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永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    言い忘れました。

    >これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので

    と仰いましたが、これって証明できるんですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 00:52
  • №3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
    要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
    ということであって、根本的に異なる問題です。

    その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 01:45
  • 相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
    わずかしかいないとよく言われます。

    哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
    といいますから。
    まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
    たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
    理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
    る人はいないでしょう。

    それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
    かるでしょう。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/30 03:57
  • (つづき)
    仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。

    つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。

    宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
    結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。

    従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。

    今回は余談で終わってしまいました。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/05 09:13
  • 次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/06 23:45
  • 唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。

    そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
    夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
    人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。

    一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/07 14:51
  • どう思う?

    書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。

    主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
    それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
    るでしょう。

    環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
    計が人生だとも言えると思います。
    その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/09 15:00
  • これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。

    大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/10 00:01
  • 「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
    理解しなければいけないと思います。

    >うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね

    声聞・縁覚の幸せですね。

    失礼、また長くなりました。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/11 09:37
  • ここにコピーさせていただきました。

    「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の補足画像10
    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/14 16:23

A 回答 (85件中41~50件)

no.43の補足、今読みました。

補足があるのに気がつきませんでした。すみません。

全ての人に仏性がある、ふむ。久遠実成の本性仏に、どの様にして目覚めるのかと言う事は、無我を知ることでは無いかと思います。真我と言う言葉もありますが、これを無我と同等と見た場合、真我とは一種の働きであって、真実一如を思えば我と言う言葉が相応しいのかどうか、微妙です。

ただ全ての人に仏性のある理由は、全ての人が衆生であり迷っており、苦に浴しているからということになるのかな。人々が初めから真実に目覚めていて、安楽に生きているなら、そこに仏道の現れる事も無いでしょう。病気の無い世界に医者が生まれない様なものです。

人は野生の世界では無く、善悪などに縛られた世間に生きています。弱肉強食は修羅の道であり、野生の世界ともまた違います。

ニャンポコリンさんの言う生命と言う言葉が、どうにも精神性を帯びている様で、私は誤解していたかもしれません。つまり生命は苦しみを生む以外の何物でもない、と言うのが一つの見方であるのですが、ニャンポコリンさんの言う生命とは、生き方とか、人生と言うものの様な気がするのです。それは一種、全てであるでしょう?

仏教とは、人がしあわせになる為の教えだと思います。一神教は、人や世間を如何に平定するか?という治世の教えだと思います。
全ての人が神であるなら上に立つ者は居ない。下に立つ者も居ない。
肝心なのは、仏性とは何か?と言う事だと思います。もし人が苦を知らなければ仏性は無いかも知れない。しかしどうしても苦に帰結してしまうのが人ならば、全ての人に仏性はあると言えるでしょう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

この質問の中でキサラギさんとのやり取りの目的は、キサラギ世界観を理解をすること
が一つで、そのために「空仮中の三諦」の概念を共有しようと試みたわけです。

そして、お互いの哲学的見解を相対させて、この難問に対し一歩深められたら素晴らしい
ことだと思っています。対話の妙ですね。

ですから、キサラギ世界観の正当性とか、私の仏教の理解の正当性とか、他宗の解釈を論破
するといったことは、ここでの目的ではないと言えます。

ただ、「空仮中の三諦」についてはキサラギさんにとって初めて聞く話だということでした
ので混乱をしてはいけないということで、少々やかましいことを言いました。

宗教の文献とその解釈には、科学とは違う難しさがあり、様々な歴史的背景までもできる限り
踏まえて理解し、相対させたいと思っています。
例えば、新約聖書を私は少しだけ読んだことがあるのですが、文章だけでは、どう解釈してよ
いのか雲をつかむような思いをしたことがあります。宗教的文献というものは、まず真偽の問
題があり、訳の問題があり、解釈の問題があり、長い歴史の中での改ざんの可能性もありです
のでね。
まあ、キサラギさんですから、このようなことはお分かりでしょうけど…

「生命」ですか…「仮」の面と「空」の面を持った、「中」ということ。
「一念三千論」で表現できる実在。
「仏性」のこと。
私、キサラギさん、すべての人間、生き物、森羅万象…

