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No.1ベストアンサー
- 回答日時:
懐疑の行き着いた先の言葉です。
まず「疑う」という作業があったわけです。
たとえば、ふだんわれわれは、自分が人間で、
地球に住んでいて、社会生活を営んでいると考えている。
でも、人間だと思っているのは感覚器官の錯覚で、
ほんとは手足が何本もある怪物かもしれない。
地球に住んでるかどうかもわからない。
身の回りにいろいろなモノがあるけれど、
これだってキツネがばかしている幻かもしれない。
ほんとは存在していないかもしれない。
そんなバカな、とも思うかもしれないけれど、
一度そう思ってしまうと、「そうでない」という証拠は
得られないことに気づきます。
そんな中で何が確実か。
いろいろ疑っていっても、一つだけ疑うことが不可能なもの。
すなわち、「考えている私は存在する」ということは疑い得ないのです。
仮に私が「私は存在しない」と考えても、
そう考える私がいる限り矛盾です。
ゆえに考える私自身は存在するのです。
No.9
- 回答日時:
これだけ大勢の方が回答されていながら(No.4でd-yさんが非の打ち所のない回答をされてます!)、ここで敢えて回答を付け加えるのは、僕がただ流行に乗り遅れた馬鹿である、というだけでなく、No.2で回答されているSingolloさんに、「もうちょっとやさしく」と甘えてみせるsuperspeedさんがかわゆらしいからという理由もあります。
そんなわけで腐り物ひとつ受け取ってやってください。え~、まず質問。superspeedさんは、「自分(つまり「わたし」)が存在する」ということを、僕に説明できますか?
デカルトが「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という言葉で伝えたかったのは、つまるところそういうことです。「わたしは存在する」ということを伝えるために(あるいはそう宣言するために)、彼はどうしたらいいか考えました。そしてあるとき思い至ったのが、わたしはいま考えている、ということの確かさでした。
どうですか? superspeedさんがここに書かれている回答を読んで、その意味を頭の中で消化している、ということは、確かなことじゃないですか? そのことからデカルトは、この考えている(読んで意味を消化しようとしている)わたし(ここではsuperspeedさん)が存在するということは確かなことだ、と結論しました。
だってそうでしょう? 考えているわたしが存在するということを疑ってしまったら、考えることができるあらゆるものごと(物事)がまったく確かなことではなくなってしまう! というわけです。デカルトにとってそう考えることがなぜ重要だったか、ということについては、下記No.7の回答でi536さんが答えてらっしゃるように、彼には考えなければならないことがいっぱいあったんですね(頭の良い人は大変ですね)。
No.8
- 回答日時:
こんにちは。
簡単に説明する事は無理です(T_T)
「私は考える~~~」の理解は他の回答者の方々の通りですので、余談をひとつ。
デカルトによれば世界は「精神」と「物体」という“別々の2つ”のものしかありません(オマケとして「神」の存在も)。で、「あれこれ考えている自分は間違いなくココにいるゾ!」と直感的に確信したのですが、ん?
「私は考える(=精神)、だから私は存在する(=物体)」
のならば、精神と物体は別々じゃないじゃん!とデカルトの言葉を聞いたコチラは疑念を持ってしまいます。
論理的に正しくするならば
「私は考える、だから私の“考え”は存在する」
となるべきところを、デカルトともあろうものが「身体=物体」と「考え=精神」を一緒にしてしまいました。デカルトはその矛盾に気付きません。
ちなみに、「私は考える~~~」は元々はフランス語で「Je pense, donc je suis = ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スイ」と書かれました。
「コギト~~~」はラテン語訳されたものです。
No.7
- 回答日時:
デカルトはあまりにも偉大すぎてわたしの理解を超えていますが、
ひそみにならって、私見を書いてみます。
デカルトは学校を終えた時点ですでに当時のほぼ全学問の第一線にいたひとです。
彼は多くの学問のなかで数学が演繹法のゆえにもっとも確実堅固なものとしたようです。
ユークリッド幾何学の優れた点は厳選した数個の公理からあらゆるユークリッド幾何学の定理を演繹することです。公理も定理も真理ですが、定理より公理のほうが根本的です。
デカルトは、ユークリッド幾何学の演繹法を使えば、あらゆる学問の真理は、幾何学の公理に相当する根本的なものと、幾何学の定理に相当する派生的なものとに分けられて、階層化・体系化できることに気付きます。
そこであらゆる学問の公理となるものはなんだろうか?
