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題名の通りですが、カントの思想や業績を追っていってもすっきり「どういう人だ」というイメージがわきません。その点、デカルトの思想ははっきりとイメージできるのですが、カントの場合、とらえどころがありません。イメージでわかりやすく、高校の倫理程度のご説明をしていただければと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

s-wordさん、久しぶりですね。


さて、カントの業績が判らないとのことですが、話を高校の倫理に限ってしまうとそれは当然です。

カントの哲学上の業績で一番大きくかつ重要なのは「純粋理性批判」です。ここで、彼は従来あった経験論と合理論のいずれにも限界があることを指摘し、理性の認識能力についての限界を示します。簡単に言うと、学問と呼べるものの対象は経験に限るべきであり、それを基礎としてもたないものは「信仰」の対象でしかないとします。同時に、人間が外界の事物を認識出来るのは、私たちにその認識を構成できる能力があるからだ、とします。(哲学プロパーの方へ:これはものすごい省略です。哲学プロパーからみれば誤りだらけだと批判されること必定ですが、哲学的訓練のない人に判るように書くとこうなると思います。)この業績は哲学史上に燦然と輝くものであるといえるでしょう。

さて、カントには三つの問いがありました。その内容は
1.何を私は知ることができるか?
2.何を私は為すべきか?
3.何を私は希望することができるか?
の三つの問いのうち、初めのものに答えたのが「純粋理性批判」です。
2番目の問いに答えたのが「実践理性批判」です。この本でカントは義務の遂行を道徳の中心問題として説き、人間の自由意志とは何かを追求しました。これはある程度は「純粋理性批判」からは独立していますが、カントとしては1.の問いに答えたあとの次の問題です。

ところで、高校倫理の教科書に載っているカントの内容は実はこの「実践理性批判」の内容であり、「純粋理性批判」の内容にはまったく触れられておりません。
(どうしてそうなっているかは旧文部省で教育内容を精選した人に聞かなくては判りません)そのために、デカルト以来の合理論とベーコン以来の経験論を批判統一してドイツ観念論を作ったと言われてもピンと来ないのだと思います。学校の教員によってはそういう説明すらなく、ただ単に「善意志」とか「人格」とか「目的の王国」とかを説明する場合もあるでしょうし・・

つまり、カントは人間の理性の限界の中で、学問として道徳・倫理を考えようとし、その枠内で何を為すべきか、何を善とするか、自由意志とは何か、などを展開しているわけです。

ですから、カント哲学の神髄を知るためには、高校倫理の枠を越えて認識の問題、そしてカントのいう「理性」とは何かの問題に踏み込まなくてはなりません。・・残念ながらそれについては、このような欄で述べきれるものではなく、専門家としての道を歩む決意なくしてその道に入るわけには行かないのではないかと思っております。
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この回答へのお礼

>s-wordさん、久しぶりですね。

aminouchiさん、お久しぶりです。その節はお世話になりました。

>カントの哲学上の業績で一番大きくかつ重要なのは「純粋理性批判」です。ここで、彼は従来あった経験論と合理論のいずれにも限界があることを指摘し、理性の認識能力についての限界を示します。

教科書を見ると、「カント以前にデカルトとベーコンという人が出てきて、それらを批判したと書かれています」が、曖昧な説明でよくわかりませんでしたaminouchiさんの御説明で、「純粋理性批判」というものを知ることができて、深く理解することができました。どうもありがとうございました。ところで、専門家の方を前に非常に乱暴な言い方で恐縮なのですが、「イギリス経験論哲学と大陸合理論哲学を足して2で割った」と捉えるのは間違っているでしょうか。

お礼日時:2001/10/26 01:07

回答ではありませんが、(私の経験から、)気に留めておいていただきたいことがありますので書いておきます。



大学に進学し、そのときにまだ哲学に関心をもっていたら、ぜひ、できるだけ原書講読を多くしてください。本は購入する必要はありません。1ページでも、半ページでもかまいません。きっと多くの新たな発見があるでしょう。

カントは原書も難解なのでお薦めできません。デカルトは原書もやさしく、(当然ですが)日本語もほとんど反復しないで理解しながら読み進むことができるので、最右翼で推薦できます。

私は、きわめて貧困な語学力で、モンテーニュ、パスカル、ショーペンハウエル、スピノザ、ヤスパース、ベルグソン、ちょっとずれて、B.ラッセル、エマソン、ウェブレン、カーライル、ラスキン……何と一貫性がない(~:~)などに挑みました。もちろん、部分的に気に入った箇所のみではあります。
しかし、なんと瑞々しく、なんと新鮮な言葉として入ってくることか…と感激したものです。デカルトなどは、日本語で読んだ場合とは、イメージも大きく変わりました。単なる合理主義ではない、デカルトの呼吸のようなものを、その文体、その文脈から感じ取ることができました。このような経験こそ、意識の中に持続的に残る“哲学の恵み”となるものだと思います。

日本語訳に対しては、きわめて腹立たしく感じたことも再三再四です。恣意的に難解な表現にしたり、主部と述部の対応ができない、あるいはあいまいな、論理学でいう標準形式から逸脱した叙述が、当然のごとく、ふんだんに出てくるのです。これが哲学書を我々から遠ざけている大きな要因の一つになっています。それだけではなく、ちょうど透き通ったガラスに曇りをかけてしまうように、その魅力を隠蔽してしまっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。しかし、そういう例が目立っているように思われます。(誤解が生じないように付け加えておきますが、いつ頃からでしょうか、昨今ではずいぶん改善されています)

