永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。
科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?
1.科学的見解をお願いします。
2.哲学的見解をお願いします
3.非科学的見解をお願いします。
4.個人的見解をお願いします。
No.11
- 回答日時:
丁寧なお礼、ありがとうございます。
「問題は、そうなると宇宙は初めから「有」であり、つまり、「始まりがない」
という我々にとって理解しがたい結論になってしまうということです。」
↑
現在、宇宙というものが存在する以上、初めから「有」であるのは、自然だと思います。
今の宇宙に関して、「始まりが無い。」のではなくて、「始まりはあった。」のだと思います。
「ビックバン説」が正しい必要はなくて、全く別のものでも構いません。
今の人間の知識、知能で理解できないだけで、「始まりはあった。」と考えるのが
妥当のように思います。
そして、その始まりの前に、また始まりが有った、と考えてもいいように思います。
問題は、人間は有限の命の中で考えており、3次元或いは4次元の中でしか、
考える事ができない、ということではないか、と思います。
それが人間の限界ですから、致し方ない。
私は、大雑把な人間ですので、自分で考えるべき範囲とか、それ以上は
考える価値が無い、とすぐ結論つけてしまいます。
科学者は、アリバイ工作をしているように見えます。
「今までの知識、知見から、こうであれば合理的に見える。」的な発想で、
ビッグバンなどを生み出しただけのように思います。
黒板に書くチョークについて、そのシルエットは長方形だ、といっているような
もので、それは円と言っても、楕円と言っても間違いではありません。
石灰と言っても合っています。白いと言っても合っていますが、
どれも「チョーク」そのものを正しく表現できていない。
ビックバン説もその程度の認識しかありません。
「無」という概念は、「有」を規定するために用いられたのでしょう。
「有」と言う概念の地平線を規定する必要が生まれて、「有がないところを無」と
したように思います。
「無」は現象のように思います。
「有が存在しない状態」が発生した現象を「無」としたように思います。
(「無」はそれ自体で独立して存在する物ではない、という意味です。)
スミマセン。
根がいい加減なので、妄想がどこまでも行ってしまいます。
>根がいい加減なので、妄想がどこまでも行ってしまいます
そうでもないと思います。
>宇宙というものが存在する以上、初めから「有」であるのは、自然だと思います。
>それが人間の限界ですから、致し方ない。
>「無」という概念は、「有」を規定するために用いられたのでしょう。
このあたりが庶民の知恵的な発想で、科学的でない部分があるのでしょうが、とても
なんというか哲学的で重要な部分があるのではないかと思います。
近頃ではこの庶民の知恵的なものが、「科学的合理性」というものに支配され軽んじ
られ、庶民の知性というか生命力が衰弱しているのではないかと思っています。
今後更にそうなってゆかないように、われわれ庶民は、科学がどういう結論に達して
いるかくらいのことは勉強して、庶民的知恵を捨てないで支配されないでいるべきだ
と思います。
かといって科学者が敵だという訳では勿論なく、むしろ科学をよくご存じなので、今
申し上げたようなことを憂いていらっしゃる先生方が少なくないことを私は知っています。
No.14
- 回答日時:
無から有は生まれないと思います。
1エネルギーの保存則(熱力学第一)に則るならば無から有は生まれない
性質を持ったエネルギーはエネルギーの態が変化するだけで無からではない
2生まれるという言葉に問題があります。生まれるとは生命が生まれると言う様な
循環するとか情報伝達するとか言う問題であって無から生命が生まれるという概念ではないです。
3アイデンティティの実現の為には物質の電子雲が必要でした。存在するだけじゃなく存続するのです
世代交代は進化するためにあるので 生き続けることでも進化出来る、学習考察する人間は死ぬ必要はないのです。
4生命の起源は水と有機物の結びつき 循環 秩序化であって それは太陽光による光合成に由来します
炭素固定と酸素分子の供給で生命は回りだし広がってゆきました。今や人口爆発です。
エネルギー保存則・超紐理論等、科学的には宇宙が「無」であったということは
ありえないし、無から有が生まれるということはない、という結論になりそうです。
また、このことは生命の起源が「創造」ではなくて、「発現」であるということに
なると思います。
発現ということは、循環しているというイメージになりますね。
>世代交代は進化するためにあるので 生き続けることでも進化出来る、学習考察
する人間は死ぬ必要はないのです
このあたりが分からないのですよね。
「存在性」という性質は「生気論」のプノイマとかエンテレキーのようなものあるい
は霊魂のようなもので、人間としての肉体は滅んでも、アンドロイドなどに意識的に
乗り移ることができる、ということなのでしょうか?
