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こんにちは**

私は理系の大学生です。

大学で表象文化と言う講義がありそのレポートを書かなくてはならないのですが、表象という言葉の意味がよくわかりません。
そこで理系の自分にもわかりやすく教えてください。

ついでに”表象の機能”なるものについて教えてもらえると幸いです。

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A 回答 (5件)

「表象」を一番簡単な言葉で説明すると、「人間がとらえた事物の像」ということになるかと思います。



花が咲いている。
あなたはそれを見て「花」と言います。
そのとき、「花」という言葉は、実際に咲いている花の表象です。

花が咲いている。
あなたはそれを見て「花だな」と思う。
そのとき、あなたの頭の中に浮かんだ「花」という観念は、実際に咲いている花の表象です。

つまり、ものごとは言葉や観念によって、表象されている。
対象を言葉や観念で置き換えることによって、わたしたちはものごとをとらえ、考え、話し、コミュニケーションを行っているのです。表象の機能、とはそういうことです。

けれども、ほんとうに、わたしたちが見ているもの=対象といえるのでしょうか。
わたしたちは知覚を通してものをとらえ、脳でそれを判断し、認識する作業をおこなっています。
この認識の結果によって得られた像(表象)=対象、であるとどうしたら証明できるのか。
これをめぐって、実は西洋哲学は長いこと考えつづけてきたのです。

デカルトは「人間は表象によってしか事物を把握できない」として、表象と対象が一致するのは神の意志である、としました。
もう少し時代が下って、カントは、人間はもの自体は認識しえない、人間が認識しうるのは表象だけだ、としました。
けれども、この表象は、個人個人ばらばらなものではなく、すべての人が同一である、としたんです。それによって、表象は普遍性を持ちうる。

ちょっと待って。
それでいいの?
なら、表象されないものはどうなるのでしょうか。
人間に知覚されないもの、認識しえないものは存在しないことになってしまう。

たとえばベルグソンは「表象」は、映画がいくつかの静止した瞬間の断片に切り分けてとらえようとするように、生を、瞬間的な静止の姿においてとらえようとするものである、と批判します。
「表象」を問題にしている限りにおいて、わたしたちは決して「生」そのものに近づくことはできない。

さらにハイデッガーは、もっと根本的なことを問題にします。
存在が「表象する」ことの対象になってしまうと、存在はもはや〈存在すること〉をある意味では喪失してしまう、「表象」という概念は、ものごとを、人間が措定し、対象化することによってしか存在しえないものに切り縮めている、と批判していくのです。
このことはさらにフーコーへと続いていくのですが、ここらへんまで来ると、どうやっても簡単にまとめることはできなくなるので、現代思想は、「表象」という概念を、批判の対象としてとらえるようになってきている、というあたりでまとめておきたいと思います。

かなり雑な説明なので、わかりにくい部分、もう少し知りたい部分などあるかと思います。そのときは補足要求お願いします。
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この回答へのお礼

返答が遅くなって申し訳ありません。
レポートやっと終わりました!
しんどかった(ToT)

>花が咲いている。
あなたはそれを見て「花だな」と思う。
そのとき、あなたの頭の中に浮かんだ「花」という観念は、実際に咲いている花の表象です。

つまり、ものごとは言葉や観念によって、表象されている。
対象を言葉や観念で置き換えることによって、わたしたちはものごとをとらえ、考え、話し、コミュニケーションを行っているのです。表象の機能、とはそういうことです。

大変わかりやすい説明でした。
しかし表象とはかなりおくが深いものなんですね。
私が授業でやったのはたぶん「表象文化論」のさわりの部分だったんだと思います。

とても参考になりました。
ありがとうございました**。

お礼日時:2004/08/03 17:29

以前、同種の質問に回答しました。


そのときの回答を加筆して再利用しますので
ご了承願います。

まず、背景として頭に入れておいた方がいいこと。
伝統的に西洋は(今ではほとんどの国がそうですが)
「実体」と「外観」
「モノそれ自体」と「その表象」
「思想」と「それを表現する記号」
とを区別して、物事を考えてきました。

このような思考法に基づくと
記号や表象は、実体や真理や観念に辿り着くための
方法であることになります。
しかし実際は、記号や表象自体が意味を産出したり
規定することがあり
実体や真理や観念が、記号や表象に絡めとられてしまうことがあります。
(言葉が意味を規定したり、言葉そのものが一人歩きしてしまう
といったことです)

