1. 《やましさ反応》は――動悸がはげしくなったり顔が赤らんだりする反応は―― われわれ人間の思考や意志やあるいはそれらの意識のいかんにかかわらず そのような経験行為に先立ってすでに どこからか推進力がはたらいて起こる現象です。
2. しばしばよからぬことを思ったり企んだりするときに起こる反応ですから おそらく《良心》によって起こされる《恥ぢ》という概念にかかわってはたらくものと考えられます。
3. 良心は 天与のものです。それをめぐって思考することはありますが 人間が自分から持とうとして持ったものではないでしょう。ヒラメキという概念と現象も 同じくそうなのだと思われます。
(人びとの経験という情況証拠からの結論づけですが)。
4. ヤマシサ反応がこのように先験的であると言う場合と カントの・認識についてのコペルニクス的転回説に言う純粋直観がアプリオリだという場合とは 同じではない。――と思われます。
☆ この問題を問います。
5. まづなお ヒラメキや良心そしてまたヤマシサ反応といった主題について次の図解を提出します。
〇 《かみ と ひとたるわれ とのカカハリ》についての図解 ~~~~~~~~
超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
↓ ↑ ↓ ↓
___________________________________
自然本性たるヒト: ↑ ↓ ↓
↑ ↓ ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
-----------------------------------
[経験世界] ↓ ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観 ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応(恥)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
5-1. 【 +α(霊我)】は あくまで 神の側からのハタラキカケによるものです。そのような想定です。アートマンやブッダター(仏性)と呼び換えると 分かりやすい。
6. そしてここで一気に 問いです。《思考の緑野》を 理性と悟性とに分けた場合 次のような理解で――カント説にかんして――よいか?
○ アプリオリ性とは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【思考の緑野】理性:認識を統一 ←⑤―― 悟性:知覚したものを概念認識④
↓ ↑
アプリオリにはたらく ↑
純粋悟性としての直観 ↑
↓② ↑
【感性の原野】感性:対象との出会い①・・・・・・・③知覚(視覚・聴覚 etc.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7. アプリオリ性とは 一方で《① 感性が対象と出会うという経験》を前提としつつ 他方で《③ 知覚そしてまた ④ その感覚内容を概念として認識するというふつうの悟性の経験》に先立っているという意味である。か? その意味で 《先験性》と言う。か?
8. ただし 考えてみれば 《① 感性が 対象と出会うこと(その時点)と そして ③ 視覚等として捉える感覚の起こること(その時点)とは 時間のへだたりはない》とも見られる。
9. とすれば そのような①と③とのあいだの・時間的な隔たりのないところに ② 純粋直観がハタラキを起こす。ということは 《感性〔なる自然本性のハタラキ〕を超えて作用する》と言える。そう言ったほうがよい。か?
10. つまり アプリオリ性とは 先験性というよりは 超越論的であり 超自然性ないし超経験性だと見られる。
11. ところが じつは 恥ぢの感覚を呼び起こすヤマシサ反応もそれは 良心による超自然で超経験的なハタラキによるものと思われる。そういう想定である。
12. その現象は ふつうに自然に起きて・かつ経験的であるが それがどこから来たのかは 分からない。人知を超えている。
13. だが 悟性は その純粋悟性がいかにアプリオリなハタラキをおこなうと言っても 理性とともにその領域を成す思考の緑野で起こっているコトである。
13-1. 純粋直観は どこまでも 経験現象である。そのチカラのみなもとも天与のものではない。物自体のハタラキであるとしても これは 物である。つまり 超自然ではない。(カントは 神の首をちょん切ったのである)。
13. ひとつの結論としては こうである。
純粋悟性概念というハタラキのアプリオリ性というのは カント自身が嫌がる仮説であって どこから見ても証明されていないし けっきょく証明され得ないものである。
14. そうして――付随する結論のひとつは―― もし仮りにこのアプリオリ性の想定が 迎えいれられたとせよ。そうだとしても だからと言って 天体が地球のまわりを回るのではなく その逆に地球が太陽のまわりを回るというようなコペルニクス的転回が 人間の認識にかんして成り立った・・・というようなものではない。
15. なぜなら 良心の想定つまりそれによって やましさ反応や恥ぢの感覚といった現象を説明するということ そのときに 認識論における転回などは 何もない。のだから。基本として 純粋直観と同じようなアプリオリなハタラキだと思われるのに である。
15-1. ただし カントによれば 純粋直観なる純粋認識は あくまで人間わざであるらしい。!?!?
