痔になりやすい生活習慣とは?

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考
   する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。

 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。

 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。


 デカルトのコギトに独自性はあるのか?

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A 回答 (6件)

『省察』の「省察二」には


~~~~~~~
しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291 …
~~~~~~~
と書かれています。
であるから、「われ有り」は前提からの帰結である、と考えざるを得ない。
また、このことは
「どうして私が存在しなくて、私が思うことがあろうか、と言っています。」とデカルトが言っているのであろうば、
これは
「私が思うならばわれ有り」
の対偶であり、「われ思う。故にわれ有り」であることの証。

で、たとえ、「われ思う」と「われ有り」が(論理として)同値であったとしても、
~~~~~~
では、「われ思う、われあり」とはいったい何のことなのか?
それは「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すいれば「思考=存在」と言ったことになります。
~~~~~~
は成立しない。
たとえば、
 2は整数である。 2は偶数である。
から、
「整数(である)」=「偶数(である)」
とはならないのと同じこと。
「われ思う、われあり」であることから言えるのは、
「われ思う」と「われ有り」の真偽が一致すること。
このことから、「思う」と「有り」という述語(関数)が一致することは言えない。

なぜ、デカルトが命題というわざわざ言葉を使っているのだろうか。
なぜ、幾何学や論証という言葉を使っているのであろうか。
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この回答へのお礼

 うわあ。論理〔つまりおそらく数学〕は こういうふうに応答するんですね。


 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 なるほど。なるへそ。(ホドをホゾと読んで ヘソのことになる。もっとも ヘソをヘゾと濁れば ほとんとホゾである)。


 いやぁ 明解至極。

 わたしなんか それはあり得ない。思考しえない内容である。事実としても論理としてもあり得ないと感じたなら そのままを言い表わす。





  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 「どうして私が存在しなくて、私が思うことがあろうか、と言っています。」とデカルトが言っているのであろう〔なら〕ば、
 これは
 「私が思うならばわれ有り」
 の対偶であり、「われ思う。故にわれ有り」であることの証。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《対偶》なんて むろん知ってはいるけれど 対話の議論にはまづ用いないですもんね。(そういう思考回路が 形作られ切っていない。形作ろうと思っていない。気にしていない)。




 ◇ 『省察』の「省察二」には
 ☆ の引用文で《欺かれる・欺かれない》の論議はこれも アウグスティヌスの『神の国』での議論とまったく同じですね。焼き直しです。つまり パクリです。

 アウグスティヌスを参考にしたとか せめてことわっていれば まだかわいいものを。


 また このことは――デカルトがアウグスティヌスを参考にしたということは―― 広く周知されるようになって当然のことだと考えられます。これまで 隠されていたのではなかったとしても 知られていなかったことは やはりそれとしてゆゆしきことであるように思われます。







 あとは
 ■ 「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すれば「思考=存在」
 ☆ こういう命題があり得るか? ということを思うにつけても ヘンですね。

 仮りに試みれば 次のようなのでしょうか。

 ○ 《思考=存在》の証明 ~~~~~~

 存在は 身と心とである。
 心で思考する。
 この心は おもに神経組織でもある。つまり 心は身と一体である。
 よって 心なる思考は 身と心とから成る存在である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これは 思考と存在とがつながっていると言ったことになり そうにしかならない。ヒトなる存在は 思考する生物であると。(あれっ。パスカルに行っちゃった)。

お礼日時:2014/11/11 09:40

またまた「面倒な議論」を定義も無く使っている。


それに引用部分を「自分の言葉に置き換えていない」最悪だ。

理系に言わせればデカルトのコギトは、
「自我の存在を否定すると自己撞着に陥るから、自我の存在は否定できない」
になっちゃう。
当たり前の事だ。そして正しい。
この上に「人文」を載せることは出来ない。
「人文」は不条理で「自己撞着を認める」からだ。
「自然科学や数学的理論」ならいくらでも載る。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 それではデカルトが 『省察』で次のように述べていることを アウグスティヌスの文章とくらべてみてください。

