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インド哲学の祖ヤージュニャヴァルキャは「自己とは認識するものである。認識するものを認識することはできない。認識するものを認識するとなると、さらにそれを認識する必要になり、無限遡行に陥る。」と概説された本を読んでおります。(仏教の元となる哲学の様です)
この中で「認識するものを認識することはできない」が理解できません。
また、腑に落ちません。
長々と説明されている本もありますが、多分私が読んでも府に落ちないような気がします。
地球は丸いと頭では分かっても、日常の私は理解できないし、一生できないと思っています。
この様な私ですが、この言葉の意味に付いて、なるほどと腑に落ちる説明ができる方の一言を伺いたく思っております。

質問者からの補足コメント

  • <Start>
    私は自己を認識している。
    でも、今見ている自己にはその認識が含まれていなよ。
    (自己)←認識
    ごめんなさい。認識も含めて見ますから。
    自己に自己を見ている認識で再度見ますよ。
    (自己+認識)←認識
    駄目だね。良く見なさい。それを見ている認識が含まれていないよ。
    ごめんなさい。再度その認識も含めて見ますから。
    ((自己+認識)+認識)←認識
    駄目だね。もう一度良く見なさい。それを見ている認識が含まれていないよ。
    ごめんなさい。再再度その認識も含めて見ますから。
    (((自己+認識)+認識)+認識)←認識
    駄目だね。もう一度良く見なさい。
    え~~~。そんなの無理だよ。無限遡行に陥っている。

    自己とは認識を含んでいる自己の筈の物だよ。
    認識を含んだ自己でなければ真の自己ではない。
    出来ないと言うならば、自己は認識できない事になる。
    最初の認識も正確な自己ではない。
    <Next>

      補足日時:2020/07/25 10:01
  • <For>
    え~~~。最初に見た自己は認識を含んだ自己だったって言うの。
    (自己)←認識、は実は、(<自己+認識>)←認識、だった!
    それでは最初に見た自己は永遠に遡って小さくなること。
    (<<自己+認識>+認識>)←認識
    (<<<自己+認識>+認識>+認識>)←認識
    逆無限遡行じゃ。

    実は貴方は真実の自己を見ていなかったのだ。
    そう言われて見ればそうかも。
    それならば、自己を認識できないのだから。私は何者だと言うことは出来ない。
    否定形でしか自己を表すことは出来ない。「私は岩ではない」の自己表現は良い。

    貴方は不幸か。
    はい「私は不幸です」。
    しかし、不幸な私は自己認識しなければ、不幸かどうか分からない。
    先ほど自己認識はできないと分かった筈だ。
    ならば自己は不幸かどうかも分からない筈だ。
    <Next>

      補足日時:2020/07/25 10:04
  • <For>
    貴方は不幸ではない。何故ならば貴方である筈の自己は認識できないから。
    不幸とも幸福ともなんら関係ない。自己は全く別物である。
    それでも貴方は不幸と言うのか。それは、貴方が錯覚しているだけだ。
    その錯覚してしまう貴方は、その認識を取り除く方法を知らないだけだ。

    (お釈迦様登場)
    囚われてはならない。空となれ。
    自己を認識する永遠の輪廻から解放する修行を積みなさい。
    「天上天下唯我独尊」釈迦は生まれた時に言った。(らしい)
    自己と不幸、幸福、生、老、病、死は何ら関係無いのだ。
    錯覚から目覚めなさい。
    自己を認識するという永遠の錯覚から解放されるのだ~~~。

    う~ん。腑に落ちたかな。
    <End>

      補足日時:2020/07/25 10:08

A 回答 (11件中1~10件)

「私は素晴らしい人間である」と思っていたとして、



それでもそのときあなたは
「「私は素晴らしい人間である」と思っている自分」は評価できていません。

「「私は素晴らしい人間である」と思ってる自分」は素晴らしい」と評価できたとして、

それでもそのときあなたは
「「私は素晴らしい人間である」と思っている自分は素晴らしい」と思っている自分を評価できません。

以下無限に続きます。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
フォロー遅くなりまして申し訳けありません。
納得感があります。