16. 要するに早い話が 恥ぢやヤマシサ反応を起こす良心が天与のものだとするならそう言うのが ふつうである。そのように 〔認識という経験行為でありつつその中にあっても人間の意志にかかわりのなくはたらくとされる〕純粋直観について これも〔ヒラメキのごとくして〕天与のものならそう言えばよい。
17. そして いやあくまで人間わざであるとするのなら あいまいなままに放っておかずに はっきりとそう言って説明すればよい。証明がむつかしいとしても情況証拠なりと説明をほどこすとよい。
18. つくづく ややこしい。のではないでしょうか? 人びとは かんたんに扱っている。したがって ただ鵜呑みにしている。だけではないだろうか?
A 回答 (3件)
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No.3
- 回答日時:
質問者さんの理解力や思考力に疑問を懐かざるをえないので、これで、回答は終わりです。
> つまり 尿意を催す生理的な反応ほどには 疑い得ない一般性がないかも知れない。ただしこれも おそらく文化的・人為的な疑似のやましさが つくられるようになったという事態が そう見させている。尿意なる反応には 第二次の文化概念はないでしょう。
「尿意」は「小便をしたいという感覚・膀胱が一杯になっているという感覚・尿道に尿が浸入する感覚」をさす用語であることが多いです。 「小便してしまえという意思や意志・決意」をさす用法は滅多にないです。
「尿意を催す生理的な反応」という場合も、前者の一般的用法でしょう。
その通りであれば、尿意は反応です。 言葉に表現するには、文化を背景にするしかないですが、文化(の習得)とは別物なのが、「尿意」です。
それはやましさなどとは関係のないことです。
『これも おそらく文化的・人為的な疑似のやましさが つくられるようになったという事態』
ご自分で、何を書いているつもりなのか、見直してください。
自分のしたことを見直しのは、やましいことではないです。
☆☆ > つまり 尿意を催す生理的な反応ほどには 疑い得ない一般性がないかも知れない。ただしこれも おそらく文化的・人為的な疑似のやましさが つくられるようになったという事態が そう見させている。尿意なる反応には 第二次の文化概念はないでしょう。
★ 「尿意」は「小便をしたいという感覚・膀胱が一杯になっているという感覚・尿道に尿が浸入する感覚」をさす用語であることが多いです。 「小便してしまえという意思や意志・決意」をさす用法は滅多にないです。
☆ あぁ。だから こちらの説明が通じないのです。
《尿意を催す》という生理反応は ただ《尿が溜まっている》という事態とその感覚であると同時に その尿を出すのをうながしている〔と本人は受け取る〕ということです。
ヤマシサ反応は ただ《胸が高鳴り顔が赤らむ》という事態とその感覚であると同時に そのいま思ったりやろうとしていたりすることを今一度省みよ・あるいはやめときなさいと促しているということです。
そのように《感覚が起きる》と同時に《その感覚があたかも信号のように何かを物語っている》ということから 《やましさ反応》と名づけ得るのです。
尿が溜まるという感覚とそれを尿意と受け取る意味内容とが 同時にあるのです。
その同時性は けっして思考や文化様式を仲介しないのです。
ちなみに 尿意という自然生成の第一次生理反応から 抽象化を経て概念とする場合が ありました。あとで気が付きました。
関連する語法として 残尿感という言葉です。
これは すでに生理的現象から離れて ものごと一般に達成感の無さをあらわすようになっている。これが 非自然・人為としての文化の領域です。
やましさや恥ぢは 第一次のヤマシサ反応から抽象化を経て 大いに文化的意味を付与されて来たのです。けれども 一次的自然と二次的文化とは 別です。そういう問題です。
分かりましたか?