やはり、理解が不十分な人間が人に伝えるということは難しいですね。

お礼日時:2018/08/09 14:34

お礼欄のための回答。

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この回答へのお礼

「仮諦」の仮(かり)という意味は、無常であるという意味であって「偽り」という意味ではありません。
そして、そこには仮のものを永遠のものと勘違いして固執してはならない、という教えがあるのではない
かと思います。
更に、因も縁も積み重なってゆくわけですから、「仮」も常に変化してゆくものであるけれど、自身の心
性の顕在化ということであり、諸法実相であるわけです。

「色心不二」は日蓮の法門です。色(肉体・物質)と心(精神・心)は独立したものではなく一体不二のもの
であり、それが一念三千の生命である、と。

十如是は釈尊の説です。

これらの関係を示すと次のようになります。

仮諦=如是相=色

空諦=如是性=心

中諦=如是体=生命の本質(一念三千)

五濁についての説は読ませていただきましたが、これについてのコメントは控えることとします。
私の仏教全般についての理解は、初心者から初級者に自ら格上げはしたものの、まだまだであるからです。

天台の著作は数多くあるようですが「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」が天台三大部として有名です。

お礼日時:2018/08/08 06:52

智顗が気になったので少し調べて、


http://www.tendai-jimon.jp/author/1/7.html
このサイトにて円頓章と十如是を読みました。
智顗の文章は分かりやすく書かれているなと思いました。
今回はニャンポコリンさんの見解とは視座や解釈が大分異なるものを回答として提出することになりますが、ややマクロで直な見方の一つとして受け取ってただければと思います。

本質我について。
智顗の言う中とは、中心ではなくむしろ遍在に近いのかなと思います。彼の見解から行くと、おそらく我も空であり仮であり中であるという事になると思われます。これは表面に偽りがあり中心に真実があるという観法ではないでしょう。表面もそのままで諸法実相を表しているとなるはずです。これに則った場合の意識の無二性とは、分別のままに自他を識知し、自己の唯一性をそこに見ない。主観的に見てむしろ分別あるからこその自分であると観るのではないでしょうか。要するに普通という事です。また、その我(われ)も空であり仮であり中であると観るならば、我もまた無いという事になるでしょう。この時に純一実相というものを見ることを得て、円満解決となるのだと思います。

五濁について。
劫濁とは、そのままの意味で長い時間という濁り、衆生濁とは種々雑多な生類、生き様という濁り、煩悩濁とは本能に基づく(心の)動揺という濁り、見濁とは誤った見解、偏見という濁り、命濁とは命と言う濁り、と、私は比較的そのままに五濁を理解しております。
ニャンポコリンさんは社会や支配者の事を織り込んで解釈されていますね。私的には、この広大な衆生世間と、娑婆世界において、一時代の社会や支配者がどれほどの影響を持ちどれほど大きな存在として認識されるだろうかと考え、それは僅かなものであろうと思いました。おそらくニャンポコリンさんの見解は、衆生濁の内訳と構造とを詳細に見ようとしたものなのではないかと。例えば劫とは天文学的に長い時間のことであり、この劫が過ぎ去る時には無数の時代と社会が生まれては滅しているはずです。我々の生きる一時代のスパンとはまさにスケールが違うのであり、そのスパンでしか実感を持てない我々が、劫のスパンにおける社会というものを論じ得るのかどうか。経に劫と言う言葉で明記されている以上、そのままに解釈するのが良いのではないかと、私などは思いました。法華経の作者が劫と表記することで言いたかったことは、長い時間=久遠の輪廻があると、人々は覚りを目指さないということなのではないかと。
法華経に曰く、「長い時間という濁りのある乱れた時には、生ける者達のけがれは重く、邪険で貪欲であり、嫉妬心深く、諸々の不善の根ばかりを植えているから、諸仏は方便力によって、唯一の仏の立場ではあるがそれを分別して三つに説かれる。」
ここにある『乱れた時』を乱世と解釈することで社会という言葉が出てきたのだと思いますが、智顗はこの劫濁をどう解釈しているのでしょうか?乱れた世の中の事と解釈しているのですか?文献等あれば読んでみたいですね。
私の解釈だと、長い時間がそのまま乱れである、という事なのかなと思っています。つまり長い時間とは平坦で真っすぐなものではなく、奔流の様であるという事です。それに巻かれた木の葉(人々)が何処に辿り着くかわからないように、長い時間のある時には、生ける者たちの汚れは重く、邪険で・・・・となるのだと。

