電子書籍の厳選無料作品が豊富!

私は子供のころからモノよりも、ものの本質とかこころとか、目に見えないものに惹かれていまして、それは今でもそうなのですが、近頃は現実というものに興味を持っています。現実の人生とか社会に何かをうみだすことです、形而上、形而下にわたって。しかし、改めて観念的なことを考えてみようかという気になりました。

さて、自然科学万能の時代と言ってよい現代においては、形而上の世界は「ないもの」あるいは「不要なもの」と考える人が2/3を超えているだろうと考えています。

「形而上」を辞書で引くと、「時間空間の中に形を持つ感覚的現象として存在することなく、それ自身超経験的な、ただ理性的に思惟によってとらえられるとされる存在」(広辞苑)となります。

さて、形而上の世界とは実在すると思いますか?

実在するとすれば、形而下の世界との関係はいかに?

形而上の世界っていったい何?

自由に言いたいことを言ってください。但し、私も含めて哲学にあまり詳しくない人が多いので、お手柔らかに。

A 回答 (23件中21~23件)

フリードリヒ・ニーチェ (1844 - 1900) は、死を「観念(ドグマ)」とする、教会を激しく攻撃しましたけれど。



観念主義のことをドグマ主義と言いますけれど。
「形而上」の回答画像3
    • good
    • 2
この回答へのお礼

キリスト教の教義が独善的であるという批判ですね?

それで?

お礼日時:2022/10/23 13:29

>形而上の世界とは実在すると思いますか?



実在する。

>実在するとすれば、形而下の世界との関係はいかに?

裏と表。
内側と外側。
依正不二。

>形而上の世界っていったい何?

諸法実相。
一念三千。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

「依正不二」とは、生命主体とそれを取り巻くすべての環境が一体不二であるという概念であり、形而上と形而下の関係をあらわすものではないと思います。

「一念三千」には「如是相」という形而下のものが含まれています。

お礼日時:2022/10/23 13:22

主に、概念とその群は、形而上の存在だと思います。



例えば、”概念”を手に取ってみてください。硬さはありますか?温度はありますか?手触りはどうでしょう?色や形はどんなですか?それは時間経過で朽ちるでしょうか?或いは大きさは?

このような現実世界の諸現象に規定されえない、それ自身の内包する要素からのみ成り立つ抽象存在、実体では無く枠のこと、それが形而上の存在だと思います。

数や図形もそれに類するものだと思います。

なので、”人間”とか、”人間らしい”と言うのもどちらかと言えば形而上よりだと思います。ただ、これらは幾何学とは違って定義が人によって多岐にわたるので、それぞれの人の固有の形而上世界の色が濃く出る場合もあります。人によってばらつきや幅がある。

形而上の世界は実在します。
これが無ければ人は会話が出来なくなる。

一方、形而下の世界とは、端的に言えば固有の世界です。私、月輪の雷蔵と、ニャンポコリン2さんは、形而下では決して同じ猫ではありません。それぞれ違う、固有の猫生を送って来たのであり、生まれも育ちも毛の色だって?全くの別猫です。
しかしどうでしょう、形而上世界ならば、同じネコ科に分類されるでしょう。個性は何処へやらです。しかも、人語を話す、ちょっと特殊な、同じ種類の猫に分類されます。この分類を細かくすればするほど、形而下の固有の存在に近づきます。さらに、額に傷のある、ホルモン焼き屋の少女に飼われている老猫とか、限定すると、月輪の雷蔵にかなり照準は合ってきます。極めつけは固有名詞です。月輪の雷蔵という固有名詞を想起すれば、あ、あいつのことだなと分かります。しかしそれでも、まだ形而下には至っていません。

形而下、つまり実体を伴うところまで行くためには、ものすごい膨大な情報を書き記し、揺らぎまで加えなければなりません。それこそ、この宇宙をもう一個作るくらいの情報量が要るわけです。

かくして、形而上存在とは、物の分類のためのマーカーであり、何をマークできるかはその人が認識した限界までをマークできる。
宇宙の果てを想像上でもよいので認識し、数学や物理用語を用いてマークすれば宇宙物理学などでも論じれる。
目には見えない素粒子でも、想像の世界で認識し、相応の言語でマークすれば、極小の目には見えない世界も語ることが出来る。

神について認識したことがある人は、神という言葉を用いて、神について語ることが出来る。真実在も同じように。無も同じように。


ところで、形而上では同じものを想起することが出来ます。幾何学図形の、相似図形とか、合同図形と言うと分かりやすい。現実世界では同じものは存在できません。完全に重なって、結局は一つのものを意味することになり、認識・観測できないからです。

いやいや、形而上でも重なっている状態はあるだろう?と思っても、形而上は言語で状態を指定するので、二つの合同図形が同じ場所に重なっている、と定義すれば、その通りになる。

 形而下←現実ー想像ー言語→形而上

話し過ぎました。要約すれば、こんな感じでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

よくまとまった文章だと思います。

形而下=具体でいいと思います。
私の好きな「リンゴ」は果物の枠の中では具体ですが、「リンゴ」の枠の中ではリンゴは抽象で各品種が具体ということになると。
さらに、各品種のリンゴを抽象とすると、皮だの身だの種が具体になる。これを繰り返すと素粒子にまで行き着く。その素粒子も粒子なのか波動なのか分からない。

>形而下、つまり実体を伴うところまで行くためには、ものすごい膨大な情報を書き記し、揺らぎまで加えなければなりません。それこそ、この宇宙をもう一個作るくらいの情報量が要るわけです。

ふむ、そうとも言えると思いますが、結局、形而下=具体=物質の本質は分からないということも言えますね。

一方、形而上がマーカーであり、言語化することによって会話をすることができるようになる、ということはその通りですが、それで「実在する」ことになるのかどうか?

私という人間(猫でもあるのですが)は実在します。では、人間とか人類という抽象化されたマーカーになっているものは実在しているのか?

個々の人間の実在は疑うことはできません。人間という抽象化された概念は、個別の特徴が捨象されたものですが、これが実在すると言えるのかどうか?

そして「人類」という概念は抽象なのか、具体なのか、分からなくなってきました。

お礼日時:2022/10/23 13:18

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!