No.2
- 回答日時:
> 恥ぢの意識は 良心の呵責がヤマシサ反応と基本的に連動しているという見立てです。
これも 民族を超えて一般的に見られるものと思います。見立てるのは個人の見解で、それに他人が疑問を懐くのも致し方ないです。
民族を越えて見られるというだけならば、体形の肥痩・背の高低、飲食の好みの存在もあります。腕力・戦闘力等の強弱の判定をどこの民族もするからといっても、《思考や経験に先立つ》と思っているのであれば、間違いです。
英語圏、ラテン圏、ドイツ語圏で、《恥》がどうなっているのか私は知らないが、日本の中で経験した範囲では、「恥は、他人の前で自分がみっともなく見えるだろうと想像するときに感じる"社会的感情"」、あるいは「自分の価値観・倫理観に反する劣った行為・思考であると自ら気付いたときに感じる"アイデンティティに関わる感情"」です。 これは情動とは異なります。 社会的感情・アイデンティティに関わる価値保持の感情の高ぶりであれば、《思考や経験に先立つ》ものではないでしょう。 社会やグループによって価値観は大いに違ってくる。文化の影響はかなり大きい。
> やましさという概念とヤマシサ反応とを区別します。
恐怖や不安という言葉は、反応や情動、感情をさす場合が多いですが、「恐怖概念」「不安概念」のことをさすこともありますから、区別することに異存はないですが、"やましさという概念"とは、どのような概念だと思っているのです。
"社会的感情・アイデンティティに関わる価値保持の感情の高ぶり・励起"のことでしょう。
>>★ 日本人の中でも個々人で異なり、同じ人物でも5歳、15歳、20歳で異なり、たぶん男女や職業や社会的地位・所属階層や集団で異なります。
> ☆ それは どういう良からぬことのたくらみを抱くかやあるいは反応の度合いなどに個人差があるといった問題ではないか? 仮説理論に問題はないと思われます。
元の質問の起点にしている事実認識や用語・概念がおかしいのですから、仮説理論など幻想上のものでしかないです。
>>★ やましさ、恥などは、生育する過程で獲得形成する価値・文化によるもので、生得のものではないです。
> ☆ そういう言わば俯瞰図は得られるかも知れませんが では ヤマシサ反応は――やましさや恥ぢといった文化概念の形成とは違って―― 自分がそれを〔世間のナラハシにしたがって〕持とう・起こそうと意志して起きるものではないですね。
文章は、下の理解で間違いないですか?
「ヤマシサ反応は、{自分がそれを[世間のナラハシにしたがって]持とう・起こそうと意志して起きるもの} ではない」と、bragelloneさんが考えている。
反応というのは、持とう・起こそうと意志して起きるものではないことが多いです。 もちろん、[反応]には、[相手国の反応を考えて]のような用法もあって、意思や判断を含める場合もあります。 心理反応、生理反応、化学反応というような用法の場合は、《意識的な検討、論理的な考察ではなく、短絡・直結して生じる》という意味ですが、そこにはメカニズムのようなものが働いています。 例えば、やましさは、その人が既に獲得しその時点で[こうだ]と思い込んでいる[社会の倫理]や[自分のポジションや生き方に関わる矜持や志向・プライド]が反応のメカニズムとして動いています。
その人が既に獲得しその時点で[こうだ]と思い込んでいるものがなければ、やましさの反応は起きないです。 {[こうだ]と思い込んでいるもの}は、その人の人生で変わります。 自分は男である、夫である、親である、弟子である、指導者である、以前は~~と主張した、自分から~~に挑んだ、この場所は公共の場所で人目もある、、、などの自己認識や状況認識・これまでの状況の記憶と照合するから、「やましい気分や感情」が生じるのです。 捨て鉢になったり、やけを起こしたり、これまでとは生き方を変えるという強い決意をして価値観を切り替えたり、いろいろな状況で、「以前ならばやましい気が起きていたが、もうやましい気は起きない」とか、「以前ならば何も感じなかったが、今はやましく感じる」とかの変化もします。
