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永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    言い忘れました。

    >これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので

    と仰いましたが、これって証明できるんですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 00:52
  • №3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
    要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
    ということであって、根本的に異なる問題です。

    その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 01:45
  • 相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
    わずかしかいないとよく言われます。

    哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
    といいますから。
    まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
    たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
    理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
    る人はいないでしょう。

    それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
    かるでしょう。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/30 03:57
  • (つづき)
    仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。

    つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。

    宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
    結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。

    従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。

    今回は余談で終わってしまいました。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/05 09:13
  • 次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/06 23:45
  • 唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。

    そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
    夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
    人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。

    一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/07 14:51
  • どう思う?

    書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。

    主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
    それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
    るでしょう。

    環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
    計が人生だとも言えると思います。
    その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/09 15:00
  • これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。

    大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/10 00:01
  • 「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
    理解しなければいけないと思います。

    >うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね

    声聞・縁覚の幸せですね。

    失礼、また長くなりました。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/11 09:37
  • ここにコピーさせていただきました。

    「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の補足画像10
    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/14 16:23

A 回答 (85件中51~60件)

補足いただいた通り、とても分かり難い説明をする段階に入ったようで、恐縮です。



連続体を意識する経路において、無常なるものをすべて捨像すれば、無が現れます。こちらの方が簡単と言えばそうでしょう。しかし今説明させていただいているキサラギの世界観その1では、イデアの想起から全一なる存在を通過して無を知り、無を知ったことで混沌を解釈する、という経路を辿っています。それは、何か物事の本質を考える上でのたくさんある経路のうちの一つである、という事を踏まえた上で、さらに説明しますと。

この宇宙も、”この私”も、ニャンポコリンも、無常のものです。
しかしながら、個であるこの宇宙も、”この私”も、ニャンポコリンも、その本質においては常住の世界に住しているのです。
ここでする作業は、例えば「Aは何故Aなのか?」と考える時に、BやCやD、その他Aに連なる、関係する文字を想起するのではなく、【直(じか)】に、「Aは何故Aなのか?」を問う事です。
【直】に、「私はなぜ私なのか?」を問うのです。【直】に、「ニャンポコリンはなぜニャンポコリンなのか?」を問うのです。
両親が居てとか、どんな生い立ちがとか、何をしてきたとか、そういうものを一切捨像するのです。そこに、いわば無垢な私という事象、無垢なニャンポコリンと言う事象、が立ち現れてきます。
ですので、”私”は常住であり得るが、”ニャンポコリン”や”キサラギ”が常住ではあり得ないのではありません。”ニャンポコリン”や”キサラギ”も常住であり得ます。ただし、”私”と”ニャンポコリン”が=によって結ばれることは無いのです。また、
”あなた”と”ニャンポコリン”が=で結ばれることもありません。=で結ばれるのは常に、同じもの、例えば
私=私
ニャンポコリン=ニャンポコリン
キサラギ=キサラギ
あなた=あなた
という事なのです。トートロジーです。これを絶対的な個性と仮称してみましょう。

ニャンポコリン2さんの考えでは、私と言う生命体は、全宇宙とつながっており連続体である。そして、全宇宙は常住の本質を湛えている。故に私もまた常住の本質を得ている。という論理があるのだと思います。(違ってたら仰ってください)

しかしこのキサラギの世界観その1では、全宇宙はそのままでは無常のものであり、常住の本質を湛えていません。一切は移ろいゆくのです。ただ、全一なる存在やその起源である無に意識がたどり着いたときに、一切の無常なるものはそのままで、生じもしない、滅しもしない、しかも空であり常住のものであるという認識に立ち得るのです。何故か?それは、無常もまた無常であるからです。無常にもまた絶対的な個性が適用されるのであり、無常を【直】に観察した時には、その姿が晴れて常住のものであると認識されるようになるということです。

一応追記しておくと、これらのことはそうなるはずであるという事であり、私が既にそうしたというのではありません。
ただ私は昔、たった一つの事柄を直に問うことで、このような世界観を構築するに至ったという事です。

>「ニャンポコリン」というものは今のこの瞬間の「私」の姿であって、無常の
部分である、と考えます。従って「ニャンポコリン」を知ることは私の本質を
知ることではない、ということは理解できます。

この瞬間の私、この瞬間のニャンポコリンであるからこそ、それを直に問うてその本質を知ることになるのです。
0.00000・・・1秒前後してもダメです。この瞬間でなければなりません。そうしないと時間(無常)を克服できないからです。永い時間(永遠)が常住であると言っているのではなく、永遠の無常を超えなければならないという事なのです。
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この回答へのお礼

つまり、キサラギ世界観その1(そのいくつまであるのか?)では、言葉で表現
されるものはすべて、「絶対的個性」をもつ独立したものである、ということ
なのですね?