 ◇ (回答No.5) ~~~~~~~~~~~~~~~
 『省察』の「省察二」には
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291 …
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書かれています。

 ☆☆(No.2お礼欄 アウグスティヌスの《われあり》)~~~~~
  これらの真なる実在〔* 三つの実在(存在すること・存在するという知識・存在とその知識とへの愛)〕に関して わたしはアカデミア派の議論を少しも恐れない。彼らは言う 《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。

 それゆえ わたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのであるから どうしてわたしが存在するというそのことについて欺かれるだろうか。

 (アウグスティヌス:神の国 Bk.XI ch.26 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 説明書きは要らないと思います。

お礼日時:2014/11/12 09:37

デカルトが「方法叙説」で、「われ思う、ゆえにわれあり」と言った時、友人であるメルセンヌ神父から、「ゆえに」と言ったら、推論と間違えられるんじゃないかと指摘され、次の「省察」という著作では「ゆえに」を削除し、「われ思う、われあり」と書き直しました。


そしてデカルトは「省察」に付け加えられた「反論と答弁」の第2答弁の中で、「誰かが、われ思う、ゆえにわれあり、を三段論法の推論と考えるのは間違いで、私はそれを推論ではなく、直観によって知るのである。そしてそれを言うにはあらかじめ私の存在を前提にしなければならない」、と言っています。

ということは「われ思う、ゆえにわれあり」は、私が思うから私が存在するということを言ったものではない、ということが分かります。
デカルトは「哲学の原理」で、私が考えるのに私が存在しないなんてありえないのは自明ではないか、どうして私が存在しなくて、私が思うことがあろうか、と言っています。

こうしたことを総合するとデカルトにとって私が存在することは自明であって、そんなことを証明するために「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのではないということになります。
そんなことは自明であって、改めて証明するまでもない。

では、「われ思う、われあり」とはいったい何のことなのか?
それは「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すいれば「思考=存在」と言ったことになります。
思考は存在に一致する、しかも先天的に、ア・プリオリに一致する、というデカルトの真理観を言ったものでした。

古代ギリシャより、真理と言えばそれはアリストテレスのいうように「思考と存在の一致」です。
つまり思考が存在に対応しているという真理の対応理論です。
この真理の対応理論は近代のフランク・ラムジーの真理の剰余説、そしてタルスキの真理論にも継承されています。
たとえば次のような命題です。
「雪が白い、という命題が正しいのはその命題の指示する雪が白い場合に限り、その場合は真と言われ、またその命題の指示する雪が白くないときは偽である」と。
ラムジーによれば「雪が白いは、雪が白いときに限って真である」という命題は余剰なのであって、単に「雪が白い」と言えば済むのだ、と言います。
というのは誰かが「雪が白い」と言った時はそれが真であることを同時に表明しているからである、と。

アリストテレスに言わせれば、思考が存在に一致するためには、それを経験によって確かめなければならないとされました。
それに対してデカルトのいうのは私の思考は先天的に、経験によってそれを確かめなくても、存在に一致することは明証的である、と言ったことになります。
なぜならば神が世界や人間を創造したのであり、その神が人間を欺くことはあってはならないからです。
そして神は人間に「生得観念」として理性を与えたのであり、理性による認識は明晰かつ判明に正しいのです。

このようにデカルトの「われ思う、われあり」は私の存在が思考にあると言ったものではなく、また私が思考するから私が存在することを証明したものでもなく、私の思考が存在に一致する、しかも経験を必要とせずに文句なく先天的に、ア・プリオリに一致するということを明らかにしたものでした。

