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 私は現在、アメリカに住んでおります。アメリカではキリスト教が元気で、アメリカ人の半分は日曜日に教会に通っているそうです。また、1ヶ月に1回以上教会に行く人となると、7割くらいになるとか。(ちなみに、念のため、私はクリスチャンではありません。)

 現在、アメリカでは進化論に対するインテリジェント・デザインというのが話題になっています。これは、人間を始めとした生物は複雑かつ合目的的で、これを突然変異の偶然の所産とするダーウィニズムは間違っており、生物の誕生には何らかの知的な計画が関わっているというものです。

 まあ、要するに神による創造論を別の言葉に言い換えただけなのですが、ただし、私は創造論の本を読んで、確かに生命の誕生や生物の複雑さと合目的性はダーウィニズムで説明するのは難しいなあと感じております。同様に、この宇宙にしても偶然としてはあり得ないくらいに精緻に出来いるとのこと。これも偶然論よりも創造論の方が説明が容易なのではないかと思っております(もちろん、だからといって、創造論を支持しているわけではありません)。

 ところで、仏教では宇宙や生命の誕生をどう説明しているのでしょうか? やはり、「因縁生起」で考えるのでしょうか?(しかし、人類が生れるはるか以前のことを因縁で説明できるのでしょうか?) また、唯識の阿頼耶識やアマラ識などで説明するのでしょうか?(もともと、阿頼耶識やアマラ識が存在し、宇宙や生命はそこから生じた?)

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A 回答 (8件)

 根本仏教の阿含経において、お釈迦様は、死後「異陰(いおん)」が相続するという表現で、霊の存在を話しています。

異陰=霊です。但し、お釈迦様は、霊を信じない人もいるので、積極的に霊の話をすることはありませんでした。霊の存在を信じなくても、お釈迦様の仏教は成り立ちますし、修行に支障をきたすことはなく、修行によって、霊が見えるようになるので問題ないのです。お釈迦様の仏教は瞑想を中心とした実践的修行なのです。

 根本仏教は、必要充分であって、アビダルマ~唯識哲学などのその後の仏教哲学は、言葉で思考するあまり、お釈迦様の悟りの内容から乖離する危険性があります。言葉は、霊的に獲得した真理を表現することは良いのですが、真理を到達するために言葉で議論を尽くしても、真理から離れる可能性があります。常に、お釈迦様の根本仏教に戻って検討する必要があります。
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この回答へのお礼

lightgridさん、

 たびたびのお返事ありがとうございます。阿含経の中で霊について「異影」と表現されているというのは初めて知りました。

 しかし、肉体や物体を超越した霊が存在するのであれば、おそらくそれは宇宙や生物の生成の以前から存在していたのでしょうね。まず霊があって、その後に宇宙や生物は誕生したということでしょうか。

 ちなみに差し支えなければ、lightgridさんはどこかの宗教団体に入られているのですか? もしそうなのであれば、lightgridさんのお答えは、その団体の教義と一致しているのでしょうか?

お礼日時:2006/06/15 06:17

#6です。

またお邪魔します。

>阿頼耶識、アマラ識を人格化すれば、キリスト教等の一神教の神になるのではないかと思います。

仏教徒のみなさんがどう思うかわかりませんが、私は

阿頼耶識 = 神

と考えても良いと思いますよ。
でも逆にキリスト教やイスラム教の方がそれを許さないでしょう?

神は自分自身の存在の根本、つまり自分そのものである。
神 = 自分
これ、話す相手によってはかなり危険です(笑)

一神教の神というのは自分と切り離された「他者」であって「宇宙人」みたいなものだと思います。はるか昔にこの宇宙にやってきて我々の進化を見守り、干渉してきた”何らかの知性”です。いや、地球も太陽も彼(彼ら)が、それこそまるで核実験でもするように、造ったのかもしれません。インテリジェントデザインはそういう考えのように感じますが違うのでしょうか?

ここではっきりさせておきたいのは、人間を造ったのが一神教の神(=宇宙人または”知性”)である可能性は十分ありますが、しかし、宇宙を造ったというのはまた別の話だということです。

宇宙人に宇宙は造れない。完全な無からは「神」すら生まれる事は不可能です。
ということはその「神」を造った「神」がいる。もちろんその上にもまた上がいることになります。

だから一つの考え方として「繰り返し」があるのです。宇宙が存在する原因は我々の精神の無意識の深淵にある。そこは時間も空間も超えた領域で、そこに宇宙の存在を求める意志(?)がある?・・・

宇宙の誕生

生命の誕生
は別々に考えた方がいいのかもしれません。
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この回答へのお礼

 お返事ありがとうございます。

 ヒンズー教などに見られる「神=自分」という考えはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神秘主義でも主張されています。もちろん、神秘主義は基本的に異端ですが、一神教徒にとって全く聞いたこともないような答えではないと思います。