もとより、日本語の顔をした外来語のようで外来語でない明治期の多くの造語、これも始末に負えない厄介者としていまだに残っています。
(福沢諭吉、西周、???? らの、この作業の概要、可能であればその全貌を知りたいと考えています。どなたか、文献などを紹介していただければ幸いです)

脇から出しゃばったような発言、失礼しました。
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この回答へのお礼

>大学に進学し、そのときにまだ哲学に関心をもっていたら、ぜひ、できるだけ原書講読を多くしてください。本は購入する必要はありません。1ページでも、半ページでもかまいません。きっと多くの新たな発見があるでしょう。

原書ですか。日本語で書かれてたものより原書に触れてみるのが一番かもしれませんね。進学したあとに読む本を部屋にためているのですが、それを読んだあとに挑戦してみようと思います。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/16 03:48

はじめまして、s-wordさん。


「イギリス経験論哲学と大陸合理論哲学を足して2で割った」というご意見では足りないかもしれません。なぜなら、彼が作り出した概念の多くは実に独自性に溢れているからです。あえていうなら、経験論の抱えていた懐疑的な部分と、合理論の持つ独断的側面に、カントがまったく新しい概念を構成してこの双方の問題にもちこたえる哲学を創建したわけで、その創造的な部分をイメージの中に加味しなければ、たんなる集大成した人で終わってしまうからです。

それというのも彼の主著とされる三冊の「批判書」は70になるかという老人の手によるものです。それまで時計のように生活をしてきたという彼の日課には毎日会食のあとの、友人達との議論の時間というものがありました。そこでもちだされるありとあらゆる哲学的議論は、経験論から合理論まで、様々な定義と命題が交差する場所だったのです。このような長い年月をへて、ついに彼は、その無数の問題群にすべて答えられるような、哲学的な空間をつくりだしたからでした。

それらはすべて人間の能力について考えられたものです。感性、悟性、理性という3つの独創的な働きをもつ概念の構成によって、3つの批判書は構成されています。それぞれの書では、それぞれの概念の役割がかわり構成法がかわります。第一批判は
aminouchiさんが明解に説明されたように、認識能力の仕組みをさぐったものです。これは感性にまつわる、詳細な議論なのです。特色は、認識能力に<時間>の要素を加味したことにあるようです。この認識はかわっていて、自分がいわば認識できるように世界のほうへ認識の法則の網をなげこむのです。こうして網にかかったものだけが認識できるというわけです。(物自体という言葉が思い出されてきたでしょうか)

第二批判ではいかに道徳的に行動するかというテーマを認識の仕方のモデルを用いながら、答えたものです。ここでも自分自身が取り決めた法則にのっとって、自分自身がそれを合法的に行うこと、そこに自由をみいだしています。なにしろ自分で決めたことだけしかしないわけですから、こんな自由と畏怖はありませんよね。ここでの特徴は実に、法廷としての理性という考えです。主客的認識よりも、むしろカントの近代性は、審判者として理性を持ちえたというところにあるようです。

第三批判こそは、彼を経験論と合理論の折衷者としてはとどめ置かない魅力に溢れたものです。そこでは判断力という人間の能力が検討されます。美的なものと目的論的なものに区別されるのですが、常にこれらの判断力は、今まで取り決めてきた
3つの能力の関係を反省して、再構成するチャンスをあたえるにようになっています。

これらを大急ぎで見渡してみて、一つだけ大きなカントという名前に裏書するもの
があるとすればそれは、やはりデカルトもそうだったわけですが、哲学を組み立てる根本からやり直した人であるという印象を持つことができるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

taleさんはじめましてこんにちは。お礼が遅れて申し訳ありません。御説明していただいたことを頼りにもう一度、別の本で勉強してみると何となくカントのことが分かってきたような気がします。taleさんの仰る「経験論と合理論の折衷者としてはとどめ置かない魅力に溢れた」ということがわかるようになっただけでも良かったと思います。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/16 03:37

大変に面白く、ユニークに説明されている文献を紹介しましょう。



みすず書房から出版されている『西洋哲学史』のカントに関する部分を読むとよいでしょう。

客観的な視点ではなく、B.ラッセル独自の視点になりますが、とても魅力ある説明をしています。
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この回答へのお礼

参考文献をご紹介していただいてありがとうございます。ぜひ書店に立ち寄ったときに見てみたいと思います。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/10/26 00:57

下記サイトを参考にしてはどうでしょうか?



参考URL:http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/44/ohsu …
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。いっぱい知らない人が出てきてびっくりしてのですが、とても抽象的なお話でおもしろく読ませていただきました。

「こうした展開にもカントとそれ以降のドイツ観念論に見られた議論の反映を見出すことができる。カントの自己認識に関する議論においては、「自己」を完全に認識することの不可能性が主張され、「私の意識」と「私の認識」を区別するという形で(B154)自己認識においても主客の分離の原則が維持されているが、」

この部分批判哲学の意味なんですね。

お礼日時:2001/10/26 00:56

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