私の世界観では、仰る通り、宇宙の根源としての「本質」があり、そこから個
別化した「私」があり、永遠に変化を続ける「私」の現在の瞬間の姿が「ニャ
ンポコリン」であり、私以外のあらゆるものが同様に個別化されたものである
というものです。
つまり、私>ニャンポコリンであって、私=ニャンポコリンとも言えないが、一
変化相、と言えると考えています。

この基本形は仏教哲学もそうですし、西洋哲学においてもカントの「物自体」と
か汎神論の「神」という考え方も同じではないかと思っています。

しかし、キサラギ世界観では、あらゆるものが「無常」も「常住」でさえも、言
葉で表現されるものはすべて独立した「別物」であるということなんですね?

また、独立した「別物」といえるのだけれど、「ニャンポコリン」の中に「無常」
と「常住」があり、これはつながりがある、と。

しかし、「私」と「ニャンポコリン」の間にはつながりはないということなので
すか?

ふーむ、難しいですね。

お礼日時:2018/08/01 07:56

いや、ニャンポリン2を知っても、あなた自身を知ったことにはなりません。


「私はなぜ私なのか?」と言う問いに意味を感じるのであって、「私はなぜニャンポコリンなのか?」と言う問いに意味を感じるのではないのです。又、「ニャンポリンはなぜニャンポコリンなのか?」と言う問いに意味を感じるのであって、「ニャンポコリンはなぜ私なのか?」と言う問いに意味を感じるのではないのです。

これは、個体を意識するのか、連続体を意識するのかの違いです。
前者を喩えるなら、リンゴの本質を考える時に、リンゴのイデアを想起するような事です。後者を喩えるなら、リンゴの本質を考える時に、リンゴの原種を探し求めるような事です。私が名示について語る時は、前者の経路を辿ります。即ち、リンゴのイデアを想起し、なぜリンゴはリンゴなのか?を問うのです。その時に生じる説明不可能性、リンゴのあらゆる特性を説明することはできないという不可能性を知って、尚リンゴの事を識知している事実を鑑み、これをもって【知】と呼ぶ事にしているのです。

もし、心身統一体で諸々の私足る特性を備えたものがニャンポコリンと名付けられているのであれば、それは両親から受け継いだ遺伝や、諸々の経験、体験の組み合わせに還元されます。それは確かに唯一無二のユニークなものではありますが、そんなユニークな物はこの世にごまんとあり、むしろ、この世にユニークで無いものは何一つ無い事となります。それら全ては、時間の世界に規定された無常なるものであります。極論すれば、1秒経てば別人になるとさえ言えます。
私が言っているのは、他でも無いそれが何故それなのか?と言う事柄なのです。この事に疑問を抱けるかどうかが、私の語る名示、言葉の本質を知る分岐点となっています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

この点は肝要の部分なので、こだわりたいですね。

以前「意識の無二性」という質問で長いやり取りをしていただきましたが、
その時に「私はなぜ私なのか」という子供のころからの疑問は残念ながら
解消されることはありませんでした。

「私はなぜ私なのか」という疑問は私の中でどうなっているのかをちょっと
説明しますと…

私の存在というものは宇宙の中で個別化された「生命」ということになります。
その生命は時間的に連続しているはずのもので、「常住」の部分と「無常」の
部分に分けることができると思います。
また、空間的に全宇宙とつながっている、と考えています。

で、その「個別化」ということがわからないということです。
個別化によって私の生命というものがあるし、精神・意識というものがあるわ
けでありますが、初めから個別化されていたのか、ある時点からそうなったのか
何かの力でそうなったのか、いったい何なのか?