そういったコトを解明し
知識、主体、全体性といったモノに疑問を投げかけてきたのが
構造主義~ポスト構造主義という現代思想の流れです。

次に、表象の意味ですが
難しい哲学用語は英語にしてしまうと
大概、分かりやすくなります。
表象は「representation」です。
representation は sign(記号)と symbol(象徴)の
間(中間的な位置づけ)にあるような概念で
あるものを別なもので代表させるもの、とか
あるものを別のもので表現するもの、といった意味合いの下で
幅広く使われるようです。

逆に言えば、表象から「あるもの(即ち、実体)」を読み込むのが
一般的な批評ですが
現代思想は表象と実体の関係を一旦解体(デコンストラクション)
することで、表象と実体のせめぎあいの間から
どのように意味が産出されるか?といった
「表象の機能」を見ようとすることが多いです。

デコンストラクションは「脱構築」と翻訳されますが
「De-construction」のほうが
(construct:構築←→deconstruct:解体)
分かりやすいですよね。
表象も「re-presentation」のほうが分かりやすいですよね。
形而上学って、西洋の学問だから
日本語にすると無駄に難解になる嫌いがあります。

この回答への補足

皆様、ご回答ありがとうございました!!

おかげでレポートも無事終わることができました。

ポイントですがどの回答も大変参考になりポイントの発行に困りましたが、自分なりにわかりやすかった2人につけさせていただきました(勝手ですみません)

最後に単位が取れることを祈ってやってください(笑)

補足日時:2004/08/03 18:14
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この回答へのお礼

返答が遅くなって申し訳ありません。
レポートやっと終わりました!
しんどかった(ToT)

#4番の方もおっしゃっていましたが「表象」などは英語にするとかなりわかりやすくなりますね。
「すでにあるもの presentation 」を「再び re 」表すことが「表象」・・・うーん、わかりやすい!!
日本語で「表象」という文字だけ見せられても、何のことかわかりませんが、英語で書くと文字を見ただけでなんとなく理解できますね。
日本語って難しいな~。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/03 18:04

「表象」を英語で表すと representation となります。


つまり、「すでにあるもの presentation 」を「再び re 」表すことが「表象」といえるでしょうか。

No.2 の方の言葉を借りれば、目の前にある花(すでにあるもの)を見て、言葉で「花」と言う(再び表す)とき、
その「花」という言葉は目の前に咲いている花を「表象」している訳です。

こう考えてみると、表象する方法は言葉でなくてもいいことになります。
たとえば絵で花を描くことも花を表象することになりますし、
物質的には捉えられないもの、たとえば権力なんかも「制度」のうちに表象されていると考えられます。

つまりなにかを表象するためには、それが物質的に目の前にある必要はないのです。
目の前に花がなくても、花を言葉とか絵とかで表象できる訳ですから。

そうするとNo.3 の方が言うように、「イメージ」は「表象」の一側面を最もわかりやすく表していますね。
イメージはほとんどの場合「~について」のイメージであって、
すでにあるものを再び表している=表象していると言えるからです。

そのような表象を文化という大きな枠の中で捉えると、表象文化論になります。
上の例だと「制度」に権力の表象をみることができるし、
普段目にしている建築なんかも、なにかを表象している可能性があると考えられると思います。
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この回答へのお礼

返答が遅くなって申し訳ありません。
レポートやっと終わりました!
しんどかった(ToT)

>そうするとNo.3 の方が言うように、「イメージ」は「表象」の一側面を最もわかりやすく表していますね。
イメージはほとんどの場合「~について」のイメージであって、
すでにあるものを再び表している=表象していると言えるからです。

”表象=イメージ”と言うと確かにわかりやすいですよね。


回答ありがとうございました**。

お礼日時:2004/08/03 17:55

「表象」っていうのをここの回答で知って興味が沸いたのでお邪魔します。


表象とはつまりイメージみたいなものでしょうか。
でも、直感的にはそんなものが脳のなかにそのまま存在するなんて思えませんよね?

