「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

 1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

 2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 


 




 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

 4. 孤独どうしであり 孤独関係である。

 5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不自由や不安やまた孤独関係に向き合ってあゆむものか。

 6. それとも われが孤独関係なるわれに立つとき おのが孤独なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

 7. 固有なる《とき》こそが われのわれなる所以である。か?




 【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】
 その回答No.7をめぐって考えようとする問い求めです。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8580531.html

A 回答 (10件)

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。

例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ死んでもおかしくないし、かまいもしない存在です。でも、そのような覚悟を理想的に完了すれば、他人のそれぞれが、それぞれに唯一無二である事も了解できるはずです。それは対話への契機だと思います。


>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

という問いは、たぶん無意味だろうというのが、自分の意見です。

>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか?

 そういう意見です。


[追伸]
 あなたとのやり取りは、個人的にはけっこう長いと思っているのですが、過去の会話に鑑みて、真意を汲み取って頂けませんかね?。都合の良い話だとは思いますが・・・(^^;)。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 何だかご要望がそえられてますね。

 そういうことには とんと構わない人間なんですけれど 世渡りがだめですかねぇ。




 ★ 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか?

 そういう意見です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 《孤独》論派ということですね。

 わたしはこれまで理屈として孤独については その中にあって《孤独とは 孤独〔と孤独との〕関係なんだ》と知って 社会に立ち戻るものだと思っていました。

 ところが そういう心の風景と言いますか 心の立ち位置と言いますかは 心の外だという見解が現われました。心は むしろ《孤独》なる《おのが固有のとき》にあるのだという見方のようです。(内と外とを別様に解釈しているかも知れませんが そういうかたちに落ち着くのではないかと思います)。




 ところが かつて 次のような詩〔のようなもの〕を書いたことがあるのを思い出しました。


     華のにほひの

  最もわたくしなるもの
 
  が語るもの

  ふたたび

  レアリテをくどくもの

  書物を生きるのも

  わたくしが

  書信をささやくのも

  おおいなる

  物語りよいかれ

  おおやけなる

  組み込まれる

  和歌よ しかも匂え

  歪みを彩る

  最もわたくしなる

  華のにほひの



 すなわち 《最もわたくしなるもの》ということで ひょっとしたら《孤独》のことを言っていたかも知れないと思ったわけです。

 孤独論派は いるもんですね。




 ★ それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。
 ☆ これは 実際問題ですね。


 ★ その意味で、その自分は絶対的に自由ですが
 ☆ これも 実際問題からみちびきつつも 理論の問題でもあるはずです。それ以上失うものも 頼るべきよすがもないといった消極的な意味合いであるかも知れないとしても。




 ★ でも、そのような覚悟を理想的に完了すれば、他人のそれぞれが、それぞれに唯一無二である事も了解できるはずです。それは対話への契機だと思います。
 ☆ われは それぞれ 掛け替えのない存在である。これを互いにとうとぶことができる。孤独を基軸としてのように 互いに対話に入る。といったところでしょうか。




 こんなところでしょうか。どうでしょう。

お礼日時:2014/05/07 20:28

何度も失敬。

どうでもいいかもだけど追記。


おいらが見つけたおいらというみなしごは、
絶望するくらい何モノか分からないやつで、



○○花子という名前だとか、年齢はいくつだとか
性別は女だとか、どこそこで生まれたとか
誰々の妻で誰々のオカンだとか
こんな職業をしているだとか、

そういう属性や役割を取っ払って見つめると
「こいつ何モノ?」「本当に分からん。」

そうしてまじわりが始まる、ような気がする。
                                 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ううーむ。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 そういう属性や役割を取っ払って見つめると
 「こいつ何モノ?」「本当に分からん。」

 そうしてまじわりが始まる、ような気がする。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よくわたしは クリスマスツリーに例えることがあるのですが。
 
 つまり 飾り――これは むしろ カザリ≒シガラミとでも見られるように思われます――を取っ払って モミの木本体のみとなる。というタトエですが どうですかね。



 