「ニャンポコリン」というものは今のこの瞬間の「私」の姿であって、無常の
部分である、と考えます。従って「ニャンポコリン」を知ることは私の本質を
知ることではない、ということは理解できます。

そして、「常住」の本質の部分の「個別化されたところの私」を、「連続体」と
仰っていると理解してよいのでしょうか?

お礼日時:2018/07/29 03:33

では、お言葉に甘えて洗いざらい話してみます(笑)疲れたら遠慮せず言ってくださいねw



明示するという機能について。
大体にゃんぽこさんの目のつけたところで大筋はあっています。

ところで、「にゃんぽこさんは人間である」としたとき、じゃあにゃんぽこさんは全く人間であってそれ以外の何者でもないのか?と問いを重ねると、また別の解が導かれるでしょう。にゃんぽこさんは生物であるとか、男であるとか、○○屋さんであるとか。
では、トートロジーでもって、「にゃんぽこさんはにゃんぽこさんである」と当たり前のことを言ったとしましょう。こうすることで、他に解釈のしようのない、他ならぬにゃんぽこさんが現れます。そして、じゃあ「にゃんぽこさんは何故にゃんぽこさんなのか?」という問いを重ねた時に、この問いを問いとして受け取る感覚があるかないかで、名示することの本質をつかめるかつかめないかが分かれます。なんでだろう?と思えることが重要です。
 にゃんぽこさんがにゃんぽこさんであるという絶対的な規定が『にゃんぽこさん』という語を発した時点で存在しているはずであり、その規定が存在しなければ『にゃんぽこさん』と名指しできる存在は無いことになります。「にゃんぽこさんは何故にゃんぽこさんなのか?」と問われて、いや、もしかしたらにゃんぽこさんはにゃんぽこさんではないのかもしれない・・・と混乱を来たすようであれば『にゃんぽこさん』を知っていることにはならないわけです。
『にゃんぽこさん』という名を発した時点でにゃんぽこさんがなんであるかという事を人は内在的には知っているのです。具体的に説明せよと言われれば、にゃんぽこさんは性格は○○で仕事が××で、趣味は△△で、など出てくるでしょうが、それら全てかき集めたとしても、にゃんぽこさんを”全一的に”説明したことにはならないでしょう。この説明不可能性のある絶対的な規定を、名示と呼んでいます。「にゃんぽこさんがにゃんぽこさんであって他の何物でもないその理由を示せ」と言われ、その理由を内在的に知っていること、これが言葉の【真の機能=本質】であると私は考えました。言葉に出来ないこの理由を、確かに知っているという事、これが言葉の真の姿(=知)なのであると。

混沌について
確かにギリシャ時代の解釈で表面は合っていますが、古代ギリシャ人が混沌をどの様に解釈していたのか、私には分かりません。タオイズムのように解釈していたのか、キサラギのように解釈していたのか。
そして、私の言う混沌は、非線形を用いた説明とはまた異なると思います。決定論的カオスと言うのは初期値が決定されており、そこから徐々に変化が無限に発散するという事だと思います。しかし、キサラギの言う混沌の初期値は無です。無から一気にも、徐々にも、極大的にも極小的にも、あらゆる様相を以て、無限に発散しているのが混沌であると言っています。従って、非線形が関係するのは私の言う混沌ではなく、時間の方だと思われます。時間は、一なる存在に投影された混沌の姿ではないか?というのが、私の今回提示した世界観での見方です。この場合、時間(混沌の影)の初期値は1です。1から生まれるので存在できるのです。0によって誘引したものはただ、存在と言えるものではありません。であるから混沌であると名付けてみたのです。
一なる存在は無の性質を受け継いでいること(自他が無いこと、真っ平らである事)は間違いないのですが、これは無の表面に張った被膜のようなものではないかと考えています。

猪突さんが最近また回答されていますね。彼の先生は世界的に著名な研究者で、複雑系とかカオスの分野で素晴らしい功績を残したそうで、彼もまたその分野の専門家として活躍しているそうです。彼は物理学者ですが、物理学には物理学の制約がありますね。制約は時に鋭利な刃物となって世界像を切り出すのに大きな力を発揮します。しかしその分、物理学的切り口では刃が立たないという事もあろうかと思います。
キサラギのような素人哲学は制約の少ない、ただ言葉と言う制約のみがあるだけで鋭利ではないかもしれませんし、原始的な鈍器の様かもしれませんが、これはこれで手に馴染んだ道具と言う意味では心地いいものです。目の付け所によっては、穴場の岩を割り出して高価な原石を発掘できるかもしれません。
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この回答へのお礼

