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『悟り』というものは、
本当に存在するのでしょうか?

『瞑想をする』
『自分の感情を観察する』
『自分の思考を観察する』
という事を普段行っているのですが、
いまだに確信が持てません。

どんなに努力や我慢をしようと、
その努力や我慢をしているのは『自分』です。
その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。
という意見も聞きます。

『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか?

もっと良いやり方が、存在するのでしょうか?

皆様の意見を聞かせて下さい。

よろしくお願いします。

A 回答 (28件中1~10件)

貴方が真摯に人生を見つめて、貴方の人生に向き合っている事が分かります。

その場合一番手っ取り早い方法は、仏教の極意を求めていてなおかつ手に出来ない理由を、求める事が大事です。仏教の極意は『生死の問題の解決です』この事実を我が物にしたいと言う貴方の態度は、真に、見るべきものが在ると言えます。

仏教の極意をものにする方法は、三つの方向が有ります。一つは『知』です。是は知識からです。この場合には並外れた『頭脳』が要求されます。哲学から人生の極意をものにするほどの頭脳と考えられます。

もう一つは『情』です。是は湧き上がる感情の流れから、『至る事』です。もうどうしようもなくなる場合です、もうどうしようもなくなって『全てを諦める場合です』大抵の場合は『死ぬ瞬間』に至っています。死を間じかにした場合には大抵の場合に『全てが判ると推察出来ます』本当に『自分が死ぬ事になると思う場合』分かるはずです。この体験は『他力宗』による体験と思います。是はむしろ『知識が無いほうが、至りやすいと推察出来ます。畳の上で死にたいと言う場合には『死ぬ瞬間には、悟りが開けて、死を安らかに受け入れて』死んでゆく事が推察出来ます。笑いながら死んでゆく場合です。或いはこの体験後に『笑いながら生きる事を体験できます。』

もう一つは、貴方と同じ『自力』です。是は『意識』の力です。『意識する事』から入る事です。この場合には『人間の知識や計らい』が如何に無力であるかを知るところから入ってゆく事を意味します。この意味するところは『学ぶ事は出来ない事』を了解する事です。この場合のテキストが『禅問答』です。禅問答は『左脳の意識=自我意識』では解くことが出来ないように工夫されています。

此処から入るには『不断の努力が必要です』悟りたいと常に意識する事です。ですが『意識し続ける事は出来ません』出来なくともする事が肝要です。

悟りを開く瞬間は、『意識が無いところからです』この意味は、人間の意識は『意識する自分=左脳の自我意識』と『右脳の意識=無意識の意識』は、『絶えず相談しながら、心(意識)の交代性が出来ている事』を意味しています。

絶えず『どちらの意識』の出番が、『今』のこの瞬間に必要かを『相談しながら人生が成り立っている事を意味します』

悩みと苦悩する事と疑問には同じ意味があります。或いは心を病む事と神経症になると云う事と自律神経失調症にも共通点が有ります。全てが『心の矛盾』を別な形で『心=自我意識』が感じていると言う意味においてです。

心の矛盾とは、右脳の意識と左脳の意識の矛盾です。悟る事はその矛盾が解決すると言う意味になります。二つの意識の間に『ホットライン』が構成される事を意味します。』

その体験後は『心同士が争わなくなる事』を意味します。心に平安が訪れて、心に静寂が訪れる事を意味します。その境涯が『涅槃』です。二つの意識が『解かり合えた』と言う意味です。キリスト教においては、神に会って和解するという体験です。

貴方の場合にお奨めしたいのは『鈴木大拙博士』の書いたものが良いと思います。大拙博士は25歳で悟りを開いています。その体験を生かして研究を進めてものを書いているからです。書かれたものには無駄がなくて、要点が書かれているからです。

私の体験から話をするなら、14歳で『死の恐怖症』になって。27歳で鈴木知準先生に会って『入院森田療法』を受けて、その時に鈴木大拙博士の存在を知って、その歳から読み始めました。そうしてその後32歳で『無意識の意識』に出会うと言う体験がありました。今はもう63歳になりました。

