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法、という言語化するのが困難なものが、その内実を現し言葉として世に顕現する際の事について考察をするための質問をしたいと思います。難しい話だと思いますので、ご回答いただけると一先ずの幸いです。

・その覚りの因縁の和合するときに、法は言葉となって善知識の口を借りて世に現れる。

言い換えると。

・覚りの準備が整った時、心直き人の口を借りて、揺らぎない言葉が世に放たれる。
その状況は、誰しもが心に動揺してもおかしくない状況で在り、しかもそこにおいてその場を平定、鎮める威力を持った静かな言葉が、世に現れる。

その具体な形は、それぞれの人の人生を通じてのみ意味を持つ言葉であり、ごく平易な言葉で語られる。しかもそれを聴いて一度覚ったならば不動心を得て、今後一切、動揺することが無くなる。

その法の顕現する時期と時点と人物は、覚った人でも特定できない。
未来に、どの人がどの人と出会うのか、予見できないようなもので、また過去にあった出会いにはその人にとってどのような意味があったかを、他の人が知ることが出来ないようなものです。

ここで推察すべきは二点あり、
誰しもが動揺するような状況とはどのような状況か→一大事の理解
それを鎮める言葉とはどのような言葉か?→法の存在する意味

だと思います。
この二点について主に考察を勧められればと考えています。
何かご見解ご意見あればよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

こんにちは。




★ 法の言葉としての現れ
☆ タウマゼインとして――おのおの個人に――あらわれる。ということでしょう。




わたしが わたしから逸れていたなら それを気づかせてくれる。

脱線していたなら まづ自由な軌道へ立ち戻らせてくれる。

すでに脱線状態を知りつつ暴走していたのなら 赤恥ぢをかかせてくれる。

それをなお 分かっちゃいるけどやめられないという強気――弱音?――でいるなら 自分や自分の大切な人に不幸がおとづれるのを覚悟しなさいよというささやかな声を聞くかも知れない。

その声をも自由に突破していこうといういきほひなら・・・。これを《法:ダルマ》がどんなハタラキカケをおこなって どうにかするのかは 分からない。各人各様かとも思われる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私も覚りの事に関しては決着をつけたいと思っていて、それは決心によってなされるであろうと言う事も分かっているのですが、その決心がつかないでいます。その基となるものの顕現を見ていないからです。いや、それだけではなく、様々な未練があるからかもしれません。

法が語り難いものであると言うのは分かるけれども、その実情を捉えかねています。動揺を(根本から)鎮める言葉、それは仰るようなタウマゼインとして現れるのでしょう。一種の驚きと共にそれを見ることになる。それが自分(修行者)のために現れるのか、その時一大事に置かれている人のために現れるのか、どちらかと言えば、後者のためではないかと思います。

各人各様の通りだと思われるのもそのはずで、具体に現れるとはそうならざるを得ないと思われるからですが、場の動揺を鎮めるとは、そこに居合わせたすべての人の動揺をも鎮めるのであり、まことに不可思議なものであると考えられるのです。しかもそれはそれで諒解されるもので、理解が出来ない言葉であるとは思えない。
平易な言葉で現出すると。

お礼日時:2023/05/18 15:02

No.5=4です。



『HSP自己テスト ㉑ 「動揺するような状況を避ける」』https://note.com/ra9nar0k/n/nc8dc8836530aさんに「通勤・通学で、非HSPさんでも「動揺する状況」にならないために、早めに行動される方は多いのではないでしょうか。」とありました。

お礼 comment ありがとうございます。

お礼 comment に無常の中に出現するのが何であるか記載がありませんでした。

法が無常の中に出現するのですか?

諸法無常と聞いたことがないです。

無常の中にとはどういうことですか?

『中』https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%AD_%28% …さんを辞書で引きました。

上の link より引用は「1 空間的に仕切られた物の内側。内部。「建物の―に入る」」です。

無常は場所ですか?
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この回答へのお礼

無常というのはこの世です。常なるものは有りません。
しかしながら、法は時に、この無上の世に顕現します。
世が常ならざる故に出現するのです。
苦もまた無常である故に滅することが出来る。
常なるものは無いからです。

法は作られざるものです。人為的なものでない故に、作られざるものと言われます。

いつの世にも新しいものは起こり、古いものの一部もまた残るものですが、それらは作られたものとして、おなじみの感覚を人に呼び起こします。よく観察すれば、繰り返し生まれる人智の産物です。

何故この世が無常であるのか?それは分かりません。
分からないと言う事が理由で、無常であるのです。

お礼日時:2023/05/27 03:40

りがのさんおはようございます。



法が電子です。

堀内俊郎『仏教における法概念の多様性 ― 思想史的観点から ―』https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763793669504のp.8に「 また、無生法忍(anutpattikadhamrmakṣānti、諸法、諸存在が生じないものであることに対する容認)ということも、大乗経典・論書で強調されます。ここでも法とは存在物・ものの意です。」とありました。

『エネルギーの物質化 』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13468127.htmlさんがあります。

後藤 蔚『量子論と仏教』https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290883274400128のp.144に「それらの諸法は、その場で一瞬にして消滅する。次の刹那には、す ぐ近くの別の場所に、別の諸法が一瞬間だけ生起して別の矢を構成する。かくて、あたかも 一つの「矢」なるものがあって、それが「飛んでいる」ように見えるのである。それは、電 光板で、「何か」がアからイへ動いたと見えるのと同じである。これは、矢だけの話ではない、 この世界の全ての事物について云えることである。何故なら、あらゆる事物は諸法の相続と してのみ存在するのだから。」とありました。

法の言葉としての現れが物理学の数式です。
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この回答へのお礼

今回は特に難しく、お話を理解することが出来ませんでした。
しかしながら、電子の様に確定的でない動き(出現)をしている可能性はあると思いました。無常の中に出現するのであるからです。
ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/25 11:57

「御礼」にお答えします。



救うのは「法を体現した」一人称ですが、救われるのも信ずることで「法を体現した」一人称の私(もしくはあなた)です。

よって、キリスト教、イスラム教、仏教に通ずる法は「信によってのみ会得」できると考察しました。
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この回答へのお礼

救われる方も、信じることで法を体現することになると言う点が??となってしまいました。

お礼日時:2023/05/18 19:39

「私を信じなさい」



信ずる者は救われる。

この様に考察しました。
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この回答へのお礼

ここで言う【私】とは誰のことでしょう。一人称のことでしょうか。

お礼日時:2023/05/18 15:03

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