>結論としては、思想・哲学の誤り、それを生む宗教・宗教的なものの誤りが五濁の原因ということになると思います。

なるほど、そうお考えなのですね。私の考えでは、五濁は人間の力ではどうしようもない、いわば自然災害みたいなものだと思っていて、その原因は無始であると。それゆえに円頓章のような識見でもって治めるものではないかと。

とりあえずこの辺で。お礼乱が必要であると思いますので、一応二つ回答を投稿します。必要であれば使ってください。
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この回答へのお礼

天台宗であるなら当然天台の教えであるはずだと考えるのが普通であると思いますが、
必ずしもそうでないのが宗教というものの現実と言えるのでしょうね。

日本の天台宗は最澄(伝教)が開き、三代の慈覚の時に真言密教の教えを入れてしまい、
比叡山の慈覚派と三井寺の智証派が対立し分派したということで、この天台寺門宗とい
うのは智証派の流れだろうと思います。

天台寺門宗の依経は法華経と大日経であると書かれてありますので、これは当時のまま
であり天台の教えではないといえます。天台の教えは法華経が第一であり、大日経は真
言宗の依経であるからです。

日蓮系においても根本となる経典である日蓮の遺文集は版がいくつもあり、勿論内容も
違います。近年において大幅に修正した派もあります。

学問においても解釈が様々あり、難しい話です。結局は自分の目で肚で見極めてゆくしか
ないということですねえ。

円頓章というのは手持ちの資料で調べても分かりませんでした。おそらく、この派独自の
ものではないかと思います。四諦のことが述べられていましたが、これは小乗経の教えで
あり、天台の教えではありません。
十如是は一念三千論の重要な概念の一つなので私の知っていることをお話したいと思って
います。しかし、ここでは説明があまりにも少なすぎる感があります。

キサラギさんの引用にケチをつけてしまいましたが、どうかお気を悪くなさらないように。

続きは№45に書きます。

お礼日時:2018/08/08 04:45

より詳しい説明有り難いです。


冥伏と顕在ですか。ふむふむ。
仮和合についても先程までの私の把握は狭義だった様です。初めて聞く話なので、再三の説明も無駄にならないと思います。

このお礼欄もお使いください^_^
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

中諦の続きですが、日本の精神科医である島崎俊樹氏は「本質我」という言葉を使っています。
即ち『自我の最も中核にあり、生命の本質をなす我を、本質我とも主我とも中心我ともいう』
と。まあ、分かったような分からないような感じですが、我々が普段感じている自我意識は、脳
が作り出したものだと思います。

それよりも、夢の中で自分を見ている「我」はこの本質我の近いと思います。更に、これは想像
ですが、死んだときにある自我というものは脳のない状態での自我と言えると思いますので、想
像的観念論になりますが、これこそが我々が主観的に感ずる「中諦」なのではなかろうかと考え
ています。

以前の「意識の無二性とは?」という質問は、いわゆる「意識の超難問」についての問であったと
理解していますが(違っていたら仰ってください)、これは私にとっても究極の難問です。

これを理解するには、「中諦」つまり生命の本質とは何か、を知ることが不可欠なのではなかろう
かと思っています。

「五濁」とは、法華経方便品第二に説かれていて、天台が解釈しています。
これについてもネットの記事をざっと見ましても様々な解釈があります。私の解釈は…

劫濁と衆生濁は社会全体の濁りのことで、社会の上層部の人間たちの煩悩濁・見濁・命濁が原因に
なっていると思います。
そして、すべての人間の煩悩濁・見濁・命濁がそれを支えてしまっていると考えています。また、
その三つのうちの見濁とは、思想の濁りつまり誤りのことで、この誤りが煩悩濁という人間の本能
的迷いを生むし、命濁という生命力の衰弱、意欲のなさを生んでいると考えています。

