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1. 《我思う ゆえに我あり》は 存在の確実性を証しする間違いの
ない命題であるといまだに思っている!・・・としたら それはおかし
い。

2. ▲ (ヰキぺ:我思う、ゆえに我あり) ~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D …

§ 1 解説
(あ) 全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方
法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそ
のように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識して
いる我だけはその存在を疑い得ない。

(い) 「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分
自身の存在は否定できない。

(う) “自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する
証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. どうして? 

4. 《〈われ思う〉なら 〈われ思う〉ということがおこなわれてい
る》と言っているだけではないか? それ以外・それ以上のことは言っ
ていない。

5. 思うという行為をしているわれは その現象のかぎりで 存在し
ている。と言うに過ぎない。

6. そのあと いくらでもその存在を《疑い得る》はずだ。《うたが
う》ことは それとして現象するのだから。



7. 現象が起きていることと それが疑い得ない確実なことであるこ
ととは 別である。



8. ▲ (い) 「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っ
ている自分自身の存在は否定できない。
☆ 《「自分は本当に存在しないのではないか?」 と疑っている》な
ら 《そのように疑っている現象は起きている》と言えるに過ぎない。

9. そのようにして存在している(現象している)自身の存在につい
て《うたがう つまり それを否定しようと考える》なら その思惟は
現象している。現象を起こしているわれは それとしてそこにいる。・
・・と言っているまでである。



10. 人間の思惟が その思惟や存在を疑い得ないことだと確証しう
るという判断が どうして起きて来たのか?

質問者からの補足コメント

  • 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または
    宗教への絶対批判】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11097065.html

    ☆ これには 食指が動きませんか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/01 16:18

A 回答 (19件中1~10件)

r_umaniamnvi_the_5thさん、おまとめいただいたようで、どうもです。

割と合っている、ということで。
質問者さんの質問の意図とは間違いなくズレていますから、退散しておきます。

またもや役立たずのコメントを返しましたが、あしからず。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ですが №14のお礼欄で書いたことと同じお応えになります。


どうぞ。

お礼日時:2019/05/11 18:29

ブラジュさん、


ありがとうございます

ふむ。なるほど。

神《非知》は
観念ではないんですね

はい、私も
プラトンのイデアは
①超経験(絶対性)の方ではあるかとは思いますが、

そもそも
②経験(相対性)は
主観ではなく、
自己の主観を構成するための材料のような役割なのかと。


心の真実、
ありがとうございます
新たな気付きとなりましたよ❀

それから今、
ブラジュさんの他のスレでの
哲学スレの常連さんたちと
ブラジュさんのやり取りを
覗いてましたが、

ブラジュさんの
独特の表現力が
皆さんには
ヤミツキになるんだと
思いました笑
良い意味でです❀

さらに
皆さんはきっと
ブラジュさんと
わかり合いたいのだと
思います

なんとなくそんな気がします

↑この「なんとなくそんな気がします」というのは
《非知》ですか??❀


ではまた❀
・*:.。.・*:.。.・*:.。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神《非知》は
観念ではないんですね
☆ ただし 観念ないし概念を代理とします。仮象としてでもよいと
思います。

★ はい、私も
プラトンのイデアは
①超経験(絶対性)の方ではあるかとは思いますが、
☆ そうですか。

★ ②経験(相対性)は
主観ではなく、
自己の主観を構成するための材料のような役割なのかと。
☆ 経験世界を知覚し認識したら その経験は 主観の内におさめら
れます。


★ 心の真実、
ありがとうございます
新たな気付きとなりましたよ❀
☆ おお。それはよかった。《心の奥のわれ(または ことば)》は
じつは アウグスティヌスからの請け売りですが。



★ ブラジュさんの
独特の表現力が
皆さんには
ヤミツキになるんだと
思いました笑
良い意味でです❀
☆ ううーん。いままでは そうは思えなかったですね。毛嫌いして
いると言いますか どうしても馴染めないと受け取っているかと思っ
ていました。

少しそういう視点も含み持って 見て行きます。


★ さらに
皆さんはきっと
ブラジュさんと
わかり合いたいのだと
思います
☆ そうですか。つまり このところ やっとそういうふうに受け容
れてもらっている部分があるようにも感じて来てはいました。一部分
としてです。兆しとしてです。