お礼日時:2020/07/25 10:16

おはようございます。

 花\( ̄ー ̄)私はあなたたちを認識しています。質問者さんと回答者さんたちと私でなんとなくわかったりします。
 そういうのではなくて「」をつかって meta にすると書ける「認識するもの」を認識するが主題です。一人称代名詞を使うカントと違います。「私」は私です。『「私」をめぐるカントとインド哲学』https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/2072が良かったです。『出エジプト記』第3章14節より引用の「神モーゼに言ひたまいけるは、我は、在りて在るものなり。」がカントの元ネタです。
 もっと meta にして「「認識するもの」を認識するもの」を認識することは書けるけどあんがいできないです。今いる階層とその前の階層が分かるけど他の階層まで感じられません。なのでそんなに怖くはないです。
 でも合わせ鏡をやってみると物理的に各々の再帰から取り出した光が一緒に目に入るので浅いところから深いところまで階層がいっぺんに目に入って面白いです。「「…「「認識するもの」を認識するもの」…を認識するもの」を認識すること。左の…が「で右の…で認識する物」がなんかいも挟む自己相似があります。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
教えて頂きましたhp読みたいと思います。

お礼日時:2020/07/27 08:51

№9、lupanさんの回答からの発想です。



《自己とは認識するものである》と云う表現は、認識するのは自分であると云っているだけだと思います。認識されるのは他者(対象)ですね。
自分は他者ではないので、対象外。故に、認識できない。と云う理屈かな?

でも、はたしてそうでしょうか。
我々は嫌と云うほど、自分自身を“認識”しています。自覚しています。

自分自身を認識し、自覚(意識)するからこそ自身の行為(生きる姿勢)に疑問を持ち、迷うのでしょう。
人によっては、本当の自分(自己・真我)を求めて出家して修行に励んだりします。

そう思えば、自分自身こそ認識の対象者であると、云えますね。

☆ その解説本の著者の、物言いに振り回されることのないよう、自身の心(感性)に自信を持ちましょう。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>その解説本の著者の、物言いに振り回されることのないよう
そうですよね。
難しい本って、何を言っているのか分からなくなり、結局著者を信じるしかなくなる気がする。
資本論も国富論もさっぱり分からなかった。(数ページで断念)
でもそれで良かったと思う。単なる虚構理論かもしれない。
頭に入る本はぐいぐいと入ってくる。中国専門家の石平先生の本なんか納得納得です~~~(^_^)

お礼日時:2020/07/21 03:19

ヤージュニャヴァルキャのアートマン(真我)論は、それほど難しい事を言っているわけでは無く、否定神学と似ています。


もちろん、認識出来ないアートマンが存在すると言う事も、当然ながら認識出来ないわけですが、仮にアートマンが認識主体で唯一のもの(究極の認識機能もしくは存在)だとしたら、それをアートマン自体が認識するのは不可能だと論じたわけです。
認識とは、あるものを、こういうものだと決める事なので、それ自体を全て決めなければいけません。
ただし、アートマンそのものが、認識主体であると決めたとしても、それがどのようなものかはわかりません。(あえて言えば認識するものと言う事です)
したがって、認識出来る対象全てとは違うと言う事でしか表現できない事になります。(唯一存在なので、全ての認識対象とは、何かが違う必要があります)
このような事を続けて行けば、いつかはアートマンが全てのものと違う事はわかりますが、それは違うと言う事しか意味しません。
これは、認識対象が無限にあった場合は、永遠に続ける必要があります。
これは、自立する唯一対象であれば、どれでも成り立つ事です。(唯一神なども同じですね)
「認識=全てを知る事」と考えれば、自然とそのような論理になります。
もちろん、アートマンを自立するものと考えなければ、他者との関係性で、その独立性自体は説明可能です。
しかし、自立性も持っているような気がします。
この哲学的説明は、かなり難しいですから、ヤージュニャヴァルキャの論を、一般的な論理で説明した場合に、どのような矛盾点が生じるか、矛盾は無いのかなどを考察するのが良いと思いますよ。
御自身が理解出来ないのであれば、ノートに図解してみる、論理をトレースしてみるなどの方法が有効だと思います。
一般的には、論理的整合性を持つ複数の理論が、相反する前提に対して成り立つ場合は、矛盾と言う事になります。
矛盾が作れる場合は、その理論に対して、論理が適用出来ない事になります。
そうなった場合は、そのような前提自体が意味を持たないと考えるか、別の理論により論理構成する方法を取るしかありません。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>ノートに図解してみる、論理をトレースしてみるなどの方法が有効
試してみます。我流ですが自分なりにやって見ようと思います。
アートマン(真我)論勉強になりました。

