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永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    言い忘れました。

    >これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので

    と仰いましたが、これって証明できるんですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 00:52
  • №3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
    要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
    ということであって、根本的に異なる問題です。

    その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 01:45
  • 相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
    わずかしかいないとよく言われます。

    哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
    といいますから。
    まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
    たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
    理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
    る人はいないでしょう。

    それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
    かるでしょう。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/30 03:57
  • (つづき)
    仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。

    つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。

    宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
    結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。

    従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。

    今回は余談で終わってしまいました。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/05 09:13
  • 次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/06 23:45
  • 唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。

    そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
    夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
    人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。

    一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/07 14:51
  • どう思う?

    書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。

    主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
    それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
    るでしょう。

    環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
    計が人生だとも言えると思います。
    その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/09 15:00
  • これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。

    大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/10 00:01
  • 「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
    理解しなければいけないと思います。

    >うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね

    声聞・縁覚の幸せですね。

    失礼、また長くなりました。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/11 09:37
  • ここにコピーさせていただきました。

    「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の補足画像10
    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/14 16:23

A 回答 (85件中71~80件)

この話をするのは私は好きで、しかし話す機会もそうそうないので今回のにゃんぽこさんとのやり取りは正直うれしいです^^



さて、幾つか質問をいただいたので答えていきたいと思いますが、その前に一つ言っておくと、私のこの思考においては、無と言うのは存在よりも上位の概念であり、また、存在よりも上位の概念は無のほかにも幾つかあります。このことについて、ほう、そうなのか、程度に思っていただいたうえで、次の返信に目を通していただければと思います。

・・・「許容される」ということはどういうことなのでしょうか?

無が、あらゆる事を誘引すると思っていただければ。何ものも無いという事は、一切を許しているということです。伝わるかな。一切を制限するものが何も無いのであるから、一切が立ち現れるという事です。

・・・「生じる」というのは、「創造される」ということなのか、自然発生的に生
まれるものなのか?

うーん、この問いは、もっと話が降って行かないと、この私の言う世界観のこの段階では機能しない問ですね。何故か。「時間」は存在よりもさらに下位の位相にあります。この時間の感覚を超越した世界観をまず設定として頭に描いてみてください。そのうえで”生じた”という言葉の意味について説明します。実はここで”生じた”と言うのも正確ではないのですが、生じたの代わりに”在る”を使ってもいいのです。でもそうすると、”存在という世界が在る”となり、まるで、「おで、ニンゲン・・・。」みたいなバカっぽい感じがします(笑)ですので、生じたと言いました。生じたと言うと、何処からか生まれてきたとか、誰かが生み出したというニュアンスを持ってしまいますが、そのニュアンスを捨てて、意味を取っていただければと思います。

・・・「存在」は分かります。「非存在」も観念的には分かります。「存在でも非存在でもないもの」これは分かりません。

ふむ。喩えを出してみましょうか。「林檎でもなく、林檎でないもの(非林檎)でもない。」こう示唆されるものは無数に存在します。どういうことかと言うと、林檎でないもの(非林檎)とは、例えばバナナとか、蜜柑とかパイナップルとか、沢山ありますね。しかしこれら林檎でもなく、しかも非林檎でもないものは、この世に無数にある。例えば鉄。例えば人間。例えば青色。このように、果物というジャンルを超えればいくらでも例が挙げられる。同じように、存在でもなく、非存在でもないというのは、存在系(存在のジャンル)を超えている諸々の事と思っていただけると良いです。同じような言い回しは古代より仏教にも存在します。非想非非想という言い回しです。(これは、想いでなく、想いでないのでもないという意味です。)このように、従来の言語感覚で捉えている世界よりも遥かに広い世界を設定しているのです、今回の思考では。この世界観では、”存在”(の系)はガンジス川(見たことないけど)の砂の一粒という事になるのですね。驚きですが、そういう設定なのです。

・・・「可能性」というものが四つの事の中に入っている、ということですね。ハルさんの「存在性」という性質を連想しましたが、「変化する性質」みたいな理解でいいのでしょうか?

