永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。
科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?
1.科学的見解をお願いします。
2.哲学的見解をお願いします
3.非科学的見解をお願いします。
4.個人的見解をお願いします。
No.66
- 回答日時:
なるほど。
進化、退化と言う変化という捉え方ですね。もう一つ進んだ質問です。久遠原初も含めて、生命と言うものに何か方向性はあるのでしょうか?何処かに向かっているとか。
この宇宙には方向と言うものがあり、例えばそれは重力や、時間と言ったものがあると考えられます。複雑化と言うのも一つの方向性かも知れません。循環と言うのも大きな意味では方向性の一つでしょうか。
或いは、何か特定の方向がある訳でなく、全方位であると言う事もありますか?
「久遠元初」という概念は、一応時間的始まりの意味を持たせているようですが、
元意は仏性を覚知すること、ということになります。
仏教では「無始」ですから「はじまり」を仏性を覚知することに置いたということ
にその世界観の特徴があるのですが、今の私にとって正直分かったような、分から
ないような、といったところです。
生命の方向性とは「生きる」という方向性だと思います。その「生きる」という根
源的な衝動というかエネルギーは、「仏性」なのだと思います。
しかし、長い間の自己の行為によって汚れ、曇ってしまっている。故に六道輪廻で
ある。
そこで、仏教では六道から菩薩・仏への修行を説いている。
人間は心の深層の部分でこの方向性を希求していると思います。だから、学ぼうと
するし、何かをつかみたいと望むし、頑張ろうとする。
これが、消えつつある現代はやはりヤバいと思う。
つまり、「久遠元初」が生命の方向性だと思います。
人間生命以外のものについてはよくわからない部分がありますので、ここでは人間
ということに限定します。
No.65
- 回答日時:
5thさんこんにちは。
生命と生命体の区別は、明滅しつつ存在する、生死を含めた動きを私は生命と言っています。一方、生命体とは、ミジンコとか、バッタとか、犬とか、ヒト、その他動植物などの事です。
No.64
- 回答日時:
にゃ_ぽ_りさん、きさらぎさん、こんばんは。
さっきビックリすることがあって落ち着いて、きさらぎさんの回答へコメントで紹介の動画を見てしんみりしてしまい、肩の力が抜けてちがうやり方ができました。話の流れに沿えなくてすみません。宮沢賢治っぽいです。きさらぎさんのいう、冥伏と顕現の明滅を繰り返す→せはしくせはしく明滅しながら。という繋がりから、生命←有機交流電燈。と言い変えてみました。宮沢賢治の『春と修羅・序』http://why.kenji.ne.jp/haruto/100jo.html
1つのって詩にあるので宮沢賢治に1つあるということでにゃ_ぽ_りさんのいうように1人に1つの生命がある。いきなり假定されてて生命の起源と関係ないです。まっくらな宇宙は冥伏しっぱなしになりますし、地球も冥伏しっぱなしです。
138億年とか46億年とか50年とかの半周期だと読んでましたがそうではなくて、せはしくせはしく明滅するとすると、1念周期の60刹那の60/75秒だから0.8秒周期で1人に1つの生命たちだけがせはしくせはしく冥伏と顕現をくりかえして、50年くらいしてずーっと冥伏します。
電燈が生命なのか、明滅が生命なのか、電燈から出る光が生命なのか、交流の電流が生命なのか、電線が1本なのか、電線が複数で電源も複数で交流の位相が違ってて明滅がバラバラになるのか分かりませんでした。
青いのが宮沢賢治です。青いってところが面白いです。電燈はいろいろあって、赤いのとか、紫のとかもいるかもしれません。自分が青いってわかるのは反射する物が近くにあるか、他のものがみんな青いから自分も青いと予想したことになります。
ぜんぜん別の話になってしまいました。だから何だと言われてしまうとどうしようもないですしもう知っていたことかもしれません。日蓮系の考えが詩みたいでショボいとかそういうことじゃないし、詩がショボいということでもないです。
話を戻しますと、生命と生命体という言葉が混在していますが、どんな区別になってますか?