32歳の体験があって『死の恐怖症』になった事も治った事もすべて忘れ果てて過ごしていました。『禅』には力があると思います。精神衛生にはよい事をヨーロッパの人達も認めていますが『如何して良いのかは』まだ謎に包まれている、とされています。』

右脳と左脳が喧嘩していると言っても、まだ世界中の人は『私の言う事を』認める筈が無いことも知っています。健闘を祈ります。
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この回答へのお礼

(-人-)『tumaritou1さん、いつも回答ありがとうございます。』

(  ̄Д ̄) 『仏教の極意を求めて、手に出来ない理由を、求める事が大事。』

( ̄へ ̄ )『そうなんです。そこらへんがまだ自分の中で、うまく整理できないんですよねぇ。_| ̄|○』

(  ̄Д ̄) 『極意をものにする方法は、三つ。一つは【知】。もう一つは【情】。もう一つは、【自力】。』

( ̄へ ̄ )『ふむふむ。人それぞれ、いろんな道を進んでますけど、どの道も【悟り】に繋がってはいるんですよね。きっと。それを知らないが為の苦しみというか。』

(  ̄Д ̄) 『悟りを開く瞬間は、【意識が無いところから】』

( ̄へ ̄ )『ここがやはり難しい所ですよね。【自我意識】を克服したい【自我意識】。』

(  ̄Д ̄) 『心の矛盾は、右脳の意識と左脳の意識の矛盾。悟る事はその矛盾の解決。二つの意識の間に【ホットライン】が構成される事。その体験後は【心同士が争わなくなる】。心に平安が訪れ、心に静寂が訪れる。その境涯が【涅槃】。』

( ̄へ ̄ )『ふむふむ。これはこの間教えて頂いた、【ジル・ボルト・テイラー】さんのやつですね。』

(  ̄Д ̄) 『お奨めしたいのは【鈴木大拙博士】の書いたものが良い。大拙博士は25歳で悟りを開いている。その体験を生かして研究を進めてものを書いている。書かれたものには無駄がなく、要点が書かれている。』

( ̄へ ̄ )『【鈴木大拙博士】の本の中で、初めて読むのにオススメはありますでしょうか?教えて頂けると助かります。』

(  ̄Д ̄) 『私の体験なら、14歳で【死の恐怖症】になり、27歳で鈴木知準先生に会い【入院森田療法】を受け、その時に鈴木大拙博士の存在を知り、その歳から読み始めた。その後32歳で【無意識の意識】に出会う。今は63歳。32歳の体験があって【死の恐怖症】になった事も治った事も忘れ過ごした。【禅】には力がある。』

( ̄へ ̄ )『私の場合、【なんで人生を生きなきゃいけないんだろう?】と思う事も、ちょくちょくあるんですが、【無意識の意識】に出会った時というのは、【やっぱり人生はいいものだ】と思えたものなのでしょうか?』

(  ̄Д ̄) 『健闘を祈ります。』

(-人-) 『tumaritou1さん、いつもありがとうございます。』

お礼日時:2011/10/19 17:14

>「鵜呑みにしないとか、そういう事ですかね。



「先入観から自由になる」とか、「「思い込み」から離れる」ということと(も)思います。
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この回答へのお礼

kurinalさん、ありがとうございます

【先入観から自由になる】

【思い込みから離れる】

了解致しました。

アドバイス ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/14 01:46

こんばんは。



仏教において、まず大切なのは「ただしく知ること」であると聞きました。

で、「ただしく知ること」とは、
「99.9999%間違い無い」ということでも、残りの0.0001%を疑う、
といったことではないかと思います。
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この回答へのお礼

kurinalさん、回答ありがとうございます。

最近仏教を勉強し始めました。

仏教は論理体系がしっかりしているというか、なんというか、凄いんですよね。

【99.9999%間違い無いということでも、残りの0.0001%を疑うこと】

う~ん深い。

鵜呑みにしないとか、そういう事ですかね。

元気貰いました。

ありがとうございます。(-人-)