やましさは、生得にもっているものではないのです。
誤った認識、不完全な認識をベースにして、論理構成を試みても、得るものは、がれきです。
☆☆ > 恥ぢの意識は 良心の呵責がヤマシサ反応と基本的に連動しているという見立てです。
★ 見立てるのは個人の見解で、それに他人が疑問を懐くのも致し方ないです。
☆ [5]の図解で 《〔超経験なる生命性の内の〕道→ 良心→ ヤマシサ反応(恥)》といった連絡を想定しています。
仮説として受け取っていただくところまでは 可能ではないかと考えます。
★ 腕力・戦闘力等の強弱の判定をどこの民族もするからといっても、《思考や経験に先立つ》と思っているのであれば、間違いです。
☆ ヒトの自然本性が身と心とから成ると見ますが その身体能力がそなわっていることについては 一般に天与だと見るわけです。
《天与》でなくても まさに《自然》の本性であって 《思考や経験に先立っている》。つまり 自然に後行する人間の思考や意志行為によって《身体能力》がそなわったのではない。その能力を伸ばすのは 後天的なことだけれど。
★ 英語圏、ラテン圏、ドイツ語圏で、《恥》がどうなっているのか私は知らないが、
☆ いや 《コンシャンス》とよぶ良心を打ち出したのは 西欧社会です。
★ 日本の中で経験した範囲では、・・・
これは情動とは異なります。・・・文化の影響はかなり大きい。
☆ あくまで《ヤマシサ反応》にもとづくものであり 《よからぬ思いや振る舞いを想ったりやろうという意志を持ったりすると おのづと起きる》のです。これは よしあしで判定するなら まさしく《よからぬこと》です。
そのようなマイナスの価値と連絡して 恥ぢの意識や良心の呵責が起きます。そして 一般に《人の道》といった捉え方が成されます。
この説明で次の疑問にもお答えしていると思います。
☆☆ > やましさという概念とヤマシサ反応とを区別します。
★ ・・・"やましさという概念"とは、どのような概念だ
★ "社会的感情・アイデンティティに関わる価値保持の感情の高ぶり・励起"のことでしょう。
☆ 概念としては やはりヤマシサ反応からその抽象化を経て或る種の観念連合を扱った定義ではないでしょうか? むしろ《恥ぢの意識》を説明していると考えます。この意識に《身の反応》は先行します。
つづく
No.1
- 回答日時:
当初の理解が違っているように思います。
1~3に記述されている部分から、誤解です。
やましさ、恥などは、民族によって異なり、共通で翻訳・互換できる言葉がないし、日本人の中でも個々人で異なり、同じ人物でも5歳、15歳、20歳で異なり、たぶん男女や職業や社会的地位・所属階層や集団で異なります。
やましさ、恥などは、生育する過程で獲得形成する価値・文化によるもので、生得のものではないです。
また本題とは関係のないことですが、《動悸がはげしくなったり顔が赤らんだりする反応》は、神経系と神経伝達物質が発生させる現象で、薬物でも、運動でも、緊張でも発生します。 《動悸がはげしくなったり顔が赤らんだりする反応》という現象面を思考や論理構成の始点において、個人の認識や悟性、理性、統覚の働きを論じようとすることには、無理があります。
ご回答をありがとうございます。
★ 当初の理解が違っているように思います。
★ 1~3に記述されている部分から、誤解です。
★ やましさ、恥などは、民族によって異なり、共通で翻訳・互換できる言葉がないし、
☆ ヤマシサ反応というのは 胸が高鳴るなどなどの・身に起こる(神経細胞に起こる)経験事象です。おそらく人類にあまねく観察できるのでは?