指摘されたのは、「あらゆる可能性」と表記されている箇所だと思いますが、そうと思って説明します。haru27さんの語る存在性とは、存在、それも永遠の存在に向かって進んでゆく性質であると私は理解しています。この性質は、にゃんぽこさんが今仰る「変化する性質」とは異なるものではないでしょうか。存在性を持ったものは変化もするが、存在性という単語の意味は、変化する性質の事ではない気がします。
そして私が、「あらゆる可能性」と表記したのは、何かから何かに化ける(変化する)という意味ではありません。何かから何かに成るという意味でもありません。これまでの説明と被る部分もあるのですが、その意味は、”存在の由来する処における可能性”です。先ほども説明した通り、そこでは【”存在の系”以外の系】が無数に可能であるという事です。存在の系とは、存在や時間、生命や物質、この宇宙における様々な現象のことを指します。それらの系とは別の系の可能性、しかも”あらゆる可能性”と言う意味です。

初めに戻りますが、まとめとしまして、この思考における概念の位相は、

無>存在でも非存在でもないもの、あらゆる可能性≧非存在≧存在>時間>生命

という順で、左に行くほど大きな(マクロな)概念となっています。ある意味で粗大と言ってもいいですが、別に粗いわけではない(細かくもない)ので単に大きなと言っておきます。
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この回答へのお礼

私はこの質問で「無」というものを「有」の対立概念としてのみ定義しておりました。
まあ、それしか知らなかったのですが、道家思想において、あるいはハイデッガー・
サルトルなどにおいてはこの「無」という概念が大変に重要であるということを知りま
したので、それらをチョコチョコ勉強しながら、少々知っている大乗仏教の哲学の概念
からプラスマイナス30%くらいの許容範囲でもって理解をする努力をしようと思ってい
ます。

さて、いわば第一層概念としての「無」と同列に他のものがあるとのことですが、これは
「キサラギ哲学」の肝要の部分のようですので仰るように保留にしておきます。

・許容される、ということについて

老子は「道」≒「無」をそこから万物が生まれ出る母胎と考えた、ということのようで
すが、この考え方は「有」の対立概念としての「無」=「なにもない」ということでは
なく、仏教でいう「空」の概念のことだと思うんです。
これに近いのかと考えました。

あるいは「真空」状態の空間へ空気が一気に流れ込むような自然な力、という感じなの
でしょうか?

第二層概念で、「無」に許容されて「ある」ところの「存在」等は「ある」ということで
あって生まれるとか創造されるということではない、ということは了解しました。

これは仏教の「常住」の概念と一致するのではないかと考えられます。
「常住」というのは「無常」に対する概念で、時間を超えて常に住するということです。

こういうことであれば時間が下位層にあるということは理解できます。

なるほど、「非存在系」ということですね?観念としては理解できます。これは実例を
提示できますか?
「存在系」がガンジスの砂の一粒とは確かに驚きですね。
非想非非想は知りませんでした。調べておきます。

「あらゆる可能性」という表記がよくわからなかったのですが、あらゆる系になりうる
可能性ということですね?これも観念として理解できました。

これは壮大な体系ですね。

尻切れですが、時間切れにつき今回はここまでとします。

お礼日時:2018/07/20 01:30

無から有は生まれないと思います。



1エネルギーの保存則(熱力学第一)に則るならば無から有は生まれない 

性質を持ったエネルギーはエネルギーの態が変化するだけで無からではない


2生まれるという言葉に問題があります。生まれるとは生命が生まれると言う様な

循環するとか情報伝達するとか言う問題であって無から生命が生まれるという概念ではないです。


3アイデンティティの実現の為には物質の電子雲が必要でした。存在するだけじゃなく存続するのです

世代交代は進化するためにあるので 生き続けることでも進化出来る、学習考察する人間は死ぬ必要はないのです。


4生命の起源は水と有機物の結びつき 循環 秩序化であって それは太陽光による光合成に由来します

炭素固定と酸素分子の供給で生命は回りだし広がってゆきました。今や人口爆発です。
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この回答へのお礼

