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私は子供のころからモノよりも、ものの本質とかこころとか、目に見えないものに惹かれていまして、それは今でもそうなのですが、近頃は現実というものに興味を持っています。現実の人生とか社会に何かをうみだすことです、形而上、形而下にわたって。しかし、改めて観念的なことを考えてみようかという気になりました。

さて、自然科学万能の時代と言ってよい現代においては、形而上の世界は「ないもの」あるいは「不要なもの」と考える人が2/3を超えているだろうと考えています。

「形而上」を辞書で引くと、「時間空間の中に形を持つ感覚的現象として存在することなく、それ自身超経験的な、ただ理性的に思惟によってとらえられるとされる存在」(広辞苑)となります。

さて、形而上の世界とは実在すると思いますか?

実在するとすれば、形而下の世界との関係はいかに?

形而上の世界っていったい何?

自由に言いたいことを言ってください。但し、私も含めて哲学にあまり詳しくない人が多いので、お手柔らかに。

A 回答 (23件中1~10件)

主に、概念とその群は、形而上の存在だと思います。



例えば、”概念”を手に取ってみてください。硬さはありますか?温度はありますか?手触りはどうでしょう?色や形はどんなですか?それは時間経過で朽ちるでしょうか?或いは大きさは?

このような現実世界の諸現象に規定されえない、それ自身の内包する要素からのみ成り立つ抽象存在、実体では無く枠のこと、それが形而上の存在だと思います。

数や図形もそれに類するものだと思います。

なので、”人間”とか、”人間らしい”と言うのもどちらかと言えば形而上よりだと思います。ただ、これらは幾何学とは違って定義が人によって多岐にわたるので、それぞれの人の固有の形而上世界の色が濃く出る場合もあります。人によってばらつきや幅がある。

形而上の世界は実在します。
これが無ければ人は会話が出来なくなる。

一方、形而下の世界とは、端的に言えば固有の世界です。私、月輪の雷蔵と、ニャンポコリン2さんは、形而下では決して同じ猫ではありません。それぞれ違う、固有の猫生を送って来たのであり、生まれも育ちも毛の色だって?全くの別猫です。
しかしどうでしょう、形而上世界ならば、同じネコ科に分類されるでしょう。個性は何処へやらです。しかも、人語を話す、ちょっと特殊な、同じ種類の猫に分類されます。この分類を細かくすればするほど、形而下の固有の存在に近づきます。さらに、額に傷のある、ホルモン焼き屋の少女に飼われている老猫とか、限定すると、月輪の雷蔵にかなり照準は合ってきます。極めつけは固有名詞です。月輪の雷蔵という固有名詞を想起すれば、あ、あいつのことだなと分かります。しかしそれでも、まだ形而下には至っていません。

形而下、つまり実体を伴うところまで行くためには、ものすごい膨大な情報を書き記し、揺らぎまで加えなければなりません。それこそ、この宇宙をもう一個作るくらいの情報量が要るわけです。

かくして、形而上存在とは、物の分類のためのマーカーであり、何をマークできるかはその人が認識した限界までをマークできる。
宇宙の果てを想像上でもよいので認識し、数学や物理用語を用いてマークすれば宇宙物理学などでも論じれる。
目には見えない素粒子でも、想像の世界で認識し、相応の言語でマークすれば、極小の目には見えない世界も語ることが出来る。

神について認識したことがある人は、神という言葉を用いて、神について語ることが出来る。真実在も同じように。無も同じように。


ところで、形而上では同じものを想起することが出来ます。幾何学図形の、相似図形とか、合同図形と言うと分かりやすい。現実世界では同じものは存在できません。完全に重なって、結局は一つのものを意味することになり、認識・観測できないからです。

いやいや、形而上でも重なっている状態はあるだろう?と思っても、形而上は言語で状態を指定するので、二つの合同図形が同じ場所に重なっている、と定義すれば、その通りになる。

 形而下←現実ー想像ー言語→形而上

話し過ぎました。要約すれば、こんな感じでしょうか。
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この回答へのお礼