★ ~~~~
なんとなくそんな気がします

↑この「なんとなくそんな気がします」というのは
《非知》ですか??❀
~~~~~
☆ これは 違います。《分かり合いたい》かどうか 然りか否か(ま
たは どちらでもないか)に いづれ決まりますから。いまは 未知で
す。


★ ではまた❀
・*:.。.・*:.。.・*:.。
☆ ありがとう。それでは またお会いしましょう。

お礼日時:2019/05/10 20:03

ブラジュさん、お礼ありがとうございます*.゚・:*



なるほど、

私の中では
観念とは
自己の主観をひとまとまりとした意識内容という意味で捉えてましたが

なので
広い意味でコギトの中には
クレドも含まれているのかなって考えていました

>①なら 特殊絶対性もしくはその前に 一般絶対性とかかわります。それと人
間たる《われ》とのカカハリが 問われています。
けれども もしこの《神 と われとのカカハリ》を想定したならば そのわ
れの存在は神とのつながりに関するかぎり 《確実》なわけです。逃げも隠れ
もしない(できない)存在であることになります。
>つまり わざわざ《われ思う》なる思考を持ち出さなくても 問題ありません。

→確かに、特殊絶対性という観点からは主観を持ち出す必要性はないとは思いますが、

デカルトは皆がまだ把握してない観念の存在を証明することにより、

他者の中の観念と自己の中の観念の違いを見出すことをしたかったのかなと。

ただ、デカルトが、
特殊絶対性なるものを想定していたかはわからないですが

ですが、
できることならまずは
ブラジュさんの観念を
読み取りたいですね*.゚・:*

それから
確認もしたくてこのスレに
来たのもあるんですが、

前に私が出したスレの
心の真実の答えを
とりあえず一旦、
自分の中で見出そうとして
考えていたのですがね、

ブラジュさんの回答をみてて
ブラジュさんの回答が
近いかなと思ってたのですが、

心の真実があるとするなら、
誰しもにそなわっている
普遍的な良心である

これに尽きますか?

良心があるからこその
ヤマシサ反応ってのは
鋭い指摘だと思いました❀
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます


人間としての《われ》というのは 何か? どういう存在か?

★ 良心があるからこそのヤマシサ反応
☆ だけではなく 《ひらめき→直観》というハタラキもあります。

しかも それらをぜんぶまとめて統覚する・何か分からぬ《霊我》と呼ぶもの
でさえ あるかも知れません。これは 梵我一如の《我》つまりアートマンの
ことです。

《おのれ》のことですが この場合は 意識や認識・思考を超えた《われ》だ
と思います。

つまり 《観念》をも超えていると捉えます。:
★ ~~~~~
私の中では
観念とは
自己の主観をひとまとまりとした意識内容という意味で捉えてましたが

なので
広い意味でコギトの中には
クレドも含まれているのかなって考えていました
~~~~~~~

☆ 《可知(既知&未知)や不可知》を超えた《非知》という分類になると見
ます。


そうでなければ 神と人とは 《精神の考えるハタラキ》によって地続きにな
ります。



★ ~~~~
デカルトは皆がまだ把握してない観念の存在を証明することにより、

他者の中の観念と自己の中の観念の違いを見出すことをしたかったのかなと。
~~~~
☆ 《観念》とは何か? になります。

これも ① 絶対性(超経験)と ② 相対(経験)世界とを分けて ふたつ
に峻別されます。

プラトンのイデアは このいまの峻別――①と②との絶対のへだたり――を認
めた上では ①に当ててもよいと思います。アリストテレスの不動の動者ない
し第一原因です。

ただし この《神》は 人間の認識にかかわる観念ではないですね。《非知》
なるナゾの何ものかです。《無根拠》と言ってもよいでしょう。



★ ~~~~
心の真実があるとするなら、
誰しもにそなわっている
普遍的な良心である

これに尽きますか?
~~~~~~
☆ ヤマシサ反応を起こす良心のハタラキのように 《わたしの思いや振る
舞いを心の奥のどこかで見守っていて おいおい おまえ そっちへワケも
なく行っちゃいかんよというように声をかけてくれるハタラキ》もあるよう
に思います。

これも 心の真実でしょうね。良心に似通っていますが。恥ぢを意識させる
のは 良心のハタラキでしょう。理性でも考えますが それだけではないと
思われます。けっきょく みづみづしい息吹き。

お礼日時:2019/05/10 17:39

ブラジュさん、


お礼ありがとうございます

私がデカルトのウィキを読んで解釈したのは、

それこそ、イメージとしては
特殊絶対性と概念が少し似てるのかなって思いました。

その
「主観と実在を結びつける確実なるもの」という意味は、

他者や外在と自己との一致ではなく、
自己の中の真理の証明ようなニュアンスにも解釈できるような気がします。

↓ウィキの一部です

また、これを意識の「内部」の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。

〜〜途中省略〜〜

これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」や「もっとも確実な観念はなにか」といった問いがあげられよう