お礼日時:2014/05/10 21:40

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



宇宙のみなしごは、
見つけてもらわなくちゃいけません。
だれかに、でもいいんだけど、自分に、かな。
たぶん風船がひっくり返った図。
こころが外にある図。

自分が、見つけたら、
他の宇宙のみなしごを見つけて
おいらというみなしごを見つけたかい?
ここにいますよ、

と声が出たくなるまんま声を出したり聞いたりする
のだけどやっぱりみなしごはみなしごで、
煮たり焼いたり切ったり貼ったり しません。

 
2番のご回答おもしろいのでポチしました。

ああ声を出せるってええわあ。
どうもお邪魔しました。
                          
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。




 命綱も無くして 宇宙遊泳するわれ

 としての 宇宙のみなしご 
 
 このわれも おっとどっこい ここにあり


 と
 ★ 見つけてもらわなくちゃいけません。


 でしょうか。

お礼日時:2014/05/10 18:02

こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。




>ひとは広い世界にひとり投げ出された存在であることに間違いないと見るからには その孤独である状態こそが われのわれたる所以である》
:うん、おいらが言いたいのはこれ。
 地獄みたいだと感じるのはほんの一瞬。


>この説明だと どちらかと言うと 《孤独》のほうに重心をおいていると見えますよ?
:あ、そう?両側通行出入自由って言ってるんだけどなあ。
 わざわざ出入もしてないかもしれない。
 孤独同士ひらいてるんでしょう?


>社会において活動しているときには 孤独なる状態は 意識しないと思われます。
:そう?だって ちがいがあるんだよ。孤独ぢゃん。
 ↑と感じるのはおいらを外から見てるおいら(?)で、
 たぶん風船をひっくり返した図。

>孤独をあたかも泉のごとき存在状態と捉えて 水の湧き出るがごとく社会にあって生きる。だけである。
:はい、異議なし。

___________


今日は元気がなかったので
小学生の息子に買い物を頼んだら
おいらが紙に書いた食料・洗剤を買ったついでに
カーネーションを買ってきてくれまして。
うれしそうなツラでおいらに渡してくれまして。

おいらはね、
おいらのためにひとりで花を選んでいる
10歳の男の子を想像して泣けてきた。

ひとりでいても
他人(ひと)のツラを思い浮かべることができる、
というのが孤独の中のあったかいところ、かな。

ひとり、だから、みんなときどき(いつも?)
だれか(なにか)を想う
ようになってるんぢゃないかな。
想うってのは
think about ぢゃなくて たぶんfeelに近いような。


いや、いつもってわけぢゃないな、
一匹狼の会をしたくなるときあるし。


ほぢゃ、どうもおじゃましました。
                                 



                              
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
   >ひとは広い世界にひとり投げ出された存在であることに間違いないと見るからには その孤独である状態こそが われのわれたる所以である》
 :うん、おいらが言いたいのはこれ。
 地獄みたいだと感じるのはほんの一瞬。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 《孤独基本説》だと思います。

 あたらしい質問では さらにその説をいわば徹底させたかたちを提示し問うています。



 ★ 孤独同士ひらいてるんでしょう?
 ☆ これは おっしゃるとおりだと思います。
 ☆☆ 《孤独》のほうに重心をおいていると見えますよ? 
 ☆ 《重心を置いている》という言い方は あまりことの本質には当たっていないようでした。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >社会において活動しているときには 孤独なる状態は 意識しないと思われます。
:そう?だって ちがいがあるんだよ。孤独ぢゃん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 表現の問題であるとして勘弁してもらえませんか。つまり 《意識していない》ということは 《本質が――孤独なる開かれた存在であるという本質が――変わった》わけではない。というかたちにおいてです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >孤独をあたかも泉のごとき存在状態と捉えて 水の湧き出るがごとく社会にあって生きる。だけである。
 :はい、異議なし。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。どうも こういう意味を もとからはっきりさせていればよかったとわたしは 思っています。

 
 

 ★ 一匹狼の会をしたくなるときあるし。
 ☆ これは 一人ぽっちの飲み会ってことですか?
 



