
1. 自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態としては あり得ない。ですよね?
2. あっても ① わがままだとか我執だとかの心理的に強固な気持ちだったり ② 或る種の条件反射のごとく何かに反発して動き出す意志のような意志ではないようなハタラキだったりするのみであって けっきょくたとえば《個人にとって社会的に自我が形成される》といったような意味合いの実態はない。はずだ。
3. 《わたしはわたしである》あるいは《〈わたしがわたしである〉わたしがわたしする》といった実存があるのみ。《わたし》は 《わたし》であるべくすでに――自然本性として――形成されている。
4. わたしの自己形成ののち すでに存在するわたしが確立されるのだ。われと別様に自我を確立するのではない。われはこう思うということはあっても わが自我はこう思うとは言わない。
5. 超自我とエス(リビドー)とのけんかを取り持つというような自我は けっきょくワタシのことでありその理性ないし意志だと考えられます。
4. 自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?
5. 定義を問わずイメージだけによっても自由に表現を練っていく文学としては持って来いなのかも分かりません。
A 回答 (66件中1~10件)
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No.65
- 回答日時:
自我とは生物が環境に適応するために自己を規定することである。
自我は自覚でもある。
蹴飛ばした場合の恐慌は大きいよ。
適応であるために自我の根本的な素性は「世界の全てとの親和性」であり、仏様だよ。
コツコツと自我存在はそれを目標とする。
無私は誰にでもわかっても無我とは「死にたくてたまらない」という恐慌が起きる。
たどたどしいキリスト関連よりも、こちらは楽勝だよ。
あなたは師匠なので話しかけやすい。
私を師匠とする弟子もいる、(おもちゃ業務関連)師匠である私が弟子に持ち掛けたいのは、弟子とは師匠を追い越してこそ師匠への恩返しだという気構えだよ。
弟子のほうが長生きして、弟子の活躍は師匠である私の名誉なんだ。
ご回答をありがとうございます。
★ 自我とは生物が環境に適応するために自己を規定することである。
自我は自覚でもある。
☆ ご趣旨に沿っていうとすれば:
自我は 自己みづからについての自覚である。
われは 自然および社会の中にあってそういう環境に適応しようとする。
ただし われなる人間は その存在じたいが 自然でもあり(自然本性)またすでに社会に生きる動物である。
――このように存在するわれを総合的に規定するのが 自我だ。
☆ けれどもそれは 《われ・わたし・自分・自己》だと思う。
★ 蹴飛ばした場合の恐慌は大きいよ。
適応であるために自我の根本的な素性は「世界の全てとの親和性」であり、仏様だよ。
☆ たしかにブッダターのことを 自我とも呼ぶらしい。
自我は 我執となって 親和性をやぶることもある。
★ コツコツと自我存在はそれを目標とする。
無私は誰にでもわかっても無我とは「死にたくてたまらない」という恐慌が起きる。
たどたどしいキリスト関連よりも、こちらは楽勝だよ。
☆ そう言えば 無我の境地と言う。ただしこれは どうも世間から一たん離れたところで養うかのよう。
無私の精神は 現実の生活の中で発揮しようかという心構えなのか。
★ あなたは師匠なので話しかけやすい。
私を師匠とする弟子もいる、(おもちゃ業務関連)師匠である私が弟子に持ち掛けたいのは、弟子とは師匠を追い越してこそ師匠への恩返しだという気構えだよ。
弟子のほうが長生きして、弟子の活躍は師匠である私の名誉なんだ。
☆ たくさんの教材を仕入れてこなしている。と思う。
No.62
- 回答日時:
私は足りないのだと思います。
つとに書籍を読んでいないので、自分の精神表現の機微を文字として起こすのが下手くそになっているようなのですが。
No.61
- 回答日時:
>図々しいような 謙虚な態度のような ですが 哲学の実践としては いつまでもあの山の頂上をめざしてがんばるんだという姿勢〔の連続〕とは ちょっと違うと思います。
聖俗・優劣・淨穢の二項対立を立てて つねにうしろの事項から前の事項を仰ぎ見るような思想(≒生活態度)は どうかと思います。
仮りにたとえ俗や劣や穢の側に位置していたとしても 聖俗・優劣・淨穢をすでに超えている視点――それは 誰もにとっての自然本性のあり方です――を 世界の認識とさらには変革に際して実践していくとよいと考えるのですが。
世俗と切ることはできなくとも、物の価値観が固定化しがちで、私は思慮深くないと思われます。
ご気分を害してしまい、申し訳ありません。
なんで 世俗と切るのですか?