デカルトが「考える私」を
言うまでは

当時の哲学では
内在と実在が一致していると考えられていたからこそ、

観念の存在の証明の話ではないかと。

今となっては当たり前の概念なんですが、
それすらなかったか時代の話なんだとは思います、
今となっては
それだけの話ですよ〜で、
多分終わってしまうのかもしれないです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この質問の意図は かんたんです。

コギト命題が:
★ 今となっては
それだけの話ですよ〜で、
多分終わってしま
☆ っていない場合が このカテでしばしば見受けられるからです。

★ それこそ、イメージとしては
特殊絶対性と概念が少し似てるのかなって思いました。
☆ ですから ① 絶対性の実在(実体とも)か ② 経験存在としての現実
存在(実在・実存)か どちらかに取り決めてかかる必要があります。

①なら 特殊絶対性もしくはその前に 一般絶対性とかかわります。それと人
間たる《われ》とのカカハリが 問われています。

けれども もしこの《神 と われとのカカハリ》を想定したならば そのわ
れの存在は神とのつながりに関するかぎり 《確実》なわけです。逃げも隠れ
もしない(できない)存在であることになります。

つまり わざわざ《われ思う》なる思考を持ち出さなくても 問題ありません。




★ ~~~~
その
「主観と実在を結びつける確実なるもの」という意味は、

他者や外在と自己との一致ではなく、
自己の中の真理の証明ようなニュアンスにも解釈できるような気がします。
~~~~~
☆ という場合 《自己の中の真理》というのが 神〔とのカカハリ〕なのだ
と思われます。

この想定は すでに思考以前のことです。思考を超えたところで仮説されてい
ます。

▲ (ウィキ) 意識の「内部」の発見
▲ 意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し
☆ これは 《思考の緑野》ではなく 実際には《非思考の庭》の問題だと見
るわけです。コギトではなく クレドなのだと。

ただし 非思考の庭は 思考の緑野や感性の原野と つながっているとも見て
います。:

 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド;(ヒラメキ・ 良心)
                         ↓    ↓
 ---------------------------------
                         ↓    ↓
 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト  (直観)   ↓
 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(ヤマシサ反応)

お礼日時:2019/05/10 13:54

ブラジュさん、おはようございます



今考えていることがあり、
ブラジュさんに確認したいことがありましたが、
その前に
この質問に回答してみようかなと思います。

デカルトは
表象と実在を「絶対確実」に結びつけるものを証明したかったのですが、

その「絶対確実」なものの意味とは、
「表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄」のことであり、

その結論は、
実は「絶対確実なものを見つける」という試みそのものを可能にする「私は考える」という事実である。

↑これを言いたかったのでは?

つまり、

単純に「われが思うことが、われが存在する証明です」

ということではなく、

表象と実在は必ずしも一致しない

だけど、
表象と実在を一致させる確実なものがあるとするなら唯一、それを導くことができる「私は考える」という事実である

と解釈したら、
ブラジュさんの疑問は
解けますか??
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この回答へのお礼

これは これは。お礼欄はスペースが狭いので ご回答をありがとう
ございます。というご挨拶のみになります。

★ ~~~~~
・・・と解釈したら、
ブラジュさんの疑問は
解けますか??
~~~~
☆ 残念ながら 解けません。

反批判になります。

★ ~~~~~
単純に「われが思うことが、われが存在する証明です」

ということではなく、

表象と実在は必ずしも一致しない

だけど、
表象と実在を一致させる確実なものがあるとするなら唯一、それを導
くことができる「私は考える」という事実である

★ 「絶対確実なものを見つける」という試みそのものを可能にする
「私は考える」という事実

☆ (あ) 《絶対確実》の意味は: 

① 超経験としての絶対性――真理――と
② 経験事象にかんする相対的な一般性――主観真実の共同――

との二つに分かれます。

(あ-a ) おそらく《実在》についても 同じではないか? 《真理
なる存在 もしくは 真理のもとなる存在》を ①として。

(い) ②なら 特に問い求める必要はないわけです。ふつうに学問
のいとなみがあり科学による認識で用を成します。

(う) 言いかえるなら:
★ 表象と実在を一致させる確実なものがあるとするなら
☆ という仮定をこそむしろどう処理したのか? その問題が 残っ
ているように思います。