 あぁ 11日の日曜日が 母の日なんですね。おめでとうございます。

お礼日時:2014/05/09 23:57

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。


ぶらじゅろんぬさんや回答者さまが
何を言っているのか分からなかったので
ぼ~っと眺めていました。


>孤独からここに戻るのか 
>孤独へと立ち還るのか


↑「どっちも。」かなあって思う(思ってた)。
分けなくていいことは分けなくていいかなあって。


少し前に別の場所で話したのですが、

ぶらじゅろんぬさん:
→言葉を尽くして伝えようとする。

おいら:
→それでもおいらはぶらじゅろんぬさんの話す言葉
 によってぶらじゅろんぬさんの言いたいことを
 分かる のはむすかしい らしい。

ということ、つまり、
(己以外との)まじわりを持つ中で こそ
おいらは「宇宙のみなしご」だと感じる、
ともいえるし、


そんなとき、
「【自分】と【自分」」の関係(?)に還って
その「自分と自分の関係」にどっぷり浸かって
自分が自分に いだかれている ような
ところに いったん還って
やっぱりおいらは宇宙のみなしごだなあ…
と感じる のもいいんぢゃないかなあ

と思うのだけど





うん、だから まじわっても こもっても
いつでも人は「宇宙のみなしご」だと感じる
ようになってるし、


他人によって 
虚空を埋められ地面が作られることもあるし
自分が自分に対して そうすることもあるし



だから どの瞬間も どの瞬間も
しょっちゅう孤独に還ることもできるし
しょっちゅう孤独から出ることもできるし

古い孤独を捨てて新しい孤独を着る
ようなことをしてるんぢゃないかなあ。






おいらが伝えたいことも
おいらの語彙が足りないから
おいら以外の人に伝わるかどうかは疑問。




なんだけど しゃべらずにはいられない
のですよ、話せば分かる とは限らないけど
何か声を出さないと 何も伝わらない ので。




しつこいのだけど、
おいらが おいらなりに いろいろな声で叫んでも
おいらの言ってることを 人に「分かってもらう」
というのは とてつもなく困難で

そんなとき おいらは まじわっていても
「宇宙のみなしご」だと感じ


いったん「自分と自分の関係」に還る
ということを してみる ということです。
孤独から還ることもするし
孤独へと還ることもする ということです。





ん。少しでも伝わったかなあ。
ずいぶん言い忘れてるような気がするんだけど。









再び だけど
分けなくていいことは分けなくていいかなあ。
そうやって付き合ってるんだし。                               
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~
 うん、だから まじわっても こもっても
 いつでも人は「宇宙のみなしご」だと感じる
 ようになってるし、
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり《宇宙のみなしご》というのは あたかも知らない世界に放り出されてしまったごとく迷っている状態にあると捉えられるとも言えるし それだけではなく むしろもともと《赤子にとっての母親との関係をも飛び越えてのごとく ひとは広い世界にひとり投げ出された存在であることに間違いないと見るからには その孤独である状態こそが われのわれたる所以である》と見ることも出来る。――こういう意味でしょうか? 

 どちらの見方をもすることが出来る。ということでしょうか?




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 だから どの瞬間も どの瞬間も
 しょっちゅう孤独に還ることもできるし
 しょっちゅう孤独から出ることもできるし

 古い孤独を捨てて新しい孤独を着る
 ようなことをしてるんぢゃないかなあ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この説明だと どちらかと言うと 《孤独》のほうに重心をおいていると見えますよ?