お礼日時:2011/10/13 23:17

ANo.11です。



質問者様は、悟りを概念として捉えようとするあまり、自分の解釈が正しいかどうかを気にし過ぎていますね。アナタは「理」から入るタイプで、納得するまで調べないと気が済まない人なのかも知れませんけど、ちょいとばかり努力の方向性が違うかなと思いました。

アナタを納得させ得る悟りの体系は、大きく分けて三つあります。それは上座部仏教と、禅(曹洞宗)と、神智学です。他にも悟りを説く体系?はありますけど、悟りの定義が適当だったり、混乱を招く様な表現を乱用したりするので、それらの体系を勉強するにしても、先に紹介した三つの異なる体系を十分に学び、基礎を固めてからにした方が良いと思います。

勉強する順番はどれからでも構わないと思うのですが、個人的には曹洞宗発心寺、原田雪渓老師や井上義衍老師の著書から読んでみる事をお薦めします。その後で上座部仏教の日本テーラワーダ仏教協会と、神智学協会ニッポン・ロッジのホームページを熟読すれば、得るものは多い事でしょう。

とりあえず、この三つの体系を学べば、悟りについての大抵の話には、ついていける様になる筈です。その上で気になる事や解らない事が出てきたなら、またここで質問してみて下さい。
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この回答へのお礼

siryuanさん、回答ありがとうございます。

確かに、私は理屈っぽい気がします。_| ̄|○

教えてもらった学問を、勉強してみます。

本当にありがとうございました。(-人-)

お礼日時:2011/10/13 13:13

やあ。


ブースターだよ。

とんちんかんで面白いね。
>)『自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。』

あんたの自我の話だよ。
飼いならす?

その実践は、私をペット扱いしてくれるご主人様を募集中ですわん。
オカマ言葉でこのように言っているのと同じだぞ。
自分の自我だぞ。

悟りと言うならばむしろ自らに尋ね自らを知ると踏まえた方がいい。
人に聞くな。
テメエで何とかしろ。
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この回答へのお礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。


(  ̄Д ̄) 『やあ。ブースターだよ。とんちんかんで面白いね。』

( ̄へ ̄ )『ガックシ。_| ̄|○』

【自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。】

(  ̄Д ̄) 『あんたの自我の話だよ。飼いならす?その実践は、私をペット扱いしてくれるご主人様を募集中ですわん。オカマ言葉でこのように言っているのと同じだぞ。自分の自我だぞ。』

