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永劫回帰の具体的な中身とは何なのかを教えて頂きたいです。
また、抽象的議論が未だ続いているのか、具体的にはこうであると確定しているのかということも含めて質問させて下さい。


ちょっと質問の背景や前提がややこしいので、ここを丁寧に書いておきます。

日本のアニメスタジオ・スタジオジブリの作品で、「On Your Mark」と言うものがあります。
J-POP歌手ユニットであるCHAGE and ASKAのPVとして製作されたものです。
この作品は独特の構成をしており、主人公グループが失敗すると時系列が戻ったかのような展開になり、時間が戻った後に別のストーリーが展開すると言うものです。

これは音楽PVだからこうした雰囲気重視の作りになったかと思いきやそうではなく、絵コンテには「永劫回帰」と言う一言のメモがさらっと書かれています。

私の頭の中での理解では、単語「永劫回帰」と言う語義の中身として、平行世界は想定せず時系列は直線上に進むが、長い間様々な事象が経過していくうちに、次第に近い事象も発生する、あるいは更に長い時間を経過すると、全く同一である事象さえも発生する。その中で人と言う存在は、循環ではなく更に進んだ結果を為す機会としてそれを得、前進する、と言うものです。これを為す主体がニーチェの言う超人であると認識しています。

これを確認するために現在ツァラトゥストラ(手塚富雄訳)を読んでいます。
これのP349にその具体的概要と思われる箇所が書いてありました。
「この門は二つの顔をもっている。二つの道がここで出会っている。どちらの道も、まだだれ一人その果てまで行った者はない。
 このうしろへの道、それは永劫へとつづいている。それから前をさして延びている道──それは別の永劫に通じている。
 この二つはあい容れない。たがいに角つきあいをしている。だが、この門で、両者が行き会っている。この門の名は、上にかかげられているとおりだ。『瞬間』である。
 ところで、この二つの道の一つをさらに先へ──どこまでも先へ、どこまでも遠く進む者があるとして、侏儒よ、この二つの道が永遠にあい容れないものであると、おまえは信ずるか」──
「すべてまっすぐなものは偽り者である」と、侏儒はさげすむようにつぶやいた。「あらゆる真理は曲線である。時も円環をなしている」
(中略)
「この瞬間を見よ」とわたしはことばをつづけた。「この瞬間という門から、一つの長い永劫の道がうしろに向かって走っている。すなわち、われわれのうしろには、一つの永劫があるのだ。
 すべて歩むことのできるものは、すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか。なされたことがあるのではない。この道を通り過ぎたことがあるのではないか。
 そして一切がすでにあったことがあるなら、侏儒よ、おまえはこの瞬間をどう考えるか。瞬間という門もすでに──あったことがあるにちがいないのではないか。
 そしてすべてのことは互いにかたく結び合わされているのではないか。したがって、この瞬間に来たるべきすべてのことをうしろに従えているのではないか。だから──この瞬間自身をもうしろにしたがえているのではないか。
 なぜなら、歩むことのできるものはすべて、前方へ延びるこちらの道をも──もう一度歩むに違いないのだから。──
 そして月光をあびてのろのろと匐っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえ──これらはみなすでに存在したことがあるのではないか。
 そしてそれらはみな再来するのではないか、我々の前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないか──われわれは永劫に再来する定めを負うているのではないか」

と言うことで、時系列の円環を否定しつつ、その同一の具体的中身が時系列の前方に再来すると言う論です。

ちなみにここまで書いておいて言いにくい話ですが、永劫回帰の解釈が上記で仮に合っている場合、私はこのニーチェの永劫回帰の論の否定派になります。

なぜかというと、人類史は韻を踏むものの、同一人物の再来は起きていませんし、もっと言えば恐竜が繁栄した時代も再来していません。
あるいはもし人類史がくり返し発生するならば、それは地球史に現れてもいいはずですが、人類史は1度の発生しか確認されていません。
ニーチェの言う永劫回帰があるならば、それは最初の一回目がここにあるのではなく、何回も繰り返すその途中であるとみなすべきです。
昔は宇宙はビッグクランチ(ビッグバンから宇宙が広がりそれが逆戻りして収縮してビッグバン前の状態に戻る)と言う論がありましたが、現在時点では「宇宙が広がったあと、極度に広がって熱的死を迎える」と言う論の方が優勢のようです。