 社会において活動しているときには 孤独なる状態は 意識しないと思われます。
 でありながら じつは人は そのような社会的行為をしているときにも その核心は 孤独であるのだ。
 ――こういう見方であるのか? という問いです。


 もっと言えば ひとは つねに孤独である。孤独でなくなるというときは ない。あるのは 孤独をあたかも泉のごとき存在状態と捉えて 水の湧き出るがごとく社会にあって生きる。だけである。――これで いいでしょうか? という問いです。

 

お礼日時:2014/05/07 23:27

以下、少し回答を追加いたします。



>たとえば
>★ 他者とのつながりは、悟りを開くまでの肉体を維持し、悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。
>☆ ここで:
 
>1.★ 悟りを開くまで / 悟りのためのヒント
>☆ というのは 法華経に言う《大化城》です。そのオシエこそが マーヤーそのものであり マヤカシです。いつまでも経って>も さとりの中身は 明らかにされません。すっからかんだからです。

 そう。そのとおり、こうしたやりとりという「現象」そのものがマーヤーです。ですから、このようなマーヤーを
 いくら追求してもさとりの中身は分りません。だからこそ、内面の深耕が重要なのです。

>2.★ 他者とのつながり
>☆ という規定は あやふやでしょうね。
>☆☆ 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。
>☆ というように《切り結び》であるはずです。

 不勉強のため 「切り結び」という単語を存じ上げませんが、おっしゃるように、言葉にすれば、
 すべてあやふやなものになることがお分かりいただけたかと存じます。

>★ 最近妙に人との繋がりを過大に重視するプロパガンダがはびこっていますが
>☆ と言っておきながら ご自分でそのキャンペーンに参加なさっています。

 珍しく内なる仏がささやくもので・・・・回答してみました。

>3.★ 悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。
>☆ というのなら ぢゃあ――ぞんざいな言い方をすれば――てめえはその手段をつかって 向こう岸にまでたどりついたの
>か? と問わねばなりません。

 本当にそうですか? 今一度お考えになってみては?

>つまり 問われる前に さとりについておのれの見解を 少しでも明らかにしていないとすれば それは さとりを得ていない
>と白状したにすぎません。さとりを得る途上にあると言い張るのなら もっとへりくだって 人には相い向かい合うものです。

 死ぬことが怖くなくなるというのは、ひとつ重要なメルクマールです。
 あと、幻に対してへりくだるというのも・・・ね。 

>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
>「犀の角の如くただ一人歩め」

>お釈迦様は、スッタニパータでこのように申しております。
>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ 4. ぢゃあなんでサンガを形成したのか?

 お釈迦様という「現象」がサンガを形成したのは、遠く日本の遥か後世に生を受ける私を悟りに導くため
 以外の何者でもありません。

>総じて言って ご回答は 孤独論とはそれほど重ならないように思います。

そうでしょうか?

>というより 
>★ 偽ユダヤ人
>☆ だというのなら その人間本人が 《ゴイム》なのではないでしょうか。  

少しインターネットで検索してみるとよいと思います。

>★ 他者との繋がりという、悟りの境地とは180度異なるベクトル
>☆ を こうやって あなた自身が持って行動しておられます。よ。

 お釈迦様も、同じ慈悲心を抱かれました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ だからこそ、内面の深耕が重要なのです。
 ☆ ですから その深耕のひとつの結果が

 ○ 2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 

 ☆ といった問い求めとなって 現われています。

 ですから 回答者さんは この問いにご自分の見解にて答える。これです。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >★ 最近妙に人との繋がりを過大に重視するプロパガンダがはびこっていますが
  >☆ と言っておきながら ご自分でそのキャンペーンに参加なさっています。

 珍しく内なる仏がささやくもので・・・・回答してみました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ いいえ。そうではなく もし《犀の角のごとくひとり歩め》なる方針であるなら サンガもつくらず このように人とまじわるようなこともしないのではないですか? と問い返しています。そのように《仏はささやく》のではないのですか?

