プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    言い忘れました。

    >これだけを証明するのに、莫大な、努力と、資材と、エネルギー要するので

    と仰いましたが、これって証明できるんですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 00:52
  • №3でお答えいただいたような情報は、ネット上でも山ほどあります。
    要は物質の変化のことであって、今回の質問は無から有は生まれるか
    ということであって、根本的に異なる問題です。

    その点をご賢察頂き、素っ気ない対応をお許しいただければ幸いです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/18 01:45
  • 相対性理論にしても不完全性定理にしても、完全に理解している人は
    わずかしかいないとよく言われます。

    哲学の世界もおそらくそうだと思います。ハイデッガーなどは難解だ
    といいますから。
    まして素人なら尚更で、このカテには今プロの方はいるんでしょうか?
    たぶんいないと思います。従って勿論私も含めて「キサラギ世界観」を
    理解している人、あるいは批判のための批判でなく、正当な批判ができ
    る人はいないでしょう。

    それだけ本格的なものはあると思う。私にもいずれそれがはっきりとわ
    かるでしょう。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/07/30 03:57
  • (つづき)
    仏教徒においても同様のことが言えると思います。懐疑はあるはずです。しかし、その懐疑を晴らすための思索をしているかといえば、どうもそうは見えない。

    つまり、現代においては宗教の教えというものは形骸化してしまい「あまり信じられていない」ということになると思います(爆弾発言か?)。

    宗教・哲学は人間の役に立つものでなければ不要のものとして削除されるべきものであると思います。
    結論としては、私は必要なものだと考えます。以前申し上げましたが、人間は宗教的・哲学的存在であり、切っても切れない関係があると思うからです。

    従って、人類がどの哲学を支持するにせよ、違う考え方を対決させる(対話・議論)という行為は必要なものであると思います。独善にならないために。

    今回は余談で終わってしまいました。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/05 09:13
  • 次の五濁云々については、補足欄では足りなそうですので、次回述べることにします。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/06 23:45
  • 唯物的な生命観とか「弱肉強食」が世の中の本質であるという哲学とか、人間など取るに足らない存在であるなどという考え方が現代ではとても強いと思うのです。

    そういう思想・哲学が現在猛烈に流布していると見ています。その結果は、人間にとって自分だけは尊い存在ですが、他人は(場合によっては家族すら)取るに足らない、あるいはクソ・カスの存在ということになります。
    夢・希望・理想・愛・友情などは枯れてゆき、自分の快楽の総和をいかに増大させるかということのみ
    人は考えるようになるでしょう。現代はその「走り」の時代だと思います。

    一方、仏教の哲学は正反対です。すべての人に仏性があるという考え方で、キリスト教的に言えば、すべての人が「神」と同格なのです。究極の生命尊厳、人間主義の思想であると思います。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/07 14:51
  • どう思う?

    書き忘れましたが、「人生」とはこう言えると考えます。

    主体性を持った一念三千の生命の、行動・言葉・思いの集大成が人生だと思います。
    それは、その人の生きた「環境」の影響を与え、残るものは残り、消えるものは消え
    るでしょう。

    環境に影響を与えた分だけ自分の中に残るものがあると考えられます。その主観の総
    計が人生だとも言えると思います。
    その主観の中に「幸不幸」があり、これがまた、哲学的に追及すべき問題ですね。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/09 15:00
  • これは尋常ではないと、歳とともに思いはじめ、腰を入れて勉強を始めたというわけです。

    大変大まかですが、基本構造はこういうことになっています。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/10 00:01
  • 「神の力」に匹敵する力を、何故か人間は持っているわけで、このことの意味を人間はよくよく
    理解しなければいけないと思います。

    >うーむ。楽しい。考えるのは楽しいですね

    声聞・縁覚の幸せですね。

    失礼、また長くなりました。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/11 09:37
  • ここにコピーさせていただきました。

    「無から有が生まれるのか、生まれないのか?」の補足画像10
    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/14 16:23

A 回答 (85件中31~40件)