結論としては、思想・哲学の誤り、それを生む宗教・宗教的なものの誤りが五濁の原因ということ
になると思います。

例えば戦乱の時代では、時代背景としての宗教・思想というものを歴史で学ぶわけですが、当時の
権力者の頭の中にどういう思想があったかは分からないわけです。織田信長の伝記を読めば、若い
ころは理想的な社会を夢見ていたようですが、中年期に入り、「我は神なり」などと言っていたそ
うです。

これは現在も同じで、社会の中の勝ち組が「人権侵害は許さない」などという態度を見せながら、
何を考えているか、ということになるでしょう。

お礼日時:2018/08/07 14:36

智顗の著作は読んでいないので、ここでは教わるのみの形となります。

仮、空、中、について三諦と言うものが説かれていること初めて知りました。
中でのそれぞれの用語、因縁とか、中道とか、我と言ったもののここでの意味内容を、一応把握できた様に思います。
因縁と言えば、「ここで会ったが百年目」にある様な事を言うのだと思っていたのですが、存在論において色々に解釈されている事は承知しています。
中道については、人間の素朴な生き方の事を言うのだろうか?などと考えていましたが、智顗的に存在論に適用すれば、タオイズムのタオに似た概念として運用されているのかなと思いました。
空についてはこの場合、有無の二つのあり方以外のあり方で、しかも瞬間においてはこのどちらかの様相を取ると言う事で、これが一番、存在論的かなと思いました。しかしこの空が常住であるとはどう言う事か?と言う疑問も湧きました。ここで言う中道が存在論的に常住なのは理解できたのですが。この空はむしろ変容を意味している様に感じられました。

本然的な我と仰られているものは、手塚治虫の火の鳥に出てくる宇宙生命体でしたっけ?生命の塊みたいなあれをイメージしました。そこから分裂した個体にも、その生命の本質である我が宿っている、みたいな。

ところで、仏教には五濁という見解が提示されています。その中の一つに命濁と言うものがあり、これは命と言う濁り、の意味です。これは空の識知により解消されると思いますが、果たして仏教は生命を称揚しているのかどうか?この点についてニャンポコリンさんはどの様にお考えでしょうか。私も、生命の展開している熾烈な戦いを見るにつけ、その存在とは何なのか?疑問を持っているのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>一応把握できた様に思います

頼もしいですね。

実はやり取りしているうちに、キサラギ世界観の中に「空仮中の三諦」の考え方が
多分に含まれていると思い始めました。
しかし、私はこのことをよく理解していないので、勉強しながら話をしてゆこうと
思いました。

くどい部分もあるかもしれませんが、改めてこの説を説明します。

(仮) 仏教の因縁ですから、過去世の因と縁によって仮に和合しているという「認識
の仕方」(存在というものの)と言ったほうがいいかもしれません。
人間の肉体だけでなく、動植物、地球、太陽、銀河系、大宇宙に至るまでの物質。また
人生にかかわる人間関係、社会的立場、社会的力、財産なども、いや、これらこそがも
っとも分かりやすい「仮和合」といえるでしょう。

(空) あらゆるものの「性質・性分」が空であるという認識の仕方。
キサラギさんは理解していると思いますし、私も一応そのつもりですが、意外と難しくて
勘違いしているかもしれないと思っています。

有無、時空を超えているもので、逆に言えば有無、時空では捉えられないものということに
なるでしょう。「存在性」という性質は正に「空」だということでもありますね。

「冥伏」と「顕在」という仏教用語がありますが、「性質・性分」が顕在化したものが「仮
和合」であり、それが顕在化しない状態のことを「冥伏」といい、これを「空」の状態とい
う、ということです。

また、私はこれを「不変」としましたが、不変の部分と「可変」の部分とあり、その境目は
今はよくわかっていません。(という状態)

(中) 「仮」と「空」を含んだ「本質」という認識の仕方。といっていいでしょうか?