仮に宇宙がビッグクランチでの終焉シナリオになって、別のところで宇宙が誕生し・・・それをくり返した時にもしかしたら原子の並びが全く同じ人物が同じ事象を体験するのかもしれませんが、ニーチェは下記のようにそこまで想定をしていなかったようにも思われるのです。


永遠回帰:ニーチェの思想
https://philosophy.hix05.com/Nietzche/nietzche17 …
たとえばニーチェは、ヴァーグナー婦人コージマ宛の書簡の中で、自分自身が永遠回帰しているさまを、次のように書いている。

「私が人間だというのは偏見です。私はすでに幾度も人間たちのなかで暮らしましたし、人間が経験できるすべてのことを、卑小なことから最高のことまで知っています。しかし私はインドでは仏陀でしたし、ギリシャではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。~最後にヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ヴァーグナーであったかもしれません。今回は勝利に輝くディオニュソスとしてやってまいりました。・・・天はすべてを挙げて私の到来を歓喜して迎えています。私は十字架にもかかったことがあります」(三島憲一訳)

と言うことで、ニーチェの永劫回帰が上記の解釈であっているかの確認をしたいのと、これがまだ議論が続いていて、抽象的定義しかできないというのであれば、それについても知っておきたいのです。

どなたかお分かりになる方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

質問者からの補足コメント

  • > 起こりうることは全て起こりえたし、今後も全て起こりうる
    と言うのはニーチェの浅はかな考えだと私は考えます。
    世界の運用が、9個のボックスに9個のビリヤードの玉をランダムに入れる、と言う操作であれば、その命題は達成するでしょう。
    しかし光の速さの数倍で広がる宇宙空間(ボックスで言えば無限に配置する場所ができる)に、宇宙の9割の体積を示す水素が核融合反応によって徐々にヘリウムに変わって行って、それは負荷逆な運動になるのに、どの辺りで回帰が起きるんでしょうねと言う批判は受けなかったんでしょうか。
    物質の状態や、人間の集合、社会、自然、宇宙には状態の変動とその周期的な再帰性があり、現実との和合によってその独自の状態が日々作られていく、と言うのであれば、真理としては納得できます。
    根本にキリスト教の否定ありきで思想を発したからこんな間違った方向に行っちゃったんでしょうかね。

      補足日時:2022/01/15 22:15
  • 一旦私なりにまとめて整理します。

    1.永劫回帰(世界的に同じ事象が時系列の直線上の向こう側に繰り返し現れる。またそれと同時に、過去の過ぎ去った時間にも同じことは繰り返されたであろうという世界観)は大きく分けて2つあり、それは、完全に同一なる事象が長い時を遡って見れば過去にも繰り返し発生した可能性があり、長い将来を見通して見ればそれらが未来にも繰り返し発生しうるだろうと言う世界観の上で世界の成り立ちの予測を立てたニーチェ版と、その完全同一の事象は発生せず、差分や差異がありながらも螺旋を描くようにその周期を描いて、同一のような近似・類似の事象が発生し、世界は進んでいくとした、ドゥルーズ・ガタリ版のものの二種です。

      補足日時:2022/01/16 15:28
  • 2.このOn Your Markで使用されているは、上記における後者、即ち差異・差分を許容しての繰り返しとなるドゥルーズ・ガタリ版のものであると想定される。
      ドゥルーズ・ガタリ版永劫回帰は難解であるので、まだ包含される考えがあるかもしれない。

    3.岡田さんは、私が解説を通して見た限りは、想像の中の想像、の中の想像、の中の想像・・・と言う入れ子の包含構造として解説していた。押井守監督の映画論を引き合いに出していたので、その解説の方向で間違いない。

      補足日時:2022/01/16 15:29
  • 4.永劫回帰は、その世界観や論の中に「人間の内側にある主観的想像や想定」を使用しない。
      あるのは飽くまで人間の外側にある発生した事実、あるいは発生しうる客観的現実のみである。
      つまり、岡田さん解説と、永劫回帰を規定して作った場合の同作品はその作り方が相反しており、永劫回帰と言う用語を使用した解説には誤りがある。
      ジブリがあえて更に上記の永劫回帰を曲解したか、あるいは岡田さんなりの「岡田版永劫回帰」と言うものを使用するならば、想像や想定を入れても良く、この範囲内での意味ではその解説で問題ない。