 わたしは 《まじわり》はとうといことだと思っていますから 回答は いかなる批判であっても 歓迎です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >3.★ 悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。
  >☆ というのなら ぢゃあ――ぞんざいな言い方をすれば――てめえはその手段をつかって 向こう岸にまで  たどりついたの
  >か? と問わねばなりません。

 本当にそうですか? 今一度お考えになってみては?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ん? 問う必要などないではないかという意味でしょうか? あるいは やはり向こう岸にすでに到っていますよというお答えなのでしょうか? ちょっと意味がつかめません。

 手段を使ったこともないのに それは手段にしか過ぎないとは ふつう 言わないと思いましたので。




 ★ ~~~~~~~~~~~
 死ぬことが怖くなくなるというのは、ひとつ重要なメルクマールです。
 あと、幻に対してへりくだるというのも・・・ね。 
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《死ぬことが怖くなくなる》というのも そう感じた瞬間その感覚すらがまぼろしであるとお考えにならないのですか?

 このようにここまで奥義をおしえてあげているわたしに 《まぼろし》呼ばわりはないでしょう。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 お釈迦様という「現象」がサンガを形成したのは、遠く日本の遥か後世に生を受ける私を悟りに導くため
 以外の何者でもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それでは 《犀の角のごとくひとり歩め》というのは 自分(ゴータマ)は例外であると言ったという意味ですか?

 それとも さとりを得ていないのに はったりをかましただけだという意味ですか?

 それとも 《遠く日本の遥か後世に生を受ける私を悟りに導くため》という目的にかんしては ひとつの例外をおこなったという意味ですか?

 あるいは 《悟りに導くため》というのは そういう目的は持っていてそのように行動をもしているが それが目的を果たすかどうかは 保証されていない。という意味ですか?

 つまり まだ発展途上にあるという意味ですか? 

 わたしはすでに彼岸に到っていますよ。何でも訊いてください。
  
 ★ お釈迦様も、同じ慈悲心を抱かれました。
 ☆ というようなマヤカシのさとりではないですよ。即得往生のさとりです。

 《義無きを以て義とせよ》という信仰が それです。ここには ゴータマのペテンを暴けという意味も含まれていると言えば 含まれています。 
 

お礼日時:2014/05/07 07:23

あなたの五官に感じる全ては幻にすぎません。

あなたが幻といかにして繋がろうとしてもそれは不可能です。
これまでのご経験から、繋がったと感じた瞬間早くもその繋がりすらが幻であることに、お気付になったことはありませんか?

最近妙に人との繋がりを過大に重視するプロパガンダがはびこっていますが、これは貴方を迷いに誘い込み、悟りから遠ざけるマーヤーの幻力によるものです。

人という「現象」は肉体を持ちながら悟りを開き、肉体から解き放たれた後には解脱するために現れているのです。

そこではまず貴方の内面を深く掘り下げていくことが重要であり、他者とのつながりは、悟りを開くまでの肉体を維持し、悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。

現世の支配者たる偽ユダヤ人は、そのことを十分理解しつつ、全てのゴイム(あなたがたのことです)が、悟りの世界に入ることを妨げるべく、マスコミ・教育・インターネットを通じて、他者との繋がりという、悟りの境地とは180度異なるベクトルにあなたがたを誘導しようとしているのです。

「犀の角の如くただ一人歩め」

お釈迦様は、スッタニパータでこのように申しております。

以上のこと貴方の心のどこかに留めていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 しょうじきに言って わたしが唾棄するゴータマ・マジックによるご文章です。
 わたしが蛇蝎のごとく嫌うもったいぶり論理です。どこまで言っても 結論は出て来ません。さとりの中身は つねにおあづけなる議論です。



 たとえば
 ★ 他者とのつながりは、悟りを開くまでの肉体を維持し、悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。
 ☆ ここで:
 
 1.★ 悟りを開くまで / 悟りのためのヒント
 ☆ というのは 法華経に言う《大化城》です。そのオシエこそが マーヤーそのものであり マヤカシです。いつまでも経っても さとりの中身は 明らかにされません。すっからかんだからです。

 2.★ 他者とのつながり
 ☆ という規定は あやふやでしょうね。
 ☆☆ 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。
 ☆ というように《切り結び》であるはずです。

