▲ (カント:純粋概念のいわば胚芽と素質とは 人間の悟性に宿ってい
る) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1. 純粋概念のいわば胚芽と素質とは 人間の悟性に宿っている
2. それだから我々は人間の悟性を奥深くさぐってこれらの概念の胚芽
と素質とを求めることになるだろう。
3. 純粋概念は かかる胚芽ないし素質として触発を待っているのであ
るが
4. 遂に経験を機縁として発展し
5. またこの同じ悟性によって 自分に付着している経験的条件から解
放せられ その純粋な姿を開顕するのである。
(I.カント:『純粋理性批判』 Ⅰ 第二部門 第一部 先験的分析論
第一編 概念の分析論 篠田英雄訳 1961 )
▲ (《経験にかかわりのない認識》?) ~~~~~~~~~~~~~
6. 《経験にかかわりのない認識》・・・は 《ア・プリオリな認識》
と呼ばれて 経験的認識から区別せられる。
7. 《経験的認識》の源泉はア・ポステリオリである。というのは そ
の源泉が経験のうちにあるということである。
8. 《ア・プリオリな認識》というときには 個々の経験にかかわりの
ない認識というのではなくて 《一切の経験に絶対にかかわりなく成立す
る認識》を意味するということにしよう。
9. かかるア・プリオリな認識に対立するのが 経験的認識である。
10. 経験的認識は ア・ポステリオリにのみ 換言すれば 経験によ
ってのみ可能な認識である。
11. そしてア・プリオリな認識のうちで 経験的なものをいっさい含
まない認識を《純粋認識》というのである。
( ibid. 緒言 Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別について )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 問いです。
12. [1]なる命題は 《ひとにブッダター(仏性)ないしアートマ
ン(霊我)がやどる》というのと どう違うか?
13. 《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》[8]という
とき 《胚芽としての純粋悟性概念》[3]が 世界における経験事象な
る対象によって触発されそのわが《経験を機縁として発展する》[4]と
いうのは どういうことか?
13-1. 純粋悟性概念は 純粋認識[11]ではないのか?
No.18ベストアンサー
- 回答日時:
ありがとうございます。
確かに、物自体が認識能力をうながす存在であるという主張は、批判的解釈とされることがありますね。ただ、その解釈がされる理由は、カントが神に代わるものとして不可知なる物自体を想定したことによるものだと思います。また、信頼性に関しては、私たちの認識が限界的であることを示唆することで、人間の認識の信頼性を高めることを目指していたとも言えます。ただ、相手のおっしゃるように、信頼性を直接的に取り上げることはなかったかもしれません。
そして、神による被造物としての世界事象を認識するという背景事情が付くかどうかは、カントの議論には直接的には関係しないと考えられます。しかし、神と物自体との類似については気が付いたかもしれないとも言われています。
ただ、確かにコペルニクス的転回などの主張は、証明されたことではありません。それでも、カントの哲学においては、それが大きな意味を持つ変革だったと考えられています。
★ ありがとうございます。確かに、物自体が認識能力をうながす存在であるという主張は、批判的解釈とされることがありますね。ただ、その解釈がされる理由は、カントが神に代わるものとして不可知なる物自体を想定したことによるものだと思います。
☆ そう言っていただけると うれしいです。
★ また、信頼性に関しては、私たちの認識が限界的であることを示唆することで、人間の認識の信頼性を高めることを目指していたとも言えます。ただ、相手のおっしゃるように、信頼性を直接的に取り上げることはなかったかもしれません。
☆ 互いにものごとの認識にあたって明晰性を追究することによって 互いの信頼性をつよめ得たかも知れません。
★ そして、神による被造物としての世界事象を認識するという背景事情が付くかどうかは、カントの議論には直接的には関係しないと考えられます。
☆ カント自身は 神ないし神学の言うことを不問に付したまま 自分の仮説をひたすら追い求めたと思います。
★ しかし、神と物自体との類似については気が付いたかもしれないとも言われています。
☆ 口には出さなかったでしょうね。
★ ただ、確かにコペルニクス的転回などの主張は、証明されたことではありません。それでも、カントの哲学においては、それが大きな意味を持つ変革だったと考えられています。
☆ たしかに 目がかがやいたことでしょうね 当時。
ただ その当時でもすでに モリヌー問題といって この《先験的な認識》説に批判が出ていたのです。
▲ ヰキぺ:モリヌークス問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA …
☆☆ 【Q:カントの打っちゃり術!?――モリヌー問題をめぐって――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11230435.html
No.20
- 回答日時:
心は仏性、或いは霊我を種、あるいは胚芽とし、そこから芽生える個性を霊魂と云い、霊魂の成長が心を形作る、と云ってみたい。
或いは、仏性そのものを霊魂と見なすべきか、今は判然しない。
いずれにしても心は、心の内部の芯が外部の情報を身に着けた姿である、と云えると思う。
それは成長し、成熟し、衰退していく、頼りなき無常の代物ですね。
カントは心の仕組みに付いて、何か云っているのでしょうか?