恥ぢの意識は 良心の呵責がヤマシサ反応と基本的に連動しているという見立てです。これも 民族を超えて一般的に見られるものと思います。
やましさという概念とヤマシサ反応とを区別します。
★ 日本人の中でも個々人で異なり、同じ人物でも5歳、15歳、20歳で異なり、たぶん男女や職業や社会的地位・所属階層や集団で異なります。
☆ それは どういう良からぬことのたくらみを抱くかやあるいは反応の度合いなどに個人差があるといった問題ではないか? 仮説理論に問題はないと思われます。
★ やましさ、恥などは、生育する過程で獲得形成する価値・文化によるもので、生得のものではないです。
☆ そういう言わば俯瞰図は得られるかも知れませんが では ヤマシサ反応は――やましさや恥ぢといった文化概念の形成とは違って―― 自分がそれを〔世間のナラハシにしたがって〕持とう・起こそうと意志して起きるものではないですね。
意志を超えて起きてしまうものです。
★ また本題とは関係のないことですが、《動悸がはげしくなったり顔が赤らんだりする反応》は、神経系と神経伝達物質が発生させる現象で、薬物でも、運動でも、緊張でも発生します。
☆ ヤマシサ反応に限っています。
★ 《動悸がはげしくなったり顔が赤らんだりする反応》という現象面を思考や論理構成の始点において、個人の認識や悟性、理性、統覚の働きを論じようとすることには、無理があります。
☆ 良心の呵責といった心的現象は 人間論の中に論理的な構成を成さないということでしょうか?
もしそうだとしてもそれは ただこの反応が 自分でその社会の文化的生活様式からまなびそれに合わせてみづからの意志でおこなうといった性質〔だけ〕のものでは ない ことを物語るに過ぎないでしょう。
ですから それならそういう性質の現象としてあつかい それなりに理論構成すればよい と考えられます。
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№2つづき1
★ 元の質問の起点にしている事実認識や用語・概念がおかしいのですから、仮説理論など幻想上のものでしかないです。
☆ ですから その《おかしさ》に対する弁明をおこなって おかしさが決定的なものではないところまでは 明らかにしているはずです。
★ 「ヤマシサ反応は、{自分がそれを[世間のナラハシにしたがって]持とう・起こそうと意志して起きるもの} ではない」と、bragelloneさんが考えている。
☆ はい。そのとおりです。
★ 反応というのは、持とう・起こそうと意志して起きるものではないことが多いです。
☆ いえ。つねにです。もし 意志によってやましさを意識しつつ顔を赤らめるなら それは疑似的なヤマシサ反応です。自然と人為とは 区別され得ます。
つづく
№2つづき2
★ 心理反応、生理反応、化学反応というような用法の場合は、《意識的な検討、論理的な考察ではなく、短絡・直結して生じる》という意味ですが、
☆ ええ。自然生成です。
★ そこにはメカニズムのようなものが働いています。 例えば、やましさは、その人が既に獲得しその時点で[こうだ]と思い込んでいる[社会の倫理]や[自分のポジションや生き方に関わる矜持や志向・プライド]が反応のメカニズムとして動いています。
☆ やましさという概念を意識した人為的反応もありえるわけです。
ヤマシサ反応は 文化(≒非自然)とはほとんど無縁です。かかわりが生じるのは 人為的な恥ぢの意識としてのやましさでしょう。やはり区別が厳然としてあります。
つづく
№2つづき3
★ その人が既に獲得しその時点で[こうだ]と思い込んでいるものがなければ、やましさの反応は起きないです。
☆ 確かに《仮説であること》の弱さがあります。つまり 尿意を催す生理的な反応ほどには 疑い得ない一般性がないかも知れない。ただしこれも おそらく文化的・人為的な疑似のやましさが つくられるようになったという事態が そう見させている。尿意なる反応には 第二次の文化概念はないでしょう。
すなわち:
★ {[こうだ]と思い込んでいるもの}は、その人の人生で変わります。 自分は男である、夫である、親である、、、などの自己認識や状況認識と照合するから、「やましい気分や感情」が生じるのです。・・・
★ やましさは、〔☆ 自然生成なるヤマシサ反応から抽象化を経て社会の観念体系の中におさめられるような第二次なる文化概念としては むろん〕生得にもっているものではないのです。