重要と思われる事を思い出したので追記します。

何分、二十歳ごろに考えていた事なので忘れていました。

それは、言葉の持つ、"名示する"という機能についてです。それがそれであることを決定する、例えばAがAである事を決める能を、言葉は有しているという事です。

先程は言葉とは法を言い換えたものであると言いましたが、システムとしての法とは全く別の意味を、言葉は持っています。ですので、今回は法の如何を解釈するよりも、"言葉"の如何を解釈した方が良いです。その方が、私がこの考えをリアルタイムでしていた頃の解釈に近いです。法を持ち出したのは、色々学んだ後の、後付けみたいな感覚があったので、自分でも納得がいってなかったのです。

いやぁ、大事な事を思い出してよかった。すっかり忘れてた。

言葉>無>混沌>・・・・

という風に表記し直したいと思います。

"法"を入れるとどうしても仏教的観念などにも引きずられてしまい、この世界観の本質からズレる気がしました。

ただでさえややこしい事を言っているのに更に訂正してすみません。でも、思い出せてよかったです。
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この回答へのお礼

>言葉の持つ、"名示する"という機能

うーむ、と唸っております。

「存在」という言葉をもう一度辞書で引きますと、

『AはBである、といった判断の主語と述語の関係性をしめす「ある」のこと』
とあります。
「私は人間である」とした場合、ニャンポコリンは人間で「ある」とされると
いうことである、と。
存在論でいうところの、こういうことなのでしょうか?
(何を言っているか自分でも不安になっております)

もう一点、混沌(カオス)ということについて、下の1・2を引用させていただきます。

1 ギリシャ人の考えた、宇宙発生以前のすべてが混沌(こんとん)としている状態。混沌。無秩序。ケーオス。⇔コスモス。
2 特定の規則や微分方程式に従う系に生じる、不規則で乱雑な予測不可能な挙動。系自体は決定論的だが、系の変化が初期条件に極めて鋭敏に反応し、数値計算の誤差が時間の推移とともに増幅される非線形性をもつため、計算精度をいくら向上させても、事実上、正確に予測できない現象を指す。確率的な乱雑さとは異なるため、決定論的カオスともいう。

キサラギ世界観では、1が近いのではないかと考えています。

また、2については、このカテで久しぶりに「非線形」という単語を目にしたので
(書いている人はその道で著名な方のようです)刺激され引用してみました。
キサラギ世界観には関係のない「カオス」であると思いますが、こういうことを理解
出来たなら、考え方に幅が出て来るだろうと思いました。

「不確定性原理」とか「ヒモ理論」などもそうで、超難解なのでしょうが、理解して
ゆきたいですね。

お礼日時:2018/07/26 08:42

いつもお礼ありがとうございます。


この話、人に詳しく説明するのは初めてでして、にゃんぽこさんとのやりとりで自分の頭も整理されているようです。ありがとうございます。

お話しさせていただいてる中で、沢山説明したいこともありますが、まぁ、おいおい行きましょう^_^
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この回答へのお礼

こういった話題は、日常生活の中ではなかなかできないものですから、
(まして、我々は素人ですから)思うとことを語るにはここは好い場であ
ると思います。

ですから、あらいざらい(笑)語っていいのではないでしょうか?

