許せない心理テスト

カントは純粋理性批判で、人間の理性のみで形而上学の把握は不可能だと言っているのですか?

A 回答 (1件)

1. ややこしい主張内容だと考えます。



( a ) まづ おっしゃるようにおおむね:
★ 人間の理性のみで形而上学の把握は不可能だと言っている
☆ はずです。アンチノミーの説ですね。

( b ) ところが 微妙なかたちで形而上学的な存在であるような《物自体》を設定します。これは あたかも《神の知恵》のようなものと捉えると分かりやすい。

( c ) そうしてこの物自体を前提とするかぎりで 人間の知覚能力があたかも超自然なる神のごとく経験に先立って 世界なる対象〔との位置関係〕に優って主体的なその対象の認識(直観)を得ることが出来る と言う。

2. それによると こうなる。:

( d ) 純粋直観によるものごとの認識においては――たとえば世界が人間の感官を刺激してこれを知覚するというよりは――すでに時間や空間の認識がアプリオリに・つまりその経験事象に先立って人間の側(悟性)において成り立っているのだと主張する。

☆ 認識のコペルニクス的転回ということらしい。




3. わたしの考えでは 《神》の領域を想定するかたちを採って 次のように認識は成り立っていると見ます。

〇 《神と人たるわれとのカカハリ》についての図解 ~~~~~

超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
  ↓       ↑             ↓   ↓
______________________________
自然本性たるヒト: ↑             ↓   ↓
          ↑             ↓   ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
------------------------------
 [経験世界]                  ↓   ↓
【心/精神】:考える:思考の緑野:コギト:   直観  ↓   
【身/身体】:感じる:感性の原野:センススコムニス:ヤマシサ反応(恥)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《真理・生命→ヒラメキ→直観:思考》といったハタラキの順序です。
《道→良心→ヤマシサ反応(恥ぢ):感性》といった経路も 想定しています。

☆ そうして カントの認識論では 直観は 純粋悟性による純粋直観として ヒラメキから来るというよりは 《物自体》(おそらく ≒大いなる叡智)から来ているといったことではないかと見ます。


4. 図解するなら:

○ 認識のアプリオリ性とは? ~~~~~~~~~~~~~~~

------------------《物自体》-------
                    ↓
【思考の緑野】理性:認識を統一 ←⑤――悟性:知覚した物を概念認識④
                    ↓       ↑   
               アプリオリにはたらく    ↑
               純粋悟性としての直観    ↑
                     ↓②       ↑
【感性の原野】感性:対象との出会い①・・・・③知覚(視覚・聴覚 etc.)


☆ アプリオリ性は ②という順番が担っているのだと見ます。

そして 《物自体→悟性→純粋直観②》という経路の前ふたつは つねにハタラキを起こす態勢にあるということだと見ます。




5. 補遺です。

(あ) 《やましさ反応》は――動悸がはげしくなり顔が赤らむ反応は―― われわれ人間の思考や意志やあるいはそれらの意識のいかんにかかわらず そのような経験行為に先立ってすでに どこからか推進力がはたらいて起こる現象です。

(い) しばしばよからぬことを思ったり企んだりするときに起こる反応ですから おそらく《良心》によって起こされる《恥ぢ》という感覚や概念にかかわってはたらくものと考えられます。

(う) 良心は 天与のものです。それをめぐって思考することはありますが 人間が自分から持とうとして持ったものではないでしょう。ヒラメキという概念と現象も 同じくそうなのだと思われます。
(人びとの経験という情況証拠からの結論づけですが)。

(い) ヤマシサ反応がこのように先験的であると言う場合と カントの・認識についてのコペルニクス的転回説に言う純粋直観がアプリオリだという場合とは 同じではない。――と思われます。

(え) ただし 《物自体》が けっきょく神のチカラのことだとなれば 話は コペルニクス的転回が 元にもどります。非経験の場なる神の領域が復活するゆえ。


(お) [3]の図解の【 +α(霊我)】は あくまで 神の側からのハタラキカケによるものです。そのような想定です。ブッダター(仏性)と言いかえると 分かりやすい。


6. [4]の図解について説明をおぎないます。

(か) アプリオリ性とは 一方で《① 感性が対象と出会うという経験》を前提としつつ 他方で《③ 知覚そしてまた ④ その感覚内容を概念として認識するというふつうの悟性の経験》に先立っているという意味です。その意味で 《先験性》と言う。と見ます。

(き) ただし 考えてみれば 《① 感性が 対象と出会うこと(その時点)と そして ③ 《視覚等として捉える感覚の起こること(その時点)》とは 時間のへだたりはないとも見られる。同じことを言いかえているに過ぎないもののようだと。

(く) とすれば そのような①と③とのあいだの・時間的な隔たりのないところに 《② 純粋直観》がハタラキを起こす。ということは 《感性〔なる自然本性のハタラキ〕を超えて作用する》と言える。そう言わざるを得ないように思われる。

(け) つまり カントの言うアプリオリ性とは 先験性というよりは 超越論的であり 超自然性ないし超経験性だと見られる。もしそうだとすると あまり意味がないように思われる。


☆ つくづく ややこしいわいと付け加えつつ。お粗末でした。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す


おすすめ情報