宮沢賢治の詩、仏教的ですね。
生と死は「まばたき」に譬えられます。
「生死不二」「色心不二」、生と死、身体と心の奥に生命があると仏教では説きます。
No.63
- 回答日時:
最近テレビの科学番組で、反物質のことをやっていました。
世界はどうあるかについて様々なアイディアでもってシビアに探求していって、世界観を覆すような発見をしていくことは冒険のようなもので、何か一つの世界観を見つけるたびに、さらに未発見の余地が広がるような気がしますね。冒険には憧れます。哲学も、知的冒険と言えるのではないでしょうか。さて、にゃんぽこ流世界観においては、生命とその活動以外によって生じたもの以外は何物も存在しないという事ですが、生命とはかなり複雑な構造物であります。しかもそれに始まりもなく終わりもないとするならば、一体これは何なのか?と、謎は深まるばかりです。冥伏と顕現の明滅を繰り返す、しかも顕現する形は冥伏の状態で既に陰に存在していて、それが因縁仮和合によって顕現する。
シンプルからコンプレックスへと言う流れがあるというのが一つの宇宙観とするなら、にゃんぽこさんの見方はいきなりコンプレックスであり、シンプルなものは中諦であり全体観である。
ここでどうでしょう、生命体の進化と言うものはそこには存在しないように思います。久遠原初であるならば、生命の進化と言うのは特に意義も無いように思われますが。未来も過去も既に空の状態で存在しているという事になるのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=fXTs8tPz3eU
「反物質」というとこの映画のラストシーンと、ジュリーのこの歌を思い出します。
反粒子でできた物質、と言われてもよく理解できませんが、仰るように科学が進歩する
たびに宇宙の神秘さはかえって増してゆくように感じています。
この映画の中の生命感は仏教的ですね。
「空」という概念は西洋にはなく、西洋人は理解しないそうです。日本人でもいや、私
もキチンと理解しているかどうか少し不安ではあります。
いずれにしても、「空仮中」という複合的な認識論は東洋の画期的発見であり、生命の
永遠性とか精神の存在を説明する唯一の考え方であると思っています。
これの正当性をどのように求めてゆくか?楽しみですらあります、私には。
さて、「進化」についての解釈ですが、例えば現在のキサラギさんの身体は進化の末に
到達した状態であると言えるし、「仮諦」であり、十如是では「如是相」です。
「如是相」は新たな因縁「如是因」「如是縁」によって、新たな結果・姿に「如是果」
「如是報」→「如是相」変化する、と。
進化・退化を含めた変化を仏教ではこういう理論で説明していると思います。
また、遺伝子というもの(人間では50億の情報があるそうですが)が十如是の「如是性」に
合致するのではないかとも考えています。
「如是体」というものはあらゆる生命に共通する基盤的なもののことをいっているのでは
ないかと考えています。
知的冒険、いいですね。男の子は生来冒険というものが好きなんですよね。
No.62
- 回答日時:
にゃ_ぽ_りさん、こんばんは。
no.29=61=62です。因と縁による仮和合
生命は永遠不滅(時間を超越)。
ということなので、生命の生成はあるが、余った生命は冥伏しておけばよいので消滅はない、そして、分裂するかどうか不明だと読みました。そうすれば生命の個数に上限は無いです。そうすると1人の人に2個とか3個の生命がある場合もありそうです。きさらぎさんは生命を70億とんで2個とか数えないで下記の考えをしてました。
私と言う生命体は、全宇宙とつながっており連続体である。そ
して、全宇宙は常住の本質を湛えている。故に私もまた常住の
本質を得ている。という論理があるのだと思います。(違って
たら仰ってください)
とびとびなものってあるかもなーとこちらの質問を思い出しました。Q:この宇宙にアナログの存在はありますか?-さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10507548.html