お礼日時:2018/07/26 08:47

では、お言葉に甘えて洗いざらい話してみます(笑)疲れたら遠慮せず言ってくださいねw



明示するという機能について。
大体にゃんぽこさんの目のつけたところで大筋はあっています。

ところで、「にゃんぽこさんは人間である」としたとき、じゃあにゃんぽこさんは全く人間であってそれ以外の何者でもないのか?と問いを重ねると、また別の解が導かれるでしょう。にゃんぽこさんは生物であるとか、男であるとか、○○屋さんであるとか。
では、トートロジーでもって、「にゃんぽこさんはにゃんぽこさんである」と当たり前のことを言ったとしましょう。こうすることで、他に解釈のしようのない、他ならぬにゃんぽこさんが現れます。そして、じゃあ「にゃんぽこさんは何故にゃんぽこさんなのか?」という問いを重ねた時に、この問いを問いとして受け取る感覚があるかないかで、名示することの本質をつかめるかつかめないかが分かれます。なんでだろう?と思えることが重要です。
 にゃんぽこさんがにゃんぽこさんであるという絶対的な規定が『にゃんぽこさん』という語を発した時点で存在しているはずであり、その規定が存在しなければ『にゃんぽこさん』と名指しできる存在は無いことになります。「にゃんぽこさんは何故にゃんぽこさんなのか?」と問われて、いや、もしかしたらにゃんぽこさんはにゃんぽこさんではないのかもしれない・・・と混乱を来たすようであれば『にゃんぽこさん』を知っていることにはならないわけです。
『にゃんぽこさん』という名を発した時点でにゃんぽこさんがなんであるかという事を人は内在的には知っているのです。具体的に説明せよと言われれば、にゃんぽこさんは性格は○○で仕事が××で、趣味は△△で、など出てくるでしょうが、それら全てかき集めたとしても、にゃんぽこさんを”全一的に”説明したことにはならないでしょう。この説明不可能性のある絶対的な規定を、名示と呼んでいます。「にゃんぽこさんがにゃんぽこさんであって他の何物でもないその理由を示せ」と言われ、その理由を内在的に知っていること、これが言葉の【真の機能=本質】であると私は考えました。言葉に出来ないこの理由を、確かに知っているという事、これが言葉の真の姿(=知)なのであると。

混沌について
確かにギリシャ時代の解釈で表面は合っていますが、古代ギリシャ人が混沌をどの様に解釈していたのか、私には分かりません。タオイズムのように解釈していたのか、キサラギのように解釈していたのか。
そして、私の言う混沌は、非線形を用いた説明とはまた異なると思います。決定論的カオスと言うのは初期値が決定されており、そこから徐々に変化が無限に発散するという事だと思います。しかし、キサラギの言う混沌の初期値は無です。無から一気にも、徐々にも、極大的にも極小的にも、あらゆる様相を以て、無限に発散しているのが混沌であると言っています。従って、非線形が関係するのは私の言う混沌ではなく、時間の方だと思われます。時間は、一なる存在に投影された混沌の姿ではないか?というのが、私の今回提示した世界観での見方です。この場合、時間(混沌の影)の初期値は1です。1から生まれるので存在できるのです。0によって誘引したものはただ、存在と言えるものではありません。であるから混沌であると名付けてみたのです。
一なる存在は無の性質を受け継いでいること(自他が無いこと、真っ平らである事)は間違いないのですが、これは無の表面に張った被膜のようなものではないかと考えています。

猪突さんが最近また回答されていますね。彼の先生は世界的に著名な研究者で、複雑系とかカオスの分野で素晴らしい功績を残したそうで、彼もまたその分野の専門家として活躍しているそうです。彼は物理学者ですが、物理学には物理学の制約がありますね。制約は時に鋭利な刃物となって世界像を切り出すのに大きな力を発揮します。しかしその分、物理学的切り口では刃が立たないという事もあろうかと思います。
キサラギのような素人哲学は制約の少ない、ただ言葉と言う制約のみがあるだけで鋭利ではないかもしれませんし、原始的な鈍器の様かもしれませんが、これはこれで手に馴染んだ道具と言う意味では心地いいものです。目の付け所によっては、穴場の岩を割り出して高価な原石を発掘できるかもしれません。
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この回答へのお礼

言葉の本質ということについて

うーむ、いまいち掴めません。

「私」というものがこの世に存在します。
それは、心身統一体で私というものの特徴を備えたユニークな存在であると
思っています。
何にせよ、それが存在をし、「ニャンポコリン」という名が付けられている。

私を知る人たちは、それぞれに私を認識しています。よく知る人もいるし、少
ししか知らない人もいる。
しかし、「ニャンポコリン」という言葉を発した瞬間にすべての人が内在的に
私というものを知ることになる。

その知らしめる力が「言葉」の本質的な力である、と。そういうことなのでし
ょうか?