理系の方にがんばってもらって表象の正体を解明して下さい。

表象の機能ですが、もうしたのほうに書かれてますね。
表象機能とは『情報の超複雑な組織』ってことじゃないですか?
ヒントにもならないかも・・・。
・・とまあ僕がいま「なんか良い表現ないかなあ」って『コトバの組み合わせ』なんかを考えることができたのが、表象の機能(の一つ?)かもしれません。
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この回答へのお礼

返答が遅くなって申し訳ありません。
レポートやっと終わりました!
しんどかった(ToT)

>理系の方にがんばってもらって表象の正体を解明して下さい。

すみません(ToT)
正体の解明とまでは行きませんでした。


人間は脳のなかで無意識のうちに物事を表象しているんですよね?だから学問で学ぼうとすると難しいのかなと思いました(理系の勝手な意見です)。

回答ありがとうございました**。

お礼日時:2004/08/03 17:40

【質問:表象】


こんにちは*** レポートの参考になれば…と思いました。

「ターシャム・オルガヌム」からの抜粋、
略…感覚の体験とは、いわば外的世界における何らかの変化の反映である。
  体験された感覚は記憶の中に何らかの痕跡を残す。
それが蓄積すると、感覚の記憶は意識の中で その同質性に従ってグループ化され、関連づけられ、結合され、対比される。
互いに密接に関連しあって体験された感覚は、記憶の中で同じつながりを保ち続ける。そして次第に、体験の記憶の中から【表象】が形成される。
【表象】とは、いわば感覚の記憶のグループである。【表象】が形成される際に、感覚のグループ化は二つの明確な方向を辿る。
最初の方向は“感覚の特徴に応じたもの”である。
黄色の感覚は他の黄色の感覚とつながり、酸っぱい味の感覚は他の酸っぱい味の感覚と関連づけられる。

二番目の方向は“感覚を受けた時間に応じたもの”である。
ある【表象】を形成する一つのグループが、同時に体験された他の感覚を含んでいる時、この感覚のグループの記憶は共通の原因を持つものとされる。
この「共通の原因」は、対象として外的世界に投影される。そして与えられた【表象】は この対象の真の特性の反映であるとみなされる。
そのような記憶のグループが【表象】を構成する。
…略。

*** ***「goo 辞書」からの参考資料*** ***
【表象】
〔哲〕〔(ドイツ) Vorstellung〕感覚の複合体として心に思い浮かべられる外的対象の像。
知覚内容・記憶像など心に生起するもの。
直観的な点で概念や理念の非直観作用と異なる。 心像。 観念。
【表象型】
〔心〕 知的機能、特に記憶に関して、どの感覚が最も強く働くかによって分けた人間の型。
色や形による視覚型、音による聴覚型、身体的運動の感じや触覚による運動型などがある。
【表象主義】
⇒象徴(しようちよう)主義
【象徴主義】
一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、主としてフランスを初めヨーロッパ諸国に起こった芸術上の思潮。
主観を強調し、外界の写実的描写よりも内面世界を象徴によって表現する立場。
サンボリスム。 シンボリズム。 表象主義。

【文化】は、あなたが 自分で ボタンを押して下さい。
 ******* ******* *******
【表象の機能】
略…心的生活が さらに複雑になってくると、表象の記憶は感覚の記憶と同じ過程を辿る。
それが蓄積すると、表象の記憶 あるいは「表象のイメージ」は非常に多様な線に沿って関連づけられ、つなぎ合わされ、対比され、グループを形成し、ついには、「概念」を発生させる。
…略…
概念の形成は「言葉」の形成につながり、「言語」の発生につながる。
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この回答へのお礼

返答が遅くなって申し訳ありません。
レポートやっと終わりました!
しんどかった(ToT)

>感覚の体験とは、いわば外的世界における何らかの変化の反映である。
  体験された感覚は記憶の中に何らかの痕跡を残す。
それが蓄積すると、感覚の記憶は意識の中で その同質性に従ってグループ化され、関連づけられ、結合され、対比される。
互いに密接に関連しあって体験された感覚は、記憶の中で同じつながりを保ち続ける。そして次第に、体験の記憶の中から【表象】が形成される。

表象というものがどのように形成されていくか理解できました。ありがとうございました**。

お礼日時:2004/08/03 17:22

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Q表象の言葉の意味が理解できません。

はすみさんの本とか読んでると、よく表象の批判的なことを、言っています。いまいち表象の意味がしっくりいきません。わたしなりに定義してみると、リアルに対して、幻想に幻想を重ね、夢に夢を重ね、意味に意味の厚みをふやしていくようにしてつくられる表現それが、表象なのですか?教えてください。