No.15
- 回答日時:
この話をするのは私は好きで、しかし話す機会もそうそうないので今回のにゃんぽこさんとのやり取りは正直うれしいです^^
さて、幾つか質問をいただいたので答えていきたいと思いますが、その前に一つ言っておくと、私のこの思考においては、無と言うのは存在よりも上位の概念であり、また、存在よりも上位の概念は無のほかにも幾つかあります。このことについて、ほう、そうなのか、程度に思っていただいたうえで、次の返信に目を通していただければと思います。
・・・「許容される」ということはどういうことなのでしょうか?
無が、あらゆる事を誘引すると思っていただければ。何ものも無いという事は、一切を許しているということです。伝わるかな。一切を制限するものが何も無いのであるから、一切が立ち現れるという事です。
・・・「生じる」というのは、「創造される」ということなのか、自然発生的に生
まれるものなのか?
うーん、この問いは、もっと話が降って行かないと、この私の言う世界観のこの段階では機能しない問ですね。何故か。「時間」は存在よりもさらに下位の位相にあります。この時間の感覚を超越した世界観をまず設定として頭に描いてみてください。そのうえで”生じた”という言葉の意味について説明します。実はここで”生じた”と言うのも正確ではないのですが、生じたの代わりに”在る”を使ってもいいのです。でもそうすると、”存在という世界が在る”となり、まるで、「おで、ニンゲン・・・。」みたいなバカっぽい感じがします(笑)ですので、生じたと言いました。生じたと言うと、何処からか生まれてきたとか、誰かが生み出したというニュアンスを持ってしまいますが、そのニュアンスを捨てて、意味を取っていただければと思います。
・・・「存在」は分かります。「非存在」も観念的には分かります。「存在でも非存在でもないもの」これは分かりません。
ふむ。喩えを出してみましょうか。「林檎でもなく、林檎でないもの(非林檎)でもない。」こう示唆されるものは無数に存在します。どういうことかと言うと、林檎でないもの(非林檎)とは、例えばバナナとか、蜜柑とかパイナップルとか、沢山ありますね。しかしこれら林檎でもなく、しかも非林檎でもないものは、この世に無数にある。例えば鉄。例えば人間。例えば青色。このように、果物というジャンルを超えればいくらでも例が挙げられる。同じように、存在でもなく、非存在でもないというのは、存在系(存在のジャンル)を超えている諸々の事と思っていただけると良いです。同じような言い回しは古代より仏教にも存在します。非想非非想という言い回しです。(これは、想いでなく、想いでないのでもないという意味です。)このように、従来の言語感覚で捉えている世界よりも遥かに広い世界を設定しているのです、今回の思考では。この世界観では、”存在”(の系)はガンジス川(見たことないけど)の砂の一粒という事になるのですね。驚きですが、そういう設定なのです。
・・・「可能性」というものが四つの事の中に入っている、ということですね。ハルさんの「存在性」という性質を連想しましたが、「変化する性質」みたいな理解でいいのでしょうか?
指摘されたのは、「あらゆる可能性」と表記されている箇所だと思いますが、そうと思って説明します。haru27さんの語る存在性とは、存在、それも永遠の存在に向かって進んでゆく性質であると私は理解しています。この性質は、にゃんぽこさんが今仰る「変化する性質」とは異なるものではないでしょうか。存在性を持ったものは変化もするが、存在性という単語の意味は、変化する性質の事ではない気がします。
そして私が、「あらゆる可能性」と表記したのは、何かから何かに化ける(変化する)という意味ではありません。何かから何かに成るという意味でもありません。これまでの説明と被る部分もあるのですが、その意味は、”存在の由来する処における可能性”です。先ほども説明した通り、そこでは【”存在の系”以外の系】が無数に可能であるという事です。存在の系とは、存在や時間、生命や物質、この宇宙における様々な現象のことを指します。それらの系とは別の系の可能性、しかも”あらゆる可能性”と言う意味です。
初めに戻りますが、まとめとしまして、この思考における概念の位相は、
無>存在でも非存在でもないもの、あらゆる可能性≧非存在≧存在>時間>生命
という順で、左に行くほど大きな(マクロな)概念となっています。ある意味で粗大と言ってもいいですが、別に粗いわけではない(細かくもない)ので単に大きなと言っておきます。
私はこの質問で「無」というものを「有」の対立概念としてのみ定義しておりました。
まあ、それしか知らなかったのですが、道家思想において、あるいはハイデッガー・
サルトルなどにおいてはこの「無」という概念が大変に重要であるということを知りま
したので、それらをチョコチョコ勉強しながら、少々知っている大乗仏教の哲学の概念
からプラスマイナス30%くらいの許容範囲でもって理解をする努力をしようと思ってい
ます。
さて、いわば第一層概念としての「無」と同列に他のものがあるとのことですが、これは
「キサラギ哲学」の肝要の部分のようですので仰るように保留にしておきます。
・許容される、ということについて
老子は「道」≒「無」をそこから万物が生まれ出る母胎と考えた、ということのようで
すが、この考え方は「有」の対立概念としての「無」=「なにもない」ということでは
なく、仏教でいう「空」の概念のことだと思うんです。
これに近いのかと考えました。
あるいは「真空」状態の空間へ空気が一気に流れ込むような自然な力、という感じなの
でしょうか?