お礼日時:2018/07/28 04:22

いや、ニャンポリン2を知っても、あなた自身を知ったことにはなりません。


「私はなぜ私なのか?」と言う問いに意味を感じるのであって、「私はなぜニャンポコリンなのか?」と言う問いに意味を感じるのではないのです。又、「ニャンポリンはなぜニャンポコリンなのか?」と言う問いに意味を感じるのであって、「ニャンポコリンはなぜ私なのか?」と言う問いに意味を感じるのではないのです。

これは、個体を意識するのか、連続体を意識するのかの違いです。
前者を喩えるなら、リンゴの本質を考える時に、リンゴのイデアを想起するような事です。後者を喩えるなら、リンゴの本質を考える時に、リンゴの原種を探し求めるような事です。私が名示について語る時は、前者の経路を辿ります。即ち、リンゴのイデアを想起し、なぜリンゴはリンゴなのか?を問うのです。その時に生じる説明不可能性、リンゴのあらゆる特性を説明することはできないという不可能性を知って、尚リンゴの事を識知している事実を鑑み、これをもって【知】と呼ぶ事にしているのです。

もし、心身統一体で諸々の私足る特性を備えたものがニャンポコリンと名付けられているのであれば、それは両親から受け継いだ遺伝や、諸々の経験、体験の組み合わせに還元されます。それは確かに唯一無二のユニークなものではありますが、そんなユニークな物はこの世にごまんとあり、むしろ、この世にユニークで無いものは何一つ無い事となります。それら全ては、時間の世界に規定された無常なるものであります。極論すれば、1秒経てば別人になるとさえ言えます。
私が言っているのは、他でも無いそれが何故それなのか?と言う事柄なのです。この事に疑問を抱けるかどうかが、私の語る名示、言葉の本質を知る分岐点となっています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

この点は肝要の部分なので、こだわりたいですね。

以前「意識の無二性」という質問で長いやり取りをしていただきましたが、
その時に「私はなぜ私なのか」という子供のころからの疑問は残念ながら
解消されることはありませんでした。

「私はなぜ私なのか」という疑問は私の中でどうなっているのかをちょっと
説明しますと…

私の存在というものは宇宙の中で個別化された「生命」ということになります。
その生命は時間的に連続しているはずのもので、「常住」の部分と「無常」の
部分に分けることができると思います。
また、空間的に全宇宙とつながっている、と考えています。

で、その「個別化」ということがわからないということです。
個別化によって私の生命というものがあるし、精神・意識というものがあるわ
けでありますが、初めから個別化されていたのか、ある時点からそうなったのか
何かの力でそうなったのか、いったい何なのか?

「ニャンポコリン」というものは今のこの瞬間の「私」の姿であって、無常の
部分である、と考えます。従って「ニャンポコリン」を知ることは私の本質を
知ることではない、ということは理解できます。

そして、「常住」の本質の部分の「個別化されたところの私」を、「連続体」と
仰っていると理解してよいのでしょうか?

お礼日時:2018/07/29 03:33

補足いただいた通り、とても分かり難い説明をする段階に入ったようで、恐縮です。



連続体を意識する経路において、無常なるものをすべて捨像すれば、無が現れます。こちらの方が簡単と言えばそうでしょう。しかし今説明させていただいているキサラギの世界観その1では、イデアの想起から全一なる存在を通過して無を知り、無を知ったことで混沌を解釈する、という経路を辿っています。それは、何か物事の本質を考える上でのたくさんある経路のうちの一つである、という事を踏まえた上で、さらに説明しますと。