 唯識哲学では阿頼耶識がすべてを生んだ(一切種子識)と考えられていますので、生命も宇宙も阿頼耶識による創造と考えて良いと思います。

お礼日時:2006/06/18 00:00

誰しも仏性があるから悟りにいたる道があるというのが仏教の教えですね。


この仏性というのは心の奥にあるダイヤモンドですね。それを表現しているのが唯識の阿頼耶識やアマラ識論ですね。
誰もが持つ仏性(仏あるいは神の性質)がどこから来るものかは釈迦時代の仏典には明確にされてはいないようですが、現代風に解釈すれば根本仏(あるいは神)がこの仏性をつくったと考えるのが妥当と思いますね。根本仏の分け御霊(神道風表現)といえるでしょうね。この仏性が人間にしているのであるという考え方ですね。動物と人間をわける性質の違いでしょうね。肉体的進化論じゃなく中身で勝負ということかな。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました。
阿頼耶識やアマラ識が根本的に邪悪なものなのか、それとも清らかなものかは意見が分かれているようですね。

阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC% …

しかし、阿頼耶識の基本は一切種子識であり、すべてのものを生み出すものですね。これを人格化すれば、仏や神になるのでしょう。

ところで、人間には仏性があって、動物にはないとお考えなのでしょうか? 大乗仏教では基本的にすべての生き物に仏性があるとしていたと思いますが(この点で大乗仏教と進化論は相性が良い。)

お礼日時:2006/06/17 09:32

私は僧侶でも研究者ないので詳しい用語などはわかりませんが、因果律で説明できると思います。



この宇宙ができたのには原因があると考えた場合、それが何も無かった「昔」である必要はありません。過去の結果の原因が遠い未来にあってもいいのです。

バカバカしい(笑)と思われたらすみません、でも、#1さんの回答でも出てきましたが4次元というのは我々には認識できない時間が空間に関係する世界です。時間が空間を曲げたり空間が時間を動かしたりする世界です。

そして現代の科学では宇宙は4次元(relativity)とか10次元(strings)などといわれます。宇宙の存在を3次元の枠で考えるのが無理であるとすると、時間の連続性は我々の認識ほど重要なものではないのかもしれません。過去に結果があって原因が未来にある可能性も否定できないと思います。

もちろん私にもそんな感覚はわからないので信じられませんが、そういう考え方もできるということです。

釈迦の教えで特に世界の始まりに言及する必要はなく、因果律自体が時間の連続性とは関係ない、ということで良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました。

因果律を使うとなると、やはり4次元以上の考え方が必要となるようですね。

No.5の方へのお礼でもお書きしましたが、私は阿頼耶識とアマラ識という考え方を使ったら、うまく説明できるのではないかと思います。両者は根源から存在しているものであり、時空を越えているとされているからです。

仏教では法身仏といって、法(ダルマ)を仏陀として人格化しますが、阿頼耶識、アマラ識を人格化すれば、キリスト教等の一神教の神になるのではないかと思います。

お礼日時:2006/06/16 05:15

  第三回答者ですが、補足します。


  「時」が、過去から未來へ一直線的に推移するならば、「親の親には、その親がゐて」といふ風に、續き、どこかで「始まり」を考へたくなりますが、假に、「時が輪のやうに繰り返へすやうに進む」ならば、その始まりを考へる事は出來なくなります。親の親を尋ねて行つたら、それは自分だつた。自分を産んだのは、結局は自分だつた。他人ごとだとばかり思ひ、突き止めて行つたら、何の事はない、自分のことだつた。そんな世界の見方もあるのです。
  佛教では佛が今の目の前にも示現すると言へますが、キリスト教ではそのやうな場合があるのか無いのか知りません。
  多分に、神がこの世界を、生き物を創つたといふ考へから、「創つたものなら、何時できたのか」との疑問が出來るのかと思ひます。佛教などのインドでの輪廻思想では、「繰り返し」が世界の仕組みですから、「始まり」とか「終り」の考へそのものとは縁が無いのかも知れません。
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この回答へのお礼

たびたび、お返事ありがとうございます。

大変面白い考えですね。ただし、キリスト教と違って、とりあえず仏教は基本的に進化論を受け入れているのではないかと思います。六道輪廻などの考え方と似ているからですね。ですから、親の親のずっと先の親は類人猿であり、単純な哺乳類であり、単細胞生物であるわけです。

進化論では生命の誕生を主張しますが、仏教はどうなのでしょうか? 私は唯識論あたりなら、説明は可能だと思うのですが。まずは阿頼耶識、アマラ識があり、そこから宇宙や生物は誕生したと。もちろん、ではその阿頼耶識やアマラ識はいつ出来たのかとなると、また新しい問題となりますが。

お礼日時:2006/06/16 00:31

 仏教にしろ、キリスト教にしろ、古代宗教の世界は目に見える範囲です。

宇宙や人類発生前の事に言及したのは科学の進歩に合わせてじゃないでしょうか。
 元々、宗教は人間の在り方を説いたものであって、森羅万象の発生まで考察する必要もなかったと思います。が、それまで精神的世界観であったものを後世の人が解釈を広げたと考えた方が良いと思います。
(釈迦もキリストも経典など残していないのですから)
 仏教では「悟り」をもって人格の向上を求めていますから、当初から宇宙創造の仕組みは範疇外だったはずです。

