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0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。

0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規
定することはできる。⇒7‐B。



1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍(はた)
から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが じつは信教・良心の自由に見合っている。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。

2-1. 人間の言葉をとおして主観の外に出かけたならば――すでに言葉≒
《経験事象に基本として対応する概念》にもとづくことになるからには――思
考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。

2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 
実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決め
られないのである。⇒(#0)

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさ
い(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言(うわごと)である。
主観の外に出かけているから。

3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びになら
ざるを得ない。

3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個
人の内面にとどめなさい。





4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の
場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界でありそれについて経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明が間
      違っていたということもあり得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。不可変である)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――無条件でわが心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には
《非思考の庭》が成る。

6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてや
どる何ものかの自覚が起きる。

 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド;(*ヒラメキ・**良心)
 ---------------------------------

 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観) 
 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応)


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロ
コスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよ
い。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって これら前項の神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし
非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。

8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。具体的な神
としては 名が違う。

8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍
神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は 
経験世界の有る無しを超えている)。

9. これが 《一般絶対性》である。






10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰す
なわち 《普遍神と個別のわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説
明する視点である。

11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっている
だけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひと
つであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じで
あるかが 人間には分からないからである。

11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自
由という内容につながっている。

12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならな
いはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 
一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。

12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神が とう
とばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとして
は 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出
る。


13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。



14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 
神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのお
の主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。

14-1. (12-1)に述べたごとく 信教・良心の自由にもとづき そ
の信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》という
ことになる。

14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否
定も肯定も出来ない。

14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕
――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。

        *

15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての
自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観
にまで展開したのが 宗教のオシヘである。

16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観から飛び出して来たたオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現し
た《思想》である。

16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。

16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間
が人間の言語表現をとおして引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し
示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。

16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。

16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないと
かという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 
無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。




17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさま
る。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何
の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。


18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つ
まり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来て そ
の倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖さ
せたものが シュウキョウである。

18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの
関係に移して 寝かすことである。

18-2. シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶
対性理論)としてアウトである。

18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽か・また
は ただの商売である。 


☆ 見解を述べられたし。添削・批判そして賛同をもどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №47つづき1

    ぎゃくに――論理だけの議論になるかも知れませんが――言うと 《信
    仰が同じであるなら もういちいち特定の者だけが独自に集まることも
    ない》のでは? その信仰は 人間にとって一般的な個別絶対性として
    現実だということになりますから。

    特殊絶対性からクセを取り除いたら すでに特殊ではなくなります。

    ★ ~~~
    つまり、言葉は同じ特殊絶対性を互いに認識する手段であると考えます。
    (そして、ここにいう、
    「互いに認識する」とは、
    自己の絶対特殊性を変えることなく、他者と自己との絶対特殊性の偶然
    の一致を知るという意味です。なので「言葉」とは、他者に、自分の頭
    の中にあるイメージを伝えるいわば「暗号」であると捉えております。)

    という事であったとしても
    やはり、特殊絶対性は無効になりますか?
    ~~~
    ☆ つまり 次のような宗教のあり方が想像されます。・・・

    つづく

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/09 12:44
  • №47つづき2

    ☆ つまり 次のような宗教のあり方が想像されます。・・・

    世界には 《 A なる特殊絶対性を共有する集まり》と《 B なるそれを
    共有する組織》と・・・というふうにいくつかの宗教に分かれている情
    況ですね。

    その場合の《複数の人間のあいだで内容の一致を見ている特殊絶対性》
    は すでに特殊性なるクセがなくなっているのではないですか? ある
    いは クセも一致しているということでしょうか?

    けれども そうだとすれば すでにそこで《一般=および個別の絶対性》
    を共有していると分かったことになります。

    《クセなる特殊》も《クセのない絶対性》も 見事に(!)区分けして
    捉えていることになりますから。

    さもなければ じんるいは 《 A人種》と《 B人種》とで 人間の自然
    本性(知性など)やそもそもの人間性が 確実に異なっているというこ
    とになります。組織宗教は だめです。

      補足日時:2019/05/09 12:57

A 回答 (50件中1~10件)

ブラジュさん笑笑



クセ共同体ですか?笑
面白いですね

>☆ ううーん。あり得ます。あり得ると思います。だとすると その
《クセ共同体》は たとえ集まったとしても 同好会のようなものであって 必ずしも《オシヘ》の問題ではなくなり 信仰にともなうオマケのような事柄をたのしく話し合う・・・といった形になるのでは?