この宇宙も、”この私”も、ニャンポコリンも、無常のものです。
しかしながら、個であるこの宇宙も、”この私”も、ニャンポコリンも、その本質においては常住の世界に住しているのです。
ここでする作業は、例えば「Aは何故Aなのか?」と考える時に、BやCやD、その他Aに連なる、関係する文字を想起するのではなく、【直(じか)】に、「Aは何故Aなのか?」を問う事です。
【直】に、「私はなぜ私なのか?」を問うのです。【直】に、「ニャンポコリンはなぜニャンポコリンなのか?」を問うのです。
両親が居てとか、どんな生い立ちがとか、何をしてきたとか、そういうものを一切捨像するのです。そこに、いわば無垢な私という事象、無垢なニャンポコリンと言う事象、が立ち現れてきます。
ですので、”私”は常住であり得るが、”ニャンポコリン”や”キサラギ”が常住ではあり得ないのではありません。”ニャンポコリン”や”キサラギ”も常住であり得ます。ただし、”私”と”ニャンポコリン”が=によって結ばれることは無いのです。また、
”あなた”と”ニャンポコリン”が=で結ばれることもありません。=で結ばれるのは常に、同じもの、例えば
私=私
ニャンポコリン=ニャンポコリン
キサラギ=キサラギ
あなた=あなた
という事なのです。トートロジーです。これを絶対的な個性と仮称してみましょう。

ニャンポコリン2さんの考えでは、私と言う生命体は、全宇宙とつながっており連続体である。そして、全宇宙は常住の本質を湛えている。故に私もまた常住の本質を得ている。という論理があるのだと思います。(違ってたら仰ってください)

しかしこのキサラギの世界観その1では、全宇宙はそのままでは無常のものであり、常住の本質を湛えていません。一切は移ろいゆくのです。ただ、全一なる存在やその起源である無に意識がたどり着いたときに、一切の無常なるものはそのままで、生じもしない、滅しもしない、しかも空であり常住のものであるという認識に立ち得るのです。何故か?それは、無常もまた無常であるからです。無常にもまた絶対的な個性が適用されるのであり、無常を【直】に観察した時には、その姿が晴れて常住のものであると認識されるようになるということです。

一応追記しておくと、これらのことはそうなるはずであるという事であり、私が既にそうしたというのではありません。
ただ私は昔、たった一つの事柄を直に問うことで、このような世界観を構築するに至ったという事です。

>「ニャンポコリン」というものは今のこの瞬間の「私」の姿であって、無常の
部分である、と考えます。従って「ニャンポコリン」を知ることは私の本質を
知ることではない、ということは理解できます。

この瞬間の私、この瞬間のニャンポコリンであるからこそ、それを直に問うてその本質を知ることになるのです。
0.00000・・・1秒前後してもダメです。この瞬間でなければなりません。そうしないと時間(無常)を克服できないからです。永い時間(永遠)が常住であると言っているのではなく、永遠の無常を超えなければならないという事なのです。
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この回答へのお礼

つまり、キサラギ世界観その1(そのいくつまであるのか?)では、言葉で表現
されるものはすべて、「絶対的個性」をもつ独立したものである、ということ
なのですね?

私の世界観では、仰る通り、宇宙の根源としての「本質」があり、そこから個
別化した「私」があり、永遠に変化を続ける「私」の現在の瞬間の姿が「ニャ
ンポコリン」であり、私以外のあらゆるものが同様に個別化されたものである
というものです。
つまり、私>ニャンポコリンであって、私=ニャンポコリンとも言えないが、一
変化相、と言えると考えています。

この基本形は仏教哲学もそうですし、西洋哲学においてもカントの「物自体」と
か汎神論の「神」という考え方も同じではないかと思っています。

しかし、キサラギ世界観では、あらゆるものが「無常」も「常住」でさえも、言
葉で表現されるものはすべて独立した「別物」であるということなんですね?

また、独立した「別物」といえるのだけれど、「ニャンポコリン」の中に「無常」
と「常住」があり、これはつながりがある、と。

しかし、「私」と「ニャンポコリン」の間にはつながりはないということなので
すか?