自身の心を通して、外部の事象を見極めようとしているだけのように思うのですが。
★ 心は仏性、或いは霊我を種、あるいは胚芽とし、そこから芽生える個性を霊魂と云い、霊魂の成長が心を形作る、と云ってみたい。
☆ 心は 身=《感じる》との一体としては 広く悟性&理性=《考える》です。神経細胞の上に乗っかってハタラキが起きています。
これら心身から成るひとに すでにそこにおいて生命のウゴキがかかわっていると思いますが 霊性ないし生命性は さらに心身の伸びまたは明けをうながして 超自然ないし非経験の場を人に垣間見させるかも知れない。
★ 或いは、仏性そのものを霊魂と見なすべきか、今は判然しない。
☆ どうでしょう?
★ いずれにしても心は、心の内部の芯が外部の情報を身に着けた姿である、と云えると思う。
☆ 視覚や聴覚をつうじて知覚し これを概念認識し その概念を秩序立てて整理したものが 情報ですかね。
★ それは成長し、成熟し、衰退していく、頼りなき無常の代物ですね。
☆ そうですね。ひとの心身あるいは人間としての自然本性 そうは言っても 有限で相対的なものですね。
そうして その根っ子には 生命性のウゴキが 必要十分なまでには はたらいている。
★ カントは心の仕組みに付いて、何か云っているのでしょうか?
自身の心を通して、外部の事象を見極めようとしているだけのように思うのですが。
☆ 外の世界なるものごとから 刺激を受けてそれをそのまま認識するだけの動物では 人間は ないんだと言いたいのでしょう。
物から刺激を受ける以前に 視覚なら視覚で見止めたときに すでに 純粋悟性によって その物の空間におけるかたちであるとか それが時間過程にあることだとかを――経験的な認識に先立って=先験的に――純粋認識しているのだという仮説を唱えました。・・・
No.19
- 回答日時:
仏性、あるいは霊我とは、生命の種の事。
あらゆるものに物象あり、霊我あり、との前提です。
その種(物象・霊我)=胚芽に“個性”在り。その個性に悟性は生ず。
故に、悟性は個々に於ける個性と云う能力の範囲内に於いての働き。
そして、客観の存在を認識するのは心があるから。
心、無ければ客観の存在は知り得ない。
その心は個々に、個性となって現れる。
また個性に、そして個別に、備わっている心は、それ故に均一同一ではない。
拠って、均一ではない心が見る客観物がどうして同じ(物自体)だと云えよう?
物自体は認識できない、とは。
我々は、物自体を見ているのではなく、自身の心を見ている、と解釈してよいと思う。
自身の心という“鏡・かがみ”に映し取った映像を、見ているのです。
そう、一旦、客観物を自身の心に写し取って、その写し取った映像を認識するのです。そうするしかないのです。
なぜならば、客観物を受け止めるのは心だから。
我々の心は釈尊のように明浄だろうか。
雲っていたり、歪んでいたり、傷が有ったり、していないだろうか?