(え) 同じく言いかえるなら:
★ 「絶対確実なものを見つける」という試み
☆ を多少なりともすでにおこなって見せたという時点で このコギ
ト命題は 提出すべきでしょうね。

(お) 吾輩は ヒントをあたえたんだ――と言っておしまいとして
いることは むつかしいでしょう。


(か) コギト(思考の緑野)のほかには ヒラメキ・直観のクレド
(信仰 つまり 非思考の庭なる動態)もあるかと見られます。

――と考えます。よ。

お礼日時:2019/05/10 10:56

おしょーさんこんばんは。

あなたの回答をまとめると下記でした。

 デカルトの命題がある。その命題は"je
  pense donc je suis"であり、正しい。そ
 の命題について書きたい。例えば"pens
 e"以内での"donc je suis"について書きた
 い。
 その命題以外・以上のことは書きたくな
 い。

割と合ってるといいな。そして、doncの右のjeはこれこれこんなんでね…と続くのではなかろうか?
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この回答へのお礼

《われ思う》なら 

《〈われ思う〉という現象は現実にわれにおいて起きている》

と言える。あるいはつまり:

 《〈思うわれ〉という存在がある》

ということまでは言っている。そういう問題であり そういう
問題であるに過ぎません。

これに対する反論をのぞみます。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/10 03:28

リンク先を見ましたが、デカルトがパクッたかどうかは無関係と言うことで。


デカルトの過ちは、反論したことにありますね。私ならこう言う所です。

「そうですか、件の命題を正しいとアウグスティヌスが言っていたのですか。然もありなん。」
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この回答へのお礼

★ 件の命題
☆ というからには アウグスティヌスの明らかにした命題と同じような
ものである・・・と言っていますよね?

つまり 両者のそれぞれの命題が俎板の上に載っている。


★ 然もありなん。(≒ ☆ ただしいと言っていてもおかしくない)。
☆ と言うのならば あとで出た者は 先に出ている者の命題を見ている
はずですが その逆のことは起こりません。

そのとき 両命題のあいだの関係を《あとの者が パクった》と言うのだ
と思います。よ。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/08 21:50

>存在一般のことです。

あるいはつまり 《現象としてわれがそこにいる》という存在ではなく 人として・そして個別にわれとして 疑い得ない普遍的真実であるという存在のことです。
>《それを起こしている主体の存在》
---つまり、それが「それ以外・それ以上のこと」なのですね。そして、
>《存在論》として よくここで触れられています。
---ここの常連さんには、知れたことなのですね。まあ、空気も読めずにコメントした、と言うところでしょうか。

一言をくわえておきますが、
デカルトの命題を、ただしい命題であるといまだに思っている者としては、その「それ以外・それ以上のこと」は一つの解釈に過ぎない、と見える。その解釈の是非はさておき、今回の質問に関して言えば、
>いくらでもその存在を《疑い得る》はずだ。
>その現象のかぎりで 存在している。と言うに過ぎない。
といったことは、デカルトの命題に対する疑問としては外している。
“donc je suis”が、デカルトにおいては「それ以外・それ以上のこと」の意味が与えられていること、そしてそれが何かが示されるべきことであったのではないか(と、常連でない者としては思う)。“je suis”は、“je pense”以外・以上のことではない、言うなれば、以内のこと。

また、的外れのコメントを返したわけですが、デカルトの命題をただしい命題であるといまだに思っていることと、デカルトのその先の議論の展開を正しいと思うかは、まったく別のこと、と言い訳をしておきます。以上。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >存在一般のことです。あるいはつまり 《現象としてわれがそこに
いる》という存在ではなく 人として・そして個別にわれとして 疑い得な
い普遍的真実であるという存在のことです。
☆☆ >《それを起こしている主体の存在》
★ ---つまり、それが「それ以外・それ以上のこと」なのですね。
☆ はい。そして安易な言い方になりますが 要するに神とつながりのある
人間としての存在を立てようと――デカルト派は――しているのだと思いま
す。
★ そして、
☆☆ >《存在論》として よくここで触れられています。
★ ---ここの常連さんには、知れたことなのですね。まあ、空気も読めずに
コメントした、と言うところでしょうか。
☆ おそれいります。




★ デカルトの命題を、ただしい命題であるといまだに思っている者として
は、
☆ そうなんですか。


★ その「それ以外・それ以上のこと」は一つの解釈に過ぎない、と見える。
☆ これはですね。いまこの質問では 外しておいてあるのですが 問題点
になっていることではあります。

不案内ですが 次の議論を参照してみてくれますか?