よくまとまった文章だと思います。

形而下=具体でいいと思います。
私の好きな「リンゴ」は果物の枠の中では具体ですが、「リンゴ」の枠の中ではリンゴは抽象で各品種が具体ということになると。
さらに、各品種のリンゴを抽象とすると、皮だの身だの種が具体になる。これを繰り返すと素粒子にまで行き着く。その素粒子も粒子なのか波動なのか分からない。

>形而下、つまり実体を伴うところまで行くためには、ものすごい膨大な情報を書き記し、揺らぎまで加えなければなりません。それこそ、この宇宙をもう一個作るくらいの情報量が要るわけです。

ふむ、そうとも言えると思いますが、結局、形而下=具体=物質の本質は分からないということも言えますね。

一方、形而上がマーカーであり、言語化することによって会話をすることができるようになる、ということはその通りですが、それで「実在する」ことになるのかどうか?

私という人間(猫でもあるのですが)は実在します。では、人間とか人類という抽象化されたマーカーになっているものは実在しているのか?

個々の人間の実在は疑うことはできません。人間という抽象化された概念は、個別の特徴が捨象されたものですが、これが実在すると言えるのかどうか?

そして「人類」という概念は抽象なのか、具体なのか、分からなくなってきました。

お礼日時:2022/10/23 13:18

>形而上の世界とは実在すると思いますか?



実在する。

>実在するとすれば、形而下の世界との関係はいかに?

裏と表。
内側と外側。
依正不二。

>形而上の世界っていったい何?

諸法実相。
一念三千。
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この回答へのお礼

「依正不二」とは、生命主体とそれを取り巻くすべての環境が一体不二であるという概念であり、形而上と形而下の関係をあらわすものではないと思います。

「一念三千」には「如是相」という形而下のものが含まれています。

お礼日時:2022/10/23 13:22

フリードリヒ・ニーチェ (1844 - 1900) は、死を「観念(ドグマ)」とする、教会を激しく攻撃しましたけれど。



観念主義のことをドグマ主義と言いますけれど。
「形而上」の回答画像3
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この回答へのお礼

キリスト教の教義が独善的であるという批判ですね?

それで?

お礼日時:2022/10/23 13:29

> 「形而上」を辞書で引くと、「時間空間の中に形を持つ感覚的現象として存在することなく、それ自身超経験的な、ただ理性的に思惟によってとらえられるとされる存在」(広辞苑)となります。



「実在」は(広辞苑で)、「一般には、観念・想像・幻覚など主観的なものに対し、客観的に存在するもの、またその在り方。」「プラトンは感覚世界を実在の幻影に過ぎず、その背後のイデアを清の実在と考えた。」「これに対し、アリストテレスは感覚世界を清の実在とし、形相(エイドス)を感覚世界に内在する不変の構成原理とした。」「またバークリーは」一切の存在を観念に換言する観念実在論の立場をとり、ヘーゲルは実在を精神の自己客観化とし、実在と観念の統一を主張した。」と説明されています。

> 形而上の世界とは実在すると思いますか?

ちょっとやっかいです。 どのような意味で「実在」を考えるのでしょうか。

「形而下」は(広辞苑で)、「自然一般・感性現象、すなわち時間・空間のうちに形をとって現れるもの。⇔形而上」となっています。
この形而上⇔形而下というのは、「経験論や認識論」と関係があるようです。

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> 形而上の世界とは実在すると思いますか?
> 実在するとすれば、形而下の世界との関係はいかに?
> 形而上の世界っていったい何?