デカルトはご存じのように哲学者である前に数学者であり、自然学者でした。
17世紀の「科学革命」と言われる天文学・自然観の革命の、コペルニクス・ケプラー・ガリレオ・ニュートンに並ぶ、革命の立役者の一人でした。
17世紀の「科学革命」は古代ギリシャのアリストテレスの「自然学」とその運動論、そしてアリストテレス・プトレマイオスの天体観をひっくり返すことが最大の目標でした。
そしてガリレオが「贋金鑑札官」の中で「神の作った自然という書物は数学の言語によって書かれている」と言ったように、数学を用いて自然の解明を目指したものでした。
デカルトは自然界から心とか魂という質的なものを排除し、自然を「ひろがり」を本質とする空間的・量的なものに還元し、自ら創始した解析幾何学を適用して自然を数学的・合理的なものとして解明してゆきました。
アリストテレスの「自然学」の運動論は観察の事実に基づき、自然の仕組みをよく説明するものでしたので、2000年に渡ってそれが正しいものと信じられ、誰も疑う人はいませんでした。
それを根底からひっくり返したのがデカルトです。
アリストテレスは言います、
「物体は静止しているのが正常であり、運動するのは例外である。物体は強制力なしには運動しない。そしてすべての物体にはそのあるべきトポス・場所があり、投擲された物体はその物体のあるべきトポスに至って静止する」と。
たしかに私たちの身の回りを見れば物体はたいてい静止していますから、アリストテレスのいうのはもっともです。観察の事実と一致しています。
ところがこれに対してデカルトは言います、
「物体は運動しているのが正常である。静止は例外である。運動する物体はそれを妨げるものがなければ、どこまでも速度を落とすことなく、直線的に運動を続ける」と。
こうしてデカルトは「慣性の法則」を発見しました。
しかも実験によってではなく数学によって。

デカルトの「コギト」は、それから世界が開けてくる視点とか起点のようなものでした。
数学でいえば「特異点」のようなものです。
混沌とした世界に視点・起点がすえられることで世界は数学的に整合的に考えることができるようになります。
その始点である「コギト」を発見したことはデカルトの最大の功績でした。
これはフッサールでいえば、超越論的主観性に相当します。
世界を超越した超越論的主観性が存在することで、世界は統一あるモノとして私たちに映じます。

ところがデカルトはせっかく世界を超越した超越論的主観性である「コギト」を発見しておきながら、それを「私とは、ただ考えるモノ以外の何ものでもない」といって、cogitoをres cogitansと同一視してしまいました。
「コギト」から「コギタンス」へです。
そこからデカルトは「コギタンス」を自我と考え、「自我の形而上学」を展開することになりました。
自分がせっかく発見した「コギト」の意義をみずから「隠ぺい」してしまったというべきです。
これは大いなる間違いでした。

デカルト以降の近代哲学は、このデカルトの間違いを引き継いで、自我が存在する、私という主体が存在するという哲学として展開し、あたかも自我が存在することが自明であるかのように思われて行きました。
それは20世紀の後半のポスト・モダンで自我の存在が否定されるのを待つほかなかったのです。
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この回答へのお礼

 ★ デカルトは「哲学の原理」で、私が考えるのに私が存在しないなんてありえないのは自明ではないか、どうして私が存在しなくて、私が思うことがあろうか、と言っています。
 ☆ でしたら アウグスティヌスの《われあやまつなら われあり》(No.2お礼欄における『神の国』からの引用を参照ください)のまるっきり焼き直しであるとしっかりとこたわらなければいけません。ですよね。


 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 パスカルからの援軍をもことわって まるっきりのパクリでありますと白状しなくてはいけません。そうではないですか?
 しかも その後の哲学者や研究者は 誤解のないようにやはりしっかりと アウグスティヌスが先行者であると世界に明らかにして伝えなくてはなりません。ところが世界は どだい間違っています。
 
 ★ ということは「われ思う、ゆえにわれあり」は、私が思うから私が存在するということを言ったものではない、ということが分かります。
 ☆ とは受け取られていません。思考ないし理性ゆえに存在すると世間では 言ったと思っています。


 でももし存在を前提としているというのならば
 ★ 「ゆえに」を削除し、「われ思う、われあり」と書き直しました。
 ☆ というかたちだけでは まづダメでしょうね。《思う》と《ある》とが けっきょくくっついています。しかももし《存在があって 思うがあって ある》というのなら 《存在はある》とか《あるはある》と言っているに過ぎません。よくよくデカルトの――思いもよらなかったことであったとしても――罪は重い。でしょうね。




 そのあとのご議論を見て唖然としました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では、「われ思う、われあり」とはいったい何のことなのか?
 それは「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すいれば「思考=存在」と言ったことになります。
 思考は存在に一致する、しかも先天的に、ア・プリオリに一致する、というデカルトの真理観を言ったものでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっ? えっ? えっ? えっ? えっ? えっ? えっ? えっ?
 