言葉の本質ということについて

うーむ、いまいち掴めません。

「私」というものがこの世に存在します。
それは、心身統一体で私というものの特徴を備えたユニークな存在であると
思っています。
何にせよ、それが存在をし、「ニャンポコリン」という名が付けられている。

私を知る人たちは、それぞれに私を認識しています。よく知る人もいるし、少
ししか知らない人もいる。
しかし、「ニャンポコリン」という言葉を発した瞬間にすべての人が内在的に
私というものを知ることになる。

その知らしめる力が「言葉」の本質的な力である、と。そういうことなのでし
ょうか?

お礼日時:2018/07/28 04:22

いつもお礼ありがとうございます。


この話、人に詳しく説明するのは初めてでして、にゃんぽこさんとのやりとりで自分の頭も整理されているようです。ありがとうございます。

お話しさせていただいてる中で、沢山説明したいこともありますが、まぁ、おいおい行きましょう^_^
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この回答へのお礼

こういった話題は、日常生活の中ではなかなかできないものですから、
(まして、我々は素人ですから)思うとことを語るにはここは好い場であ
ると思います。

ですから、あらいざらい(笑)語っていいのではないでしょうか?

お礼日時:2018/07/26 08:47

重要と思われる事を思い出したので追記します。

何分、二十歳ごろに考えていた事なので忘れていました。

それは、言葉の持つ、"名示する"という機能についてです。それがそれであることを決定する、例えばAがAである事を決める能を、言葉は有しているという事です。

先程は言葉とは法を言い換えたものであると言いましたが、システムとしての法とは全く別の意味を、言葉は持っています。ですので、今回は法の如何を解釈するよりも、"言葉"の如何を解釈した方が良いです。その方が、私がこの考えをリアルタイムでしていた頃の解釈に近いです。法を持ち出したのは、色々学んだ後の、後付けみたいな感覚があったので、自分でも納得がいってなかったのです。

いやぁ、大事な事を思い出してよかった。すっかり忘れてた。

言葉>無>混沌>・・・・

という風に表記し直したいと思います。

"法"を入れるとどうしても仏教的観念などにも引きずられてしまい、この世界観の本質からズレる気がしました。

ただでさえややこしい事を言っているのに更に訂正してすみません。でも、思い出せてよかったです。
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この回答へのお礼

>言葉の持つ、"名示する"という機能

うーむ、と唸っております。

「存在」という言葉をもう一度辞書で引きますと、

『AはBである、といった判断の主語と述語の関係性をしめす「ある」のこと』
とあります。
「私は人間である」とした場合、ニャンポコリンは人間で「ある」とされると
いうことである、と。
存在論でいうところの、こういうことなのでしょうか?
(何を言っているか自分でも不安になっております)

もう一点、混沌(カオス)ということについて、下の1・2を引用させていただきます。

1 ギリシャ人の考えた、宇宙発生以前のすべてが混沌(こんとん)としている状態。混沌。無秩序。ケーオス。⇔コスモス。
2 特定の規則や微分方程式に従う系に生じる、不規則で乱雑な予測不可能な挙動。系自体は決定論的だが、系の変化が初期条件に極めて鋭敏に反応し、数値計算の誤差が時間の推移とともに増幅される非線形性をもつため、計算精度をいくら向上させても、事実上、正確に予測できない現象を指す。確率的な乱雑さとは異なるため、決定論的カオスともいう。

キサラギ世界観では、1が近いのではないかと考えています。

また、2については、このカテで久しぶりに「非線形」という単語を目にしたので
(書いている人はその道で著名な方のようです)刺激され引用してみました。
キサラギ世界観には関係のない「カオス」であると思いますが、こういうことを理解
出来たなら、考え方に幅が出て来るだろうと思いました。