手塚治虫の世界観は「ブッダ」を描いたくらいですから仏教だと思いますが、何分読んだのは
子供の頃なのでどういう解釈をしているか不明です。今なら分かるかもしれませんが。

私は「空仮中の三諦」を仏教の存在論であると言いましたが、これは三つの面からの認識の仕
方といえるので「認識論」と言ったほうがいいようです。

仏教の存在論といえば、宇宙全体が大生命体であり、そこから個別化されたものが我々で、梵我
一如的に本質を共有している、と、「火の鳥」同じようなことになると思います。

お礼日時:2018/08/06 23:41

ふむ。

神の存在について戸惑っていたのはクリスチャンの方々ですか?ニャンポコリンさんは日蓮系でしたっけ?私は宗教のある方を特別に見る事はありません。私も神道的なものは好きですし、汎神論的アニミズムを心の何処かに抱いています。神道は道教とも繋がりがあると思ってますし、新訳ですが聖書も読んだ事があります。経典も読みます。そして、これら文化と、素朴な人間の姿について知りたいと思っています。

お礼欄が足りないと思いますのでどうぞお使い下さい。
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この回答へのお礼

日蓮系です。日本で最も有名な教団と言えばお分かりいただけると思います。

さて、「空仮中の三諦」というものがあります。これは中国の天台大師の説で
「法華玄義」「摩訶止観」に説かれているということです。
この説はキサラギ世界観と共通点があると思い、この話を少しさせていただこ
うと思いました。

「諦」とは「つまびらか」という意味で「真理」ということになります。即ち
あらゆる存在に(存在系に限るということでしょう)は「空諦」「仮諦」「中諦」
の三つの側面が備わっているということです。

「仮」とは、おのおのが因縁によって仮に和合している皮相的な面のこと、例え
ば今この刹那の「ニャンポコリン」→人が認識できるもの、ということになると
考えます。まさに「無常」であるものの一瞬の姿、といえるでしょう。

「空」とは、「存在」の「性分」のことで、有とも無とも固定できない、有無の
二道以外の冥伏された状態(まさに空)、しかも一刹那をとらえればこのどちらか
に固定している不思議な実在。
「ニャンポコリン」の「相」ではない「性」の部分が実在としてあるということ
だと理解しています。

「中諦」は「中道」とも言いますが、「仮」「空」の二面を備え、しかも動かす
ことのできない厳然とした「本質」ということです。
この「空」と「中」が常住というか不変のものであると思います。
この「ニャンポコリン」の本質というものは、肉体というものは勿論、今ある意
識・自我というものを超えたところにある本然的な「我」ということになると思
うのですが、今のところこの程度の表現しかできないということが悩ましいとこ
ろです。

この分析が仏教の「存在論」ということになると思います。

お礼日時:2018/08/05 17:23

哲学的悟りは誰にでもあり得る、これには大いに同意します。

著名な哲学者たちの中にも、それぞれの表現で自らの哲学的悟りを他者に説明しようと試みたり、批判的に見たりした人が居ますね。そして私も、自分の世界観を絶対視はしてはおらず、ある種批判的に見ています。そのため、「その1」と付けたのもあるのです。

ところで私も、ニャンポコリンさんの得た哲学的悟りについて聞いてみたいですね。あまり、キサラギの私的言語で説明ばかりしても逆に分かりにくい点が多くなります。大きなお金を崩して、雑多な小銭が手元に増える様なものです。
大きなお金をそのままに提示出来たら良いのですが、あいにくそれを指示する言葉がないのです。この哲学的な悟りを得た当時の私は、その得たものを称して「影を生じない光」と形容しました。こちらの方が直感的で、ニャンポコリンさんの求める表現に近いかなと思いましたが如何でしょう。
悟りを英訳すれば、Enlightenment エンライトメントと言うそうで、私の哲学的悟りはまさしくこの字義の通りだなと。

これまで説明してきた私の世界観は、仏道から見れば邪道の一種かも知れません。しかしながら、私はまた仏道を絶対視することもして居ないので、これを論じても良いかと思ったのです。ニャンポコリンさんは、適切にこれを聞いて、これの影響を受けて道を逸れることも無いだろうと思ったからです。ニャンポコリンさんは熱さのある割には冷静さもあり、一緒に話してて深いところにまで行けるのがとても良いと思っています。

さっきツイッターで、議論は共同作業と言うツイートを見かけました。そのツイートに、とても納得出来ました。ニャンポコリンさんとはお話を通じて、互いに得るものを得れたら良いなと思う次第です。