Aベストアンサー

#2です。
すいません、あんま推敲する時間がなかったもんで
誤字がいろいろありますが、何より
×デコントラクション は大きな間違いです。
○デコンストラクション が正解です。
日本では「脱構築」という訳語が与えられます。
デコンストラクション→脱構築は
まあ、響きもそれとなく似ているし、洒落てるね
などとよく言われるのですが
ハッキリいって「De-construction」のままのほうが
(construct:構築←→deconstruct:解体)
分かりやすいよね。
デコンストラクションの代表的な思想家はジャック・デリダです。
デリダを学ぶと(デリダの本は難しいのですが)
より詳しい理解につながると思います。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qフーコーの表象論について教えてください

 美術史を専攻していますが、最近の専門書の中で、よくフーコーの表象論という言葉を見かけます。
 いきなり「これはパイプではない」を読んでみたのですが、今ひとつよくわかりませんでした。
 フーコーの表象論、あるいは表象論というものについて、教えてください。
 また、初心者にもわかりやすい、表象論を論じたフーコーの著作や解説書なども教えていただければ幸いです。
 よろしくお願いします。
 

Aベストアンサー

 「これはパイプではない」だけを読んでもわからないと思います。『ドン・キホーテ』第二部を論じた箇所やベラスケスの絵画を題材に論じた箇所を読んでみれば、共通した構図が見て取れるでしょう。といってもフーコーの『言葉と物』などは難解で、いきなり取り付いても脳味噌ねじれてしまいますね。

 美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。
 が、ベラスケスの『侍女たち』について話す前に、対比材料として「ふつーの絵画」を思い浮かべていただきたいと思います。フランドル派みたいな、わりと写実的な絵画です。

 風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています。
 人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。モデルは画面から画家/鑑賞者を見返しているかもしれません。または、画面内で別の何かを見ているかもしれません。が、前者の場合でもモデルと鑑賞者との間には「見る・見られる」関係があり、それは画面の内と外との間での関係です。いずれの場合にも、鑑賞者と画家は画面の外にいます。
 風景画の場合でも人物画の場合でも、「見られる絵画」と「見る・見られる」関係の中で関わりあう別の項、「見る者」「描く者」は「画面の外にいる」。このことをご確認ください。これが対比のポイントです。

 では、17世紀スペインの宮廷画家、ベラスケスの『侍女たち』です。
 絵画を言葉で説明するのは難しいのですが、kunstさんはおそらく図版をお持ちでしょうからご覧になりながら読んでください。図版をご覧になれない他の読者も、上に書いた「ふつーの絵画」と対比すれば何が問題かはわかると思います。
 で、画面ですが、宮廷の一室です。人物は都合11人。それと犬一匹。
 注目点はいくつかありますが、まず第一に「画家自身が登場している」ことが挙げられます。ベラスケスらしき画家自身が、画面左手に、絵筆とパレットを手にしてまっすぐこちらを見ています。「鑑賞者を見ている」ということです、いちおう。…「いちおう」と言ったのは、この画家が取り組んでいる絵画もまた画面に描かれているからです。画面左端に、大きく。ただしこちらから見えるのは裏側です。表側は当然画家の方を向いています。だから鑑賞者には見えません。しかし画家が何を描いているかは察しがつきます。これが注目の第二点です。
 画面のほぼ中央、部屋の奥の壁に鏡がかけてあります。その鏡には二人の人物が映っています。スペイン国王フェリペ(4)世とマリアーナ王妃です。画家はこの二人をモデルに絵を描いているのです。そのモデルである国王夫妻は、実に「鑑賞者と同じ位置に」立っていることになります。
 そして第三点。その鏡のやや下に、こちらを見ている王女マルガリータ姫が描かれ、彼女に視線を向ける若い侍女がその両脇に。画面右端にはオバサン侍女と子ども。オバサンはまっすぐこっちを見ています。ここで、王女マルガリータとオバサン侍女は「こっちを見ている」と書きましたが、彼女らが見ているのは「国王夫妻」です。「ふつーの絵画」なら「画面の外」にいる画家や鑑賞者を見返すはずの視線が、ここでは画面内に(反射して)登場している国王夫妻に向けられているのです。
 さらに第四点。「鑑賞者」までもがこの絵画には描き込まれています。画面中央の鏡のすぐ右に開いた扉があり、この扉のところで一人の男がこちらを見ています。描かれた空間の一番奥から、こちら方向を見ているのです。すなわち彼だけが、描かれた空間全体を一望のもとに視野に収めているのです。「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として。

