電子書籍の厳選無料作品が豊富!

1. 《我思う ゆえに我あり》は 存在の確実性を証しする間違いの
ない命題であるといまだに思っている!・・・としたら それはおかし
い。

2. ▲ (ヰキぺ:我思う、ゆえに我あり) ~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D …

§ 1 解説
(あ) 全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方
法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそ
のように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識して
いる我だけはその存在を疑い得ない。

(い) 「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分
自身の存在は否定できない。

(う) “自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する
証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. どうして? 

4. 《〈われ思う〉なら 〈われ思う〉ということがおこなわれてい
る》と言っているだけではないか? それ以外・それ以上のことは言っ
ていない。

5. 思うという行為をしているわれは その現象のかぎりで 存在し
ている。と言うに過ぎない。

6. そのあと いくらでもその存在を《疑い得る》はずだ。《うたが
う》ことは それとして現象するのだから。



7. 現象が起きていることと それが疑い得ない確実なことであるこ
ととは 別である。



8. ▲ (い) 「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っ
ている自分自身の存在は否定できない。
☆ 《「自分は本当に存在しないのではないか?」 と疑っている》な
ら 《そのように疑っている現象は起きている》と言えるに過ぎない。

9. そのようにして存在している(現象している)自身の存在につい
て《うたがう つまり それを否定しようと考える》なら その思惟は
現象している。現象を起こしているわれは それとしてそこにいる。・
・・と言っているまでである。



10. 人間の思惟が その思惟や存在を疑い得ないことだと確証しう
るという判断が どうして起きて来たのか?

質問者からの補足コメント

  • 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または
    宗教への絶対批判】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11097065.html

    ☆ これには 食指が動きませんか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/01 16:18

A 回答 (19件中11~19件)

食指

    • good
    • 1
この回答へのお礼

うごきましたか?




ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/02 20:10

モンテーニュは自然科学に対する“自然人学”と云えるかと思います。



人間とは何であるか?ではなくて、どの様であるか?という視点、現実を見つめる視点、での思索のように思います。いわば解剖学的な・・・。

☆ 哲学的には何であるか?が問題となるのではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

あぁ この質問への回答を受けて モンテーニュについてまだ検索して 
参考資料を見ることをしていません。何も分かりません。

ご回答をありがとうございます。

ということで:
★ モンテーニュは自然科学に対する“自然人学”と云えるかと思います。
☆ これも 分からないです。そうなんですか? 自然人学とは 初耳
ですが 《自然人》というのは 分かるような気はします。《自然法》
というのがありますから。

つまり おそらく自然本性にもとづきその振る舞いをすすめるような人
物像でしょうか。(違っていたら ごめんなさい)。




★ 人間とは何であるか?ではなくて、どの様であるか?という視点、
現実を見つめる視点、での思索のように思います。いわば解剖学的な・
・・。
☆ 生活態度つまり思想でしょうか。要素に還元して捉えるよりは す
でに実際の社会生活の中で どういう振る舞いをするか。

★ 哲学的には何であるか?が問題となるのではないでしょうか。
☆ いや――そういう傾向はありますが―― 何でも問い求めます。哲
学は。

《決議論》というのも あるんですが。

お礼日時:2019/05/02 15:59

ありのままを見つめる、と云う事がモンテーニュの姿勢だと思います。



<モンテーニュの「我何をか知る」>は、人間のありのままの姿を見る、という事ではないでしょうか。

その事々についての意見・感想、を述べたものであって、一つの「答え・哲学的な真理」を求めようとしたわけではないように受け止めています。

デカルトが何でうろたえたのか分かりません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いや 分かりません。わたしには 分かりません。――ご回答を
ありがとうございます。


そもそも 世界を前にして:
★ ありのままを見つめる
☆ ことのない哲学がありますか? 


また:
★ ありのままを見つめる
☆ ことと:
★ 一つの「答え・哲学的な真理」を求め
☆ ることとが 別のことだとは思えません。

そうぢゃないですか? 汽笛さん。



ただし:
★ モンテーニュの姿勢
☆ が どうであったかは くわしくは残念ながら知りません。

わたしは 停滞しています。

お礼日時:2019/05/02 13:43

モンテーニュは人間のありのままを見て、それを表現したのではないでしょうか。



この世の一つとしての真理、を探り出そうという立場の哲学ではないように思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

うーん。正直言って よく飲み込めないですね。

▲ われ何を知るか?

(☆ ちょとつ氏のように《われ何をか知る?》と表現すると もう
《何も知らない》という答えが 必然的について来ますね。
モンテーニュがどう言おうとしたのかは わたしには分かりません)。

☆ という発言は:
★ 人間のありのままを見て、それを表現したのではないでしょうか。
☆ という解釈ですよね?