エネルギー保存則・超紐理論等、科学的には宇宙が「無」であったということは
ありえないし、無から有が生まれるということはない、という結論になりそうです。

また、このことは生命の起源が「創造」ではなくて、「発現」であるということに
なると思います。
発現ということは、循環しているというイメージになりますね。

>世代交代は進化するためにあるので 生き続けることでも進化出来る、学習考察
する人間は死ぬ必要はないのです

このあたりが分からないのですよね。
「存在性」という性質は「生気論」のプノイマとかエンテレキーのようなものあるい
は霊魂のようなもので、人間としての肉体は滅んでも、アンドロイドなどに意識的に
乗り移ることができる、ということなのでしょうか?

お礼日時:2018/07/19 16:37

ごめんなさい、文章が中途半端なまま送ってしまいました。



入院中の父の看病の途中ですのでこれで消えますが、私が言葉足らずで送ってしまった結果、聖書に対する誤解を招くといけないので、その点だけ付け加えさせていただきます。
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この回答へのお礼

>聖書に対する誤解を招くといけないので

篤い信仰心を感じさせる言葉です。
私も信仰を持っています。宗派は異なりますが、信仰心の強い方は
信念の強い方といえるので、私は人間として信頼できます。

機会があればまたお話ししましょう。

お礼日時:2018/07/18 22:40

ん? 何だか難しいですね。


もっとシンプルに考えてると思います。

確かに自然界のあらゆるもの、極小から極大に至るまで、そこには精密な法則性がみられます。

だから、惑星の運行を計算したりもできるわけで。

そういったことを聞かれたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

そういった解釈は思い当たらない、ということでしょうか?

お礼日時:2018/07/18 23:01

丁寧なお礼、ありがとうございます。



「問題は、そうなると宇宙は初めから「有」であり、つまり、「始まりがない」
 という我々にとって理解しがたい結論になってしまうということです。」
  ↑
現在、宇宙というものが存在する以上、初めから「有」であるのは、自然だと思います。

今の宇宙に関して、「始まりが無い。」のではなくて、「始まりはあった。」のだと思います。
「ビックバン説」が正しい必要はなくて、全く別のものでも構いません。

今の人間の知識、知能で理解できないだけで、「始まりはあった。」と考えるのが
妥当のように思います。

そして、その始まりの前に、また始まりが有った、と考えてもいいように思います。

問題は、人間は有限の命の中で考えており、3次元或いは4次元の中でしか、
考える事ができない、ということではないか、と思います。
それが人間の限界ですから、致し方ない。

私は、大雑把な人間ですので、自分で考えるべき範囲とか、それ以上は
考える価値が無い、とすぐ結論つけてしまいます。

科学者は、アリバイ工作をしているように見えます。
「今までの知識、知見から、こうであれば合理的に見える。」的な発想で、
ビッグバンなどを生み出しただけのように思います。

黒板に書くチョークについて、そのシルエットは長方形だ、といっているような
もので、それは円と言っても、楕円と言っても間違いではありません。

石灰と言っても合っています。白いと言っても合っていますが、
どれも「チョーク」そのものを正しく表現できていない。

ビックバン説もその程度の認識しかありません。


「無」という概念は、「有」を規定するために用いられたのでしょう。
「有」と言う概念の地平線を規定する必要が生まれて、「有がないところを無」と
したように思います。

「無」は現象のように思います。
「有が存在しない状態」が発生した現象を「無」としたように思います。
(「無」はそれ自体で独立して存在する物ではない、という意味です。)

スミマセン。
根がいい加減なので、妄想がどこまでも行ってしまいます。
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この回答へのお礼