→はい笑、同好会とするか、真剣な座談会とするかは、当人たち次第となりますが

ブラジュさんが補足で書かれているように、集まる必要はないとも思いました

また、特殊絶対性の概念からは
個々人の主観の話になるので
集団の必要性は導けないですね


それから、
ここのスレの
他の回答をみてたら
私の回答は
横レスでした、すみません
m(_ _)m

d_y_nさんもブラジュさんも、
私からみたら、
二人ともそれぞれに
とても魅力があります

ブラジュさんの言いたいことは
複雑そうにみえて実はシンプルであり、
d_y_nさんの言いたいこは、
シンプルそうに見えて実は奥が深い、
そんな印象をもちました

二人の距離が
広がらないことを祈ります

それから
特殊絶対性の仮説は、
私の中で
新たな気付きとなりました
ありがとうございます

ではでは❀
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



★ また、特殊絶対性の概念からは
個々人の主観の話になるので
集団の必要性は導けないですね
☆ たぶん このあたりに落ち着くのではとわたしも思います。

あつまれば 愉快な仲間に成れるかも知れません。でも わざわざ集ま
らなくても すでに周りには たのしい人間たちがいることでしょう。


★ 同好会とするか、真剣な座談会とするかは、当人たち次第となりま
すが
☆ 要するに 宗教は超えたことになるはずです。それが いい。




★ 他の回答をみてたら
私の回答は
横レスでした
☆ ほかのが 横レスなんです。それも ある意味歓迎なんですが。



★ ~~~~~~~~~~
d_y_nさんもブラジュさんも、
私からみたら、
二人ともそれぞれに
とても魅力があります

ブラジュさんの言いたいことは
複雑そうにみえて実はシンプルであり、
d_y_nさんの言いたいこは、
シンプルそうに見えて実は奥が深い、
そんな印象をもちました

二人の距離が
広がらないことを祈ります
~~~~~~~~~~



★ ~~~~
それから
特殊絶対性の仮説は、
私の中で
新たな気付きとなりました
ありがとうございます

ではでは❀
~~~~~
☆ わたしも われながら その奥行きを見させてもらった気がします。

ではでは。

お礼日時:2019/05/09 17:28

ブラジュさん、お礼と補足ありがとうございます



>確認してもらった事項などについては 省略にしたがうことにしました
ので あしからずご了承くださいませ。

はい、わかりました笑

>普遍神を個人としていだく個別絶対性であるだけではなく その時々の
主観として捉え具体的に多様性をもった《特殊絶対性》――そのひと独
自のクセを伴なった神観――は 基本としてもともと普遍性の問題であ
るからには 複数のひとが同じ内容を共有することがあり得ます。
>ただし それが同一であるかどうかは けっきょく分からない。結着が
つきません。たとえ同じ表現でその神観をしめしていたとしても その
中身が同じであるかは 判断しかねます。
>《神は 普遍神として 同じだ》という一点で共通であり同一だと言う
のみです。

→はい、やはりそうなりますね。これは私もそうかとは思います。
完全一致かは私も知るすべがないと思います


>☆ 好意的に捉えるなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔ことがあり得ると
考えた〕者の集まり》でしょうね。
>いぢわるく見るなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔と思い込んだ〕者の集
まり》と成りえます。

→はい、そのように思います。
他者との完全一致を知るすべがないとした時点でこの結論に至ってしまいます。

>問題は 特殊絶対性としての神観を みんなが守るべきオシヘと捉えこ
れを すでに無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くと
ころに生じます。つまり 神学や教理を絶対として掲げる場合の組織宗
教だと思います。
>ぎゃくに――論理だけの議論になるかも知れませんが――言うと 《信
仰が同じであるなら もういちいち特定の者だけが独自に集まることも
ない》のでは? その信仰は 人間にとって一般的な個別絶対性として
現実だということになりますから。
特殊絶対性からクセを取り除いたら すでに特殊ではなくなります。

→これなんです。
特殊絶対性はある意味、鋭い指摘なんだと思います

個々人が、
信仰や宗教の概念を、押し付け(=無条件で受け入れなさい、信じなさい)
のような世間一般でいうところの共通認識で捉えてしまうと
宗教に対する批判は多数になるんだと思うんです。
また宗教に対する印象も悪くしてしまう結果に繋がってしまいます。

個々人の特殊性あってこその神観っていうのは共感するところです。
本来の神とはそうであるべきなんじゃないかとも思います
これはいい指摘だと考えます。

>世界には 《 A なる特殊絶対性を共有する集まり》と《 B なるそれを
共有する組織》と・・・というふうにいくつかの宗教に分かれている情
況ですね。
>その場合の《複数の人間のあいだで内容の一致を見ている特殊絶対性》
は すでに特殊性なるクセがなくなっているのではないですか? ある
いは クセも一致しているということでしょうか?