ふーむ、難しいですね。

お礼日時:2018/08/01 07:56

これは難しい所ですね。


常住の世界では自他の区別がない、無一物であると言うのが基本です。
絶対的個性が認められるのは寧ろ無常の世界でのことなのです。
そして、無常を認める時には常住は無く、常住を認める時には無常は無いのです。
喩えば、闇がある時には何も見えませんし、そこは闇であると認められます。光がある時には何かが見え、闇は認められません。
また、トートロジーを出すと途端に陳腐な事を言っているように思う方もおられるかもしれませんが、これはただの個別ではなく、イデア的個のことを言っています。それで、絶対的個性と仮称するのです。

故に、ニャンポコリンの中に無常と常住があるのでは無く、ニャンポコリンが無常である時にはニャンポコリンは虚妄であるが名称を保持しており、ニャンポコリンが常住の時はニャンポコリンは真実なのだが名称を克越しているのです。
虚妄と真実が共存することがないのは、昼夜が分かれているが如くです。同じように、無常と常住も同時には認められないのです。

ここで一つ矛盾に思うことがあるかもしれません。無常の世界は常住から流出したのではなかったのか?と。
これは、概念の位相と無への到達のプロセスが逆になっているために生じる矛盾です。つまり、無への到達は無常から始まるのに対し、無からの出発を見た後には、常住から始まるのです。

尚、この様な詳しい説明をしたのは私も初めてで、キサラギの世界観が何番まであるのかは私にもわかりません(笑)とりあえず初めてなのでその1です。

また、仏教による宇宙観は、このキサラギの世界観とはだいぶ異なるでしょう。釈尊の時には基本的に無記ですし、大乗を含めましてもそれは広大な世界観ですが、全ては無常の世界であると説明もされています。そして、仏教の言う常住とは、人間が覚って到達する心の有り様のことであり、キサラギの言う常住とは異なると思われます。仏教の言う常住は、宇宙観と言うよりは、生き方の話だと思われるのです。
そちらの話の方が有意義なものであるとは思いますが、宇宙観等も人間の興味の対象である事は間違い無く、調べておいてもいい事と私は判断しましたので、色々と述べているわけです。

大体の方々が無から有は生じないと言うご見解の様でしたが、私の見解は、もし無を作成することができたなら、宇宙が生まれると思います。人類は擬似太陽を作りだしましたが、未来には擬似宇宙を作る日が来るかもしれません。その頃には、戦争など無い人類であってほしいですが、宇宙戦争における究極兵器の一つとして、宇宙創生の技術が使われているかも知れません。核兵器における放射能のような恐ろしい存在が、時間(時空)の流出と言う形で現れるかもしれません。SFみたいな話ですが。
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この回答へのお礼

哲学的悟りは、多かれ少なから誰にでもあるものだと思います。
勿論私にもあり、忘れているものもあるのだろうと思います。子供のころは
随分あれこれ考えましたから。ある日それを思い出して言葉になるなんてこ
ともあるかもしれません。

人の哲学的洞察を理解することは難しいのと同様に、自分のそれを人に伝え
ることも難しいのですね。
キサラギさんにしてもハルさんにしても「腑に落ち感」があるはずだと思う
わけです。
「どのように」腑に落ちているかが、私のとって興味があるところなのです。
それを知りたいのです。
それは、理屈で納得しているのではないということが明らかですし、私は人間
の論証的思考よりも、直感的思考の方をはるかに信頼しているということでも
あります。

さて、これまでの私の理解をダイジェストしますと…

まず、「言葉」が明示する「機能」が「ある」と。これは「法」というものとは
違い「能」ということである、と。

そして、「無」という概念から「許容」された「混沌」があり、「言葉の明示する
機能」により「混沌」と「存在」が区別される、と。
それは、人間が認識するものである、と。人間がいなければ区別して認識されるこ
とはないであろう、と。

物事に仕組みというか有り様というものは、こういうことである、と。

「無常」と「常住」という概念は微妙に違う気がします。「言葉」が頼りなのですが
それが邪魔になることもあり、聞いてばかりでも分からなくなることもあるし、こち
らの考えを言って分からなくなることもあり、まあ、簡単ではないですね。

お礼日時:2018/08/04 23:10

訂正と言うか、補記をしたいと思います。


仏教の宇宙観では無いですが、大乗教典において、仏国土の説明に、寂静にして荘厳かつ空であると言った様な表現があったと記憶しています。これは、キサラギの世界観の常住と類似する所かなと思います。