 ★ 最近妙に人との繋がりを過大に重視するプロパガンダがはびこっていますが
 ☆ と言っておきながら ご自分でそのキャンペーンに参加なさっています。


 3.★ 悟りのためのヒントを得る手段にしか過ぎないのです。
 ☆ というのなら ぢゃあ――ぞんざいな言い方をすれば――てめえはその手段をつかって 向こう岸にまでたどりついたのか? と問わねばなりません。

 つまり 問われる前に さとりについておのれの見解を 少しでも明らかにしていないとすれば それは さとりを得ていないと白状したにすぎません。さとりを得る途上にあると言い張るのなら もっとへりくだって 人には相い向かい合うものです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 「犀の角の如くただ一人歩め」

 お釈迦様は、スッタニパータでこのように申しております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 4. ぢゃあなんでサンガを形成したのか?



 総じて言って ご回答は 孤独論とはそれほど重ならないように思います。

 というより 
 ★ 偽ユダヤ人
 ☆ だというのなら その人間本人が 《ゴイム》なのではないでしょうか。  

 ★ 他者との繋がりという、悟りの境地とは180度異なるベクトル
 ☆ を こうやって あなた自身が持って行動しておられます。よ。



 どうでしょう。

お礼日時:2014/05/06 23:28

こんにちは。




孤独は、胎児であった自分に帰ることなのかな、とちょっと考え始めています。
安全な母親の胎内に立ち返ると言ってもいいのかもしれないです。

母親のお腹にいるとき、胎児は、たった一人でも寂しさは感じない、と思うんですよ。
世界(母胎・母親)との関係性が切れていないんで。
全身で世界との関係性を感じ取っているじゃなかろうか・・・。

生まれたとき、赤ちゃんは、これまでの世界と強制的に切り離されてしまう。
この時、赤ちゃんは、かなりパニクっていると思いますよ。
いきなり、わけのわからない世界に放り出されて、不安で不安でしょうがない。
母親の胸に抱かれ、母親の心臓の鼓動の音を聞いたとき、
「あっ、この音、聞き覚えがある」
と安心するに違いない。
かつて住んでいた世界と切れていないことを知り、安らぎをえる。

というわけで、
アナロジーしちゃうと、
安全な世界への退避が孤独。
そして、孤独な状態では、世界との関係性は失われていない。
その世界がどんなに矮小なものであっても、世界との関係性は失われない。
むしろ、世界との関係性、絆は強化される。
この孤独の世界に浸りきれれば寂しさは感じない、はず。

ですが、人間は経験を通じて、その世界とは異なる世界、他者との関係性のある世界の存在を知っている。
孤独の世界に疑念をいだき始める。
世界と切り離されているのではないか、と不安になる。
もう一つの世界に立ち戻る。
もう一つの世界との関係性を回復し、安心する。
しかし・
もう一つの世界は、胎児の世界とは異なり、安全で安らぎに満ちた世界ではない。唯我独尊を許してくれない。
「オレ、何か蔑ろにされてねぇか?」
世界と自分との関係性に疑念をいだく。
そして、
自分を大切にしてくれる孤独の世界へと舞い戻る。

人間は、このことを繰り返しているのではないか、とちょっくら考え始めています。


ネコ、飼い主の膝の上とかで、ゴロゴロ鳴く(?)じゃないですか。
これはネコの幼児退行なのだそうです、赤ちゃん状態への帰還。
飼い主、猫かわいがりしてくれる母ネコ。
母親が全世界であった子猫───お腹にいる状態ではないですよ───のころに戻っている。
そして、この時、ネコは安らぎに満ちているんですよ。

なにか横道(ネコ話)にそれる気配がありそうなので・・・。

上に書いたことは、思いつきにしたがって、想像の翼を広げたものです。
わたしが真剣にこんなことを考えていると思わないでくださいまし。

ではでは。
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この回答へのお礼

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 母親のお腹にいるとき、胎児は、たった一人でも寂しさは感じない、と思うんですよ。
 世界(母胎・母親)との関係性が切れていないんで。
 全身で世界との関係性を感じ取っているじゃなかろうか・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この事態が あたかも初めにあったと言うがごとく 人生にとってひとつの大前提になっていると言ってもいいのでしょうね。