一念三千論について。
感じ方が違うというのはそのとおりかもしません。ブッダと衆生は心的に住む世界が異なるのでしょう。例えば生き身のブッダなら出会えば話も出来るわけですし、その二者がまるで別世界の住人なら会う事も出来ないですから。ただ、ブッダは身体が滅びれば二度と戻ってこない、輪廻しないと言われており、その場合、死後は何処に行くのか?と言う疑問もあります。法界と仏国土の違いなども少し気になりますね。
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この回答へのお礼

私にも語りたいことが山ほどあり、日々増えています。それは、日々思索をしている
からであり、それを語る人間が身近にほとんどいないからです。
世間話をする人はいくらでもいますが、哲学的な話をしても理解する人がいないとい
うことですね。
そうした「孤独感」をこのカテの参加者の多くは感じていることでしょう。

価値的な議論・対話は自他ともに次の要件があることが望ましいと思います。

・自信・信念があること
・その割に自分の考えを絶対視していないこと(独善的でないこと)
・自分の手柄とか所属する団体などの利益に固執していないこと
・真理を追究しようという高い目的観があること

そのように自分を高めようという「努力」、相手に対する「信頼」、相手を尊重しよう
とする「愛・友情」は、きれいごととして大事なのではなくて、社会的な価値を生む
「場」を作るために重要な概念であると考えます。

自分の手柄のために人を平気で利用しようとしたりする心を人が感じるから、「クソ」
だの「カス」だのという悪意が飛び交ってしまうのであり、その心は社会のための価値
を生む場を消してしまうと思う。これは、大人が模範にならなくてはならないと思います。
大変ですけど。

余談その1でした。

それから、私は信仰を持っているということを改めて申し上げたいと思います。仏教系です。
宗教を持つ人間は、無宗教の人間に不信感を持たれます。
「宗教の教えであるから、無条件に信じている」という点が最大のものであると思いますが、
それは必ずしも正しくないと思います。

例えば私は、信仰をする両親の家庭に生まれ、子供のころは無条件に信じていました。そして
大人になった今その延長の部分はあると思います。しかし、人間というものは物事を盲目的に
信ずることはなかなかできない生き物であると思います。
ある年齢になると人間の心には「哲学的懐疑」が生まれます。それは時代というものを背景に
生まれるものがほとんどでありましょうから、科学の時代である現代においては懐疑の度合い
はとても強いものであると考えられます。

私は若いころクリスチャンの女性と付き合ったことがあります。イブの夜、教会で過ごしたこ
ともあります。彼女の紹介で多くのクリスチャンと話しましたが、そこで感じたことは、「神」
の存在について戸惑っている、ということでした。

お礼日時:2018/08/05 08:51

ある電気回路があって、電気が流れたり、電気が流れなかったり、電気の流量が変化するものとします。



電気の流量が変化すると、周りの磁場が変化します。周りの磁場を感じる別の電気回路があり、この電気回路は、他の回路の電気の流量をいつも計測できるような状態にあったとき、他の回路の仕事を観察していることになります。

この観察している回路は、メインの電気回路におかしな干渉をしなければ、メインの電気回路がしているはたらきをいつもモニタリングしている状態にあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そう言えるかも知れません。

お礼日時:2018/08/04 23:44

訂正と言うか、補記をしたいと思います。


仏教の宇宙観では無いですが、大乗教典において、仏国土の説明に、寂静にして荘厳かつ空であると言った様な表現があったと記憶しています。これは、キサラギの世界観の常住と類似する所かなと思います。

言葉を超えたものを言葉にするのは中々難しく、今しているような、大きなお金を崩して使うみたいな作業がどうしても必要なのかも知れません。
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この回答へのお礼

仏教の解釈は実に様々であり、どれを支持するかは個人の哲学的センスに
よるといっていいと思います。
そして、あとは対話をして切磋琢磨してゆく以外にないといえるでしょう。

さて、「仏国土」ということについて…

一念三千論の中に「三世間」というものがあり、その中に「国土世間」とい
うものがあります。
国土とは十界の衆生が住むところをいい、世間とは差別のことです。即ち、
十界の衆生の住む場所にそれぞれ差別があるということで、その中の仏が住む
場所を仏国土(常寂光土)という、と。