「不確定性原理」とか「ヒモ理論」などもそうで、超難解なのでしょうが、理解して
ゆきたいですね。

お礼日時:2018/07/26 08:42

言葉を、別の表記で法と記しました。


正直、この法がなんであるか語る言葉を持っていないので説明が出来ません。知的に理解していないから説明が出来ないのだと思います。位相として無の上位に来るだろうと思われるのですが、何故そうなるのかうまく説明できないです。喩えば、三原色があり、さらに透明と言うものがある。そして、それらの混合で全ての色彩が完備する。この、三原色と透明が混合することによって全ての色彩が完備する、という規則、これを法と言っています。何か具体的な、赤色とか、透明とかいう事を法と言うのではありません。赤色に相当するのは存在であったり、透明に相当するのが無であったりするのです。
無と、混沌と、存在、それらの関係性を定めているのが法であると言うことで、異質ではありますが、法を無の上位概念として配置しています。法が根源的な概念と言うよりは、無などの根源的な概念達を、統括、制御する概念と言うことになるでしょうか。

ところで、言葉とは神の言葉のことか?と言う指摘ですが、それは神をどの位相に配置するかによって変わります。例えば全一なる存在、これは往々にして神と呼ばれます。また、時間についても、これは神秘思想的には名を持つ神であります。神の言葉は法なのか?これは大議論を巻き起こしそうですが、私は違うんじゃないか?と思っています。法とはあくまで、一切の関係性や構造を取り仕切っている何かという事です。

もひとつ喩えて見ましょう。人間において、主要な臓器は幾つもあります。どれが最重要か、順列をつけることは難しいでしょう。筋肉なのか、骨なのか、心臓なのか、脳なのか、はたまた血液なのか、、、しかしそれらを総合するシステムがあって初めて人体として成立します。法とはこの全体を総合するシステムみたいなものと思っていただければと思います。
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この回答へのお礼

>知的に理解していないから説明が出来ないのだと思います

そんなことはないと思います。
論文を発表しているわけではないので、理論ができていなくても私としては
構いません。
私は理論というものにあまり興味がなく、直感的にどういう発想をするのか
ということに大変興味があるからです。
ただ、人の考えたことを理解するということは難しいことで、どうしても理
論に頼らざるを得ない部分があり、あれこれ尋ねることになってしまってい
ます。

これはハルさんも同じですが、微調整しながらキッチリ理論を作っていった
ら、すごいことになるかも知れないなんて思いますよ。

さて、言葉=法、ということですね。
「法」というものがあらゆるものを統括というか制御する、という考え方は
大乗仏教の哲学と(大まかに言って)同じですし、西洋哲学も(知らないことが
多いですが)結局、そういうことになるのではないかと思っています。

従いまして、私にとってこの考え方は全く違和感のないものです。

驚いたのは「混沌」という概念で、私はこう考えたことはありません。
確かに可能性としては「何でもあり」なはずですよね。

「ある」はずの、「存在」として映りこめなかった大部分の「残り」のものを
どう考えればいいのだろうか、なんて思います。
仏教哲学の中にこういう概念は、なかったと思います。(たぶん)

お礼日時:2018/07/25 01:08

今回の私の世界観を説明するための、ちょっとした画像を作りました^^


概念の位相の表記は出来るだけシンプルにしたかったので、≧などの微妙な表現は除外しました。

さて、仏教では、解脱とは作る働きの静まった境地と言います。止滅とも言います。何をとどめて、解脱と言うのか。ふむ。。悪をとどめて、解脱と言うのだったかな?
なぜ今回の思考から人間存在を除外したかと言うと、人間のこころというものはもっと人文的な世界の事であり、ある意味で無情な今回の思索とは別物という感があったからです。
「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の回答画像30
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この回答へのお礼

これが全容ということでしょうか。
上のほうから整理して理解したいと思います。

「言葉・法」という概念が最も根本ということですね。

以前キサラギさんと、道理→法、という話を少しした記憶がありますが、ここでの
「法」とは考えうる根源的な法・道理という風に考えていいのでしょうか?

それから「人語ではない言葉」という概念、「神の言葉」的なニュアンスを持つもの。
「法」とは別のこの「言葉」とはどういうものなのでしょうか?

これを理解すると、0である「無」の上位にこれがあるということが分かるかな?

