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形而上学というのは、分かりやすくいうと何を学ぶのでしょうか?

A 回答 (6件)

形のないモノ、形を超えたモノ


精神的なモノ
などを形而上といいます。

即ち。
「なぜ世界は存在するのか?」
「善とは何か?」のような物質的ではない、
抽象的な存在そのものを扱う学問
のことです。

具体的には、喜怒哀楽とか、神様
なんてのが、形而上学の対象になります。


江戸時代、西洋から神父が来日し
新井白石との問答の記録が残っています。

新井白石は次のような感想を残しています。

『あいつら形而下学はすごいが、形而上学は
 子供みたいだ。
 アダムとイブだあ?
 頭おかしいんじゃねえの』
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この回答へのお礼

私は元々工学修士ですが、今度社会人として入学した大学でそういった哲学関連のことを学ぶので、大変参考になりました。

お礼日時:2023/04/06 15:30

1. 形而上学は 神とは何かについてまなびます。



2. ということは 人間にとって神とは何かという課題です。

3. 言いかえると 神と〔人間たる〕われとの関係について問い求めます。

4. 得られた結論としては 《信じる》です。

5. すなわち:

形而上のもの(非経験の場・チカラ)について《信じる》
形而下のもの(経験世界)について 《感じる・考える》

    神      神      神                
タ   |      |      |
テ・・・|      |      |・・・:信仰
の   |      |      |   (信じる)
関   |      |      |
係   |      |      |
    われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
        ❙      ❙
        ❙      ❙
     ヨコの関係  ヨコの関係・・・・:信念・思想
                   (感じる・考える)

6. 《信じる》とは:

《神という言葉で呼ばれる非経験の場ないしチカラについて
無条件で無根拠にて
わが心に受け容れる》

ことです。

6-1. 具体的には 神は有るとしてか無いとしてか いづれか一つを――互いに自由に同等に――えらぶことになります。有神論と無神論とが 互いに対等に この世には現象します。

7. ちなみに 信仰と信念・思想とは 両立します。
《信じる》とき 思考停止にはなりません。
《無条件で無根拠にて》の意味は 《あらゆる〔特に定型化した〕感覚や思考から自由に》ということです。
・・・



8. こういった感じで 人間と世界とのナゾを問い求めていくのが 特に形而上学とよぶ分野としての哲学です。

9. すでに端折りますが 《おのおの〈わたし〉と自称する人間が この世界という現実においてどういうふうに位置づけられ・しかも自己をどう位置づけるかといった問いのもとに 哲学的な自己了解を得ること》を目指します。
(むろんほかの学問の助けを借りてです)。




10. ちなみに I.カントというおっさんは 《物自体》とよぶ何ものかを  タテの関係としての《神---われ》のあいだに置いてみたのです。

11. 神ではなく 経験事物(もの)の究極の何かといったようなものを 人間には《不可知》な存在として想定しました。

12. それは 非経験なる神をもう持ち出さなくてもよいようにという――つまりは 神の首をちょん切るかのように神を問う形而上学を終わらせるためを思っての――ことであったようです。

13. その《物自体》については 簡便法として 《人間にそなわった究極の知恵ないし知解力》といった何かとして捉えると分かりやすいと思います。

14. それは――そしてカント哲学は―― 私見では 無意味です。

15. 《不可知》とは 認識論じょう 《人間の能力によっては知り得ないと証明された未知》を言うはずですが 神は 不可知なのではなく 《非知》なのです。

16. 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか incomprehensible incomprehensibility 》が 非知です。

17. ・・・
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形而上学といっても、哲学者によって規定はかなり違っていますね。

形而上学に取り組んだ哲学者で有名なのはカント(『来るべき形而上学のための試み(プロメゴナ)』など) ですが、特にカントに関してはバウムガルテンらによって築かれてきた「形而上学」の意味を変えた人として位置づけられます(……という説があります)。だから、とりわけカント以前と以後では形而上学の意味や学ぶものは変わってくると思います。

ちなみにカントは、『純粋理性批判』とか『実践理性批判』とか『判断力批判』とか、ムズカシイ感じの本をいっぱい書いてますが、彼がやったことが何かといえば、私が経験しているもの、例えばモニターを見ている、キーボードやマウスを触っている、といった"生々しい"(という言い方はちょっと雑ですが)経験というものが、人間のどういう理性のあり方によって成立しているか、を考えたのです。
そしてこうした、「実体としては無いけど、もしこれが無かったらと経験ってそもそも成立しなくない!?」という風に考えられる、人間にあるはずの理性のあり方というものを体系化するのが、形而上学という学問なのだ、というのがカントの形而上学の(ざっくりとした)規定です。恐らく。(笑)
なお、そうした形而上学を通してカントがどのように経験のあり方を体系化したかといえば、まず「物自体」というものが対象以前に実在していて、それが「現象」というあやふやな対象になり、人間の純粋な認識能力を通してハッキリした対象つまり「経験」になり、「経験一般(法則にのっとった自然のあり方)」になる、という感じだと私は理解しています。この体系化を行ったのが『純粋理性批判』という本(の一部)です。


しかし、大学でちょっとだけ哲学を齧っていた身ですが、まだまだわからないことが多すぎて何一つ断言できません(笑)。しかも、形而上学が何を学ぶかという質問なのに、カントの話ばかりしている!(私の尊敬する先生がカント研究者だったのです。形而上学の講義も受けていましたが、カントが誰からどのような影響を受けているのか、カントが誰にどのような影響を与えたか、というのが内容の中心でした。)

まあでも、一言でいうなら、非経験的なものについての学問、ということになると思います。更に言えば、非経験的だけど確かに実在しているものについての学問。それについては多分、多くの哲学者がおおむね一致しているのではないかと。
これだけ書けばいいものを、長々とすみません……。
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自然の背後に在る根本原理の探究


神と称されるものの探究

様々な法理が湧出されたところの根本、大元の理解と探求

身近なもので分かりやすく言えば、

プリンをレシピと材料に分解したところの、レシピを開発した料理人の才についての学問=料理学の本質

【自然や諸存在を法則と元素や物質から成り立つものとして、神=不動の動者=第一原因の存在理由を求める学問】



だと思います。
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形而上学とは、哲学の一分野で、物事の本質的な存在や性質、現実の構造や原理、そしてそれらがどのように存在するのかといった問題を扱う学問です。

つまり、形而上学は、存在するものの背後にある原理や本質、存在そのものについて考えることが主な目的となります。形而上学は、現象や表象だけでなく、その根源的な原理について探求することによって、哲学の基礎を築く重要な学問です。
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簡潔に言うと「屁理屈」

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この回答へのお礼

形而上学にどういう意義があると考えますか?

お礼日時:2023/04/02 21:15

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