dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

でカントとフーコーがやろうとしたことって何ですか?

A 回答 (1件)

全集も読み直さないでおおざっぱに回答します。


おもしろい問題意識だと思いました。

これまでふたつを並べて考えたことがなかったんだけど、そう言われてみると、両者にははっきりとした共通点がありますね。

つまり、フーコーが『狂気の歴史』でやろうとしたことは、「関係が発生する経緯」についての考察ですよね。
「関係」というのはあらかじめ存在するものではなく、共同体の中で発生し成長する。やがて制度となり、今度はその共同体の中で生きる個人を束縛し脅かすことになる。

注目しておきたいのは、わたしたちは一般に「狂気」か「正常か」という判定には客観的な基準があると思っています。確かにその基準は個人の主観に基づくものではありませんが、人を記述するおびただしい属性のなかで「どの属性判定を使用するか」というのは、共同体の志向性によってが決定されている、というフーコーの指摘です。

つまりソシュールの分節化の恣意性としてまとめることができます。
「Aというカテゴリ」と「非Aというカテゴリ」がある場合、カテゴリがある、というただそのことによって、わたしたちはあらゆるものを、属性判定によってAか非Aかに分類していく。けれども、そもそもそのカテゴリが存在すること、「Aか非Aか」という分節には論理的な根拠はない、として。

一方の「視霊者の夢」ですが、これは正確にいうと『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』です。このタイトルは非常に興味深いものです。
自称「視霊者」スウェーデンボリの「霊界見聞録」も夢だが、それを「解明」する説明理論さえも「形而上学の夢」であると言っている。

「……偽りの物語への軽率な信仰によってだまされるよりも、理性の似非根拠への盲目的な信頼によってだまされる方が、なぜまさにいっそう称揚すべきでもあると言うのであろうか」(坂部恵『カント』p.148より孫引き)

ここでは「理性」といわゆる「霊能力」というもののどちらが正しいかは言えない、ということが述べられています。ここからやがてカントは「理性の限界」を明らかにすることによって、逆に人間の理性の可能域を確定する方向に進んでいくのですが、それはここでは置いておきましょう。
ここで押さえておきたいのは、それぞれの属性を比較しても、Aと非Aのいずれかがほんとうに正しいと結論づける根拠にはならない、ということです。

> 「視霊者の夢」と「狂気の歴史」でカントとフーコーがやろうとしたことって何ですか?

「あるものを「正しい」とし、そうでないものを「誤っている」とすることに論理的な根拠はない」ということを明らかにしようとした、とまとめてみたらどうでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、ナイスサプライズ。
ghostbusterさんには原稿料をお渡ししたいぐらいです(笑)。

視霊者の夢は坂部さんがたいへん重要視しているので以前から注文しようと思っていたのですが、その前におそらく回答を寄せてくれるにちがいないであろうghostbusterさんにお尋ねしてみました(笑)。

予想していた通りです。
たいへん参考になりました。

お礼日時:2009/12/27 15:39

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!