 フーコーはこの作品を分析して「代理表象の体系によって自己完結している」と評しています。この絵画を描いているベラスケス自身は「絵筆とパレットを持った画家」として「表象」され、真のモデルである国王夫妻は、本来なら画面の外にいるはずの鑑賞者の位置を占めつつも「鏡」に反射する形で「表象」され、国王夫妻に場所を奪われた鑑賞者までもが「様子を見に来た男」に代理「表象」されて画面に描かれています。
 上記の「対比のポイント」を想起していただければ、フーコーが何を言いたかったのかはおわかりいただけると思います。すなわち、「ふつーの絵画」ならば画面の外にいて、描かれた事物・人物と「見る・見られる」関係を取り結ぶ画家や鑑賞者が、「代理表象」される形で画面の中に取り込まれてしまっている、ということです。絵画を成り立たせている制作・作品・鑑賞というすべての諸関係が画面の中にある。そういう意味で「自己完結している」のです。

 フーコーが何のためにこんなことを言ったのかについても軽く触れておきます。
 鏡を2枚、向かい合わせに立てて、その間に立って鏡を見るとどうなりますか。「自分の姿」が無限に連なって見えて、とても不思議な気分になりますね。これと似たようなことなのです。つまり、「見る自分が見られる自分であり、見られる自分が見る自分である」というこの関係が、無限に連鎖している。この例では「前と後ろ」という二方向一次元でこういうことが起こっていますが、現実社会では多方向多次元でこういうことが起こり、その網の目が「主体」や「知」や「権力」を成り立たせているのだと、彼は議論しています。「見られること」で主体が成立し、その主体が「見ること」で他の主体を成り立たせる。こういうふうに相互に表象しあって映じているのが「世界」だということです。

 ちなみに『ドン・キホーテ』の話も構図は同じです。『ドン・キホーテ』第二部には、なんと「第一部を読んだ」という読者が登場してくるのです。「ふつーの小説」では本来作品の外にいて、作中人物と「読む・読まれる」関係を取り結ぶものであるはずの読者が作中に取り込まれて、作品を「自己完結」させているというわけです。

 なお、関連書籍ですが、講談社新書の『フーコー』が安価で手に入りやすいと思います。著者は中山元さんだったと思います(すんません、どっか行っちゃって)。ただ簡潔すぎてわかりにくいかも。同じく講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズで『フーコー』というのもあります。kunstさんが直接必要とする部分ではないでしょうが、「フーコーが何のためにこんなことを言ったのか」という背景を押さえるにはよいかと思います。
 美術史関連ですと、絵画と鑑賞者の関係の変化を追ったものとして『闇の光 -近代芸術とニヒリズム』(石原達二・剄草書房)が面白かったです。が、基本的に専門外ですので、こんなところでご勘弁ください。

 「これはパイプではない」だけを読んでもわからないと思います。『ドン・キホーテ』第二部を論じた箇所やベラスケスの絵画を題材に論じた箇所を読んでみれば、共通した構図が見て取れるでしょう。といってもフーコーの『言葉と物』などは難解で、いきなり取り付いても脳味噌ねじれてしまいますね。

 美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。
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Qメタファーとは

メタファーとはなんでしょうか?まったく意味がわかりません。
何かわかりやすく説明しているいいサイトなどありましたら合わせてよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミル。
「彼は執念深いこと、蛇のようだ」……「ようだ」がありシミル。

メタフォアはこれに対し、

「彼はまさに希代のキツネだ」
「彼は蛇だ」

前者のシミル(直喩)では、「ように」などがあるのとは別に、「何を喩えているのか」が、明示されています。彼がキツネなのは、「ずるさ」が比喩されています。彼が蛇なのは、「執念深さ」で比喩されています。

しかし、後のメタフォア(暗喩)では、どこがキツネで、どこが蛇なのか、明示されていません。「ように」とか「似て」は、「キツネのように狡猾だ」「蛇に似て執念深い」などで使うので、何を比喩しているのか明示する言葉が来るのです。

彼はキツネだ。彼はイヌだ。彼は蛇だ。……などは、よく使う比喩なので、メタフォアの形をしていても、前後の関係から、何がキツネで、何がイヌか分かります。「キツネだ」というと、狡賢いになりますし、「イヌだ」というと、誰かの忠実な手先だという意味です。