→はい、私が否定できない可能性といったのは、
厳密にはクセが一致しているということです

それから
私は広義の意味では組織宗教も一つの見方として
否定はしないですが、
あまり好ましくないと思っています。
それはある意味で、個々人の神観を排除しているようにも思えるからです。
もしくは
個々人の神観の排除に繋がっているのかもしれないですね

特殊絶対性はナイスだと思います。
暖かい感性ですね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《特殊絶対性》――そのひと独自のクセを伴なった神観――が ほかの人
とのあいだで:
★ 完全一致かは私も知るすべがないと思います
☆ はい。

★ ~~~~
>☆ 好意的に捉えるなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔ことがあり得ると
考えた〕者の集まり》
>いぢわるく見るなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔と思い込んだ〕者の集
まり》

→はい、そのように思います。
他者との完全一致を知るすべがないとした時点でこの結論に至ってしまい
ます。
~~~~~~
☆ ですかね。


☆☆ ・・・特殊絶対性からクセを取り除いたら すでに特殊ではなくな
ります。
★ →これなんです。
特殊絶対性はある意味、鋭い指摘なんだと思います
☆ それは よかった。普遍神のもとに〔じんるいが〕あるなら 信教・
良心の自由が必然的にみちびかれ 統一ではなく多様性がけっきょく当然
であるごとく保証されるという・・・逆説のような話でしょうか。

★ 個々人が、
信仰や宗教の概念を、押し付け(=無条件で受け入れなさい、信じなさい)
のような世間一般でいうところの共通認識で捉えてしまうと
宗教に対する批判は多数になるんだと思うんです。・・・
★ 私は広義の意味では組織宗教も一つの見方として・・・
それはある意味で、個々人の神観を排除しているようにも思える
☆ そのとおりでしょうね。

★ 個々人の特殊性あってこその神観っていうのは共感するところです。
本来の神とはそうであるべきなんじゃないかとも思います
これはいい指摘だと考えます。
★ 特殊絶対性はナイスだと思います。
暖かい感性ですね
☆ なるほど。わたしのほうが感心してしまいます。これまでこういう
指摘は なかったですね。



☆☆ 《 特殊絶対性を共有する集まり》
☆☆ >その場合・・・あるいは クセも一致しているということでし
ょうか?
★ →はい、私が否定できない可能性といったのは、
厳密にはクセが一致しているということです
☆ ううーん。あり得ます。あり得ると思います。だとすると その
《クセ共同体》は たとえ集まったとしても 同好会のようなもので
あって 必ずしも《オシヘ》の問題ではなくなり 信仰にともなうオ
マケのような事柄をたのしく話し合う・・・といった形になるのでは?

お礼日時:2019/05/09 16:19

no46に対して



あなたは人に愛された経験がないのかなとも思う。
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ブラジュさん、こんにちは



質問を拝見いたしました

以下は確認になりますが(また、この確認に対するブラジュさんの応答を私なりに予測しながら書き込んでおります笑)、


確かに
神というものを
自分のエゴのようにして、またそれを他者に押し付けてしまうようなら、
宗教でもなんでもないと考えます。

また、
特殊絶対性の概念に関しては
納得するものがあります。

しかしながら、
特殊絶対性が無限であり、主観の外へ出ないとしても、
他者がたまたま同じ特殊絶対性を持っているという可能性は否定できないものと考えますが、
ブラジュさんもその可能性は
あり得るとお考えになられますか?


私個人的には
この特殊絶対性が言葉を通して外に出たのではなく、
同じ特殊絶対性を持つ者の集まりを宗教としているのかと考えてました。

そうすると、
では、他者が何故、同じ特殊絶対性だと把握できたのかというところですが、

言葉に支配されたのでなく(=神とわれとのカカハリを人間関係の世界に持って来て倫理観や宇宙観として増殖させたのではなく)、

言葉を通して同じ特殊絶対性ということを知った、
と考えてました。

つまり、言葉は同じ特殊絶対性を互いに認識する手段であると考えます。
(そして、ここにいう、
「互いに認識する」とは、
自己の絶対特殊性を変えることなく、他者と自己との絶対特殊性の偶然の一致を知るという意味です。なので「言葉」とは、他者に、自分の頭の中にあるイメージを伝えるいわば「暗号」であると捉えております。)

という事であったとしても
やはり、特殊絶対性は無効になりますか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

確認してもらった事項などについては 省略にしたがうことにしました
ので あしからずご了承くださいませ。

★ ~~~
しかしながら、
特殊絶対性が無限であり、主観の外へ出ないとしても、
他者がたまたま同じ特殊絶対性を持っているという可能性は否定できな
いものと考えますが、・・・
~~~~
☆ このこたえは やさしいです。(表現は 細かくなりますが)。

普遍神を個人としていだく個別絶対性であるだけではなく その時々の
主観として捉え具体的に多様性をもった《特殊絶対性》――そのひと独
自のクセを伴なった神観――は 基本としてもともと普遍性の問題であ
るからには 複数のひとが同じ内容を共有することがあり得ます。