>根がいい加減なので、妄想がどこまでも行ってしまいます

そうでもないと思います。

>宇宙というものが存在する以上、初めから「有」であるのは、自然だと思います。
>それが人間の限界ですから、致し方ない。
>「無」という概念は、「有」を規定するために用いられたのでしょう。

このあたりが庶民の知恵的な発想で、科学的でない部分があるのでしょうが、とても
なんというか哲学的で重要な部分があるのではないかと思います。

近頃ではこの庶民の知恵的なものが、「科学的合理性」というものに支配され軽んじ
られ、庶民の知性というか生命力が衰弱しているのではないかと思っています。

今後更にそうなってゆかないように、われわれ庶民は、科学がどういう結論に達して
いるかくらいのことは勉強して、庶民的知恵を捨てないで支配されないでいるべきだ
と思います。

かといって科学者が敵だという訳では勿論なく、むしろ科学をよくご存じなので、今
申し上げたようなことを憂いていらっしゃる先生方が少なくないことを私は知っています。

お礼日時:2018/07/18 22:34

1.科学的見解をお願いします。


  ↑
無から有は産まれません。
現実の宇宙には、無なんてありません。
エネルギーに満ちている、と言われて
おり、これが超紐理論の基本に
なっております。



2.哲学的見解をお願いします
  ↑
存在があるのですから、無もあるはず。



3.非科学的見解をお願いします。
  ↑
無、という言葉があるんだから
無は存在する。



4.個人的見解をお願いします
  ↑
無から有は産まれない、とすると
最初は何だったんだ、
ということになりますよね。
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この回答へのお礼

超紐理論の基本の情報、ありがとうございます。

「無」という概念はありますが、「無が実在する」ということはやはり
矛盾であるということにならざるを得ないという感じです。

とすると、始まりがないという結論になり、それが理解できないという
状態になります。

「そういうものさ」で終わらせたくないのですが、分からない状態で生
きてゆくのが、そういうバランスが人間にとって必要なのでしょうか?

お礼日時:2018/07/18 19:15

「無から有が生まれるのか?」


   ↑
生まれません。

私は、考えたことも有りませんでした。
故に、1~3に付いては、語る知識も有りません。
4に付いてだけ、素朴な感想です。

「無」とは、「何もない」という事を表す表現ですよね?

「何もない」ところからは、「何も生まれません。」
仮に「生まれる」とすれば、それは「無」ではないことの証明になります。

星間とか宇宙と言ったところで、そこに「何かは存在する」ので、
色々な難しい発見がある。
それは、単に「有」であることを人間が、「確認できなかった」からであり、
最初から「無」ではなかった、という事でしょう。

「無」から「何か」が生まれれば、それは「無」ではなかった、と言うこと
ではないか、と素朴に思います。

「生命」が誕生したのなら、「誕生させる何か」が有ったはずで、
それは「無」とは言いません。

宇宙のチリだろうが、有機物だろうが、それは「存在した」から、
次の変化が「存在できた。」

単純すぎるでしょうか?
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この回答へのお礼

仰っていることは論理的に正しいと思います。

問題は、そうなると宇宙は初めから「有」であり、つまり、「始まりがない」
という我々にとって理解しがたい結論になってしまうということです。

科学者たちはこの矛盾に対し、悩みに悩んで「ビッグバン宇宙説」というものを
考え出したのだろうと思います。

大乗仏教には「無始無終」ということが説かれていますが、この「無始」という
ことがどう考えても理解できません。しかし、考えることをやめたくはないんです。

お礼日時:2018/07/18 19:00

はい。

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この回答へのお礼

この論理ですと正しいとは言えないと思いますので、残念ながら
この宇宙は神の創造であるということに私は納得することができ
ません。

尚、キリスト教の中で「神」を「宇宙の法則」的に解釈する考え
方がある、という話を聞いていますが、どうなのでしょうか?