世俗の中にある存在じたいは 聖なる者と同じ存在なのでは?
つまり 聖俗というのは 同じ存在の上に プラスの飾りとマイナスの飾りをそれぞれつけただけの違いなのでは?
しかもそのプラスマイナスは 限りあるもので・移ろいゆかざるを得ないもので しかも優れているとしても程度問題におさまる性質のものです。
世界は すべて相対性として成り立っているのではないのですか?
No.60
- 回答日時:
それは、「自未得度先度他」という禅の言葉を教えていただいたことです。
「己、未だ渡らざる前に、まず他人を渡せ」。 この言葉は、人を教え導こうというのならば自分が先に渡るのではなく、まず他人を渡す心を持たなくてはならないという意味です。無住処涅槃
むじゅうしょ-ねはん
住は所住の意で、住する所を意味する。従って無住とは固定的な状態を否定する意である。無住処涅槃とは、智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず、しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらないことをいう。
これを、智慧有るが故に生死に住せず、慈悲有るが故に涅槃に住せず、といい、涅槃にありながら涅槃を超えているから無住処涅槃という。菩薩の総願である四弘誓願には「衆生無辺誓願度(一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。)」とあり、この誓願が本当に発るならあらゆる衆生と連帯していこうと願う菩薩は生死にありながら生死を超えているのであった。『論註』で「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。」(論註 P.143) と示す所以である。
御開山は『涅槃経』の如来常住をあらわす「不畢竟涅槃(畢竟涅槃せず)」の文を、畢竟涅槃にあらざる(真巻 P.348)、と訓じられたのも無住処涅槃の意を顕わそうとされたのであろう。この無住処涅槃が浄土真宗における涅槃であり、衆生が往生し弥陀同体のさとりを得て後の還相の利益のすがたを示す淵源であった。御開山が「証文類」の総結で「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) と示される所以である。
図々しいような 謙虚な態度のような ですが 哲学の実践としては いつまでもあの山の頂上をめざしてがんばるんだという姿勢〔の連続〕とは ちょっと違うと思います。
聖俗・優劣・淨穢の二項対立を立てて つねにうしろの事項から前の事項を仰ぎ見るような思想(≒生活態度)は どうかと思います。
仮りにたとえ俗や劣や穢の側に位置していたとしても 聖俗・優劣・淨穢をすでに超えている視点――それは 誰もにとっての自然本性のあり方です――を 世界の認識とさらには変革に際して実践していくとよいと考えるのですが。
No.59
- 回答日時:
まず 勝手な回答です 質問をさらっと見ての回答です、
自我の表現は自分の意思が芽生えた事
子や孫に使います、
思い通りにならない時に 泣いたり 怒ったり
自分の意思が出来上がって来た時に
自我が出て来てっと 使います、
何か不明な事が有りますか。
ご回答をありがとうございます。
★ まず 勝手な回答です 質問をさらっと見ての回答です、
☆ はい。
★ 自我の表現は自分の意思が芽生えた事
子や孫に使います、
☆ 自分自身の若いころのそのような事態についても ですよね。
あるいはつまり ものごころがついたとき自分の欲することをはっきり言えるようになった場合でしょうか。
つまり 意志が(あるいは 具体的な意志としての意思が)明確に表現されるようになったとか ものごとについて主体性をもって発言するようになったといった事態ではないでしょうか。
★ 思い通りにならない時に 泣いたり 怒ったり
自分の意思が出来上がって来た時に
自我が出て来てっと 使います、
☆ 意思の問題は 前項と同じくですね。
思い通りにならないときというのは おそらく 自分がそのことを果たそうとしているその自分自身にあらためて気づくのであり 自己を確認しているといった事態でしょうか。