つまり:
★ この世の一つとしての真理、を探り出そうという立場の哲学では
ないように思います。
☆ ということなんですが よく分かりません。

つまり 《われ何を知るか?》という・人間の知性の限界性を もし
指摘しているとしたならば それは 《この世の一つとしての真実》
を言い当てているとは思うからです。

絶対性なる真理であるかどうかは また モンテーニュの著作にあた
って考える必要がありそうです。




ちょっといつにも増して わかりにくい文章になっているかとおそれ
ていますが どうもわたしは渋滞してしまったようです。

問いは デカルト論であるにはあるのですが。・・・

お礼日時:2019/05/02 11:26

解説本なんかどうでも良いから、『随想録』そのものを読んでね。

ブラブラともあろう者なら、古典ちゅうのは解説なんて読むもんじゃなくって、まあ読むとしてもその古典に読み疲れた時の気晴らしぐらいで読むもんだとか、抜粋や抄訳なんて読むもんじゃなくって、その古典の全篇を読まなくちゃなんねえって事ぐらいとっくにお分かりなんだろうから。聞き齧りじゃダメだ、聞き齧りじゃ。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

息抜きという部分があるんですよ。――ご回答をありがとうございま
す。

文庫本で六冊くらいあったかな。これを放っておくことが 息抜きに
なっていたんだと思いますね。

それで 全体の坐りがよくなる。

ずるいことは分かっているけれど きっかけが欲しいということにも
なる。

ぶっちゃけ そんなとこですね。


お城に閉じこもっていたんだったのでは?

いろんな事情が わたしを遠ざける。開き直りですが。


ただ読めというお勧めというのは 抵抗がある・・・んですよ。

お礼日時:2019/05/01 21:07

>☆ 詳しくないながら推測しますが もし《ク・セー・ジュ?》と


いう果たし状のことだとしたら これは ごくふつうに《人間の知
性の有限性 つまり その意味での限界》のことをあらためて知ら
しめた・・・のではないかとは思うんですけれどねぇ。

そんな当たり前なことを唱えただけで、西洋の哲学界がパニックに陥るとでも思ってんのかね。あんたも西洋哲学を大分見くびっているんだね。そんなことぐらいで、デカルトがコギトと言い出すもんか。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

そうですか。――ご回答をありがとうございます。

モンテーニュの名が出されて 哲学史の議論が語られたという事例
を知らないんですが。

存在論や神論などの哲学の主題をめぐって モンテーニュが出て来
たという専門書を読んだ記憶がないんです 正直に言いまして。



それとは別に たしかに:
★ 西洋哲学を大分見くびっている
☆ という側面があります。次のごとくです。

【Q:ヨーロッパ人の真理論は成っていない!?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11046693.html



いづれにしても 《ク・セー・ジュ?》のあとに もうひと言欲し
いですね。

お礼日時:2019/05/01 19:55

モンテーニュはデカルトなんかに挑戦したんじゃありません。

哲学に挑戦したのです。モンテーニュの出現で哲学が足元を掬われてしまった。それでパニックになったデカルトが、ガキでも考え付くような理屈を考えついた。それがコギトです。

私個人の経験では、デカルトのコギトの理屈を推し進めて自分の自然科学の研究分野の発見の役に立ったことは皆無でした。一方、モンテーニュの「我何をか知る」の思考原理は多くの生産的な発見へと私を導いてくれました。だから自然科学をやりたいならデカルトなんかは余興程度に娯楽として読むだけで宜しい、それよりもはるかに生産的なモンテーニュを真剣に読めと若いもんに常々言うとります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

知らないゆえとは言いながら それはたいへん失礼しました。すみ
ません。

★ 哲学に挑戦したのです。モンテーニュの出現で哲学が足元を掬
われてしまった。
☆ 詳しくないながら推測しますが もし《ク・セー・ジュ?》と
いう果たし状のことだとしたら これは ごくふつうに《人間の知
性の有限性 つまり その意味での限界》のことをあらためて知ら
しめた・・・のではないかとは思うんですけれどねぇ。

つまり こわいもの知らずで言うとすれば 《人間は 相対的な存
在である》という基礎の前提を言っていると受け取るわけです。

ですから もうこのまま乱暴な態度をつらぬくとすれば 《クセ-
ジュ?》のそのあとに もうひと言何かが欲しいと思うわけです。
それがないとなると 読む気がしなくなった・・・という事情だっ
たかも知れません。


あぁ 言いたい放題になりましたが デカルトは――数学で座標を
創作したとか高い次元というものを創造したとかどうとかを別とし
て―― 総じてつまらぬという点で 一致したんですかね。




絶対性理論については 兜を脱ぎましたか?




☆ いや モンテーニュについては あなた以外に推奨する批評を
見たことがないように思うんですけれど。・・・これは 珍現象な
んですかね。(誰も けなしてもいないわけですが)。

お礼日時:2019/05/01 19:22

ちゃうよ。

モンテーニュの挑戦の解答のつもりだったんだよ。
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしは何を隠そう モンテーニュは 積ん読だけです。この――あ
なたと同じですが――歳になっても ぱらぱらとめくっただけです。

あなたが しきりにモンテーニュ礼賛をくりかえしていても食指が動
きませんでした。なぜか分かりません。

ク-セー-ジュ? って言うんでしょ?
われ何を知るか? 

そしてその問いのごとき命題をもって:
・ モンテーニュがデカルトに挑戦した
・ それに対してデカルトは このコギト命題をもって解答した

☆ ということなんですか?

いや。いやいやいや。どういう事情であろうと このコギト命題は
それ自体が 成っていないぢゃないか? という批判です。

そこんところは どうですか?

お礼日時:2019/05/01 12:35

何故灸に無視が発生するようになったり、


入力した文字が目hc区茶になったり、
めちゃくちゃですよね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

それは 災難ですね。

お礼日時:2019/05/01 03:18

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!