことは不可能ではないかと考えていますがいかがでしょうか?

これに関連してもう少し申し上げます。

地球上の生物は「炭素系生物」で、他の天体には「珪素系生物」が存在し、身体の化学的組成
や機能が全く異なっているという可能性があると主張する科学者がいるそうです。
もしそうであるならば、彼らを取り巻く自然環境も地球とは全く異なっていて、我々が理解し
得ない概念の中で暮らしていて、あるいは時空とは異なった軸でものごとを認識しているのかも
知れないなどと思いました。

こういうことが、キサラギ世界観の「混沌」のなかの「あらゆる可能性」ということなのかとも
思いました。

>お話しして来て、何か進んでいるように感じます

同感です。

お礼日時:2018/09/15 04:31

つづきの為の空投稿です^_^

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「概念」ということについてキサラギさんは、理念とか抽象といった意味で論じておられる
と思います。
そこで私は「空仮中の三諦」と結びつけようとしたところ、プラトンのイデア論が出てきた
わけです。

イデア論についてはよく勉強したことが無いので、再び辞典より引用します。

『これに哲学的意義を与えたのはプラトンである。彼によりイデアは認識の対象とされた。
ただし、相対的な知覚の対象としての形体的個物ではなく、純粋な思惟または理性によって
把握される普遍妥当的なる概念的実在、あるいは永遠絶対の形而上学的本体とされた』

つまり、仏教の「中諦」に近いと考えました。これが、「概念」というものの本質とするこ
とはできないだろうかということです。

また、プラトンのイデア論はいわば「仮中の二諦」という感じで「空」がありません。「空」
こそが特徴的で難しいですね。改めてお話したいと思います。

キサラギさんの解釈での「概念」位置づけがミクロであるということは一応理解したつもりで
す。

創造ということについては、このスレッドのテーマである、無から有が生まれるのか、それと
も、それはありえないのか?に直接かかわる問題かと思います。

言い方を変えれば何かが創造されたときに、既存するものと全く関係がなく生まれたものがあ
るのか、ないのか?ということになると思います。
あるのならば、それはいかなる力によって成されたのか?
ないということであれば、起源の問題になります。

どう思われますか?

お礼日時:2018/09/13 22:52

なるほど。

実はこの話では中諦が鍵になるのかもと思いました。具象物の本質を捉えるためには、空諦による所作と仮を見据える胆力のようなものも必要かと思われます。

音楽に言及されたのは面白いですね。
音楽は、例えば小鳥のさえずりや川のせせらぎなど、自然界にも見られます。自然界には音階もありますね。

自然の造形物もあります。美しい海や空模様、岩山や洞窟、森林、動物そのままが造形美や機能美を備えていますね。

そして、おそらくそれらを素晴らしいとか美しいと思ってる存在は人間だけではないと私は思います。

人間は、自然の力を抽象化し、それを行使しているのではないか?それを人間による創造と呼ぶのではないか。
では自然はそもそもどうやって生まれてきたのか。。

うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>具象物の本質を捉えるためには、空諦による所作と仮を見据える胆力のようなものも必要

む、難しい表現ですね。

小鳥のさえずりとか川のせせらぎなどは、たしかに音楽ですね。
雷の迫力に勝るものはそうありませんが、怖いばかりではなく、何か包まれているような安
心感を感じる時もありますし、エキサイティングな気持ちになるときもあります。
その人、その時により、感じ方も変わってくるということは十界論から考えれば納得できます。

先日、ラジオで「子供相談室」を聞いていたら、「鶏は何故鳴くのですか?」という質問があ
り、それに対し先生が次のように答えていました。

「自分の縄張りを主張するために鳴くのです。でも、その鳴き声はより強い動物にエサのあり
かを教えてしまうことになるんです。」
近頃は子供に対するものごとの教え方がとても丁寧で、深いところまで教えるんですね。賢く
なるわけです。

ま、それはともかく、雄鶏が鳴いているときはおそらく、同じ雄鶏のことしか頭に無く、畜生
界なのでしょう。天敵のことは考えていないのでしょう。
人間の仕掛けたわなに引っかかるのも、同様の理由によるのでしょう。動物の脳の限界といえ
るのでしょう。そして、このことに関しては進化はしないと、その先生は言っていました。
つまり、動物は永遠に人間のわなに引っかかるのだ、と。

それが真理かどうかはともかく、すくなくとも現時点ではそのように「できている」というこ
とが不思議ですね。

自然というものは「変化」の連続です。例えば300年前の地球は今ほど環境汚染もなく美しか
ったと思うのですが、これは自然の力による変化の連続の結果、と言っていいと思います。

以前「方向性」という話がありましたが、個々の生命においては「生きること」と言っていい
と思いますが、大元の宇宙生命においては、「調和」とか「共生」(弱肉強食を含む)といった
ちょっと退屈っぽいことに(現代的には)なるのではないでしょうか?

「創造」とは「変化させる」ということだと思います。
宇宙生命の方向性を私は信じますが、そこから見て「善悪」両面があると思います、創造とは。
植物も動物もほとんどが宇宙生命の方向性に従った「変化」しかしていないと思います。その
能力が無いからです。しかし、人間には自然の力を利用する能力があります。(つづく)

お礼日時:2018/09/11 09:32
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