      補足日時:2022/01/16 15:29
  • 5.私個人から見れば、上記のような理論詰めでこの作品を考えるとあれやこれや不完全な要素が見つかるのだが、宮崎監督から見れば、PVイメージとして「ドゥルーズ・ガタリ版永劫回帰を
    使用した」「永劫回帰とは書いたものの飽くまでイメージなのであって、イメージ映像をつなぎ合わせただけでそんなに深くは考えていなかった」「(岡田さんの言う通り)想像の中の想像、の中の想像、の中の想像・・・と言う人間内のイメージ内映像の包含関係だった」のどれかだろうなとして見ればいいんじゃないかなと思っています。

      補足日時:2022/01/16 15:30
  • メモとして記載しておきます。
    永劫回帰を規定する創作作品は次のものかな、と。

    1.グレンラガン
    「俺達は一分前の俺達より進化する!一回転すれば…ほんの少しだが前に進む。それが…ドリルなんだよ!」
    「倒れていった者の「願い」と、後から続く者の「希望」。ふたつの思いを二重螺旋に織り込んで、明日へと続く道を掘る!!それが、天元突破!!それがグレンラガン!!」
     ちなみにグレンラガンの物語中では、何度も同じような困難が立ちはだかってはそれを破壊していくという螺旋のような様が見られますが、その螺旋の描く渦巻きはカタルシスが一方向への不可逆な流れを示しており、元あったスタートラインに戻ることはありません。

    2.宇多田ヒカル SAKURAドロップス
    どうして同じような パンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまた戦うんだろう

      補足日時:2022/01/16 18:53
  • 逆に物語はらせん構造を描かず、一つの終局へと向かう、と言うのは、楳図かずお先生の「14歳」ですね。

      補足日時:2022/01/16 18:53
  • 宇多田ヒカル SAKURAドロップスでは「一周りしては戻り」と言うのが循環型の永劫回帰ですね。
    しかし我々には年齢と寿命と言うものがあり、完全一致型の回帰体験はしません。

    やや完全一致型永劫回帰に近いのが、日本のファミリー向けアニメーションですね。
    サザエさん、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃんなどは、いつまでも歳を取らずに永劫の回帰をしていますが、しかしこれは現実的にはありえません。アニメ版サザエさんの批評などでは、年齢が加算されずに時代だけが部分的に進んでいくと言う状態(平成のスカイツリーと昭和初期のゴムとびが併存する)が必ず揶揄の対象として記載されます。

      補足日時:2022/01/17 01:06
  • 私の認識違いがあったので、整理がてら補足します。
    岡田さん解説であったのは解説動画中のレベル4のフェーズであり、物語中ではやり直す度に差異があるのできっぱり「(差異があるので)永劫回帰ではない。アニメの中では少しずつ違った展開になっているので逆。」と言っています。岡田さんは夢や想定がクリエイターの中では現実として並行に描かれている様として認識しています。ところが、回答頂いたようにドゥルーズ&ガタリ版永劫回帰では差異を許容します。このドゥルーズ&ガタリ版から見れば永劫回帰の説明ができますが、岡田さんはこれを認識しません。
    現実におけるパラレルワールドではなく、クリエイターの中でのいくつものキャラクターが同時に可能性分岐点を生きている平行世界を「宮崎駿にとっての永劫回帰」としたようです。
    誤読の権利は視聴者側にありますが、岡田さんのこれはあまりにも断言を呈しすぎているように思われてなりません。

      補足日時:2022/01/17 21:38

A 回答 (4件)

ニーチェ版の永劫回帰は、恋人を希望とした生の単一円環運動で、


彼の時代や本気さを考えると、並列世界・空想の反復・差異(修正可能性)を含んでいなかったと思います。

全部は見ていませんが岡田さんの解説動画にある永劫回帰は、おそらく岡田さんから見た作家・宮崎駿版の永劫回帰で、
特定の女性(天使?)に希望を見出す点はニーチェ版と同じようですが、
違いは、生を並列的にイメージし、空想を含み?、差異(修正可能性)があり、全体的に悲観している点だと思います。