「無」というものは「ない」ということにもなるのではないか
ということについて、ハイデガーも結構仏教好きそうな感じがします。マルクス・ヴィルツ著 小田切 建太郎訳の『マルティン・ハイデガーの〈無〉の解釈と仏教の空の考え方』http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ …
にゃ_ぽ_りさんやきさらぎさんのテクニカルタームの生命と冥伏と顕現と常住がわからないです。面白いです。
>1人の人に2個とか3個の生命がある場合もありそうです
一人の人間を統合する生命、というものを想定した場合、やはり、一人にひとつだと
思いますが、60兆の細胞の一つ一つが生命体と考えることもできるし、また、人類全
体を一つの生命体と考えることもできると思います。
重層的であることは間違いないと思いますが、なかなか捉えきれないですね。
モクゾーさんのこの質問は面白いと思いましたが、回答は私にはできませんでした。
No.61
- 回答日時:
にゃ_ぽ_りさんこんばんは。
きさらぎさんから哲学的悟りってなに?ってフリでした。それは、生命の話ってことなんですね。
ビックバンとビッククエンチを繰り返す宇宙で1つ、地球で1つ、人類で70億つ、とりあえず、70億とんで2つの生命がある。70億とんで2つは顕現してて、ほかにいくつか冥伏してるのだろう。顕現と冥伏の各々の時間的長さがある。宇宙生138億年。地球生46億年。人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。生命が消滅、分裂、生成するのは外道である。生命はあらかじめ何個か用意してあるのだろう。用意してある生命の数がもうすでに足りなくなってて、それでも人が生まれてて、生命が無いまま生きてる人がいるかもしれない。
と私は読みました。
話の流れが、にゃ_ぽ_りさんが、二乗への対応を現実にどう当てはめて行動したのか、に移っていってほしいです。でも、あいだに、言語についてとか、意識についてとかあって道のりはまだ長いし、生命と関係無かったりしそうですね。
「二乗」は大乗仏教では厳しく弾訶される。自らの悟りに固執
し陶酔し、増上慢の心を引き起こし、その主体性が強いゆえに
大きな悪につながってしまうからだと思う。
菩薩:慈悲の心が脈打っている境涯。二乗のごとく思索だけでな
い、行動に重きを置いた心。
エゴイスティックな自我を乗り越えるためには、菩薩の修行が必
要であると仏教では説く。
no.29 の一部を下記のように訂正します。
誤 なーんもなければいちばんちらかってない。
正 なーんもなければ0ばんちらかってない。
>用意してある生命の数
ですか。どうなのでしょうか?リミットがある気がしますが、因と縁による仮和合
ですから、ないようにも思います。
>二乗への対応を現実にどう当てはめて行動したのか
哲学の命は「実践してどうなったか」と考えていますので、大変に興味深い論点で
すね。流れの中でその点について語り合いができたらいいなと思います。
No.60
- 回答日時:
何故、無からあらゆるものが流出すると考えられるのか、なかなか説明できる言葉が見当たらないのですが、例えば倫理観(内的な規制)すらない無法地帯では、犯罪も含めてありとあらゆる行為が大手を振って横行します。
時空なども含めて一切の枠が無いと、あらゆるものが流出するのではないか?と思われるのです。
そのような中で一乗たるものはなんなのか?と求めるのが真っ当な事ではないのか?と、考えるわけです。一と零なら無限を流出すると言う意味で零の方が偉大だが、正解と言う意味では一でなければならないのでは無いか?と言う思いがあります。
話がまた広がりそうなのでここらへんにしておき、にゃんぽこさんの哲学的悟りの続きを聴きたいと思います。
「ニャンポコ世界観」の全体像を申し上げると、次のようになります。