お礼日時:2020/07/21 03:01

認識するとは端的に言えば「知る」となります


自分を認識するとは「自分自身の状態を知る」という事です。
「自分自身の状態」を決めるのは「自分自身の脳の作用」です
よって自分を認識するとは「自分自身の脳の作用を知る」となります。
「知る」それ自体も「自分自身の脳の作用」によるものです
上記を踏まえるならば自分を認識するとは「自分自身の脳の作用よって自分自身の脳の作用を知る」となります。
ポイントは「脳の作用」です
仮に自分(あるいは自己)が自分自身の体を表すのもの出ないとするならそれは「自分自身の脳の作用」に他ならないでしょう。
「脳の作用」言い換えるならば「脳が及ぼす現象」そのものか「自分(あるいは自己)」となるでしょう
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この回答へのお礼

再度のご回答有難う御座います。
お知恵を出して頂きまして感謝しております。
只今、脳味噌整理中。
纏まったらアップしようと思っております。

お礼日時:2020/07/21 02:55

可笑しな文章ですね。



敢えて想像してみれば、、、

この世に鏡というものが無かったなら、永遠に自分の顔がどんな顔なのか知る事が出来ませんが、このような事を精神に当てはめてみた文章かと思います。

自分の顔を知るという事は物理的な事柄ですが、認識を認識するという事は精神的な事柄と云えるでしょう。

認識と云うものは、生物なら皆しています。
獲物には襲いかかり、危険を感じれば逃げる・避ける、という行動をします。
認識の結果です。

でも、人間はそうした精神活動を意識出来ます。しています。
意識が認識していると云うことを自覚し、そしてそうした意識の存在をまた認識する。

この様に思います。

この質問の要は《自己とは認識するものである》という文ですね。
これの解釈が先決でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>この質問の要は《自己とは認識するものである》という文ですね。
問題が深くなったかも。
自己とは何か。そもそも自己とは存在するものであろうか?
あると仮定すれば、それは自己を認識する動作を私が行った事により、実在しないかもしれない自己と言うものを今時点で感じることができる。
「我思う故に我あり」に帰することに成るかな・・・・

お礼日時:2020/07/19 12:08

質問の本題には逸れますがあえて回答させて頂きます


人の脳は約2000億個の脳神経細胞によって構成されています。
脳科学的に言えば一つ一つの脳神経細胞も自分であることから「大きな一つの自分は約2000億個の小さな自分で構成されている」となります。
脳神経細胞はそれぞれがそれぞれの反応に応じて反応します。
具体的に言えば脳神経細胞Bの反応によって脳神経細胞Aが反応するとなります。
これを質問内容に照らし合わせると「小さな自分(脳神経細胞)が別の小さな自分(脳神経細胞)を認識(反応)する」となり「その別の小さな自分(脳神経細胞)が更に別の小さな小さな自分(脳神経細胞)を認識(反応)する・・・」となります。
要するに脳内においては「認識するものを認識する事が出来る」となります。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
違った方向から考えてみることも必要かも知れませんね。
認識とな何なのか。
自分を認識するとはどうゆうことか・・・有るのは肉体の反応だけで、単に錯覚をしているだけなのかも知れない。