宮崎さんが永劫回帰をどう理解しているかは不明ですが、コンテ内容を
出来事の差異的反復として描いているので、ニーチェ版の永劫回帰とは異なります。

PVは、トライ&エラーして成功に至る(そしてまたエラーして…をくり返す?)物語のようなので、
おそらくドゥルーズ&ガタリ版の、差異を含む永劫回帰だと見なすことはできそうです。
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この回答へのお礼

追加の解説ありがとうございました。
確認したいのですが、一旦整理すると、

1.PVでの岡田さんの意見を挟まない、直接的鑑賞で表現している宮崎版永劫回帰は、同一事象が時間を経て再現されるニーチェのものではないが、差異を含むドゥルーズ&ガタリ版の(幸福や成長・繁栄に向かっての)永劫回帰とみなすことはできる。

2.一方、上記1に岡田さんの観点から考えられた「岡田さんの解説する宮崎版永劫回帰」と言うのは、本来あるニーチェもしくはドゥルーズ&ガタリの言う「(差異のあるなしに寄らず)一旦発生した現実が直列の時系列で再度再来するだろうと言う想定」ではなく、「平行世界で発生している、もしくは現実ではない想像や想定の中で、勝利や繁栄ではなく悲観をベースにした」と言う文脈において解釈している。

3.よって、岡田さんの説明は「岡田版永劫回帰」とも言うべきオリジナルの論としては扱うことができるかもしれないが、ニーチェ、ドゥルーズ、ガタリでの永劫回帰の論では上述のような差異があり、ニーチェ、ドゥルーズ、ガタリにおける「本来の意味での」永劫回帰では説明できない(差異が発生すると言う部分においては同じだが、元々の永劫回帰の意味からすると永劫回帰という語義・定義の意味においてベースの認識が全く異なっている)。

と言う認識となりました。
これで合ってますでしょうか?

お礼日時:2022/01/14 19:22

1は、私の認識とは合っています。



2も、私の浅はかな認識とは合っています。解説全ては見れていません。

3は、ドゥルーズの時間論を改めて見ると複雑で、もしかすると並行世界も含んでいるかもなのと、
岡田さんがその時間論をどう認識しているか不明なので、
かれらの認識のベースが異なっているかは不明です。

不確定性原理の時代的な有無から、
ニーチェ版は同一状況を含む永劫回帰、
ドゥルーズ版は同一状況を含まない永劫回帰だろう、と思えるくらいです。
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この回答へのお礼

追加の質問に対する回答を頂きましてありがとうございました。

岡田さんの解説は、岡田さんが別の動画でおっしゃられているように、視聴者に正論でありながらも疑問を抱かせる構造を狙っているとのことでした。
なので、まず岡田さんの解説が誤っていることを前提に見て行かなければなりません。

また、ドゥルーズの時間論も複雑なのですね。ただ私はそれにも不満があって、抽象概論を提起するのは自由であるが、それは具象化することによって現実的に実装されていくべきであって、そうした筋道がつかない哲学的概論とは、我々の学問的追求に意味をなさないばかりでなく、実生活にですら適用できないと言う状態で、この点で非常に不満に思っています。
もしドゥルーズで平行世界を規定するかのような論が匂わせられているとするならば、それは現実世界においてどのように影響たらしめるのかと言う具体的な波及が見られるべきですが、それが見られない。あるいはそれが正当だったとしても、洞窟から帰ってきたドゥルーズは、そこで見た何かを我々に対して理解できるように語るべきなのです。現実の哲学者はそれができていないように思われてなりません。

>ニーチェ版は同一状況を含む永劫回帰、
>ドゥルーズ版は同一状況を含まない永劫回帰だろう
ありがとうございました。ある程度すっきりはしました。
On Your Markとは、(作り手たる監督の真の意図がどうであったかは分かりませんが)、鑑賞者たる私の中で、ドゥルーズ版の永劫回帰として確定しました。