( ̄へ ̄ )『確かに。』

(  ̄Д ̄) 『悟りと言うならばむしろ自らに尋ね自らを知ると踏まえた方がいい。』

( ̄へ ̄ )『ふむふむ。』

(  ̄Д ̄) 『人に聞くな。テメエで何とかしろ。』

( ̄へ ̄ )『了解しました。』


(-人-)Flareonさん、今回もありがとうございます。

お礼日時:2011/10/12 20:46

2012年のアセンションで、悪の原因である自我が、人の心から強制的に抜き取られます。

だから人類すべてが善人になります。2012年の、アセンションとは、人が夢から覚めて、本当の調和の世界を、神の世界を見る事です。そして人は、調和の世界、神の世界にいる事を実感するでしょう。この世界は、仮の世界、つかぬまの夢の世界です。脳の自我の霧に包まれて、真実が見えません、しかしアセンションで、脳が自我が人の心から分離して、消滅するので、この世から災難が消滅して、人は神の子である事を知るでしょう。捕捉します。心が、脳の自我の事なら、無い方が良いです。仏教では、自我が人の苦しみの原因だと教えます。そして、動物や赤ちゃんのように、無我になるために座禅、瞑想をします。だから脳が未発達で、無我である、赤ちゃんや動物は幸せです。しかしいよいよ、脳が発達した自我がある大人も、幸せになる時がきました。マヤ暦では、2012年に人の心から、脳が自我が分離、消滅、します。そして人の心は、無我になり、幸せ時代が到来します。時間が、速くなっていると感じる人が、多くなってます。止まる前触れだと言われています。時間が止まり、この仮の世界が終わるのが、アセンションです。この世界は、仮の世界なので、シュミレーションです。この世界の外に本当の世界が、あります。この世界は仮の世界です。だから始めと終わりがあります。始めから終わりまでが時間です。本当の世界は永遠なので時間はありません。これはアインシュタインの相対性理論や仏教哲学で証明されています。マヤ暦では2012年だと言われています。宇宙の太極は、完全調和の世界です。調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。ここで不調和世界の脳と、調和世界の自然の心である神が、出会う事になりました。そこへ調和の世界から、宗教で言う神の子の無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。だから人の心は、自我と無我が合体して出来ています。最初の頃は、無我が強く自我が小さいので、神の超能力がありました。だから神と人の合いの子である、神人と呼ばれていました。アトランチス古代文明頃までいました。神人がピラミッドを創りました。現代は、人は、自我が強く無我が小さいので、神の超能力はありません。そして人は、脳が自我が自分だと勘違いをしています。人は本当は、無我の神の子です。しかしいよいよ仮の世界が、終わる時が来ました。終わると、仕切り直しになるので、人の心は、脳の自我と、神の無我が、解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。脳の自我は、不調和世界の脳の世界へ、神の無我は、完全調和世界の神の世界へ帰ります。人は、神の子だから神の世界へ帰ります。
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この回答へのお礼

satol2012さん、回答ありがとうございます。


(  ̄Д ̄) 『2012年のアセンションで、悪の原因である自我が、人の心から強制的に抜き取られます。』

( ̄へ ̄ )『ま...まじっすか。自分の力じゃなくて強制的なんすか。』

(  ̄Д ̄) 『脳の自我の霧に包まれて、真実が見えません。仏教では、自我が人の苦しみの原因だと教えます。』

( ̄へ ̄ )『ふむふむ。やはり苦しみの原因は、皆さんが自我と呼んでいるもんなんですね。』

(  ̄Д ̄) 『この世界は、仮の世界なので、シュミレーションです。』

( ̄へ ̄ )『うんうん。皆さん、そう言いますよね。』

(  ̄Д ̄) 『だから始めと終わりがあります。本当の世界は永遠なので時間はありません。』

( ̄へ ̄ )『よく聞きますね。人間にはどんな感覚なのか想像できませんよね。』

(  ̄Д ̄) 『調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。』

( ̄へ ̄ )『なんの為に、成長拡大するんだろう。』

(  ̄Д ̄) 『人の心は、自我と無我が合体して出来ています。』

( ̄へ ̄ )『やっぱりそうなんですね。まだまだ謎が多いな。』


(-人-)回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/12 18:01

ブースターだよ。


無我を目指すなら我はにっくき敵なのだろうな。
それで自我が悪なんだろうなー。
あーあー、くだらねーなー。
それじゃあ自分を解き放つと柔らかい表現をしても過酷な人格崩壊しか思いうかばねーだろーなー。
なんたって敵に回してんだよ。
それはやめておけ。
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この回答へのお礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。


(  ̄Д ̄) 『ブースターだよ。』

( ̄へ ̄ )『ブースター?ジェット噴射ですか?』

(  ̄Д ̄) 『無我を目指すなら我はにっくき敵なのだろうな。それで自我が悪なんだろうなー。あーあー、くだらねーなー。』

( ̄へ ̄ )『グサッ!!』

(  ̄Д ̄) 『それじゃあ自分を解き放つと柔らかい表現をしても過酷な人格崩壊しか思いうかばねーだろーなー。』

( ̄へ ̄ )『ふむふむ。確かに。』

(  ̄Д ̄) 『なんたって敵に回してんだよ。それはやめておけ。』

( ̄へ ̄ )『自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。』


(-人-)今回もありがとうございました。

お礼日時:2011/10/12 16:53

悟とは何か特別の境地に至るという意味ではないと思いますよ。


日々の気付きや思索によって自分と他人、その集合体である世界を理解する過程のひとつひとつが悟りじゃないでしょうか。
悟りを努力の報酬と考えてはいけませんねぇ。

>『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか?