 ★ ラムジーによれば「雪が白いは、雪が白いときに限って真である」という命題は余剰なのであって、単に「雪が白い」と言えば済むのだ、と言います。
 ☆ これは どうしてこの事象をタトエとしたのかよく分かりません。

 《雪》という自然現象がある。そしてそのモノの色はと問えば 《白い》という言葉を用いて表わす。
 これだけのことです。別に命題とすることも それが真であると言ったりすることも ないのです。

 《雪は雪だ》と言っているだけの文であるに過ぎません。タトエがまづいでしょう。




 ★ アリストテレスに言わせれば、思考が存在に一致するためには、それを経験によって確かめなければならないとされました。
 ☆ こんなことは聞いたことがありません。

  ○ 思考=存在

 というんですか? せいぜい《思考する存在》という含みを持たせて《思考》と言っている場合に限るのでしょう。聞いたことがありません。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それに対してデカルトのいうのは私の思考は先天的に、経験によってそれを確かめなくても、存在に一致することは明証的である、と言ったことになります。
 なぜならば神が世界や人間を創造したのであり、その神が人間を欺くことはあってはならないからです。
 そして神は人間に「生得観念」として理性を与えたのであり、理性による認識は明晰かつ判明に正しいのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あり得ません。気が触れているとしか思えません。神にしてもこの場合は 自分が・人間が勝手にそのようにこしらえただけの観念の産物であるに過ぎません。神でも何でもありません。めちゃくちゃです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このようにデカルトの「われ思う、われあり」は私の存在が思考にあると言ったものではなく、また私が思考するから私が存在することを証明したものでもなく、私の思考が存在に一致する、しかも経験を必要とせずに文句なく先天的に、ア・プリオリに一致するということを明らかにしたものでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんなことは インチキ宗教でもあまり言いません。オカルトです。




 ★ 世界を超越した超越論的主観性が存在することで、世界は統一あるモノとして私たちに映じます。
 ☆ あり得ません。アルケー教とおんなじです。宇宙の法則だそうです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「私とは、ただ考えるモノ以外の何ものでもない」といって、cogitoをres cogitansと同一視してしまいました。
 「コギト」から「コギタンス」へです。
 そこからデカルトは「コギタンス」を自我と考え、「自我の形而上学」を展開することになりました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どちらであっても 《思考=存在》ということではないのですか? 冗談ぢゃありません。




 ★ それは20世紀の後半のポスト・モダンで自我の存在が否定されるのを待つほかなかったのです。
 ☆ 《思考=存在》などということを言わなければ 《ひとは 考えることをおこなう》存在です。思考やもろもろの行為の主体であり得ます。

 めちゃくちゃ捻じ曲がっていますね。デカルトから構造主義またポスト構造主義までの西欧の哲学の歴史は――デカルトに毒されているかぎりと範囲では――要らないみたいです。

 

お礼日時:2014/11/10 22:10

論理の方からですと


 「われは存在する。かつ、われはあやまつ」ならば「われは存在する」
という含意・内包、あるいは、
 「われは存在する。かつ、われはあやまつ」ならば「あやまつ《われ》は存在する」
という言い換えになってしまうので、
別な方向からのアプローチをしてみます。

《われ あやまつ》を感性(的気付き)または直観と考え、
《われ 有り》を理性や悟性的判断や推論とするならば、
《われ あやまつ》は、後の《われ 有り》の根拠になるのでしょうね。
感性は善悪の根拠ですから。

まぁ、感性にも色々な定義があって、感性を悟性や理性より劣位のものとする考え方もありますけれど、
~~~~~~
感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力と言える。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、例えば何らかの音楽に違和感を覚えるように人間に作用することもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%80%A7
~~~~~~
といった、感性により積極的な意味を見出すのならばです。