この宇宙は「生命」とその活動によって生じたもの以外のものは何もない、ということです。
「空仮中の三諦」の説明を一応しましたが、これを私なりの解釈で少し拡げてみたいと思い
ます。
「中」とは宇宙全体の生命のこと、または個々の個別化された生命の本体のこと。これは同一
のもので、仏教ではこれを「仏」と呼びます。
「空」とは性質・精神の部分で宇宙全体の「空」と個々の生命の「空」とは別なものであると
思います。
宇宙生命の性質とは、例えば、銀河、恒星、惑星、地球環境、生物の身体などを作る力等があ
ると思います。
個々の生命では個性の部分であるのでしょう。
「仮」は上記のものが顕在していることを指しているのでしょう。
まあ、全く正しいとは思っていません。間違っていたと思ったら、訂正をさせていただきます。
問題は、宇宙生命の性質の中に、「あらゆるもの」があるのかどうかです。
以前、あらゆるものがあるのではないか、ということを言いましたが、今は正直迷っています。
あらゆるものがあるとするならば、「創造」というものはなく、すべてが「発現」ということ
になります。「無」というものは「ない」ということにもなるのではないか、と。
これは、今後の思索点その1です。
「ニャンポコ世界観」
その1 生命は永遠不滅(時間を超越)。
その2 個別化された生命には宇宙生命が含まれている。
その3 生命には空間の枠がない。
尚、余談ですが、私は哲学者でもなく宗教家でもありません。あくまで、一般大衆でありそうい
った専門家になるつもりも全くありません。
ただ、一般大衆が既存のものに服従するのではなく、主体的に考え生きてゆくことが民主主義が
本物になるためには極めて重要なことだと考えています。
そのためには、哲学的なことを語り合うということは大切だと思います。キサラギさんも同じだと
思いますが。
No.59
- 回答日時:
久遠原初ですか。
とても興味深いですね。キサラギの世界観に似ているような気がしました。無始のカルマとは、原罪とは全く異なる意味です。ここで言うカルマとは、あくまでイメージの話となりますが、起源と言う意味が近いのではないでしょうか。事が起こるには因があるはずであると私達は考えるが、無い事が因になっていると言う意味です。私も自身の世界観に概念を援用してしか語れないので不足も多いと思いますが。
No.58
- 回答日時:
ふむふむ。
一つ質問があります。前世、現世、来世があるという事ですが、一番初めの前世、つまりそれが生じた時というのは存在するのでしょうか?
顕現と冥伏を繰り返す永遠の生命と言うのはわかるのですが。その永遠に始まりはあったのでしょうか?あったとするならどの様なものでしょうか。また、始まりはなかったとするならそれはどう言う事でしょうか。
むしろ始まりは冥の状態であったのだろうか?つまり生によって始まったのではなく死によって始まっていると見れるのか。
うーむ。
無始のカルマと言うのを聞いたことがありますが、それについても合わせてご見解をいただければと思います。
私に答えることのできない超難問がまた一つ…
また仏教用語ですが、「久遠実成」と「久遠元初」という言葉があります。
「久遠実成」とは釈尊が五百塵点劫という、人間には思義できないはるか昔に成道した
ということです。
「久遠元初」とは、それよりも以前のことで、一応時間論として宇宙の始まりを表す言
葉、ということです。
しかしそれは、ビッグバン的な概念ではなく、「無始」という意味であるようです。
また、次のような解説があります。
『時間的長遠を超越した、生命に本来具わる無作常住の仏性を覚知した姿を久遠元初とい
う。衆生の生命は過去・現在の行為などによってさまざまな業(カルマ)をまとっているが
その奥に本来の清浄な生命の本体がある。それを久遠元初という。』
これを考えてみると…
我々人間は通常「時空」というものを「枠」を設けてしか考えられないようです。しかし、
この宇宙というものはどうも時空の枠がないのではないかということは、誰もが一度は思っ
たことがあるのではないでしょうか?