言葉を超えたものを言葉にするのは中々難しく、今しているような、大きなお金を崩して使うみたいな作業がどうしても必要なのかも知れません。
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この回答へのお礼

仏教の解釈は実に様々であり、どれを支持するかは個人の哲学的センスに
よるといっていいと思います。
そして、あとは対話をして切磋琢磨してゆく以外にないといえるでしょう。

さて、「仏国土」ということについて…

一念三千論の中に「三世間」というものがあり、その中に「国土世間」とい
うものがあります。
国土とは十界の衆生が住むところをいい、世間とは差別のことです。即ち、
十界の衆生の住む場所にそれぞれ差別があるということで、その中の仏が住む
場所を仏国土(常寂光土)という、と。

十界のそれぞれの衆生が違う場所に住んでいるということではなく、感じ方が
違うということです。

この解釈を私は支持をしています。

>大きなお金を崩して使うみたいな作業

なかなかうまい表現ですね。

お礼日時:2018/08/04 23:42

ある電気回路があって、電気が流れたり、電気が流れなかったり、電気の流量が変化するものとします。



電気の流量が変化すると、周りの磁場が変化します。周りの磁場を感じる別の電気回路があり、この電気回路は、他の回路の電気の流量をいつも計測できるような状態にあったとき、他の回路の仕事を観察していることになります。

この観察している回路は、メインの電気回路におかしな干渉をしなければ、メインの電気回路がしているはたらきをいつもモニタリングしている状態にあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そう言えるかも知れません。

お礼日時:2018/08/04 23:44

哲学的悟りは誰にでもあり得る、これには大いに同意します。

著名な哲学者たちの中にも、それぞれの表現で自らの哲学的悟りを他者に説明しようと試みたり、批判的に見たりした人が居ますね。そして私も、自分の世界観を絶対視はしてはおらず、ある種批判的に見ています。そのため、「その1」と付けたのもあるのです。

ところで私も、ニャンポコリンさんの得た哲学的悟りについて聞いてみたいですね。あまり、キサラギの私的言語で説明ばかりしても逆に分かりにくい点が多くなります。大きなお金を崩して、雑多な小銭が手元に増える様なものです。
大きなお金をそのままに提示出来たら良いのですが、あいにくそれを指示する言葉がないのです。この哲学的な悟りを得た当時の私は、その得たものを称して「影を生じない光」と形容しました。こちらの方が直感的で、ニャンポコリンさんの求める表現に近いかなと思いましたが如何でしょう。
悟りを英訳すれば、Enlightenment エンライトメントと言うそうで、私の哲学的悟りはまさしくこの字義の通りだなと。

これまで説明してきた私の世界観は、仏道から見れば邪道の一種かも知れません。しかしながら、私はまた仏道を絶対視することもして居ないので、これを論じても良いかと思ったのです。ニャンポコリンさんは、適切にこれを聞いて、これの影響を受けて道を逸れることも無いだろうと思ったからです。ニャンポコリンさんは熱さのある割には冷静さもあり、一緒に話してて深いところにまで行けるのがとても良いと思っています。

さっきツイッターで、議論は共同作業と言うツイートを見かけました。そのツイートに、とても納得出来ました。ニャンポコリンさんとはお話を通じて、互いに得るものを得れたら良いなと思う次第です。

一念三千論について。
感じ方が違うというのはそのとおりかもしません。ブッダと衆生は心的に住む世界が異なるのでしょう。例えば生き身のブッダなら出会えば話も出来るわけですし、その二者がまるで別世界の住人なら会う事も出来ないですから。ただ、ブッダは身体が滅びれば二度と戻ってこない、輪廻しないと言われており、その場合、死後は何処に行くのか?と言う疑問もあります。法界と仏国土の違いなども少し気になりますね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

私にも語りたいことが山ほどあり、日々増えています。それは、日々思索をしている
からであり、それを語る人間が身近にほとんどいないからです。
世間話をする人はいくらでもいますが、哲学的な話をしても理解する人がいないとい
うことですね。
そうした「孤独感」をこのカテの参加者の多くは感じていることでしょう。