ただし それが同一であるかどうかは けっきょく分からない。結着が
つきません。たとえ同じ表現でその神観をしめしていたとしても その
中身が同じであるかは 判断しかねます。

《神は 普遍神として 同じだ》という一点で共通であり同一だと言う
のみです。



★ この特殊絶対性が言葉を通して外に出たのではなく、
同じ特殊絶対性を持つ者の集まりを宗教としているのかと考えてました。
☆ 好意的に捉えるなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔ことがあり得ると
考えた〕者の集まり》でしょうね。

いぢわるく見るなら 《同じ特殊絶対性を持つ〔と思い込んだ〕者の集
まり》と成りえます。

問題は 特殊絶対性としての神観を みんなが守るべきオシヘと捉えこ
れを すでに無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くと
ころに生じます。つまり 神学や教理を絶対として掲げる場合の組織宗
教だと思います。




★ ~~~~
では、他者が何故、同じ特殊絶対性だと把握できたのかというところで
すが、

言葉に支配されたのでなく(=神とわれとのカカハリを人間関係の世界に
持って来て倫理観や宇宙観として増殖させたのではなく)、
 (☆ ここの表現はいいですね)。

言葉を通して同じ特殊絶対性ということを知った、
と考えてました。
~~~~~
☆ つまり先ほど触れましたが 《言葉〔による表現やその内容 つま
り神観や神学〕が同じであること》と《信仰が同じであること》とは微
妙に違います。

つづく

お礼日時:2019/05/09 12:40

no45のお礼の末尾へ。



これは喧嘩ではないから。

そもそもが間違ってる。

なぜ謝ってほしかったのかは自分でたどり着いて欲しい。
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この回答へのお礼

それは K国の態度と同じだ。ことわる。

お礼日時:2019/05/09 10:46

私はd_y_nさんもブラジュさんもどちらも好きなので、ほんと困ります。


ブラジュさんもひとつのスレの中にたくさんの質問をしない、造語を用いない、などの対策をしてください。
仲直りして、とは言いませんが、もうお互い干渉せず、わが道を行ってください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ひとつのスレの中にたくさんの質問をしない、
☆ でも それは 大昔からやって来ていますよ。

そのつど いまこれこれこの主題を取り上げてみんなで考えて行こう
(あるいは 考えておこう)と思ったときに 質問は挙げます。

たとえば天皇をめぐる社会の問題など いまもっと問題提起しつつ
みなさんの考えを尋ねたいことがあります。

時間を取ってゆっくり応答してくれると よいと思います。




★ 造語を用いない
☆ これは いかんせん 避けられません。

認識する対象として 人間や社会あるいは世界は みなさんと同じで
も それらを認識する視座は すでに違ったものになっています わ
たしの場合。

従来の同じ視座を取って考えても 世界が理解できない。理解できて
も なおしっくり来ないところが残ります。いっそのこと そのパラ
ダイムを変えてみてはどうか? ・・・

そういう問い求めの過程を経て これまでやって来ました。

さいわいと言いますか 賛成は少なくても 目ぼしい反論はありませ
ん。自慢ではありませんが 基本的に言って批判には耐えて来ていま
す。



★ もうお互い干渉せず
☆ そう言えば いちど ヤジったことがありました。貶めるような
言い方になったと思います。

わたしは 売り言葉に買い言葉でけんかを避けませんが そういう過
程で起きました。

けんか両成敗の精神において あやまります。
d_y_nさん ごめんなさい。

お礼日時:2019/05/09 04:03

まずあなたには謝ってほしいね。


それが何か分からないと思う。
それがあなたの人格的な欠陥。
「ぼくの何かわるかったのかわかないのー ぼくにおせーておせーて」
あんたの歳でそれはアウト。
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この回答へのお礼

汽笛さんか キャラウェイ氏が おしえてくれるかも。

お礼日時:2019/05/08 21:27

自分が与えたいものではなく相手が求めているものが大事なのです。

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この回答へのお礼

疲れるという主題を持ち出したのは そちら。

それに合わせただけ。

自分勝手な思考だけを展開してはダメ。

お礼日時:2019/05/08 17:24

「疲れさせてすまないね」という趣旨の反応が返ってくるが思いやりです。

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この回答へのお礼

これからのちは 決して疲れることのない状態になるようみちびくこと

こちらのほうが 愛が大きい。

お礼日時:2019/05/08 16:50

また自分語り。

思いやりがない人。
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この回答へのお礼

そんなにさびしいのか。



いちど完全に《錆び》てしまえばいいんぢゃよ。

それを わび・さびと言います。

もう過去のことなので すぐには思い出さない


へっへっ。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/08 16:35
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