とデカルトは考えます。
そして到達した唯一の、公理に相当する真理が、ご質問の、
『われ思う、ゆえに我あり』(cogito ergo sum. コギト・エルゴ・スム)でした。
デカルトの凄いところは、こうして獲得した公理『われ思う、ゆえに我あり』から、ユークリッドの定理の証明同様、あらゆる分野の真理を演繹して到達できない真理が無いことまで確認しようとすることです。
『われ思う、ゆえに我あり』のたった一文は彼が構築した真理の体系全体を支えている要です。逆に彼が構築した体系はこの一文に凝縮されています。
したがって、デカルトの場合、『われ思う、ゆえに我あり』は、
単純に『われ思う、ゆえに我あり』ではありません。
彼は疑い深かったというよりも、真理を求める気持ちがあまりにも桁外れだったため、微かでも疑いがあるものは根本の公理部分に相当する真理としなかっただけです。
詳しくは『方法序説』を読んで自身で体得されるのが確実です。
あと『精神指導の規則』も人間の知性を闇から光に導く本だと思います。
No.6
- 回答日時:
回答も出てますので参考程度に。
考えている自分がいる。それが本当の私であるという意味かと思います。では偽者の自分というのがいるのですね。偽者の自分というのは肉体を通して見る、あるいは見られる自分ということでしょうかね。
写真や鏡で見る自分は年とともに老いて生きますね。同じ姿ではいられない。変化し続けているわけですからこれが本当の自分とはいえないですね。そういう自分は本当の自分ではない。と考えますと、生まれて以来ずっと、死ぬまであるいは肉体が死んでからも考える自分が存在する。それが私というものなのだということですね。だから、デカルトは死んだら何にもなくなるという唯物的思想ではないですね。肉体は老朽化するロボットとの様なもので、それを運転する心こそが自分であるという考え方ですね。心が自分に他ならないという仏教的な無我の思想に近いものですね。
No.4
- 回答日時:
昔聞いた話で、うろ覚えですが…
デカルトという人は、心配性だったのか、ある時世の中の全てのことを疑うようになりました。それがだんだんエスカレートして、最後には「この世の中にはいろんなものがあるように見えるけど、全部まぼろしで、本当はなんにもないんじゃないだろうか」という妄想に取り付かれました。そうなると、何が何だかわかりません。色々考えてみるのですが、世の中に確実に存在しているといえるものが見つからないのです。
ところがある日、パッとひらめきました。「こうしていろんなことを考えている「ぼく」っていうのは、確実に存在するんじゃないだろうか。だって「ぼく」がなかったら、こうしていろいろ考えることもできないはずだもの。ぼくはこうしていろんなことを考えてるよ。だから、ぼくは確実に存在するっていえるよね。」
こうして、確実な存在(=真理)を発見したデカルトは、それから偉い哲学者としてゆうめいになりました。
こんな話じゃなかったでしょうか?ちがうかな。
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No.3
- 回答日時:
簡単に言いますと、神様はこの世の中に本当に存在するのか、という哲学的な問いに答えるため、デカルトはいろいろな常識を疑ってみるということをやってみました。
たとえば目の前のリンゴは、目の前にリンゴが本当にあるのではなく、リンゴのかたちをした視覚情報が脳に伝わっているだけだ。もしそうなら、脳に同じ電気信号を与えるとリンゴがなくてもリンゴが見えるはず。ということは、目の前のリンゴが本当に存在するかどうかは、誰も証明できない。というすごい結論を導き出しました。
でもデカルトには、疑ってもどうしても疑えないことが一つありました。それは「いろいろなことを疑ってみようと考える自分の存在」です。どんなに疑っても、考えている自分の存在は、確かにいる。世の中、存在が証明できるには、「考えているという自分という存在」だけだ。と考えたそうです。
と言うわけで、デカルトの哲学はここからいろいろ発展するのですが、「我思う故に我あり」は、「私は疑いようもなく確かに考えている、つまり私は確かに存在するのだ!」という意味になりますね。
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