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「認識」
①〔哲〕(cognition イギリス・Erkenntnis ドイツ)人間が物事を知る働きおよびその内容。知識とほぼ同じ意味。知識が主として知りえた成果を指すのに対して、認識は知る作用および成果の両者を指すことが多い。
②物事を見定め、その意味を理解すること。「時局を―する」「―が足りない」(広辞苑)

平たく言えば「わかる」ということになるでしょうが、それプラス「!」という感じですね。
哲学的な「認識論」は難しいですが、人間が主観の中で「!」に至るにはどういう仕組みでそうなるのだと思いますか?

A 回答 (7件)

> 「認識」のそもそもの意味は、知る作用及び成果物、ということですが、主観的な感情を伴うものですね。

その主観的感情は、「納得」という言葉で表現されるものなのかもしれません。
> 「認識」は、平たく言えば「わかる」ということになるでしょうが、それプラス「!」という感じですね。

言葉、熟語、語の意味は、一つに限定されるものではないでしょう。症状教、文脈でも、同じ語・言葉・熟語は異なった意味、状態、概念をさすことが多いです。 また、同じ意味、状態、概念をさすのにも日本語・英語・イタリア語では異なる語を使うし、辞書を調べると分かるように同一言語でも異なる語・言葉・熟語・表現形があるのが普通です。
cognition 
the process of knowing,understanding,and learning something
the act or experience of knowing, including consciousness of things and judgment about them

政治家?が、疑惑を持たれて問われたときに「認識はない」というのは、「そのようには思ってない、思ってはいなかった」で理解や納得という意味よりは、社会経済政治での交渉状のポジション、受贈供与犯罪の区分け位置づけのような意味です。 
数学や詩文、音楽、絵画などでは、わかるのようなのは「理解」と表現するのがポピュラーで、「認識」では意味が違ってしまうでしょう。 恋慕のようなものは「意識」で、味覚や触覚は「知覚・認知」がわかるというときの表現です。

「わかる &!」の感覚は、たぶん「私も賛同!」のような同意同感表示のコミュ的なものが混じっているケースが多いのでしょう。 学習支援で「わかる!」という表現も単純にunderstandとか理解とかではなくて、「上級者と同じく私も(あなたのお子さんにも)」のような文脈を想定しているのでしょう。

> 人間が主観の中で「!」に至るにはどういう仕組みでそうなるのだと思いますか?

いろいろでしょう。 人間にも色々いるのです。 
お釈迦様が悟ったり、エジソンがひらめいたりするのは、そこに集中し続けて、糸口を発見したとにき、神経回路が整列したようになって、全ての問題が整理され体系的に理解されたときに、主観でも!と感じるような交換神経系の興奮が生じるからでしょう。
戦いで「勝った」という認識が「!」という主観をもたらすことも多いです。
凡人でも、クイズやパズルで考え込んでいて(脳内での情報整理がつかないで混雑状態になっていて)、ガタガタした結果、すーっときれいに流れができたときに、主観でも!と感じるような交換神経系の興奮が生じるからでしょう。
部屋の中が散らかっているのを頑張ってきれいに片付け終わったとき、難しそうな料理をこさえたとき、壊れた器具を修理し終えたときにも、長編小説を読み終えたときにも!を感じることはあります。
可能性としては、延髄縫線核を介した交感神経活動の促進が、視床下部室傍核オキシトシンニューロン群を刺激して、そうした開放的で明るい気分をもたらすのです。
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この回答へのお礼

Thank you

お礼日時:2024/02/09 20:15

言葉によって象徴化された意味を


実人生の中で体感して
膝を打つような感じで腑に落ちる。

ということでしょうね。
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この回答へのお礼

「認識」のそもそもの意味は、知る作用及び成果物、ということですが、主観的な感情を伴うものですね。その主観的感情は、「納得」という言葉で表現されるものなのかもしれません。

しかし、主観は不可知であるとして、切り捨てられてきたようです。そこに西洋哲学は限界を自ら作ってきたと言えるのではないかと思います。

お礼日時:2024/02/05 10:04

No.4です。



>物質的なものについては、誰しもがほぼ同じものに見えているというのは学者の世界では共通認識であるらしいです。
>観念的なものでは、それぞれの信じているもの、考え方によってかなり違ってくるとは思います。