でです、
《(われに)「やましさ」(反応) 有り。ゆえに、われ 有り》の方が、アウグスティヌスの定義よりもいいのかもしれない。
《あやまつ》の定義にもよるのでしょうが、
動物も《あやまつ》ことがありそうなので、アウグスティヌスの定義に従えば、動物にも《われ》を認めなければならなくなってしまいます。


デカルトの「われ 考える。 ゆえに われ 有り」は、このふたつの《われ》はどちらも理性的な《われ》であって、含意なので、面白くない!!
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この回答へのお礼

 ◇ デカルトの「われ 考える。 ゆえに われ 有り」は、このふたつの《われ》はどちらも理性的な《われ》であって、含意なので、面白くない!!
 ☆ そうでしょう。そうでしょう。そのはずです。確かにそのはずです。《考える》と言うからには どうしても分析的・部分観的になるかと考えます。


 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 アウグスティヌスのほうですが わたしは 論理学は知りません。論理の実際には うるさいほうだと思っていますが 三段論法から何から そういうふうな原則などを意識して使ったことも論じたこともありません。


 まづ
 ◇ 動物も《あやまつ》ことがありそうなので、アウグスティヌスの定義に従えば、動物にも《われ》を認めなければならなくなってしまいます。
 ☆ これはですね。つねに一生涯をつうじて言葉をしゃべることはないですから だいじょうぶだと思います。




 ◇ でです、 / 《(われに)「やましさ」(反応) 有り。ゆえに、われ 有り》の方が、アウグスティヌスの定義よりもいいのかもしれない。
 ☆ たぶんですが たぶん これは 主観の問題なのでしょう。主観が主観として有効なかぎりで そういった命題になるのかも知れません。

 問題は 《神の国》からの引用にあったと思うのですが :
 ▲▲(No.2お礼欄) (アウグスティヌス:あやまつなら われあり) ~~~~~
 アカデミア派・・・は言う 《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。

 それゆえ わたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのであるから どうしてわたしが存在するというそのことについて欺かれるだろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように相手との関係において 議論をすすめています。間主観性というのでしょうか。要するに社会という基礎ですね。

 という意味では この《あやまつ・あざむかれる・だまされる》という事態のほうが 確かであるようには思います。

 そしてその場合の主観内面としては 《あやまちや欺かれに気づき われに還る》という立ち還りなる動態があるはずです。一般性を持つとも考えられますから。


 英文の参考サイトが見つかりました。デカルトのコギトについての先行形態だとも言っているようです。:

 ▼(Medieval Philosophy) ~~~~~~~~
  http://www.philosophypages.com/hy/3b.htm

 § Augustine: Christian Platonism

 Thus, for example, Augustine simply rejected the epistemological criticisms mounted by the Academic skeptics.

 Even if it were true that I am mistaken about nearly everything that I suppose to be true, he argued, one inescapable truth will remain: "Si fallor, sum" ("If I am mistaken, I exist").

  [This doctrine is an interesting anticipation of Descartes's later attempt to establish knowledge on the phrase "Cogito ergo sum".]

 Upon this foundation, Augustine believed it possible to employ human faculties of sense and reason effectively in the pursuit of substantive knowledge of the world.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/11/10 19:08

公理として考えると、


《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》
は、まずいですよね。
というのは、
《われ あやまたず》の場合、《われ有り》かどうかの判断が出来ないから。
公理としては欠陥があると言わざるを得ないですね。

もっとも、《われは 常にあやまつ》や《すべてのわれ あやまつ》を前提としているのならば、話は違ったものとなりますが、
「常にあやまつ《われ》」は宗教的自覚の《われ》としては認めることできるとしても、哲学的にはこの前提条件は認めることが出来ない。

特に、これはキリスト教に関する内容でしょうから、
「われ(神)はあやまたない」でしょう。
したがって、
「われ(神)は有り」
が帰結できなくなってしまう。
宗教的には、これは由々しき事態になってしまうでしょう。
もっとも「現象界に神は存在しない」としたり、神を例外扱いすれば、この点はクリアー出来るのでしょうがね。