お礼日時:2020/07/19 11:45

例えばですが、眼はいろんなものを視ることができますが、その眼自体を視る事は出来ません。


このインドの哲人にとっての認識とは、この様な視覚に見られる様なモデルの一種に従った認識論という事になると思います。

一方で認識についての事実というのは、その様な視覚モデルによって全てが説明できるわけではありません。例えば目を瞑っても、ここに在ると言う実在感は消えることがありません。この実在感もまた、認識であると言うなら、認識する主体が在ると言う事態を認識していると言えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>眼はいろんなものを視ることができますが、その眼自体を視る事は出来ません。
私は自分をこの私の目で見ています。その見ている自分には目があるではないか。
目がある筈の自分に目が含めれていないのだから、それは自分を見ている事にならない。
では、目を含んだ自分を見たらどうか。いや、それを見ている私がいる筈だ。
では、その目を含んだ自分を見たらどうか。いや、それを見ている私がいる筈だ・・・・・
永遠に無限遡行、論理は破綻し成立しない。
う~~ん。近づいて来た感じが少しします。

お礼日時:2020/07/19 06:48

《認識するもの》とは 人間たるわれのことです。



そのわれについて個々の部分は 知覚しえて――手は手だ
と知り得 思うように成し得ないという苦を苦と知り得て
―― 認識し得ます。


では われの全体 あるいは われそのものは どうか?


言いかえると 《認識するハタラキ》を《認識するハタラ
キ》が認識しうるか?


これは 確認すれば よいわけです。

あるいは われはいま認識しようとしているということを
意識するということになります。

そのことで いちおう《われは われなり》という認識を
得ます。




ぢゃあ 《われ》とは何か? ――この主題は 《人間と
は 何か?》という問い求めとして展開されます。


つまり それは 《認識する機能》とは何かとか 《考え
る存在とは どういうものか》といった問題の立て方では
なくて――むろん そういう科学の探究もあって しかも
それとは別に―― 〔つねに広義における〕人間論という
切り口になります。



つまり 世界の中にいる個々のわれたる人間が その世界
を知るとは どういうことか? に問い求めが向かうわけ
ですが それと同時に この人間が問い求めをおこなって
いるその行為と全体の構図が どうなっているか? 

といった構造的で過程的な全体を――それを知ろうとする
主体たるわれをふくむかたちで―― 知ろうとする。


とうふうに妥協するものと思われます。

相対的で過程的な自己了解を得るということになると思い
ます。つまり ほかの人たちのそれぞれの自己了解を得つ
つ 互いにまとめ上げてゆきます。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
難しい~~。時間を掛けてじっくりと考えてみたいと思います。
長文お時間を掛けて頂きまして有難う御座います。

お礼日時:2020/07/18 17:20

”この中で「認識するものを認識することはできない」が理解できません”



ということは、他の部分は理解できているわけですね。
であれば、その後の「認識するものを認識するとなると、さらにそれを認識する必要になり、無限遡行に陥る」というフレーズがあなたの疑問に対する答えです。これが理解できているのならそれで問題ありません。認識が無限遡行に陥るのでどこまで行っても完全に理解することが出来ないという意味になります。

ちなみに古代ギリシャ哲学的に「認識」を推し進めると、理解の対象物は極限まで細分化され、その極限まで細分化された存在が原子であるという「原子論」に至ります。これも古代インド哲学風に解釈すれば、認識の無限遡行ということになるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
言葉としては理解していますが腑に落ちません。
頭と心が分離している気がして、何か気持ちが悪いのです。
問題なしということですので、再度見つめてみようと思っている次第です。

お礼日時:2020/07/18 17:13

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