お礼日時:2018/07/24 06:49

1.『進化論を「再定義」する物理学者、ジェレミー・イングランドとの対話』

https://wired.jp/2016/08/21/interview-jeremy-eng …

2.Q:信念に命を捧げるということ-no.28さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10067307.htmlの>生物学における進化論が、以降の2つの段落。

4.にゃ_ぽ_りさんこんばんは。私は元rパンの子孫と申しました。おお!名を名乗るのって気分がイイです、ある人にそう呼んでもらってめちゃくちゃ嬉しかったんですけど、IDが別の方の迷惑になってしまうので今のIDにしました。ままならないものです。が、自分の名前を考えるのもまた楽しからずやった。
以下見解というほどではないです。自分で読んでみてなにが書いてあるかわからないです。やれやれ。この程度の理解/無理解で上の2つをチョイスしました。
生命とは何か?から始まっちゃうな。なんか増える奴。生命。でも結晶とか結構増えるよね。塩の結晶とかなんか角ばったやつどんどんおっきくなる。それって、整然とした奴。互いに似てる2つのもの。まあ増える奴だ。何が増えるかっつ―と整然さがふえるわけだ。なんとなく。ふるえるわかめちゃん。あとじゅんばん。とにかくちらかる。少しくらい汚れている方が、部屋も世の中も住みやすいってもんよ。前より後のほうがちらかる。ダメ絶対。じゃあ前の前は?もっとちらかってなかったよね。きっと。前の前の前は?あんましちらかってなかったっぽいさ。最も前は?なーんもなければいちばんちらかってない。無。まぁなんだ。とにかく順番があるのか?人と関係なく?順番も人が思いついたことかも?
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この回答へのお礼

>進化論を「再定義」する

ですか、ゆっくり読んで見たいと思います。

生命って本当に不思議ですね。

お礼日時:2018/07/24 06:33

そうでしたか。

ではゆっくり行きましょう。と思ったら、さっそく幾つか回答せねばならないようです(笑)

存在の定義について。これは非常に哲学的な回答をせねばならないのですが、「存在とは”全一”なるものである。」というのが私の存在とは何か?の答えです。”常住”とにゃんぽこさんが仰りましたが、その理解で大体OKかと思います。自他の区別なく、生じもせず、滅しもしないそれです。物質とか、概念とか、生き物とか、その他存在系にあるものは、全てこれの子供みたいなものです。何故、全一なるものにこのように多様な”子供”が存在するのか、これについては難解な説明をしなければならなくなります。私にとっても想像の域を出ないことであり、多様な考えの一つとして受け取ってもらえればよいかと思います。
 また、人間存在についてはこれはまったく別の話であり、今回の哲学的考察には含まれないとしてよいでしょう。認識主体としての人間存在や言葉を使う存在としての人間存在が話の流れによっては登場するかもわかりませんが、基本的には別の話だと思っておいてください。”こころ”というものを今話題では扱っていないという事です。

で、問題の”無限の非存在”とは何かですが、これを説明するために、数記号を使って今までの経緯を簡略化したいと思います。まず、無とは0のことです。これはわかると思います。そして、混沌のことを、ここでは∞と表記したいと思います。そして、存在は1です。無限の非存在とは概念の位相としては混沌のレベルに属するもので、在るとか、無いとか言えないものです。あらゆる可能性も、(先ほどは便宜上、あると答えましたが)在るとか無いとか言えないものです。この混沌(∞=不可解)をどう解釈するかで、非存在の観念的な理解の可否が定まります。
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この回答へのお礼

暑さには強いつもりなのですが今年の暑さは特別で、昨日あたりは脳が
おねんねしていたようです。ようやく回復してきました。

〔存在の定義のついて〕

全一なるもの、自他の区別なく、生じもせず、滅しもしないもの、ということですが、
哲学辞典を引きますと7項目があり、その中で

『形而上学的な実在、様々な現象・変化の根底にある実在のことで、本体・本質などと
称される』と。

これが一番近いのではないかと考えています。ただ、哲学の世界も広くて、理解のでき
ない文がいくつもありました。

仏教哲学の中の「常住」という概念は、

『常に住すること。無常に対する語。過去・現在・未来の三世にわたって常に存在し、
生滅変化がないことをいう』

西洋哲学においては時間をどのように解釈しているのか未だ知りませんが、仏教哲学に
おいては「生命の本質」がこのように存在しているということを「常住」と表現してい
るようです。

こちらのほうにより近いという風に理解しました。

また、精神を持った人間存在は含まれないということで、当然理由があるのでしょうが、
ここではひとまず、そうであると覚えておくことにします。

〔非存在について〕

この存在の定義(私の中では確定的ではないですが)に基づけば、本質にあらざるものある
いは無常であるもの、も非存在の範疇に入るということになるということでしょうか?