シミルの形をしていても、どこが比喩なのか分からないシミルもあります。例えば、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥のように彼は穏やかに微笑した」というのは、「穏やかさ」を比喩するシミルですが、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥」が、どういう関係で、「微笑の穏やかさ」になるのか、よく分かりません。

こういうのは、形の上では、シミルですが、実質はメタフォアになっています。

メタフォアというのは、「詩」で多く使われますし、効果的に使うと、非常に印象的になります。

「兵士は、獲物を探す鷹の目で、遙か眼下の平野を見下ろした」というのは、おそらく、「鋭い視線・注意深い視線・鷹のように獰猛な意志」などの比喩なのでしょうが、読む人によって色々なものが、想像され、了解されます。

「西欧中世の古風な宮廷舞踊会の毎日のように、時が傍らを過ぎ去って行った」というのは、「ように」がありますが、これはシミルではありません。時間が経過したというのは、分かるのですが、どういう風に経過したのか、その部分がメタフォアになっています。

華麗に過ぎ去ったのか、繰り返しのように過ぎ去ったのか、静かに過ぎ去ったのか、典雅に過ぎ去ったのか、退屈に過ぎ去ったのか……読む人により、前後の文章により、色々なイメージや意味になります。

つまり、何か「比喩」なのですが、意味が明白でない代わり、イメージや雰囲気があり、「暗示的な比喩」であるのです。

メタフォアが多い文章というのは、イメージや雰囲気は豊かなのですが、それで何なのかが分かりにくいような文章です。メタフォアのイメージや雰囲気を味わうことが意味あることになります。

「新月の夜の緑の沼の眸で、スレートの笑いを彼は頬に浮かべた」では、何のことかよく分かりません。「暗い緑の眸で、スレートのように硬い笑いを彼は頬に浮かべた」なら分かります。「スレートの笑い」は、シミルで言えば、「スレートのように硬い」になるのです。

しかし、そう言ってしまうと、イメージや雰囲気の余韻が出てこなくなるので、メタフォアという、何をどう比喩しているのか、イメージなどは分かるが、それが何を意味するのか、自分で味わって了解しなければならない修辞の形式を使うのです。

メタフォアというのは、文章修辞の典型で、詩の本質は、このメタフォアのできぐあいに係っているという見解もあります。

また、以上は、文章修辞のメタフォアですが、メタフォアは、人間の概念思考に常に付随するもので、あらゆる芸術や日常生活にも、メタフォアが関係するというのが、一般的な考えです。三番目のURLは、かなり難しい文章ですが、メタフォア論になっています。

>日本語の修辞法―レトリック
>http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two

>特別企画 第六回 比喩
>http://plaza5.mbn.or.jp/~gendaibun/kikaku/kikaku0601.html

>メタファーと認知
>http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html
 

参考URL:http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two,http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミ...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
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Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Qカントにおける図式、構想力と悟性との関係について

カントの哲学、特に感性的認識においての、現象を知覚する時点から悟性による認識までのメカニズムがいまひとつ分かりません。下記の点が特に気になっているので、教えていただけないでしょうか。

(1)図式と構想力との関係。
(2)『判断力批判』では「構想力と悟性の遊動」と書かれています。これは構想力がデータを送り、悟性がデータを受けようとするときにうまく一致せず、それゆえ美を感じるということなのだと理解していますが、では通常美的判断でない状態では、構想力はどんなデータを送り、悟性はどんなデータを受けているのでしょうか?

Aベストアンサー

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえるものか、これは非~である、といえるものか)
・ほかのものとの関係を判断(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、もし…なら、~である、という条件付きのものか、これは~か…のどちらかである、といえるのか)
・様相(ものごとのありよう)を判断(~であるだろう、といえるのか、~である、といえるのか、かならず~でなければならないといえるのか)
 ↓
◎カテゴリーがデータに適用できるように、図式というアプリケーションが起動する:図式はカテゴリーを感性化するよう、変換する機能です(直観は空間と時間しか認識できませんから、カテゴリーを空間と時間に変換していくんです)。

・分量のカテゴリーの図式は数である(数という概念は時間に結びついていくから)。
・質のカテゴリーの図式は度である(時間を充実する感覚の有無によって判断できるから←これは相当苦しい)。
・関係のカテゴリーの図式は時間順序である(時間との関係で因果関係は把握できるから)。
・様相のカテゴリーは時間総括である(~であるだろう、といえるのは、いずれかの時間においてそうなる、ということであり、~である、といえるのは、一定の時間においてそうなる、ということであり、かならず~でなければならない、というのは、あらゆる時間においてそうなるということだから)。
 ↓
◎アプリケーションが情報を取り込んで、カテゴリーに分類。判断成立。