【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯定出来る方はいま
すか?】https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i
☆ その回答№5が わたしのです。


★ “donc je suis”が、デカルトにおいては「それ以外・それ以上のこと」の
意味が与えられていること、
☆ そのとおりです。このコギト命題は じつは すでに何百年も前にアウグ
スティヌスがおこなっています。そしてそれを指摘されたデカルトは いやい
や そうぢゃないんだ わたしの言う《わたし》またその《存在( je suis. )》
は 形而下のそれではなく 非物体的なもの・すなわち形而上学のものなのだ
と答えているのです。

ぜひ 先ほどのリンク先を参照してください。

お礼日時:2019/05/06 15:54

この世の中で自明なことは何でしょうか。



 私の感じている世界は、私が心の中に作り出した世界です。決して、心の外にある世界を直接に感じている訳ではありません。私の心の外に、実際に世界が広がっているか否か、私には知る術はありません。

このことを説明します。光が目に入り、網膜を刺激します。その刺激は、神経線維をインパルスとして伝わり脳に到達します。そして脳が映像を作るのです。
これは部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見せる訳ではありません。私達は、あくまでもテレビが作り出した場面を見ているだけです。

そして、部屋の中にいる限り、外の世界を直接見ることは出来ません。脳に居る私も頭蓋骨から出て、直接外の世界を見ることは出来ないのです。つまり、私は脳が作り出した映像・音・匂い・味・触感を感じているだけです。故に、私は脳が作り出した世界を感じているだけです。

ですから、私には今目が覚めているのか、或は夢を見ているのか、知る術はありません。後者であったなら、外界があるか否か判断することは出来なくなってしまいます。

 そうなると、私にとって、疑い得ない自明なことは一体何でしょうか。地球が本当にあるのでしょうか。私の妻や子は本当に居るのでしょうか。私の手は本当にあるのでしょうか。この様に疑い得るものを、本当に自明であるか否か疑うことを、方法的懐疑と言います。

 その結果、デカルトは、疑うことの出来ない自明のことを1つだけ発見しました。「我思う故に我あり。」です。疑っている自分の存在だけは疑い得ないことに気が付きました。目が覚めていようと夢を見ていようと、疑っている自分がなければこの疑いはあり得ないからです。
 それ以外のことは、本当なのかどうなのか人間には分からないのです。この様に、分からないことを分らないとすることが、「無知の知」です。

 しかし、自明のことしか信じないのであれば、それまでです。私の心は1+1=2に制約されています。心の中では、ものは消えたり生じたりします。従って、1+1=1でも、1+1=3でも構いません。しかし、物質は無から生じたり、消え去ったりすることはありません。従って、外界は1+1=2です。私の心が1+1=2であるのは、私の心の中の世界が外界に似せて作られているからです。外界に1+1=3を適用すると、誤った行動となり失敗します。私の心が1+1=2に制約されていること自体、外界の存在を示唆しています。

この様に外界では、①無から有は生じません。また、②有は無にはなりません。①が起これば1+1=3になります。また、②が起これば1+1=0になります。しかし、①も②も起こりません。ですから、1+1=2です。

私は外界の存在を信じ、それを支配する法則を研究します。

 詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/mutinoti.html
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 光が目に入り、網膜を刺激します。その刺激は、神経線維をインパルスと
して伝わり脳に到達します。そして脳が映像を作るのです。
☆ この刺激の受容とそれの神経組織による処理のことを 《世界を直接に知
覚する》と言うのです。

その知覚の内容が 言葉によって概念認識になるとき 事実(世界)の認識と
して《正確》かどうかは ひとまづ問いません。(人間の能力に限界があると
いった問題です)。



★ その(方法的懐疑の)結果、デカルトは、疑うことの出来ない自明のこと
を1つだけ発見しました。「我思う故に我あり。」です。疑っている自分の存
在だけは疑い得ないことに気が付きました。
☆ ですからそれは 《疑って思考しているわたしは そのように現象して
いることが間違いない》のであり 《疑っている自分の存在・・・が疑い得
ない現実の現象である》ということです。


《現象》とは 何か? これについては何も言っていません。何も探究して
いません。強いて言えば 《われは 神のもとにあるから その現象を起こ
している存在は 神のごとく確実だ》と思い込んだだけのことです。