※ と、まあ、こんなことを考えて見ました。
ご回答をありがとうございます。
★ 仏性、あるいは霊我とは、生命の種の事。
あらゆるものに物象(☆ 仏性)あり、霊我あり、との前提です。
☆ ブッダターやアートマンは 神性・霊性としての生命性ですから 種の中に息づく生命のチカラのようなものでしょうか。
★ その種(物象・霊我)=胚芽に“個性”在り。その個性に悟性は生ず。
故に、悟性は個々に於ける個性と云う能力の範囲内に於いての働き。
☆ ふむ。感官が知覚したものを認識する悟性は まだ 個性はないかも。認識した概念を統一する理性には 個性が出るかも。
★ そして、客観の存在を認識するのは心があるから。
心、無ければ客観の存在は知り得ない。
☆ 身=感覚と 心。したがって 悟性と理性。おそらく 初めの息吹きとしての生命性は この心身の全体を覆い包んでいるかも。
★ その心は個々に、個性となって現れる。
☆ 理性が 知解力としてその人の自由意志の行使とともに個性を発揮するかも。
★ また個性に、そして個別に、備わっている心は、それ故に均一同一ではない。
☆ 理性の用意した行動の選択肢の中から自由意志によって心身の内的なウゴキをともなって選択した行為(振る舞い&発言)は 個人によって異なり 多様性が現われる。
★ 拠って、均一ではない心が見る客観物がどうして同じ(物自体)だと云えよう?
☆ ううむ。仮説としてはおそらく 認識以前の物に認識されうる要素(種にような)として共通性のある究極の何かを想定したのかも。分かりやすく言えば 究極の知恵のような何か。
★ 物自体は認識できない、とは。
我々は、物自体を見ているのではなく、自身の心を見ている、と解釈してよいと思う。
☆ 私見では 神の代用物ですから 心身の究極体を想定したかったかと。
★ 自身の心という“鏡・かがみ”に映し取った映像を、見ているのです。
☆ じつは 神の代わりであっても神ではないので 経験事象なんです。その究極です。心身と言わば地続き。
したがって:
★ 客観物を受け止めるのは心だから。
我々の心は釈尊のように明浄だろうか。
雲っていたり、歪んでいたり、傷が有ったり、していないだろうか?
☆ ゴータマがそうだったかは別として こういった疑問が投げかけられます。
カントの理論には 神は出て来ません。
No.17
- 回答日時:
理解できますが、カントの立場においては物自体が認識能力をうながす存在であるという主張は、彼が探求した認識の限界や信頼性の問題に密接に関係していると考えられます。
物自体が認識能力をうながすということは、私たちの認識が限界的であるということを示唆し、その限界を探求することで人間の認識の信頼性を高めることを目指していたと解釈できます。しかし、神による被造物としての世界事象を認識するという背景事情が付くかどうかは、カントの議論には直接的には関係しないかもしれません。★ 理解できますが、
☆ それは ありがたいです。
★ カントの立場においては物自体が認識能力をうながす存在であるという主張は、
☆ 主張というよりは 批判でもある解釈です。神の代用だと見なされることにおいて そう解釈されるという意味です。
★ 彼が探求した認識の限界や信頼性の問題に密接に関係していると考えられます。
☆ 信頼性が ここで特に問題となるかは いま よく分かりません。
認識の限界というのは 理性の有限性(相対性)のことであり その理性が神を認識しがたいといった問題から 神とは別の・或る意味神のような役割りを成す何かを必要とした。ので 不可知なる物自体を想定した。
★ 物自体が認識能力をうながすということは、私たちの認識が限界的であるということを示唆し、
☆ いや 特にそういった事情を持ち出すこともないと考えます。単純に 神と被造物との関係が 薄く淡く物自体と認識対象との関係に引き当てられそうと見ただけです。
★ その限界を探求することで
☆ 限界は 限界を捉えたことで――知解力としての知性の弱さを思い知ったことで―― 一応済みだと思います。
★ 人間の認識の信頼性を高めることを目指していたと解釈できます。
☆ 理性の限界内における知解でよいのだと 割り切ったと思います。ここに信頼性は持って来ないでしょう。知識(認識)の明晰性が 問題です。
★ しかし、神による被造物としての世界事象を認識するという背景事情が付くかどうかは、カントの議論には直接的には関係しないかもしれません。