この「久遠元初」という概念も、どうもそのようです。
これを覚るということは、どういうことかと想像してみると、永遠の時間(無始無終)の中に
自分自身をはっきりと認識する(直感的に)ということなのではないかと思います。
言い方を変えると、宇宙も我々の存在も常に「あった」し、現在「ある」もので未来永劫に
「あり続ける」ものであるということになります。
こうは言っても、「無始」が分かるのかと言えば、わからないと正直に言います。
「無始のカルマ」と以前も仰っていましたが、「原罪」のようなイメージでしょうか?私と
しては「因」のない「罪」というものは理に合わないと考えます。
No.57
- 回答日時:
ふむ。
私の現状、まさに理解の端っこという感じでしょうか。新しく聴く単語(仏教用語)が多くてなかなか整理がつきませんが、まずにゃんぽこさんの哲学的悟りありきの話のようなので、そこからお話ししていただくことは可能でしょうか。
その話を聞くことで、どの単語がどの意味に対応しているかということが分かるのではないか、と思いました。
どうでしょうか。
また、自分の見聞きした仏教を絶対視しないというのは、覚り以前の態度としては妥当だと思います。盲信になることを思えば遥かに優れていると思います。それに関しては私も同じ態度です。もし自分が既に覚った仏であり、その上で仏教が絶対的に正しいと断じるならその理由もあるでしょうが、そうでもないのにそれを絶対視する事には疑念が残ります。
一念三千論は仏教哲学の極理と言ってよいものですので、仏教用語を並べて説明しても、
そうそうすんなりと理解できるものでは、考えてみればないと思いました。
私は仏教用語については違和感がないので、かなり分かったつもりになれているのでしょ
う。
私は昔から「生命」というものについて次のような疑問を持っています。
1.人間の生まれついての違いの原因はどこにあるのか?
2.一人の人間と一つの細胞、また宇宙との関係は何なのか?
3.自我とは何なのか?
4.生命の起源は何か?
5.一つの卵細胞から人間が出来上がるということは何なのか?
等々です。
これらの疑問に対して、科学の回答は私にとって腑に落ちるものではありません。例えば
「ある一定の条件の下で無機物から有機物が生成されることが観測された」これは、そう
いった変化があったということに過ぎないわけで、何故そうなったのか?とか、それはど
ういうことなのか?という私の疑問に答えるものではなかった、ということです。
一方、仏教哲学においては、腑に落ちる回答が得られたので、私はこれを信頼するに至っ
たわけです。
ただ、「どういうことなのか?」という疑問は更に追及するわけですけれど。
1.の疑問については、生命は永遠であるということ、つまり前世・現世・来世の三世があっ
て、過去の「因」によって「報」を受け、それが個々の人間の生来の違いになるのだという
こと。
では、「死」とは何かといえば、「仮」という顕現が「空」という冥伏になったということ。
永遠の生命は、顕現と冥伏を繰り返しているということで、その本体・本質はあくまで「空」
の状態で「存在」しているということです。
自分の「行為」(如是作)の結果としての「因果」(如是因・如是果)は「空」の状態で保持され
る、と。
私の世界観の第一点目は、宇宙とそこから個別化された我々をはじめとする生命体は永遠不滅
の存在であるということです。
ここまでのところはよろしいでしょうか?
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言い忘れました。
>これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので
と仰いましたが、これって証明できるんですか?
№3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
ということであって、根本的に異なる問題です。
その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。
相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
わずかしかいないとよく言われます。
哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
といいますから。
まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
る人はいないでしょう。
それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
かるでしょう。
(つづき)
仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。
つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。
宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。
従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。
今回は余談で終わってしまいました。
次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。
唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。
そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。
一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。
書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。
主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
るでしょう。
環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
計が人生だとも言えると思います。
その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。
これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。
大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。
「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
理解しなければいけないと思います。
>うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね
声聞・縁覚の幸せですね。
失礼、また長くなりました。
ここにコピーさせていただきました。