価値的な議論・対話は自他ともに次の要件があることが望ましいと思います。

・自信・信念があること
・その割に自分の考えを絶対視していないこと(独善的でないこと)
・自分の手柄とか所属する団体などの利益に固執していないこと
・真理を追究しようという高い目的観があること

そのように自分を高めようという「努力」、相手に対する「信頼」、相手を尊重しよう
とする「愛・友情」は、きれいごととして大事なのではなくて、社会的な価値を生む
「場」を作るために重要な概念であると考えます。

自分の手柄のために人を平気で利用しようとしたりする心を人が感じるから、「クソ」
だの「カス」だのという悪意が飛び交ってしまうのであり、その心は社会のための価値
を生む場を消してしまうと思う。これは、大人が模範にならなくてはならないと思います。
大変ですけど。

余談その1でした。

それから、私は信仰を持っているということを改めて申し上げたいと思います。仏教系です。
宗教を持つ人間は、無宗教の人間に不信感を持たれます。
「宗教の教えであるから、無条件に信じている」という点が最大のものであると思いますが、
それは必ずしも正しくないと思います。

例えば私は、信仰をする両親の家庭に生まれ、子供のころは無条件に信じていました。そして
大人になった今その延長の部分はあると思います。しかし、人間というものは物事を盲目的に
信ずることはなかなかできない生き物であると思います。
ある年齢になると人間の心には「哲学的懐疑」が生まれます。それは時代というものを背景に
生まれるものがほとんどでありましょうから、科学の時代である現代においては懐疑の度合い
はとても強いものであると考えられます。

私は若いころクリスチャンの女性と付き合ったことがあります。イブの夜、教会で過ごしたこ
ともあります。彼女の紹介で多くのクリスチャンと話しましたが、そこで感じたことは、「神」
の存在について戸惑っている、ということでした。

お礼日時:2018/08/05 08:51

ふむ。

神の存在について戸惑っていたのはクリスチャンの方々ですか?ニャンポコリンさんは日蓮系でしたっけ?私は宗教のある方を特別に見る事はありません。私も神道的なものは好きですし、汎神論的アニミズムを心の何処かに抱いています。神道は道教とも繋がりがあると思ってますし、新訳ですが聖書も読んだ事があります。経典も読みます。そして、これら文化と、素朴な人間の姿について知りたいと思っています。

お礼欄が足りないと思いますのでどうぞお使い下さい。
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この回答へのお礼

日蓮系です。日本で最も有名な教団と言えばお分かりいただけると思います。

さて、「空仮中の三諦」というものがあります。これは中国の天台大師の説で
「法華玄義」「摩訶止観」に説かれているということです。
この説はキサラギ世界観と共通点があると思い、この話を少しさせていただこ
うと思いました。

「諦」とは「つまびらか」という意味で「真理」ということになります。即ち
あらゆる存在に(存在系に限るということでしょう)は「空諦」「仮諦」「中諦」
の三つの側面が備わっているということです。

「仮」とは、おのおのが因縁によって仮に和合している皮相的な面のこと、例え
ば今この刹那の「ニャンポコリン」→人が認識できるもの、ということになると
考えます。まさに「無常」であるものの一瞬の姿、といえるでしょう。

「空」とは、「存在」の「性分」のことで、有とも無とも固定できない、有無の
二道以外の冥伏された状態(まさに空)、しかも一刹那をとらえればこのどちらか
に固定している不思議な実在。
「ニャンポコリン」の「相」ではない「性」の部分が実在としてあるということ
だと理解しています。

「中諦」は「中道」とも言いますが、「仮」「空」の二面を備え、しかも動かす
ことのできない厳然とした「本質」ということです。
この「空」と「中」が常住というか不変のものであると思います。
この「ニャンポコリン」の本質というものは、肉体というものは勿論、今ある意
識・自我というものを超えたところにある本然的な「我」ということになると思
うのですが、今のところこの程度の表現しかできないということが悩ましいとこ
ろです。

この分析が仏教の「存在論」ということになると思います。

お礼日時:2018/08/05 17:23
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