お礼日時:2018/07/18 18:45

4.だけ。


無があらゆる事(一切)を許容する故に、存在という世界もその許容された事象の一つとして生じた、という事を考えたことがあります。
あらゆる事とは、無限の非存在と、あらゆる可能性、存在でも非存在でもないもの、そして存在の事を指します。あらゆる事の中の一つとして存在という形態の世界があり、そこに我々生命体も在るという事です。

そして何故、この存在という世界の中にも多様な存在の仕方が現象しているのか、それは、存在というものの性質が一(いち)であり、その真っ平ら(便宜上こう表現します)な起源が無限の非存在やあらゆる可能性、存在でも非存在でもないもの、これら事象を映したのではないか?その映り込んだものが、全ての多様な存在の仕方を現象している。そのように考えた事があります。時間というのは、その、一なる存在の面に映り込んだあらゆる可能的なものの様相ではないか。

生物とは時間の複雑化した物質であると。

個人的な思考で造語も多く、難解な事を述べたと思いますが、こんな感じです。
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この回答へのお礼

この難問に対し意欲的なご回答有難うございます。
確かに難解で、こうした哲学的な思考に対しまだまだ勝手がつかめない
素人でありますので、あれこれ伺わないと理解できません。しかし、そ
の素人さがまた良い面もあるのでしょう。
それは、観念だけで分かった気になれないということです。
たくさん訊きたいことがあるのですがよろしいでしょうか?

まず、「無」というものがベースとなり、あらゆる事が「許容される故に」
「生じる」、と。
あらゆる事とは、「存在」「非存在」「存在でも非存在でもないもの」「可能性」
の四つである、と。

つまり、「無」から「有」が生まれるという結論なのですが、「許容される」とい
うことはどういうことなのでしょうか?

次に、「生じる」というのは、「創造される」ということなのか、自然発生的に生
まれるものなのか?

三つめには、「存在」は分かります。「非存在」も観念的には分かります。
「存在でも非存在でもないもの」これは分かりません。

それから「可能性」というものが四つの事の中に入っている、ということですね。
ハルさんの「存在性」という性質を連想しましたが、「変化する性質」みたいな
理解でいいのでしょうか?

まずは、こんなところです。

お礼日時:2018/07/18 13:54

1、については


手元にクレジット付きの資料がありますが、たくさんあって書ききれないので省略します。

有機物のスープから、生命は生じるのか?

猿人から今のような人間に進化するのか?

たくさんの専門家達が、それぞれの分野からアプローチを試みていますが、そのうちのどれ一つとして、進化を証明する満足な証拠を提示できていません。

…ので、
4、頑なに進化論を信じる事は、ある意味「信仰」に近いと言えると思ってます。

自然や生き物を観察していると、それぞれが目的をもって創造されたんだな~と感じることがあります。

金魚鉢の中に、買ってきた藻にくっ付いて、いつの間にかタニシが発生していました。
タニシは水槽に付いた緑色の藻を食べて、きれいにしてくれました。

猫を飼ってると、ネズミ等の小動物を捕まえてきます。
これは人にとって役に立ちます。

それぞれの生き物には、確かに与えられた役割がある事を
実感します。

では人間は?

私たち人間に与えられた役割は何なのだろう?

中学校の理科の授業で、食物連鎖のピラミッドを勉強しました。では誰が?この見事なバランスを考えたのだろう。

いろんなものが、誰か、何かによってプログラムされている事を実感します。

その誰か?を、ようやく創造者という概念で受け入れることができました。
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この回答へのお礼

進化論は科学的に証明できていないということですね。

だから、進化論は信ずるに足るものとは言えない。

一方、人間の体や自然界を見てみると実に見事なバランスをもって存在をしている。

これは、天地創造の神の業によるとしか思えない。

故に進化論は誤りで、すべては神の創造である、と。

まとめるとこんな風になってしまうのですが、よろしいのでしょうか?

お礼日時:2018/07/18 02:24

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