痔になりやすい生活習慣とは?

カントの「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則(der bestirnte Himmel uber mir und das moralische Gesetz in mir)」の文章ついて調べているのですが、この二つの関係を教師に聞いてみると、この二つは「外なる自然法則」と「内なる自然法則」、つまり「万有引力のリンゴ」と「知恵の木の実のリンゴ」の関係を表していると教えてくれたのですが、イマイチ理解できません。誰か教えて頂けませんか?

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A 回答 (4件)

質問者さんはおそらく高校生の方だと思うのですが、カントの業績についてはすでに「調べ」はついていますか?



いまのわたしたちは、カント、というと哲学の人、ニュートンというと、自然科学の人、文系と理系、まったく別々のものだと考えていますが、ニュートンやカントの前の時代にあたるデカルトのころは、同じものでした(デカルトは哲学者でありながら数学者でもありました)。そうして時代が進むにつれ、それが徐々に分かれていった、という経緯があります。
カントは当時、華々しい成功をおさめつつあった数学と自然科学に基づいて、自分の形而上学(哲学)を打ちたてようとしたわけです。

彼の二大著作とされる『純粋理性批判』と『実践理性批判』という本は、何が書いてあるかを見ると、「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則」のつながりがわかってきます。

『純粋理性批判』というのは、わたしたちがふだん見ているはずの「もの」とは何か、そうしてわたしたちはどうしてそれがその「もの」だとわかるのか、実際に、どんなふうに、どんなプロセスを経て「わかって」いくのか、が書いてある本です。そのなかには、わたしたちが「知る」ことのできることと、できないことも書いてあります。
つまり、これはわたしたちが「わかる」という仕組みを解き明かそうとする、理論的な本です。

『実践理性批判』というのは、人はいかに行動すべきか、正しい行動とはどんなものか、と書いてある本です。正しい行動の基礎は「義務」(日常で使う「義務感」みたいなのとはちょっとちがいますが)にある、とするもので、最近の倫理学の世界では、ちょっと、はやらなくなってきているのですが、重要な本であることには変わりはありません。
こちらは実践面を受け持っています。

「我が上なる星きらめく天空」をどうしてわたしたちはそこにあると知ることができるのか。
カントは、“星がそこにあるからだ”、とは考えません。
わたしたちの内に、それを受けとる能力(感性)があり、それを星であると認識する能力(悟性)があるからだ、とするのです。
人間の内にある悟性が、空間や時間、因果関係といった形式(考え方の枠組み)によって、「星」という対象を構成する。この形式はあらゆる人に先天的に共通に備わっているから、あらゆる人が「星」を同じものとして認識できるのである。

さらに人間には理性の働きがある。理性とは、この人間の認識をもとに、比較や推論をしていく能力のことです。理性は、認識を拡げるものではなく、体系的統一を与えるものとしてある。

さらに人間の認識ではなく、行為(実践)ということに考えを移していくとき、「正しい行動」ということを考えていくときにこの理性の働きは、重要になってきます。

カントは道徳の根底に、「いつどこでもみんなの決まりになるとよい、と思えるような基準にしたがってふるまうべきだ」とか、「ほかの人を常に目的そのものとしてあつかうべきで、なにかの手段としてだけあつかってはならない」といったルールがあると考えます。
そういうルールをもとに、道徳は、人間が経験から割り出した「こうしたときにはこうしたほうがよい」というものではなく、この理性が「しなさい」と命じるものである、と考えるのです。

つまり、「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則」というのは、カントがあきらかにした人間の認識のありようと、その認識に基づく実践について、端的にまとめたものであるといえます。

> 「万有引力のリンゴ」と「知恵の木の実のリンゴ」
でいったい何をその先生がおっしゃろうとしたのか、わたしにははっきりとはわかりませんが(少なくともわたしはこういうメタファーは初めて見ました)、その箇所をおおざっぱに説明すると、そういうことになるかと思います。
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お邪魔します。