 但し、私は根本的な意思(辞典的な意思の解釈とは違う、一種の法則のようなものか、或いは辞典に掲載されているような何者かの意志)が生物の発生や進化を導いているという考えはあります。
 そしてそれが「神意」だとしても、少なくとも宗教で言われているような神とは全く異質なものだと私は考えています。強いて言えば、電子やそれ以下のつき詰めて行ったところにある根本原理(法則)のようなものです。
 同様に考えた人が、仏教の教えを元に森羅万象の発生を考え、記述したとしても不思議は無いでしょう。しかしそれはあくまで、その時代に想像し得た世界観の中での話です。ですから、ある程度は現存する仏教の教えの中に宇宙の起源に触れ、しかも現在の世の中で実態を証明される部分があってもおかしくはありません。宇宙や生命の起源は科学の世界においても、未だその多くは想像の世界を漂っているに過ぎませんから、重なる部分もかえって多く存在すると思います。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました。

宇宙や生物の創生神話は旧約聖書を始め、いろいろな神話で語られています。だから、古代人もこれらの問題に関心があったと思ってよいのではないでしょうか?

仏教につきましては、どうやらあまり語られていないようですね。これはやはり、仏教が悟りを最終目標としているからでしょうか。なにせ知識欲すら煩悩の一つに入れそうですものね。「余計なことは考えないで、修行に励みなさい。」という感じでしょうか。

お礼日時:2006/06/15 16:47

  この世の物質世界の総體である「宇宙」が生まれるとか、生命體が始めて發生するとかの話題は、佛教の因縁とか、輪廻の考へとは馴染まないでせう。

宇宙の誕生があれば、それ以前は、何も無いわけですが、何も無いところには、因縁も輪廻もあり得ないわけです。
  一切の衆生が輪廻し、全ての存在が因縁で繋がれたゐる世界は、今のこの、現在の在り方が、世界の初めであり、終りであり、始めも終りも無いでせう。「説明出來るか出來ないか」と問はれれば、「出來ないし。する必要もない」といふことです。
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この回答へのお礼

大変ユニークなお答え、ありがとうございました。

「今のこの、現在の在り方が、世界の初めであり、終りであり、始めも終りも無いでせう。」

禅の悟りの境地を得た方が「過去も未来もなく、今しかない。」とおっしゃっていたのが、思い出されます。

しかし、私のような凡夫からしたら、今日、昨日、一年前とさかのぼれるように、宇宙や生命の誕生もさかのぼれるのではないかと思ってしまいます。「始めも終わりもない」というのは、どうしても納得できないのですが。具体的には生物には必ず親がいるはず、親の親を辿っていけば、もとの親にたどり着くはずだと思うのですが。いかがでしょうか?

お礼日時:2006/06/15 16:11

 仏教では、「宇宙や生命の誕生」は、質問者様のおっしゃるとおり、因と縁によって(因縁によって)誕生したということになります。



 それ以上「宇宙の始まり」や「生命の始まり」を追求しても、それを検証することもできず、究極的には結論が出ません。見た人がいないからです。

 「宇宙の始まり」や「生命の始まり」を追求するような結論の出ない哲学的議論を、お釈迦様は戯論(けろん)(即ち、意味のない議論)として批判しました。

 お釈迦様は、そんなことを議論(戯論)するより、さっさと仏陀になるための修行して仏陀になることが重要であると考えたのです。仏陀になれば、すべての存在の意義(今回の場合、宇宙や生命の意義)を如実に悟ることができるとお考えになったのでしょう。

 生命は、霊的世界の理解なくして、理解することはできません。すべての生命は霊的な存在だからです。

 1次元は、2次元以上の視点でしか把握することができません。2次元は3次元以上の視点でしか把握することができません。3次元は、4次元以上の視点でしか把握することができません。同様に、3次元の宇宙や生命は、4次元以上の視点でしか把握することができません。その4次元以上の視点を獲得するのがお釈迦様の仏教の修行なのです。4次元以上の視点は、おそらく言葉では表現できないでしょう。

(但し、お釈迦様の仏教は大乗仏教(大乗経典)ではありません。お釈迦様の修行法は、上座部仏教の阿含経にのみ説かれています。)
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この回答へのお礼

 お返事ありがとうございます。

 根本仏教的なご説明だと思いますが、ちょっと気になったのは根本仏教でも霊の存在を唱えているのでしょうか?

 また、質問者さまのお立場は大乗仏教には否定的だと思いますが、唯識哲学はお釈迦様の教えを発展させたものであり、根本仏教を補うもののような気がするのですが。(他の大乗経典は明らかにお釈迦様の教えから大きく逸脱していると思いますが。)

お礼日時:2006/06/15 00:26

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