この場合、形而上・形而下は、哲学ではなく、日常用語に近い使い方なのでしょう。
☆ 形而下:感性を介した経験によって認識できるもの。時間・空間を基礎的形式とする現象的世界に形をとって存在するもの。
☆ 形而上:時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。

 この2つの☆の形而下・形而上の理解で考えてみます。
 そして「実在するとすれば」の「実在」については、実在と架空という程度、つまり「実際にある、実際に経験できる、想像だけではなくて本当にある」という程度の意味で考えます。夢も夢として実在する、SF小説も、怪奇物語も、都市伝説や流言飛語も実在するものというような場合の使い方です。
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ニュートンの発見した万有引力は、私には「感性を介した経験によって認識することはできない」と思いますが、どうでしょう。アインシュタインの提唱する一般相対性原理で光速に近い運動をするもの距離や時間は、そうした運動をしないもののものとは異なるも「感性を介した経験によって認識することはできない」と思いますが、どうでしょう。 そうすると、物理学のいくつかの法則は実在するが、形而上の世界の実在ということなのでしょうか。

一方、憎しみ・嫉妬・絶望・苦悩・期待・蔑み・誇り・悲しみ・喜び・展望・夢・理想・空想・失意・友愛・愛・憎悪・共感・理解不能などのものは、感性を介した経験によって認識できるもの、超自然・理念というものではない感じがします。 そうすると、これらは、形而下の世界の実在ということなのでしょうか。

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> 近頃は現実というものに興味を持っています。現実の人生とか社会に何かをうみだすことです

「名を残す」という言い方があります。 評判や名声が世間で伝わるイメージです。 名が廃るというのは悪い評価がされることです。 ところが、世間での評判やうわさではなく、自分自身でのプライドのようなものがあって、「自負心」で、なんとしてもこれはこうする、このときは絶対にしないというのが、自分の生き方というのを持っている人もいます。 これは「自分の人生を構成・造形する」行為や思考(志向)だと思います。  世間や状況に流されてついついなってしまうのを棹さして辛抱する態度・生き方です。
言を左右にし記憶にないとか自分がやったのではないといって糾弾を回避するというのも、それはそれで自分を貫き通すことと考える人もいるでしょう。 そんなのは決してやらないと目先の損得や誘惑を無視することこそ、自分を貫き通すことと考える人もいるでしょう。
政治家として、フィクサーとして財と名声と地位を得るということで、現実の人生とか社会に何かをうみだす人もいれば、金や地位や名声などよりも自分の倫理・信念を貫き通すことで、現実の人生とか社会に何かをうみだす人もいるのでしょう。
1970年に発売された美空ひばりのシングル盤レコードに「人生一路」という歌がありますが、日本では結構人気が続いています。 ちょっと方向は違うように感じられるかもしれませんが、1961年に発売された坂本九の「上を向いて歩こう」も、自分を自分で築き、他人や世間目線で生きるのではないことを目指したもののように思います。 たぶんこの時代は、世間とは違っても、自分の人生をしっかり歩もうという方向性に共感を感じる人が多かったのだと思います。
「社会に何かを産み出す」という志向になっていくと、受ける側の社会や世間の視線、価値観、評価評判はどうかということが強く気になるし、他の人が産み出すものと比較して自分が遅い・速いとか、量が多い少ないとか、価値がタ高い低いとなっていってしまう可能性は高いです。 そうした比較がある以上、自分が産み出す志向でやっていても、結果、他人に先を越され、量で越され、質でも越されて、どうにもなにも産み出せないのと同じ状態になってしまう可能性はとても高いです。 他人と競い合うことになるようなののではなく、基本、エゴかもしれないが、自負心と気概とで我が道を行くことが、「自分の人生で何かを産むこと」になるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

形而上・形而下とは哲学用語であり、広辞苑には(哲)と表記されていますので、哲学の解釈の内、一般的なものを簡潔に表現したものと理解しています。

実在とは、一般的には五感で客観的に知覚できるものという科学的な解釈になりますが、哲学的にはプラトンのイデアとか、カントの物自体などのように諸現象の背後にある本質的なものという考え方もあると。

そのようないわば「究極の実在」と概念と精神というものが、実在しなければ「おかしい」「矛盾する」と考えているのです。

人間の考えだした概念、言葉の中には全くの空想でしかない実在しないものもあるだろうと思いますが、精神とか人類とかいう概念は実在と「するべき」だと思います。

お礼日時:2022/10/24 22:17

>>No.3



キリスト教の教義が独善的であるという批判ですね?