第二層概念で、「無」に許容されて「ある」ところの「存在」等は「ある」ということで
あって生まれるとか創造されるということではない、ということは了解しました。
これは仏教の「常住」の概念と一致するのではないかと考えられます。
「常住」というのは「無常」に対する概念で、時間を超えて常に住するということです。
こういうことであれば時間が下位層にあるということは理解できます。
なるほど、「非存在系」ということですね?観念としては理解できます。これは実例を
提示できますか?
「存在系」がガンジスの砂の一粒とは確かに驚きですね。
非想非非想は知りませんでした。調べておきます。
「あらゆる可能性」という表記がよくわからなかったのですが、あらゆる系になりうる
可能性ということですね?これも観念として理解できました。
これは壮大な体系ですね。
尻切れですが、時間切れにつき今回はここまでとします。
No.16
- 回答日時:
生命というものは
我々の宇宙の内部における
有から有の一環として地球上に発生した
と理解してよさそうです。
ここで問題になるのは
我々の宇宙の前提としての有がなぜ生じたか
ということです。
おそらくは
少なくとも現時点の人間の
認識能力の限界をはるかに超えた
‘この世の全体‘の因果律が
我々の宇宙の有の前提となる
ビッグバンを引き起こしたんだろう
くらいに思っています。
>生命というものは我々の宇宙の内部における
>有から有の一環として地球上に発生したと理
>解してよさそうです
そのようですね。
>この世の全体
つまり、少なくとも、膨張を続けている我々が住む「ビッグバン宇宙」と同等のもの
が無数に存在している大宇宙が存在するはずであるということですね。
そう考えると、腑に落ちる気がします。
No.17
- 回答日時:
無から有は生まれ得ない
有は無になり得ない
現在、有であるということは永遠の過去から永遠の未来まで有である
これで論理的になにひとつ矛盾はありません
起源も神も必要としません
哲学的にはこれで充分です
科学的にも上記の論理で全ての事象を無矛盾に説明可能ですが、検証不可という意味では科学の範疇を超えています
私は哲学をはじめ、学問というものの全体像を把握しているという
自覚がまるでありませんので、仰ることの理解ができません。
例えば「永遠の過去」を論理的にどう説明できるのか?
「神」は比喩だと考えていますので私の中で問題はないのですが、起源
が分からなければ「有」の因が分からないということで、これを何故哲
学的に「充分」と仰るのか?
No.18
- 回答日時:
人間が認識できる無が真空であるならば、無とは周りより圧力が低い状態。
有とは無より圧力が高い状態。かな?
真空
https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%A9%BA-18374
No.19
- 回答日時:
これで3度目となり、しつこくて申し訳ありませんが、
素朴な疑問が湧いてしまって・・・・。
「無から有が生まれるのか、生まれないのか?(生命の起源)」
↑
人類が誕生してから現在まで、「無」を確認したことは無いのではないか、
と思います。
子供の時は日差しに漂うチリを見て、「チリとチリの間には何も無い。」と
思った記憶があります。
しかし、今になってみてば、空気の存在があります。
真空という言葉があって、空気を抜いていく装置があり、ではその結果、
「無が生じたか?」と言えば、宇宙空間と同じで、全く「無」ではない。
宇宙には「ダークマター」が充満している、とも言い出します。
原子の周りを電子が飛び交い、では、その飛び回っている空間は「無」か、
と言えば、結局、「無」ではない。
「無から有が生まれるか?」という問いは、
「確認」したこともない物を、平気で「存在する」という前提で
提示されています。
私も、平気で「無から有は生じない。」と平気で答えますが、
しかし、「無」そのものを確認出来るわけではありません。
確認出来ない事を前提に問を組み立てて居るこの問は、
空中に建造物を建てるようなもので、本当は成立しないのではないか?