え?図式って空間がないじゃん、って思うでしょ?
空間は外的現象の形式であって、心理的な内的現象は、空間的なものではない、とカントは考えた。
それに対して時間は、外的、内的を問わない、あらゆる現象にあてはまる。
したがって、カテゴリーが感性化されるという場合、カテゴリーは時間という形式と結びつくと考えたんです。
だから、先験的図式は悟性のカテゴリーに従った「先験的時間限定」ということになります。

質問者さんのあげられた例に即すると、数量は理解できるのですが、「赤い」「丸い」という性質が、カントの図式のカテゴリー表に照らし合わせてどのように判断されるのか、私にはちょっとよくわかりません。

ただ、#1の回答ではっきり書かなかった部分の判断の流れを詳しく書くと、こうなると思います。
おおよその流れを汲み取っていただければ良いのではないかと思います。


『純粋理性批判』というのは、いわばカント哲学の“ルールブック”みたいなもので、ひとつひとつ言葉を措定し、意味範囲を規定しているので、これを押さえておかないと、『実践』『判断力』もよくわからないことになってしまいます。
ただ、実際、読んでいくのは大変です(^^;)。
私の場合、カント自身による『純粋…』の要約である『プロレゴメナ』と岩崎の『カント』を先に読んで、岩崎の本はいつも手元に置いてアンチョコとして活用しつつ『純粋…』を読みました。ナビゲーターがないと、やっぱりちょっと辛かったです。

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえる...続きを読む

Q有機的という言葉の意味を教えてください。

「多くのものが集まり、それが一つのものを創り、その各部分が互いに影響を及ぼし合っているさま」

という風に辞書の意味を自分なりに解釈してみましたが、結局意味が理解できませんでした。

【本の情報を有機的にどんどん引き出す】という文章で、この言葉の意味を聞きました。

例文と意味を平易に教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「有機体」というのは、「生き物」のことですよね。
「有機的」という言葉は、生き物である御自分の体のひとつとつの部分、手とか足とか脳とか心臓とかの関係を考えてみれば理解しやすいのではないでしょうか?

手、脳、心臓は一応は別の部分ですけれど、手は実は脳が命令を出してくれるからこそ動くのですよね。また、心臓が働いてくれているおかげで手や脳に血を通わせることができます。さらに手を使って作業をすることによって脳を鍛えることができると言われてますね。
そんな風に、一見ばらばらなもの、部分部分が実は深く関連し合っていることによって、一人の人間の身体という全体が成り立っている、そのような「部分」と「全体」の関係を「有機的」というのだ、と私は理解しております。

「本の情報を有機的にどんどん引き出す」という文章は、種々の情報をあっち向いたりこっち向いたりするようなばらばらなものではなく、ちゃんと一つ方向性をもった「全体」を形作ることのできるように引き出してゆく集めてゆく、というような意味でしょうか?

個別の情報を集約してそこから「有機的」な形を見出すのは、結局は人の能力によります。馬鹿な人間がいくら沢山の個別情報を集めても、その関連性(有機性)に気付ず、その人の頭の中ではいつまでも情報はばらばらなまま、ということはよくありますから。
なんだかうまく説明できていませんね。ごめんなさい。

「有機体」というのは、「生き物」のことですよね。
「有機的」という言葉は、生き物である御自分の体のひとつとつの部分、手とか足とか脳とか心臓とかの関係を考えてみれば理解しやすいのではないでしょうか?

手、脳、心臓は一応は別の部分ですけれど、手は実は脳が命令を出してくれるからこそ動くのですよね。また、心臓が働いてくれているおかげで手や脳に血を通わせることができます。さらに手を使って作業をすることによって脳を鍛えることができると言われてますね。
そんな風に、一見ばらばらなもの...続きを読む

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

QWord 文字を打つと直後の文字が消えていく

いつもお世話になっています。
Word2000を使っているものです。
ある文書を修正しているのですが,文章中に字を打ち込むと後ろの字が消えてしまいます。
分かりにくいですが,
「これを修正します。」
という文章の「これを」と「修正します。」の間に「これから」という単語を入れたときに,その場所にカーソルを合わせて「これから」と打つと,
「これをこれからす。」
となってしまいます。
他の文書では平気です。
何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。


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