最初に確認ですが、
ニュートンと林檎、アダムとイブの知恵の実としての林檎の二つの逸話に関してはご存知ですよね。
星きらめく天空と道徳法則を比喩的にニュートンの「万有引力のリンゴ」と「知恵の木の実のリンゴ」と表現したのではないでしょうか。
以下は、逸話は知っているが、その比喩の繋がりが理解しがたい、と言う前提で説明してみます。
ところで、問題の文章は「実践理性批判」結びの4頁ほどの文章です、それを読んで、その後の解説の16で問題の文章について解説してあります。ですから、この部分を読まれるのが手っ取り早いのですが。
とりあえず大雑把に比喩の繋がりを説明してみます。

先に、簡単な道徳法則。
結びの文章では、第二のものは「叡智者としての私の価値を、私の人格性を通じて無限に高揚するするのである。」とか最後の方で「知慧の教えに通じる狭き門である」と表現しているように、自身に内在する道徳法則を、理解するのは難しい、そのため知恵が必要だといっています。その辺りからの比喩だと理解すればよいのではないでしょうか

星きらめく天空と「万有引力のリンゴ」の繋がりですが
これも、結びの文章に「第一のものは・・空間・・無際限な時間に達するのである。」と表現されているように、外的世界全体のことを対象としています。ここでは繋がりは直接解り難いですが、
カントは別の文章で
「自然はすでにケプラーを育てあげ、惑星が離心的な軌道で運行していることを示す予想外の法則を発見させた。そしてすでにニュートンを育てあげ、この法則を一般的な自然の原因から説明させたではないか。」
『世界市民と言う視点からみた普遍史の理念』
要するに、外的世界の全体がは自然の法則に従って事から、「万有引力のリンゴ」の比喩が出てきたのではと推察いたします。あまり聞きなれない比喩ですが、何処かの解説書に有ったのかも知れませんね。

この回答は、比喩の繋がりについてだけ回答しています。
「外なる自然法則」と「内なる自然法則」この部分は私には解りませんので、専門家にお願いしましょう。
なお、岩波文庫の解説では
理性は一つしかないのに、二通りの使用法がある、即ち、内と外、に重点を置いています。

ちなみに、現代は、量子力学の時代であり、心の先験性も疑問が出ていますが、野暮な事は書きません。
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頭上に広がる宇宙と心の中の宇宙といっているのです。


この双方の宇宙は同じものということですね。つまり、天文学者が望遠鏡の観測で探求しようとする天空に広がる宇宙は、哲学者が見つめる心の宇宙と同じものであるといいたいのです。ギリシャ哲学から始まる西洋哲学のみではカント先生の哲学の意味は到底理解できません、東洋の仏教思想を学んではじめてカント先生の偉大さがわかるのですね。
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 すみません,哲学は全くの素人ですので,このコメントをきっかけにほかの方のコメントが出ることをお祈りして,コメントさせていただきます。



 おそらく,西洋哲学では,何が「在る」のか,なにが確実なのかというのがずっと論議されてきているのだと思われます。そこで,ギリシャからずーっといろいろ論議されていて,その後,肉を飲み込みたがらなかったカントが出てきて,まったく人間の思惟から離れた自然法則とそれから自己の内にある道徳法則,これは「在る」のではないか,ということを言いたかったのではないかと思うのです。

 カントがそう言ってくれたので,外と内があれこれと論議されて,科学と実存がどうのこうのみたいになってくるのかと思われます。

 まったくの素人判断です。どなたかの適切なコメントを待ちますので,申し訳ございません。
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Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Q東大の理1と理2の違いは?

僕は次から高1になるのですが、大学は東大の理系を考えています。
理3が医学部だということは分かっている(し、行く気はない)のですが、
理1と理2の違いがあまりはっきりしません。
学部進学の際、どのように振り分けられるのですか?
できれば具体的な人数なんかのデータがあればいいのですが・・・。

Aベストアンサー

>工学が1、農学が2、理学部ではそんな変わんないって感じでしょうか。

理学部はひとくくりにできませんよ。
物理学科、数学科などは理1優勢ですし、化学科だと同じくらい、生物学科なら少し理2優勢といった感じです。
#2で示した集計表のとおりです。
細かいこと言い出すと、工学、農学も学科によって色合いがかなり異なりますよ。