《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》は、「考えるわれ」ですから、いくらかは哲学的ですよ。
聖書で記述される神さまも考える神さまでしょうし。

まぁ、公理や原理として考えると、
 《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》

 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》
も結論(われ有り)を条件(われ ○○するならば)に入れており、欠陥があるのでしょうけれど。
こうした欠陥を回避するためには、
前者は「あやまつわれ 有り」、後者は「考えるわれ 有り」と考えざるを得ないのでしょうね。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 というのは、
 《われ あやまたず》の場合、《われ有り》かどうかの判断が出来ないから。
 公理としては欠陥があると言わざるを得ないですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっと。そういうもんなんですか 公理は?

 ううーむ。でも 経験則では誰でもが《あやまつ》ということがありますよね。それだけでは 不十分ですか?




 次にその議論がありました。
 ◇ もっとも、《われは 常にあやまつ》や《すべてのわれ あやまつ》を前提としているのならば、話は違ったものとなりますが、
 ☆ ええ。この場合を前提します。

 ◇ 「常にあやまつ《われ》」は宗教的自覚の《われ》としては認めることできるとしても、哲学的にはこの前提条件は認めることが出来ない。
 ☆ ん? この場合の《宗教的自覚》と《哲学的に》との違いは?



 ◇ 特に、これはキリスト教に関する内容でしょうから、 / 「われ(神)はあやまたない」でしょう。
 ☆ ううーむ。そうなるんですかねぇ。あとで アウグスティヌスの文章を見つけて引いてみます。


 ◇ したがって、/ 「われ(神)は有り」 / が帰結できなくなってしまう。
 ☆ いえ。これは ありません。神にかぎって 有る無しは超えているからには 存在の宣言をしなければならなくなることはありません。


 ◇ もっとも「現象界に神は存在しない」としたり、神を例外扱いすれば、この点はクリアー出来るのでしょうがね。 
 ☆ 現象界ないし経験世界には 神は目に見えない。と同時に その世界を超えているからには 想定およびそこからの推論として 遍在するとなります。つまりは 霊としてです。アートマン。ブッダター。プシュケー。アニマ。ルーアハ。プネウマ。スピリトゥス。・・・




 ◇ 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》は、「考えるわれ」ですから、いくらかは哲学的ですよ。
 ☆ いえ。デカルト批判の問題は ひとつにその《われなる存在》が 《考える》によるなら 全人格的ではなくおおむね理性によっており 理性を取り上げているのは 全体観ではなく部分観によっている。というところです。

 《あやまつ》われに気づくことは 全人的であり なぜ間違ったかを考える理性をもふくみますが やはりこの気づき(さとり)は 存在の全体観に立ちます。このように批判しています。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・結論(われ有り)を条件(われ ○○するならば)に入れており、欠陥があるのでしょうけれど。
 こうした欠陥を回避するためには、
 前者は「あやまつわれ 有り」、後者は「考えるわれ 有り」と考えざるを得ないのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《「考えるわれ 有り」と考えざるを得ない》ことは 《考えるわれ》と言えば ひと・存在・われなる人格の全体観に立てていない。と言えると確認してもらったわけですよね。

 《「あやまつわれ 有り」》は 《あやまつなら( If I err, )われあり( I am. )》と言っているからには 条件の内容において《あやまったと気づくわれ》がいると言えるはずです。言わねばなりません。かならず そうなります。

 すなわち《マチガイをみとめるわれ》は――たとえそのあとただちに やはりマチガイの路線にふたたび戻ってしまうとしても―― その《気づき》の瞬間においては 《われに還っている》わけです。これは さとり(目覚め)であるはずなのです。知識の問題ではなく あるいは気持ちがすっきりしたという心の状態だけの問題でもない。境地の問題です。すなわち 《われ存在す》の問題です。