☆ カントは そうは思っていなかったでしょう。神と物自体との――認識をめぐる――類似について 気が付いたとしても 口に出さなかったでしょう。
そもそも コペルニクス的転回などという《主張》は 何も証明されていないのです。
No.16
- 回答日時:
カントは、物自体の存在が私たちの認識能力をうながすという立場をとることで、人間の認識の限界を示し、それによって人間の認識の信頼性を高めようとしたのではないでしょうか。
つまり、物自体はあくまでも私たちの認識の基盤となる存在であり、その存在が認識をうながすことによって、私たちは現実の存在を認識することができるのです。物自体についての彼の考え方は、神の代替物としての役割を持つものではなく、人間の認識能力が物自体に到達できないという前提の上で、それについての限界を探求するものです。つまり、物自体が認識能力をうながす存在であるという立場は、カントが持つ物自体に対する立場とは異なるものであり、混同することは適切ではないと思います。
★ カントは、物自体の存在が私たちの認識能力をうながすという立場をとることで、人間の認識の限界を示し、それによって人間の認識の信頼性を高めようとしたのではないでしょうか。
☆ 人間の認識の限界――あるいは 理性批判として 知解力の有限性――は その主題そのものとして つとに議論されています。物自体と関連させることはないと思います。
物自体が 悟性のハタラキをうながすことになると捉えるのは わたしの解釈です。神による促しとけっきょく同じようだという皮肉として。
★ つまり、物自体はあくまでも私たちの認識の基盤となる存在であり、
☆ いいえ。そういう筋で持ち出したものではないと思います。《神の代用》説です。
★ その存在が認識をうながすことによって、私たちは現実の存在を認識することができるのです。
☆ 話が 別の筋のほうへ行ってしまった。
人間の世界認識は ほとんど無条件におこなわれます。
神による被造物としての世界事象を認識するといった背景事情が付くかどうかは 別です。
被造物を認識するといった《ふるい》哲学はいやだと考えたカントは 神に代えて物自体を持ち出した。
★ 物自体についての彼の考え方は、神の代替物としての役割を持つものではなく、人間の認識能力が物自体に到達できないという前提の上で、それについての限界を探求するものです。
☆ 人間の知性は だめでも 限界に挑戦するものです。
人間の知解力が 有限であるということは つとに周知のことです。物自体を持ち出す必要はさらさらありません。
★ つまり、物自体が認識能力をうながす存在であるという立場は、カントが持つ物自体に対する立場とは異なるものであり、混同することは適切ではないと思います。
☆ わたしの解釈であり批評であり また 皮肉交じりゆえ批判です。
No.15
- 回答日時:
私は、物自体が神の代用であるという考え方はカントの哲学には含まれていないと思います。
カントは宗教哲学にはあまり関心を持っておらず、物自体が存在することによって私たちがその存在を認識しようとする動機を持つということを強調しています。物自体が認識能力をうながす存在であるという立場は、カントの哲学の中でも大切な考え方の一つです。★ 私は、物自体が神の代用であるという考え方はカントの哲学には含まれていないと思います。
☆ わたしの解釈です。嫌味です。
★ カントは宗教哲学にはあまり関心を持っておらず、物自体が存在することによって私たちがその存在を認識しようとする動機を持つということを強調しています。
☆ 神を持ち出さないという哲学を求めた。そのため 物自体という想定をほどこした。と理解しています。
★ 物自体が認識能力をうながす存在であるという立場は、カントの哲学の中でも大切な考え方の一つです。
☆ というよりも それ以前の《神の摂理》にふくまれるような《物の認識》説をきらった。ところが そこで持ち出された物自体についても けっきょく神の場合と同じように 認識をうながすような存在になっていた。のではないかと。
No.14
- 回答日時:
☆物自体の存在そのものは 何ものにも先立っているはずですよ。
★一部同意しつつも、異論があります。確かに、カントは物自体の存在が人間の認識能力よりも先立つと考えました。しかし、私は物自体が認識能力をうながす存在であるという考え方も理解できると思います。物自体が存在することによって、私たちはその存在を認識しようとする動機を持つのです。つまり、物自体が私たちの認識能力をうながす存在であるというのは、ある意味では同じことだと言えるかもしれません。