★ 目が覚めていようと夢を見ていようと、疑っている自分がなければこの
疑いはあり得ないからです。
☆ そうですよ。

★ それ以外のことは、本当なのかどうなのか人間には分からないのです。
この様に、分からないことを分らないとすることが、「無知の知」です。
☆ でも 先ほどは:
★ 疑っている自分の存在だけは疑い得ないこと・自明のこと
☆ だと言っています。つまり ここでは・問題が:
★ 存在は
☆ です。

人間としてわれという存在が いま・ここに現象していることは 現実です。
そこから すべては出発します。

ただし その《存在が 自明のことである》というのは 現象を超えて確実
なことだと言っていませんか? 《無知》でいるのではないと。


★ 私は外界の存在を信じ、それを支配する法則を研究します。
☆ どうぞ。ただし 《外界 ないし 世界 あるいは 人間たるわれなる
存在》が 神のごとくあるかどうかは まったく人間には分かりません。

デカルトは 神――神という観念――に甘えただけです。

お礼日時:2019/05/06 09:10

デカルトの言は正しい、と思っている方の回答はありませんね。

偉い方々の前でそんなことを言うと、素人はネ、と言われそうで答えにくいところでしょうか。素人なのでまったく気にするところのない者として一言。

>と言っているだけではないか? それ以外・それ以上のことは言っていない。
--その通り、それ以外・それ以上のことは言っていない。質問者さんが方が、「それ以外・それ以上のこと」を言っているかの如くに受け止めただけでしょうかネ。

>思うという行為をしているわれは その現象のかぎりで 存在している。
--その通り、で何か問題でもある?

>そのあと いくらでもその存在を《疑い得る》はずだ。
--その通り、で何か問題でもある?

>現象が起きていることと それが疑い得ない確実なことであることとは 別である。
--その通りとは言えない。別だという「<それ>が疑い得ない確実なこと」とは何を指すのか。

>《そのように疑っている現象は起きている》と言えるに過ぎない。
--その「過ぎない」という文言は不要。「それ以外・それ以上のこと」に戻る。

>その思惟は現象している。現象を起こしているわれは それとしてそこにいる。・・・と言っているまでである。
--その通り、で何か問題でもある?

以上、「・・としたら それはおかしい。」と言われる所以がさっぱり分からない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ デカルトの言は正しい、と思っている方の回答はありませんね。
☆ そうですね。回答は 来てませんね。

★ ・・・素人はネ、と言われそうで答えにくいところでしょうか。
☆ それはないと思います。少なくとも わたしに対しては。


☆☆ >と言っているだけではないか? それ以外・それ以上のことは言って
いない。
★ --その通り、それ以外・それ以上のことは言っていない。質問者さんが方
が、「それ以外・それ以上のこと」を言っているかの如くに受け止めただけで
しょうかネ。
☆ いえ。それはないと思います。《存在論》として よくここで触れられて
います。

☆☆ >思うという行為をしているわれは その現象のかぎりで 存在してい
る。
★ --その通り、で何か問題でもある?
☆ つまり それだけだと言っています。《思うをおこなっている存在》以外
のことは 何も――証明したりなど――言っていないという意味です。

☆☆ >そのあと いくらでもその存在を《疑い得る》はずだ。
★ --その通り、で何か問題でもある?
☆ 前項と同じです。《うたがう行為をしている存在》とまでは言っています。

☆☆ >現象が起きていることと それが疑い得ない確実なことであることと
は 別である。
★ --その通りとは言えない。別だという「<それ>が疑い得ない確実なこと」
とは何を指すのか。
☆ 《現象の起きていること あるいは それを起こしている主体の存在》で
す。

☆☆ >《そのように疑っている現象は起きている》と言えるに過ぎない。
★ --その「過ぎない」という文言は不要。「それ以外・それ以上のこと」に
戻る。
☆ われの存在を証明し得たという見解に向けて 《過ぎない》と言っていま
す。

☆☆ >その思惟は現象している。現象を起こしているわれは それとしてそ
こにいる。・・・と言っているまでである。
★ --その通り、で何か問題でもある?

★ 以上、「・・としたら それはおかしい。」と言われる所以がさっぱり分
からない。
☆☆ 1. ・・・存在の確実性を証しする
☆ の《存在》は 存在一般のことです。あるいはつまり 《現象としてわれ
がそこにいる》という存在ではなく 人として・そして個別にわれとして 疑
い得ない普遍的真実であるという存在のことです。

お礼日時:2019/05/05 16:20

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