大まかなことを言えば、#2の文中に示した進学振り分けについての資料にありますが、
理科一類 工学部・理学部・薬学部・農学部
理科二類 農学部・理学部・薬学部・医学部・工学部
↑は、それなりに人数比率も反映した順番になっていて、理1なら工・理が大部分を占めるし、理2なら農・理・薬が大部分を占めます。

ここまでいろいろ書きましたが、どちらかというと、momomoredさんには#2の集計表とにらめっこしてほしくありません。
むしろ、大学側からの「進学のためのガイダンス」(http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/guidance/H16_html/index.html)や、#2の進学振り分けの資料の中の各学部の紹介とか、あるいは、各学部のホームページ(学部ごとにホームページをもっています)を見て、できれば研究室のホームページまでチェックして、具体的に何がやりたいか、そしてそれをやるためには東京大学のあの研究室で学びたいんだ、ということをしっかりと意識することのほうが大切だと思います(それがなかなかできないわけですが…ハイ)。

あくまで#2の集計表とかは参考までにね。#2で書いたように、入ってから行きたくても行けない学部・学科なんてものはほとんどないですから(文転もありですよ)。
目標高く勉強のほうがんばってください。

>工学が1、農学が2、理学部ではそんな変わんないって感じでしょうか。

理学部はひとくくりにできませんよ。
物理学科、数学科などは理1優勢ですし、化学科だと同じくらい、生物学科なら少し理2優勢といった感じです。
#2で示した集計表のとおりです。
細かいこと言い出すと、工学、農学も学科によって色合いがかなり異なりますよ。

大まかなことを言えば、#2の文中に示した進学振り分けについての資料にありますが、
理科一類 工学部・理学部・薬学部・農学部
理科二類 農学部・理学部・薬学部・...続きを読む

Q博士課程満期退学・・

よく経歴で「博士課程満期退学」とありますが、単位だけ取得して退学するというのはわかりますが、なぜそうするのですか?何か理由があるのでしょうか?
また、その後すぐに助手になることがありますが、なぜ博士号をとる前に助手になるのですか?

Aベストアンサー

学士課程(学部)・修士課程・博士課程では、それぞれ卒業・修了するための要件が異なります。

学部では124単位程度の単位を取ればよく、卒業論文も必須ではないところもあります。修士課程となると、学内での審査に耐える修士論文か、それに相当する成果が要求されます。
博士課程になると、博士論文の審査にはより慎重なものなり、事前に関連する研究を学外に発表し、その分野の研究者としての実績のある論文でないと審査手続きが始まりません。したがって、博士課程に在籍することができる期間にそれだけの研究成果を挙げることができなければ、博士課程を期間内に修了することはできなくなってしまうわけです。

助手として就職されている方の場合ですが、助手としての応募条件は「修士課程修了」、せいぜいそれに「3年以上の研究暦」というのがスタートラインになっています。したがって、その大学で博士号を取得するにはまだ業績はないけれども、助手として採用するには十分な業績ではある方がいるわけです。このケースでは、満期退学だけではなく在籍可能期間を残す中途退学でもありえます。研究者としては、博士号という学位が欲しいという希望もありますが、安定的に研究を続けられるポストに就くことができるならば、それに越したことはないわけで。

また、退学後にも博士号を取得できる道があることも、博士課程修了にこだわらない動機になっています。大学によりますが、退学後3年くらいであれば博士課程退学の経歴は消えないものの、博士課程修了時の学位(いわゆる課程博士)として博士号を出してくれるところもあります。また、博士課程在籍の有無に関わらずそれまでの業績から学位を出すところもありますので、そちらの学位を取得することもできます(いわゆる論文博士)。

この場合、重要なのは博士号を取得できうるだけの業績を出すための研究をできる環境であり、研究暦にカウントしてもらえるポジションであるわけです。したがって、アカデミックなポストで就職できるのであれば、博士課程の修了にはこだわらないわけです。


参考
http://homepage2.nifty.com/yshimizu/researcher.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E4%BD%8D
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1111075

学士課程(学部)・修士課程・博士課程では、それぞれ卒業・修了するための要件が異なります。

学部では124単位程度の単位を取ればよく、卒業論文も必須ではないところもあります。修士課程となると、学内での審査に耐える修士論文か、それに相当する成果が要求されます。
博士課程になると、博士論文の審査にはより慎重なものなり、事前に関連する研究を学外に発表し、その分野の研究者としての実績のある論文でないと審査手続きが始まりません。したがって、博士課程に在籍することができる期間にそれだけの研...続きを読む

Q四次元というのはどんな世界ですか?

そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?
三次元の世界とは縦横高さのある空間の世界だと思います。
これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?
我々の世界にも時間があるので、四次元といってもいいのでしょうか?
それとも四次元とは時間とは無関係の世界なのでしょうか?
あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタインでした。
 彼は、リーマンという数学者が作った、
曲がった空間の幾何学(現在リーマン
幾何学と呼ばれています)を使い、4次元の
空間が歪むという状態と、重力や光の運動を
あわせて説明したんです。これが相対性理論。

>これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?

 物理学的にはそうです。

 相対性理論の話に関連付けて説明するとこんな感じです。
例えば、下敷きの板のような平面的なもの(数学的には
これを2次元空間と言ったりします)を曲げると
いう動作を考えてみて下さい。下敷きに絵が書いて
あったとして、曲げながらそれを真上から見て
いると、絵は歪んで見えます。平面的に見て
いても下敷きという2次元空間が歪んでいる
ことが感じ取れます。
 2次元的(縦と横しかない)な存在である下敷きが
歪むには、それ以外の方向(この場合だと高さ方向
ですが)が必要です。

 19世紀に、電気や磁気の研究をしていた学者たちが、
今は小学校でもやる砂鉄の実験(紙の上に砂鉄をばら撒いて
下から磁石をあてると、砂鉄が模様を描くというやつです)
を電磁石でやっていたときに、これは空間の歪みが
原因ではないかと直感したんです。
 電磁石の強さを変えると、砂鉄の模様が変化します。
これを砂鉄が動いたと考えず、砂鉄が存在して
いる空間の歪みが変化したのでは?と考えたんです。

 3次元の空間がもう1つ別な方向に曲がる。
その方向とは時間という方向だということを
証明したのが、相対性理論だったんです。


>あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

 4つ目の方向である時間は、存在していても
その方向に、人間が自由には移動する方法は
現在ありません。時間方向を自由に動ける機械と
いうのは、タイムマシーンのことなんですが。

 日常生活を考えてみたとき、縦、横といった
方向は割りと自由に動けます。1時間ちょっと
歩けば4kmくらい楽に移動できますが、
道路の真中で、ここから高さ方向に
4km移動しろと言われたら、人力だけでは
まず無理でしょう。
 飛行機やロケットといった道具が必要と
なります。
 時間方向というのは、このように存在していても
現在のところ自由に移動できない方向なんです。

 例えば、人間がエレベーターの床のような
平面的な世界に生きているとしましょう。

 この場合、高さ方向を時間と考えて下さい。

 エレベーターは勝手に下降しているんです。
この状態が、人間の運動と関係なく、時間が
経過していく仕組みです。

 人間もほんの少し、ジャンプして高さ
方向の移動に変化をつけることができます。

 同様に時間もほんの少しなら変化をつける
ことができます。

 エレベーターの中で、ジャンプすると
ほんの少し下降を遅らせることができる
ように、時間もほんの少し遅らせることは
できるんです。




 

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタイン...続きを読む

Q「(人・会社を)紹介してもらった」の尊敬語は?

身内に紹介してもらった方へ初めて挨拶を送る場合、「紹介してもらった」はなんと表現したらいいのでしょうか?仕事でのやり取りです。
文章としては、「a社のA(私)と申します。弊社B(身内)よりC様(先方)を『紹介してもらった』」としたいのですが、ご存知の方教えてください。

Aベストアンサー

「紹介」という言葉を無理に使わなければ解決するのでは?

「弊社のBよりC様のことを伺い、この度メール差し上げた次第です」


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