★一部同意しつつも、異論があります。確かに、カントは物自体の存在が人間の認識能力よりも先立つと考えました。
☆ 物自体の存在を ほかの知性なり何なりとは別に 初めに想定しているということだと思います。
★ しかし、私は物自体が認識能力をうながす存在であるという考え方も理解できると思います。
☆ そうですか。
★ 物自体が存在することによって、私たちはその〔☆ 対象たる物の〕存在を認識しようとする動機を持つのです。
☆ つまり 極論として神学を持ち出すなら このような《対象ないし経験事物》の認識は 人に対して神がうながしていると それ以前は考えられていた。
★ つまり、物自体が私たちの認識能力をうながす存在であるというのは、ある意味では同じことだと言えるかもしれません。
☆ つまりは 物自体が 神の代用であるのではないかと。
No.13
- 回答日時:
カントの哲学における《物自体》という概念について、私たちの認識能力が作用する前の存在として考える立場と、それが私たちの認識能力をうながす存在として考える立場があるということが理解できます。
カントは形而上学的存在である神を哲学から排除し、代わりに《不可知》な存在である《物自体》を提唱したとのことです。これによって、物の存在について究極的な問いを投げかけることができると考えたのでしょう。そして、この究極の存在を前提にするならば、純粋悟性概念という能力が先験的に働くことが許されると考えたということですね。
これによって、物が認識をうながすのではなく、人間の認識が物の存在を純粋認識し規定するという認識論の大転換を図ろうとしたのだと理解しました。しかし、私の考え方は、物自体という存在が人間の認識能力の前に存在すると考えるカントの立場に近いです。物自体が人間の認識能力によってうながされる存在であるという 考え方には異論があります。
★ カントの哲学における《物自体》という概念について、私たちの認識能力が作用する前の存在として考える立場と、それが私たちの認識能力をうながす存在として考える立場があるということが理解できます。
☆ 物自体の存在そのものは 何ものにも先立っているはずですよ。
★ カントは形而上学的存在である神を哲学から排除し、代わりに《不可知》な存在である《物自体》を提唱したとのことです。
☆ わたしの理解(解釈)です。
★ これによって、物の存在について究極的な問いを投げかけることができると考えたのでしょう。
☆ そう出来るかも知れませんが そのことは あまり大したことではないかも知れない。
究極の存在――人間的には智慧(?)――を前提に置くと 先験的にはたらく純粋悟性という能力を想定してもよい・・・と人びとは考え受け容れるかも知れないと思ったかも。
★ そして、この究極の存在を前提にするならば、純粋悟性概念という能力が先験的に働くことが許されると考えたということですね。
☆ はい。どうも それっぽいのではないかと。
★ これによって、物が認識をうながすのではなく、人間の認識が物の存在を純粋認識し規定するという認識論の大転換を図ろうとしたのだと理解しました。
☆ はい。
★ しかし、私の考え方は、物自体という存在が人間の認識能力の前に存在すると考えるカントの立場に近いです。
☆ いや。物自体の存在そのものは 何にも先んじていると想定しているはずです。
★ 物自体が人間の認識能力によってうながされる存在であるという 考え方には異論があります。
☆ 《物が認識をうながすのではなく、人間の〔物自体におそらくカカハリのある純粋悟性なるハタラキによって得られる先験的な〕認識が物の存在を純粋認識し規定するという認識論の大転換》です。
No.12
- 回答日時:
カントは、純粋認識によって物自体が配置され、経験によって普通の概念認識を得るという概念を提唱しています。
また、物自体が先にあって純粋悟性概念がそれを認識するという考え方も正確ではありません。カントは、物自体を不可知として想定し、純粋悟性概念なる能力が先験的に働くことを主張しています。これは、物の存在ということについて究極のあり方を問題にするための方法であり、認識論的な大転換を図るものでした。順番を間違えましたが。
★ カントは、純粋認識によって物自体が配置され、
☆ いいえ。物自体は 初めから何ものにも先立って存在すると想定されています。
純粋認識のあと 対象たる物の存在が確定されて あとは:
★ 経験によって普通の概念認識を得るという
☆ ことです。下記の図解における③→④→⑤です。
★ また、物自体が先にあって純粋悟性概念がそれを認識するという考え方も正確ではありません。
☆ 《それ(=物自体)を》ではありません。一般の対象をです。
☆☆ (№5お礼欄)
《神と人たるわれとのカカハリ》についての図解――認識のアプリオリ性を採り入れたカント版――
--------《物自体》---
↓
【思考の緑野】理性:認識統一 ←⑤――悟性:知覚を認識④
↓ ↑
アプリオリにはたらく ↑
純粋悟性としての直観 ↑
↓② ↑
【感性の原野】感性:対象との出会い①・・・・・・③知覚
☆ ②の純粋認識は 悟性(純粋悟性)のハタラキですが そのハタラキを おそらく 物自体がうながしている。という仕組みを描いたのではないか。
次の見方について 説明を補助し得ればいいのですが。:
★ カントは、物自体を不可知として想定し、純粋悟性概念なる能力が先験的に働くことを主張しています。これは、物の存在ということについて究極のあり方を問題にするための方法であり、認識論的な大転換を図るものでした。
☆ 先験的というのは ③の知覚に先立って ②の純粋認識がはたらくことを言います。
No.11
- 回答日時:
★ 純粋概念が経験によって発展する可能性があると考えました。
☆ ここでいう「発展」とは、純粋概念が経験によってより具体的な概念に変容することを指しているのではないでしょうか。つまり、経験によって具体的な事象や対象を知ることで、純粋概念がより具体的な形をとることができる、ということです。
★ カントの哲学においては、純粋認識によって物自体が配置され、経験によって普通の概念認識を得るという概念が中心にあります。
☆ この点について、「でたらめ」と述べた理由が気になります。カントは、純粋概念が先行して物自体を配置するという考え方を提唱しています。これに対して、物自体が先にあって純粋悟性概念がそれを認識する、という考え方を支持する立場もありますが、カントはこのような見方を批判しています。この点について、どのようなご意見があるかお聞かせいただけますか。
★★ 純粋概念が経験によって発展する可能性があると考えました。
★ ここでいう「発展」とは、純粋概念が経験によってより具体的な概念に変容することを指しているのではないでしょうか。
☆ 違います。
《先験的な認識》が その認識にしたがってその物(対象)の存在を確定させるというのです。
その物にまつわる空間や時間といった形式を純粋認識し 物を視覚によって知覚し認識するより先に 物の存在を把握するというのです。
物が 人の主観にその物の知覚や認識をうながすのではなく 人の主観が――純粋悟性概念をとおして――まづ空間的にその物を純粋認識することによって 物の存在を確定させる。・・・
★ つまり、経験によって具体的な事象や対象を知ることで、純粋概念がより具体的な形をとることができる、ということです。
☆ 筋が違います。
★★ カントの哲学においては、純粋認識によって物自体が配置され、経験によって普通の概念認識を得るという概念が中心にあります。
★ この点について、「でたらめ」と述べた理由が気になります。
☆ すでにコペルニクス的転回の内容を 上記説明をふくめて 何度も説明しています。
★ カントは、純粋概念が先行して物自体を配置するという考え方を提唱しています。
☆ 聞いたことがありません。
★ これに対して、物自体が先にあって純粋悟性概念がそれを認識する、という考え方
☆ そうではなく 物自体が純粋悟性概念なるハタラキをうながすのだと理解しています。
カントは 形而上の・つまりは非経験(非知なるナゾ)の存在――つまりは 神――を哲学から排除しようとしました。
(留保する部分もありましたが)。
神を不問に付した代わりに 《不可知》と決めて想定した《物自体》を持ち出しました。これなら 物の存在ということについて 究極のあり方を問題にすることが出来ると踏んだのでしょう。
究極の存在(ないし 智慧のようなもの)を大前提にするなら 先験的に働く純粋悟性概念なる能力も あってよい。・・・と捉えたのでしょう。
これで 《物が認識をうながすのではなく 人間の認識が物の存在を純粋認識し規定する》というふうな認識論じょうの大転換を図ろうとしたのでしょう。
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