そして、「非」の方向へ無限大にありうる、ということで∞としたのでしょうか?

本質にあらざるものは、「混沌」と表現して間違いではないと思います。いや、面白い表現
と言ったほうがいいでしょうか。

本質にあらざるもの…うーん掴めないですね。


「想像」ー結局、人間が作った物は想像力が生んだものだと思うんです。
これを軽く見て、論理的整合性ばかり重視する向きがありますが、人間の想像力が枯れたら
文明も枯れると思います。

キサラギさんの今回のお話は、真理の追究というよりも「考え方」として面白いと思っていま
す。
これの考察によって、何かとてつもない真理に気が付くような期待感があります。

お礼日時:2018/07/23 07:28

あらゆる可能性はあるのか?



例えば、影があれば、それを落としている光と、影の本体があるでしょう。
この存在世界の内の多様な姿を見るにつけ、何故ここはこのように複雑多様な姿を顕しているのか?と考えるわけです。そこから、これはあらゆる可能性の影ではないか?と考えて試みるわけです。順序は逆になるけれど、存在世界における時間や多種多様な物質、生命などのあるのを見て、そこからその因や原理を想像すると、「一なる存在の平面に映し出された混沌が、時の潮流や諸々の物となって存在世界に現出した。」のではないか?と、思えたりするわけです。これもまた難解だと思いますが。。

さて、パーツの話ですが、元になるパーツは何なのか?という事が気になりました。
例えば青と緑と赤は光の三原色で、それらから無限の色彩が生まれ出ます。その三原色にあたるのは何か?元型のパーツの形によっては組み合わせが無限に膨れ上がる事も出来ますね。

ところで、魚やイカなどの、人間よりも色覚の発達した生き物には、原色が三つ以上あるそうです。

元型となるパーツも、人間に識知出来るものだけが全てではないのかなと思ったりもしました。

創造、ここで仰っている創造とは無からの創造の事と思いますが、私は無からの創造は特に人間には身近にあると思うのですね。それは直接には見ることも触れることも出来ませんが、見ようによっては五感以上に直接的に知覚出来るものです。それは何かというと、概念です。それは透明な設計図とも言えますね。

例えば今、私は近所の川に足を突っ込んでiphoneいじってるわけですが、この小さなデバイスは物質で出来ています。パーツで言うと、いろんな元素の組み合わせで出来てます。しかしその姿は無から創造された設計図を象ったものであり、しかもそのデバイスで今やり取りされてるのは、ミミズのような文字で、この文字にまた意味と言う直接には見えも触れも出来ないものが宿っているわけです。
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この回答へのお礼

余計なことを言い出したために、かえってわからなくなった感があります。
後でまた持ち出すかもしれませんが、勝手ながら一旦ひっこめさせて頂きます。

私は、何事においても急いでしまう悪い癖があります。
例えば、人の話を聞いていて「早く理解しなきゃ申し訳ない」と思ってしまった
り、本を読んでいて、気が付くと急いでいて分からなくなり、結局読み返すこと
になったり…
こういうアホっぽいところがあります。何もそんなに急ぐことはないのですよね。

まあですから、いい機会なので、自分の乏しい哲学的知識、理解を少しずつキチン
としながらお話をしてゆこうかな、なんて思ったりしたわけです。

さて、「存在」ということですが、辞典を見てみると、「知覚の対象となる物質」
「形而上学的な実在、本質」「実存哲学でいう人間存在」等7項目が書かれてあり
ました。キサラギさんの「存在」の定義を教えてください。

そうすると「非存在」の定義が自ずと分かってくるはずですが、「無限の」という
言葉が付いています。これについて教えてください。

また、「存在」の定義によって「存在でも非存在でもないもの」と「あらゆる可能
性」というものの理解も深まると思います。

お礼日時:2018/07/22 14:36
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