また、差異ありの類似した回帰においても、私なりの解釈としては、これはもう本当に類似した事象が数億年後、あるいは数十億年後に発生するであろうという想定をしたドゥルーズ版永劫回帰というファンタジーの中の話であり、現実にはこのようなことも起こらないだろうという帰結も私の中で結論が落ち着きました。

お礼日時:2022/01/15 22:12

起こりうることは全て起こりえたし、今後も全て起こりうる


とニーチェは考えていたかもです。すると誰版の永劫回帰も同じようになるかも
岡田さんの誤りは「時間を巻き戻す」という言い方くらいかもで、かれら作家は正解より曲解や誤解に価値を置くのかも

回答してから分かってないと気付きました。すみません
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ベストアンサーを選ばせて頂きます。
御礼の順番がAno.1→2→4→3と不規則になってしまいましたが、質問が締め切られてしまった今、書ける欄がここしかないのでご容赦下さい。

現在における私の個人的な結論としては、
・同作品での永劫回帰はニーチェ版だと解釈できないが、ドゥルーズ・ガタリ版では解釈できる。岡田さんの永劫回帰解釈は独自のものであり、面白い見方ではあるが、実際に宮崎駿監督が企図したものでない可能性が高い。
・宮崎駿監督が企図したものがドゥルーズ・ガタリ版永劫回帰であれば、同作品の登場人物達は、宮崎監督の中での並行世界における現実ではなく、飽くまで現実という時間の直線を歩みながら、そこにある致命的な失敗も、最終的に到達する成功も、そこに伴う破滅も、全てを包含した表現をしている作品である。
と言うことになります。
我々が想像もできない長い年月を経る内に、いつしか似たような事象や似たような人格を帯びた人間が生まれる。そして更に長い時を経たら、時として、過去に現れた人物と全く同一の人物が生まれる可能性があり、そして、発生事象がわずかに異なる未来が訪れる可能性がある。
その数千兆年以上はかかるであろう、こうした「宇宙におけるちょっとずつ違った現実としての未来の直列的発生と到来」を描いた作品は6分48秒の映像として収められた、と言う形で私は理解しました。私の理解は岡田さんの解釈とはこのようにして違います。

と、ここまで整理できたのは回答して下さったおかげであります。
勿論、私の「解釈」も誤っている可能性はあるのですが、私なりに腹に落ちました。
改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

お礼日時:2022/01/26 21:19

おおざっぱですが


恋人と再び散歩する希望を胸につらい円環状の時間を雄々しく歩むことがニーチェの永劫回帰で、科学的根拠はラプラスの悪魔なる原子決定論。
そのアイデアをドゥルーズとガタリが引き継ぎ、量子論・不確定性原理なる非決定論を加味し、時間のイメージを差異と反復をもつ螺旋状に修正(ジブリのはこっちかも)。
それからソーカル事件でドゥルーズが糾弾され、永劫回帰もファッショナブルナンセンスの一つになったかもです。
出典は『これがニーチェだ』『差異と反復』『知の欺瞞』など
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
確認したいのですが、永劫回帰の定義とは、

・並列世界における可能性を論ずるのではなく、あくまで類型となる相似(もしくは同一の事象)が時系列を直列に到来する。
・繰り返すのは飽くまで似たような現実なのであって、頭の中にある想像や想定ではない。
であっていますか? 

と言うのも、実は件のPV「On Your Mark」については、岡田斗司夫さんがこのPVに関するご自身の分析動画を年末年始で公開されていたのですが、どうも岡田さんご自身は、想像の中の想像、の中の想像、の中の想像・・・と言う、頭の中の想定における入れ子構造としての解説をされていて、その中の説明で永劫回帰を使用されていたので、どうも定義を誤認して使用しているのではないか、と言うことから永劫回帰の中身を確認するため、質問させて頂いた次第なのです。

私なりの永劫回帰の解釈でPVを捉え直せば、一旦は途中で悪いエンドになったけれども、それをやり直すような時が数十万年後か数億年後か長い月日が経った時に、ほぼ同じ条件でもう一度それを行うシチュエーションが到来し、それに対し、徐々に進展を進めて、全体としては前進していく様態を示す、と言う形で認識しています。永劫回帰観点からのこのPVの見方はこれで合っていますか?

お礼日時:2022/01/13 20:02

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