たとえば、、、

・家の中の埃

Aには見えて、Bには見えない。
Aは見えているから掃除をするが、Bは見えていないのかスマホばかり見ている。では、Cではどうなのだろう??あるいは、Dでは。

認識といったって、現実的にはこんなものだろう。
知能の差でもないと思います。

前回答で血液型としたのは、ある会社に所属していた時に、A、AB、B、O型に同じような作業をさせた時に、それぞれに同じような差が出たことがありました。年間2000のサンプル数なので『血液型特性』としては確かなものだと考えます。
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この回答へのお礼

周囲のことに関心が無い人は、自分の欲望の対象物の認識ばかりで、他のことについては認識停止・思考停止しています。

特定の作業の効率の問題でしたら、その作業に関わる観念的なものの認識の問題であり、血液型の違いにより差異があるということは考えられることだと思います。どの程度普遍性があるかは、膨大なデータの収集が必要だろうと思います。

お礼日時:2024/02/04 21:29

胸にナイフを刺して殺す。



胸にナイフを刺す、という行為を表象する。
刺せば死ぬ、
死んでも良い、死ね、と認容する。
つまり、胸にナイフを刺す行為の意味を
理解しているr。

表象+認容→認識


こんな感じで理解していますが
どうでしょう。
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この回答へのお礼

>胸にナイフを刺して殺す

そういう物語がまず頭(心)に浮かびます。
初めは「殺意」ということでしょう。原因は大抵「憎い」から、あるいは嫉妬とか歪んだ愛とかでしょう。

胸をナイフで一突きすれば死ぬであろうというのは「判断」でしょう。で、その行為を自分に許容するから行動に至ることができると言えますね。
それが、「認識」と言えるのかどうか…

お礼日時:2024/02/04 16:19

先ず、五感があり、そこに意識が加わります。


そして、それが何であるかを思量します。

その一連の動きを『認識』とは言います。

しかしながら、その意識、思量の奥に在るモノの影響で、同じモノを五感を使い感じても同じものと解釈できないのが人間である。
特にその認識については、『血液型』の相違によるところも大きい。
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この回答へのお礼

物質的なものについては、誰しもがほぼ同じものに見えているというのは学者の世界では共通認識であるらしいです。

観念的なものでは、それぞれの信じているもの、考え方によってかなり違ってくるとは思います。しかし、同じ文化圏の中ではこれについても概ね似たようなものになるのであって、違うとすればそれは感情的なものがモノを言っているようにも思います。

血液型ですか、どうでしょうか。

お礼日時:2024/02/04 16:07

唯識の識とは「わかち知ること」であるとともに「わかち知るもの」でもあり、認識作用をさすとともに、認識の主体である心自体をも意味しています。


こうして認識論と存在論が一体不可分となっていることは、認識主体の心の変革が、認識の作用のうえに新しい視野、世界をもたらすことをあらわしています。

今回は仏教における認識論(九識論)の一旦を述べさせていただきます。

西洋の哲学が外的世界に目を向け、主観的生命活動を客観化してきたのに対し、仏教の目は、つねに主観的認識作用そのものをみつめ、自己の内的生命の世界へと探究を進めてきました。
しかし、もとより、これはおおざっぱな立て分けで、細かく検討すれば西洋にも内的世界へ分け入った人びとがいましたし、
東洋にも、もっぱら外的世界の探究と技術的な発明に打ち込んだ人びともいたことはいうまでもありません。
 しかし、東洋の精神文化が、人間にとって自らの内的世界の解明とその充実のための貢献をなしたことは、おそらく西洋のそれよりはるかに大きいものがあり、私は、仏教の人間観・生命観は、西洋文明の欠陥を補いその歪みを正すに足るものを、もっていると思います。

とくに仏教においては、仏教者の実践と思索の積み重ねによって、生命の構造に関する詳細な理論が構築されてきました。
 このような仏教の理論の中で、西洋の哲学でいう認識論とともに、今日の精神分析学とも深く関わる問題の一つに、唯識論があります。この唯識論というのは、たんに認識上の理論にとどまらず、その認識という作用をなす主体の生命を問題にした存在論でもある理論です。