 
 と証明できると考えますが いかがでしょう。


       *

 神について触れているくだりをも含めて引きましょう。

 ▲ (アウグスティヌス:あやまつなら われあり) ~~~~~~~
 わたしたちはたしかに わたしたち自身の中に神の似像(にすがた:イマゴ・デイ) すなわちかの至高の三位一体の似像があることを知る。それは神の造ったものの中で神にもっとも近いものである。

 それはむろん神と等しくなく それどころかはるか遠く離れて 神と等しく永遠であるのではない。要約して言えば神と同じ実体ではない。けれども それが更新されて完成を目指すとき いっそう神に似るものとなるのである。

 すなわち わたしたちは存在し その存在を知り かつその存在とその知識とを愛する。わたしたちはここにあげた三つの実在(存在・知識・愛)に関して 真理の仮面をかぶった虚偽によって惑わされることはない。なぜなら わたしたちはこれらを外界のもののように 身体の感官によって接触するのではないからである。例えば 色は目で見 音は耳で聞き 香りは鼻でかぎ 味は舌で味わい 硬さと柔らかさは手で触れて感じ取り さらにまた これらの知覚対象と同じではないが しかしこれらに酷似する映像に思考を向け 記憶によって保持し かつその映像をつうじて知覚対象への願望が呼び起こされるのである。


  ☆ この《知覚》は 情報処理する知解ではなく 単なる感覚です。


 けれども わたしが存在し わたしがその存在を知り愛するということは こうした実在的な像や非実在的な像をもとに遊び戯れる想像作用によっては 全然確実ではないのである。



 これらの真なる実在に関して わたしはアカデミア派の議論を少しも恐れない。彼らは言う 《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。

 それゆえ わたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのであるから どうしてわたしが存在するというそのことについて欺かれるだろうか。

 というのも わたしが欺かれるとき わたしが存在するのは確実なのである。したがって 欺かれるわたしが たとい欺かれるとしても存在するのであるから わたしが存在することをわたしが知っているというそのことで わたしが欺かれていないことは疑われない。


 ここからしてまた わたしが知ることをわたしが知っているそのことにおいても わたしは欺かれないのである。すなわち わたしはわたしが存在することを知っているが そのようにまた わたしが知るというそのこと自体をも わたしは知っているのである。

 そこでわたしは この存在と知識の両者を愛するとき この愛を同じ価値を持つ第三のものとして わたしの知っている両者に加える。というのも わたしがわたしの愛するものにおいて欺かれない限り わたしが愛するということは欺かれないのである。

 またたとい愛するものが真実でないものであるとしても わたしが真実でないものを愛しているというそのことは真なのであるから。

 そもそも わたしがその両者を愛していることが嘘であるとしたら わたしが真実でないものを愛しているといって批難されたり抑えられたりすること自体 まったく不当なことではないか。しかしかの両者は真であり確実であるから それらが愛されるとき それらに対する愛もまた真であり確実であることを だれ疑いえようか。

  ☆ 存在とその知識とは すでに欺かれえないものとして
   確実であるので 《嘘》だとしても《真実でないもの》と
   は誰も言えない。という意味でしょうか。

 さらにまた至福であることを望まない人はひとりもいないように 存在することをこばむ人もひとりもいないのである。なぜなら 存在しないならば どのようにして至福であることができるだろうか。
 (アウグスティヌス:神の国 Bk.XI ch.26 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/11/10 15:16

量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。


不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、
絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面
(仮想)的に有限的存在性を生じる。

観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。
本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が
有なのだ。
無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、
現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)
と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)
『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として
の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい
う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)
としての量子(感受表面~超弦)。
「デカルトのコギトはどこが独自性なのか」の回答画像1
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。
 不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、
 絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面
 (仮想)的に有限的存在性を生じる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ (1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?

 (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?

 (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?

 (4) ですからたとえば:
 ★ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。
 ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか? 

 (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?

 (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?

 (7) さらに畳み掛けるようにですが:
 ★ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。
 ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。



 ★ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。
 ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか? 

 (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。




 ★ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。
 ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。
 それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。

 (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。

 (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。



 ★ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。
 ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。

 (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。

 (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。

お礼日時:2014/11/10 11:16

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Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む


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