人間は常に「有」の世界に存在しています。
「生命の起源」という観点からでも、それは科学的な見地から、
或いは宇宙に存在する有機物から、あくまで「有」の世界の
変転という意味で、説明可能なように思います。
詰まり、「土に帰る。」と言う考え方は、「有」の世界の中での
変転であり、正しい。
古くから有る「問」のようですが、その「問」を作成した方は、
「無」に関して、「日差しに漂うチリの間には何もない。」程度の
理解だったのではないか?
今の哲学の世界では「無」をどのように理解しているのでしょうか?
ここでも私同様、皆さん「無は存在する」前提で話されますが、
恐らく誰も「無」を疑った方は居ない。
なんか変な感じです。
https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1-140186
私がこの質問で「無」といったのは、「有」の反対概念のことで、つまり「ない」という
目に見えない形而上の概念のことです。
回答者の皆さんはキサラギさん以外は、それを前提にお答えいただいていると思います。
要は「鶏が先か卵が先か」を何処までも遡った先の生命の起源の問題です。
ビッグバンは「無」から起こったものであり、灼熱の無生の地球に生命が自然発生した、
というのが科学の見地で、(これを無矛盾で説明できるとの意見もありますが)この事が
科学でどうなっているのか、哲学的にはどうなのか、宗教では、というのが質問の趣旨で
ありました。
科学では、論理的説明ができるようです。
哲学では、「無」と翻訳される概念の中に、様々なものがあるようです。
宗教では、天地創造の神、無始無終、などがあるようです。
No.20
- 回答日時:
この宇宙は始まりというものはなく、終わりというものも無いと釈尊は言ったらしい。
釈尊が言うのだから、そうなのでしょう。
これを想像するために、私は球体を持ち出します。
球の表面を見ていると、どこが始まりで終わりはどこなのだろうと思えてきますね。
針の先である一点を指し示して、ここを始まりとした場合の終わりは?と考えると結局針の先で指し示したところになってしまいます。
だから、始まりというものはなく、終わりというものもないという事を言い換えると、始まり=終わりと言えることになります。
これを有と無に転用すると、有=無ということになります。
物事の二面性。
心質と物質。雌雄。え〜と、もっと何かあるかしら?
次にあげるのは、二面性と言えるのか分かりません。比較というものでしょうか。
大小、高低、硬軟、強弱、明暗、善悪、とか。
まあ要するに、この世の中は二つの面を持っている、と言いたいのです。
表裏一体なんて言葉もあるし。
有と無は表裏一体ではないでしょうか。
また、絶対という言葉を二つとない、比較するもののないという意味で使えば、この宇宙を総括する精神こそは絶対と言えるのだと受け止めています。
この精神の力に依って宇宙は存在していると思います。
☆ 弱い頭だから、何を言っているのか分からなくなってきて、うまくまとめられませんでした。
仰りたいことは分かります。
>この宇宙は始まりというものはなく、終わりというものも無いと釈尊は言ったらしい
釈尊が言うのだから、そうなのでしょう
私もそう思います。ただ、釈尊が言ったからということだけでなく、そうであるならば
私の中の「鶏が先か卵が先か」の疑問が解決します。
これは私が幼いころ父親が語ったことで、当時は本当に不思議で考え込んだものです。
実はこれが私と哲学との出会いだったんだなあと思います。
物事には相対する概念が二面的に備わっているということがあまりにも多くありますね。
仏教哲学にも、生死不二、色心不二、依正不二などなどがあります。
ただ、有無不二というのは聞いたことがないですね。
生と死の対比、肉体と精神の対比から考えると、有るものと無いものの対比ではなく、
有るものと「空」との対比なのかなあと思います。
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言い忘れました。
>これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので
と仰いましたが、これって証明できるんですか?
№3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
ということであって、根本的に異なる問題です。
その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。
相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
わずかしかいないとよく言われます。
哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
といいますから。
まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
る人はいないでしょう。
それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
かるでしょう。
(つづき)
仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。
つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。
宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。
従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。
今回は余談で終わってしまいました。
次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。
唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。
そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。
一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。
書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。
主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
るでしょう。
環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
計が人生だとも言えると思います。
その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。
これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。
大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。
「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
理解しなければいけないと思います。
>うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね
声聞・縁覚の幸せですね。
失礼、また長くなりました。
ここにコピーさせていただきました。