それで?

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神は霊的・霊感・全身を使って、感じ取るものなので、形而上「学」ではないのだと思われます。癒えない瑕を抱えた者の特権でもないですが、強く、神を感じ取れるのは、瑕のためでしょうね・・・。
「形而上」の回答画像5
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この回答へのお礼

神は感じ取るもの、よく聞く言葉です。

お礼日時:2022/10/24 22:19

お礼ありがとうございます。



>ふむ、そうとも言えると思いますが、結局、形而下=具体=物質の本質は分からないということも言えますね。

確かに。

>個々の人間の実在は疑うことはできません。人間という抽象化された概念は、個別の特徴が捨象されたものですが、これが実在すると言えるのかどうか?

ふむ。。実在とは言えないかもしれないが、少なくとも存在はすると言えるのではないでしょうか。たしかに、”実”は持っていないのが形而上物?のような気もします。ここら辺は言葉の使い方の問題と言う事になりそうですね。

>そして「人類」という概念は抽象なのか、具体なのか、分からなくなってきました。

うーむ。それは、カテゴリというものです。

「人類」は文明や文化を作っていて、それらこそ人類的なものであるので、人類というワードは具体的なのではないでしょうか。しかも、形而上学もその文明文化の中にカテゴライズすると、具体の中に抽象が含まれることになりますね。ややこしいですが、具体と抽象は思っている以上に複雑な関連をしているのかもしれません。私の知識と思考能力ではお手上げですね。
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この回答へのお礼

これは以前から考えていて、結論が出ないままになっていることですが、
一人の時と友達と二人の時は「世界」が明らかに違いますよね?3人になるとまたがらりと違う。30人になるとまた大きく違う。

人間の集団というものは、家族とか学校のクラスとか会社の課とか国家、そして人類と広がってゆきますが、その中で個々の人間の心が影響を受けることは事実であるので、何らかの実在があってしかるべきだと思っているんです。
つまり、偶然の集まりではなくて、何らかの「力」「法」によって出来上がったものではなかろうかと。

「人間」という概念も「染色体」という具体があるので、実在といえるのではないかと。

まとまりがつかなくなってきました。

お礼日時:2022/10/24 22:39

実在する形而上学を「芸術」といいます。

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この回答へのお礼

うむっ。

鋭い言論ですね。

芸術と言っても幅が広いですが、例えば彫刻、人体とか動物とかを写実的に表現するだけでなくデフォルメがあると思います。それは、生命力だとか動きだとかいう内面の表現と言えると思います。そういう内面的な形而上のものを具体化したとは言えると思うのです。

ピカソとか岡本太郎は抽象的ですね。抽象したものの具体化。

これらは、形而上の実在の証明となるのだろうか?

お礼日時:2022/10/24 22:47

完璧な円は物理世界には存在しませんが、理念として理解できるのは、ほとんどの人が認めるところです。

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この回答へのお礼

円の概念はまあ大抵の人が知っています。

完璧な円はないと言われていますが、その違いは人間の技術の問題ということですか…

お礼日時:2022/10/24 22:51

>>No.5



病気が主な原因ですけれど。


絶命寸前体験が大きいのだと思います。

私は生きた儘、天界を視ましたけれど。
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この回答へのお礼

ふうむ。

お礼日時:2022/10/24 23:33

>完璧な円はないと言われていますが、その違いは人間の技術の問題ということですか…



技術の問題と言えばまあそうでしょうが、技術が進歩しても歪みがまったくない円は物理的には存在し得ないのでは。
少なくても現代では存在していない。だけど理念としての円は理解できる。
そこがポイントです。
技術云々は的外れです。
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この回答へのお礼

よく知らないのですが、完璧な円というものは理論的に存在しないみたいですね。

そうであるならば、つまり、「完璧な円」というものが人間の作り出した空想的観念であり、宇宙には実在しないもの、ということになります。

全知全能の神、奇跡、魔法といったものと同類だと。

お礼日時:2022/10/24 23:39

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