★ 何か不明な事が有りますか。
☆ いえ つまり 自我という言葉を使わなくても不都合はない・・・と思えるんですが。
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№8つづき1
意志は ①記憶の意識化にも ②その情報の取り上げ・再整理編集加工また命題から命題への推論にも ③知解一般のよしあしの判断・知解結果(複数)の中から結論の取捨選択そして結論の実行にも はたらく。
記憶が 精神の基礎であり 意志は精神の中軸となる。知解は 世界と自己とを知り自由に生きるという理論だ。
▲ 【主観】
通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが
☆ 精神(記憶・知解・意志)なるわれのほかに 何のこっちゃ。よう分からんわい。
▲ カントの認識論では 個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする
☆ 《物自体》を設定するかぎり 《超越論的主観》は 霊性ではなく 知性(ないし理性)である。
人間による認識は いわゆる客観に近づくが あくまで〔近似値としての客観を得るまでの〕主観的認識である。
つづく
№8つづき2
▲ 【主体】
(「主観」が認識論的意味で用いられるのに対し、存在論的・倫理学的意味で)行為・実践をなす当のもの
☆ という定義がよいと思う。おのおの《われ》である。
▲ 【物質】〔matter の訳語〕
意識から独立して時間空間内に存在し、感覚によってとらえられる客観的存在
☆ それは 質料(同じく matter )。《物質》は 唯物論のそれであり じつは《超越論的質料》のこと。つまり 何を隠そう 霊性である。
▲ 【反省】〔 reflexion 〕
☆ 意識が自分の外へ向かうのではなく 内外の境界から折れ返っておのれの内面へ向かうこと。この場合の意識は 知解作用を内容とする。
▲ 【作用】
☆ はたらき。
▲ 【内容】
↔形式
☆ 家の骨組みが 形式。使われている素材が 内容。
つづく
№8つづき3
▲ 【自己】
☆ 人たる主体が みづからを認識するとき 〔代名詞ではなくじつは固有名詞である〕《われ・わたし》のほかにこれを意識するとき《おのれ・みづから・自己・自分》とよぶ。
▲ 【他者】
☆ ヒトという同じ種の内 自己ではない者。
▲ 【対象】
☆ 一般に知覚および認識が向かうそのもの
主体に対して(主体を除いた他のものは)客体。主観に対して客観。
▲ 【対象化】
☆ 対象を捉えたならそれを意識して 対象化。
▲ 【対自】〔 für sich 〕
存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方
▲ 【即自且つ対自】〔 an‐und‐für‐sich 〕
ヘーゲル弁証法で、「即自(アン-ジッヒ)」と「対自(フュール-ジッヒ)」の統一
☆ それでもまだ 単なるひとつの主観認識。
▲ 【即自】〔 an sich 〕
☆ 無自覚だということ。
つづく
№8つづき4
▲ 【自我】
自分
自己
意識や行為をつかさどる主体としての私
☆ なのに《わたしの自己形成と世界にあるというおのれの自覚》を《自我に目覚めた》というらしいが なんで《われ》とは別の言葉を持ってこなくてはならないのか? 二重人格ぢゃあるまいに。
▲ 人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる
☆ いい加減 主観ないし主体たるわれについて捉えて来たのにそしてそこでこそ記憶・知解・意志から成る精神についての現象学を展開したのに ここで何で 別の用語として自我が出て来るんだよ?
▲ 【非我】〔 Nicht-Ich 〕
▲ 【自律】〔Autonomie 〕
☆ 〔自立はおもに経済的な独り立ちか に対して〕自律は 主観の限りでそのよかれと思うそのように考え行動することであり 独り善がりをまぬかれない。
▲ 【自己意識】
自己自身についての意識