悟るべきは『自分』でしょうに。
自分自身を悟らせるために貴方は自身を観察しているのではないですか。
悟るほどに自分自身が小さくなる(無に近づくといってもいいかもしれません)という感覚はないですか。
私はよくありますけど。
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この回答へのお礼

shift-2007さん、回答ありがとうございます。


(  ̄Д ̄) 『日々の気付きや思索によって自分と他人、その集合体である世界を理解する過程のひとつひとつが悟り』

( ̄へ ̄ )『やっぱり日々こつこつと気づいていくしかないんですよね。』

(  ̄Д ̄) 『悟りを努力の報酬と考えてはいけない。』

( ̄へ ̄ )『う~ん...これはどういう意味なんだろう?』

(  ̄Д ̄) 『悟るほどに自分自身が小さくなる(無に近づくといってもいいかもしれません)という感覚はないですか。』

( ̄へ ̄ )『日々、エゴや余計な欲に気づいて、捨てていくと楽にはなっていきますけどねぇ。そういったニュアンスですかね。』


(-人-)回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/12 16:38

『私が現在、人生の事で悩んでいる状態で、



【見性】が起こらないという事は、

まだどこかで、【自我意識】で解決できると考えているという事にもなるのでしょうか?』


そういう事になります。貴方の計らいが見性の邪魔をしています。貴方が『貴方の悩みと一つになる時』貴方の計らいが尽きるかも知れません。全ての計らいが尽き果てた時ですので、貴方が『思ってもいない時』です。見性したいと言う気持ちさえ感じていない時ですので、『思いがけずに、、』や「思わずに、、、』と言うタイミングでやってきます。

強く意識して、強く願いながらも、全てを忘れる時です。この意味は『すべからく、何事にも身を入れなさい』と言う意味にもなります。見性を意識しながらも、『全身にも』意識が回っている時です。

一昔の臨済宗では、今書いた意味を『足の裏で考える』と表現しています。
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この回答へのお礼

tumaritou1さん今回も回答ありがとうございます。

【強く意識して、強く願いながらも、全てを忘れる時】

なるほど。

凄いアドバイスをありがとうございます。

まだうまく、自分の中で整理できませんが、よく考えてみます。

本当にありがとうございます。(-人-)

お礼日時:2011/10/12 16:16

やあ。


君を家畜人と見下して一つ言い放っておこう。

野獣なり悪魔なりを恐れるのなら悟りはあきらめる事だ。
悟りの至福とはかような困難のさなかにある。
実態は狂気を理解することにあり、愛をかざし理性を持ってふるまってこそ光明が有る。
狂気に流されてマジギレ哲学しか展開できないのならそれが恐れゆえだ。
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この回答へのお礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。


(  ̄Д ̄) 『やあ。君を家畜人と見下して一つ言い放っておこう。』


( ̄へ ̄ )『グサッ!!』


(  ̄Д ̄) 『野獣なり悪魔なりを恐れるのなら悟りはあきらめる事だ。』


( ̄へ ̄ )『自我意識で苦しむ事を恐れるな。という事かな。』


(  ̄Д ̄) 『悟りの至福とはかような困難のさなかにある。』


( ̄へ ̄ )『自我意識で苦しんでいる時に悟りは訪れる。といった事なのかな。』


(  ̄Д ̄) 『実態は狂気を理解することにあり、愛をかざし理性を持ってふるまってこそ光明が有る。』


( ̄へ ̄ )『自我意識を理解し、愛と理性を持ってふるまう。という事かしら。』


(  ̄Д ̄) 『狂気に流されてマジギレ哲学しか展開できないのならそれが恐れゆえだ。』


( ̄へ ̄ )『全ての攻撃は、その人にとっては防御である。恐怖ゆえにという事か。』



ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/11 22:10

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