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カントはデカルトのコギトが実体概念であることを否定しましたが、この実体概念であるコギトとは、自己意識のことなのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • ここでの自己意識とは、前反省的自己意識のことです。

      補足日時:2017/10/09 15:02
  • lupan334さんへ

    前反省的自己意識とは、自己自身はそのことに対して意識はしていないものの、意識が自己を指向しているという状態を指します。

    それに対してカントのコギトとは、 表象や直観だけではなく様々なサブリミナルな構成要素の複合体 、あるいは主観的な「自己意識」だけではなく(外界の事物に対する)客観的な「対象意識」をも含む「意識作用」全体を秩序づけ統一する「機能」を指します。

    前反省的自己意識は、意識が自己を志向していると言われている様に、それ自身が自覚されているものです。対してそれら意識全体を「形式」として支えるコギト、超越論的統覚は自覚されえないものであり、全くの別物です。

      補足日時:2017/10/09 18:10
  • lupan334さんへ

    カントによれば、対象の成立には、直観の多様を起点として、覚知の総合、再現の総合、再認識の総合など、さまざまの段階における総合が必要である。そうした諸総合の根源に「われ思う」Ich denkeという意識の基本的同一性が前提されねばならない、として、これを先験的統覚transzendentale Apperzeptionあるいは純粋統覚reine Apperzeptionと名づけた。
    【コトバンクより】

    コギト「われ思う」とは純粋理性のことであり、超越論的統覚でもあるという事です。

    ですので、カントのコギトと前反省的自己意識は全くの別物です。

      補足日時:2017/10/10 17:53

A 回答 (5件)

補足ありがとうございます。


その補足のとおりならば、最初から質問は不要でしょう。
答えがわかっているなら、何故質問されるのでしょうか?
そのように捉えられているならば、今までの回答はすべて無駄ですから、忘れてください。
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補足です。


補足に書かれている「表象や直観だけではなく様々なサブリミナルな構成要素の複合体 、あるいは主観的な「自己意識」だけではなく(外界の事物に対する)客観的な「対象意識」をも含む「意識作用」全体を秩序づけ統一する「機能」を指します。」は、純粋理性そのものですが、コギトは純粋理性そのものなのですか?
純粋理性には、超越論的(先験的)統覚が含まれますが、カントは何故、超越論的(先験的)統覚にコギトが必ず伴うと記載したのでしょうか?(コギトには、超越論的(先験的)統覚が含まれるんですよね?)
そのような解釈ならば、カントは、簡単にコギトは超越論的(先験的)統覚を含むと書けばよかっただけですよね?
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補足ありがとうございます。


前反省的自己意識とは、単純に言えば、「私が考える」と言う意識の事ですよね?(違う意味で使っていますか?)
つまり、ある対象の事を考えていても、それを考える私がいると言う事が同時に存在するのが、前反省的自己意識の事だと思いますが、違いますか?
カントの言う、コギトとは、どこが違いますか?(コギトとは、「私が考える」と言う意味です)
カントは、超越的(先験的)統覚が対象を志向する時に、コギトが必ず伴っていると述べています。
つまり、対象の志向性には、常にコギトが伴っていると言う事ですが、これは前反省的自己意識とは、何が違いますか?
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まず、カントは「デカルトのコギト→Cogito elgo sum」の論理を批判しただけで、コギトが存在しないとは、書いていませんよ。


これは、形式的な問題で、コギトの存在を前提する事により、私の存在を証明する事は、コギトが存在する事が証明されていなければいけないからです。
カントは、私が存在する事と、コギトが存在する事は同義であり、コギトには、「私の存在」が含まれていると述べています。
カントにおいては、コギトは前反省的自己意識です。(カントにおいては、超越論的(先験的)統覚には、常にコギトが伴うからです)
サルトルは、現象学の立場から、これを批判しています。
質問は、カントがどう考えたかですよね?
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cunt

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