十界のそれぞれの衆生が違う場所に住んでいるということではなく、感じ方が
違うということです。

この解釈を私は支持をしています。

>大きなお金を崩して使うみたいな作業

なかなかうまい表現ですね。

お礼日時:2018/08/04 23:42

これは難しい所ですね。


常住の世界では自他の区別がない、無一物であると言うのが基本です。
絶対的個性が認められるのは寧ろ無常の世界でのことなのです。
そして、無常を認める時には常住は無く、常住を認める時には無常は無いのです。
喩えば、闇がある時には何も見えませんし、そこは闇であると認められます。光がある時には何かが見え、闇は認められません。
また、トートロジーを出すと途端に陳腐な事を言っているように思う方もおられるかもしれませんが、これはただの個別ではなく、イデア的個のことを言っています。それで、絶対的個性と仮称するのです。

故に、ニャンポコリンの中に無常と常住があるのでは無く、ニャンポコリンが無常である時にはニャンポコリンは虚妄であるが名称を保持しており、ニャンポコリンが常住の時はニャンポコリンは真実なのだが名称を克越しているのです。
虚妄と真実が共存することがないのは、昼夜が分かれているが如くです。同じように、無常と常住も同時には認められないのです。

ここで一つ矛盾に思うことがあるかもしれません。無常の世界は常住から流出したのではなかったのか?と。
これは、概念の位相と無への到達のプロセスが逆になっているために生じる矛盾です。つまり、無への到達は無常から始まるのに対し、無からの出発を見た後には、常住から始まるのです。

尚、この様な詳しい説明をしたのは私も初めてで、キサラギの世界観が何番まであるのかは私にもわかりません(笑)とりあえず初めてなのでその1です。

また、仏教による宇宙観は、このキサラギの世界観とはだいぶ異なるでしょう。釈尊の時には基本的に無記ですし、大乗を含めましてもそれは広大な世界観ですが、全ては無常の世界であると説明もされています。そして、仏教の言う常住とは、人間が覚って到達する心の有り様のことであり、キサラギの言う常住とは異なると思われます。仏教の言う常住は、宇宙観と言うよりは、生き方の話だと思われるのです。
そちらの話の方が有意義なものであるとは思いますが、宇宙観等も人間の興味の対象である事は間違い無く、調べておいてもいい事と私は判断しましたので、色々と述べているわけです。

大体の方々が無から有は生じないと言うご見解の様でしたが、私の見解は、もし無を作成することができたなら、宇宙が生まれると思います。人類は擬似太陽を作りだしましたが、未来には擬似宇宙を作る日が来るかもしれません。その頃には、戦争など無い人類であってほしいですが、宇宙戦争における究極兵器の一つとして、宇宙創生の技術が使われているかも知れません。核兵器における放射能のような恐ろしい存在が、時間(時空)の流出と言う形で現れるかもしれません。SFみたいな話ですが。
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この回答へのお礼

哲学的悟りは、多かれ少なから誰にでもあるものだと思います。
勿論私にもあり、忘れているものもあるのだろうと思います。子供のころは
随分あれこれ考えましたから。ある日それを思い出して言葉になるなんてこ
ともあるかもしれません。

人の哲学的洞察を理解することは難しいのと同様に、自分のそれを人に伝え
ることも難しいのですね。
キサラギさんにしてもハルさんにしても「腑に落ち感」があるはずだと思う
わけです。
「どのように」腑に落ちているかが、私のとって興味があるところなのです。
それを知りたいのです。
それは、理屈で納得しているのではないということが明らかですし、私は人間
の論証的思考よりも、直感的思考の方をはるかに信頼しているということでも
あります。

さて、これまでの私の理解をダイジェストしますと…

まず、「言葉」が明示する「機能」が「ある」と。これは「法」というものとは
違い「能」ということである、と。

そして、「無」という概念から「許容」された「混沌」があり、「言葉の明示する
機能」により「混沌」と「存在」が区別される、と。
それは、人間が認識するものである、と。人間がいなければ区別して認識されるこ
とはないであろう、と。

物事に仕組みというか有り様というものは、こういうことである、と。

「無常」と「常住」という概念は微妙に違う気がします。「言葉」が頼りなのですが
それが邪魔になることもあり、聞いてばかりでも分からなくなることもあるし、こち
らの考えを言って分からなくなることもあり、まあ、簡単ではないですね。

お礼日時:2018/08/04 23:10
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