仏教での認識は、人間の生命の営みを五つの要因の結合としてとらえます。すなわち、色(肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識の五つです。この中で中心になるのは、いうまでもなく“識”で、主観的認識作用であるとともに、その主体でもあります。
 唯識論は、この“識”を焦点にすえて、生命の営みの過程をとらえ、さらに、生命の内面の領域へ解明の歩を進めていきます。
 まず、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の各感覚器官のそれぞれに“識”があるとされます。たとえば眼の識は、眼という感覚器官をとおして外界を認識します。しかし、これらの“識”は、一面的な認識しかできませんから、そこから伝えられた情報を集結し、総合し、全体像をとらえるとともに、それに対して対応を決定する中枢機能が必要です。それを行う識が第六番目の識で、これを“意識”と呼んでいます。意識の機能が行われる場は、いうまでもなく、大脳皮質です。

意識とは識知し思考する心であるとされています。要するに、五識の情報を総合して概念的に事物をとらえ、それにどう対応すべきかを思考・決定するもので、それ自体、かなり高度な精神活動といえます。しかし、この第六識がなしうるのは、あくまで、外界の事象との対応であって、五官、五識を経ない、自らの内面の世界に関しては、まったく無力です。
 あなたが、西洋の知性は、外の世界に目を向けてきたといわれるのは、この第六番目の識の領域にとどまっていた、あるいは、そこに重点をおいてきた、ということと同じです。

東洋の仏教では、この第六番目の識からさらに進んで、五官の識ではとらえられない内面の世界を把握するため、第七番目の識へと目を向けました。これは(マナ識)といわれるもので、自己の内面をみつめる心です。マナとは思慮という意味です。いわば、深い内省的・瞑想的な思考作用であり、またそうした思考をする主体でもあります。しかし、それは同時に、強い自我意識につきまとう衝動や情念の生ずる源泉ともなっているものです。そこで仏教は、そうした衝動や情念の種子ともいえる、業の蓄積されている第八識“アラヤ識”へ分け入り、さらに宇宙生命そのものというべき第九識(アマラ識)に到達しました。
 この問題については、略させていただきます。
ただ、この中で、第八識までは個の生命を形成している部分であるのに対し、第九識は宇宙と一体になっている普遍的な大我の領域であるという点に注目しなければなりません。しかも、仏教がなによりも重視しているのは、第九識を覚知し、それを顕させることであり、そこから第八識に含まれる個人の運命的なものに対する支配を樹立できるということです。

長くなるので・・・終わり
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この回答へのお礼

盛りだくさんの内容で、私の知識のない部分がありますので、私なりに調べてまとめてみます。おかしなところがあったら指摘してください。

「唯識論」とは、古代インドの無著・天親らの説で言わば深層心理学ですね。自分の心の外にあると思われる諸現象は「識」の働きによって作り出されたモノであり、実在するモノは「識」だけであると。識は八つであり、法相宗の教義になっている。プラトンのイデア論に似ている感じです。

その後、天台(智顗)らによって発展する。識は九つになり、耳根・鼻根などの「根」(神経?)が対境に接したときに、「識」が対境を了別する、つまり、根・境・識が三事和合して認識が生じる、と。それが九識論である、と。

そう見てゆくと、五感だけでなく潜在意識的なものも含まれる「根」という感覚が客観的対境に接し、「識」という心の働きで認識というものが成り立つとすれば、客観的な存在も実在するモノであり、「識」という心の働きであろうと思われるものが、「根」とは別個のものと考えることもできるのではないかと思いました。

お礼日時:2024/02/04 16:00

なんだか難しい説明でついていけずにごめんなさい。


私にとっての「認識」は、あるものごとを意識した時に「認識する」と使うと思ってました。
違うかな?
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この回答へのお礼

哲学的な話なのに「!」などという感覚的なものになってしまいましたが、分かり易いかなと思ったのです。

>意識した時

なるほど、いいかも。

お礼日時:2024/02/03 07:39

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