 そういう場合には
 ☆☆ 6. ・・・われが孤独関係なるわれに立つとき おのが孤独なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。
 ☆ の命題が有効であるように思われて来ます。



 こんにちは。ご回答をありがとうございます。





 ◇ 母親のお腹にいるとき、胎児は、たった一人でも寂しさは感じない、と思うんですよ。
 ☆ にゅうとらるさんは 孤独のことを《宇宙のみなし児》と言っています。ただし この場合は その孤児状態から わたしがわたしであるわれに立ち還って 社会的生活に立ち戻るという趣旨だったと思いますし わたしもその意味合いで捉えています。

 ところが 別の・つまり逆の見方もできるかも知れない。宇宙のみなし児であることにおいて人はすでに自己が自己であると言う。独り歩めではなくて ひとり立つとき すでにわれはわれであって 社会的な関係性をもそなえている。という思想です。つまり――どこかに誤解があるかも知れませんが―― あともなどす氏の思想です。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 というわけで、
 アナロジーしちゃうと、
 安全な世界への退避が孤独。
 そして、孤独な状態では、世界との関係性は失われていない。
 その世界がどんなに矮小なものであっても、世界との関係性は失われない。
 むしろ、世界との関係性、絆は強化される。
 この孤独の世界に浸りきれれば寂しさは感じない、はず。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となります。





 たぶん それでもたぶん ここまでは むしろ
 ☆☆ 1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?
 ☆ の両方とも 互いに同じ内容になるのかも知れません。

 《孤独へ還帰したわれ》は すでにおおくの人が《孤独から帰還する》というその社会的生活日常のど真ん中にいると言ってもよいわけだからです。

 孤独なるわれをわれとしたわたしは すでに社会的動物として世の中を見渡した状態を――独りでいるときがあったとしても――離れてはいないと考えられます。つまり 独りでいるときもそれは 世の中を避けているから去って来たのではないと思われます。

 そうでなければ 孤独なるわれをわれとはし得ないはずだからです。避けて独りになったのなら すぐに崩れるようなわたしでしかないと考えられます。





 すなわち 少々反論っぽく議論をすすめるならば
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 孤独の世界に疑念をいだき始める。
 世界と切り離されているのではないか、と不安になる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは ないわけなのです。むしろ確信をもって 実社会に立ち現われる。ことになる。のではないだろうか。

 
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 もう一つの世界は、胎児の世界とは異なり、安全で安らぎに満ちた世界ではない。唯我独尊を許してくれない。
 「オレ、何か蔑ろにされてねぇか?」
 世界と自分との関係性に疑念をいだく。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というのは すでに織り込み済みだったわけです。《ないがしろにされてねぇか?》とうたがい考えた末の 孤独の発見――再発見――だったわけですから。


 ◇ そして、 / 自分を大切にしてくれる孤独の世界へと舞い戻る。
 ☆ ことは ないわけです。《孤独》ジルシですでに社会に立ち現われたのですから。






 まぁ やや一面に片向いた解釈で議論をすすめて来ました。

 ほかのみなさんからも再反論を俟ちたいと思います。どうでしょう。

 
 

お礼日時:2014/05/06 16:58

何処にも行かない



何処からも来ない

何者とも会わぬし、何者とも離れない
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この回答へのお礼

 これまた 禅問答のごときご見解ですね。

 0ふーる0さん こんにちは。まづは ご回答をありがとうございます。


 ☆☆ 孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 何処にも行かない

 何処からも来ない

 何者とも会わぬし、何者とも離れない
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その主体は われ ですか?

 それとも われだとして その心が でしょうか?


 社会にあって 人びとと会っているが 心は《会わぬし かと言って 離れることもない》。でしょうか?





 わかりづらいなぁ。


 ★ 何処にも行かない 何処からも来ない
 ☆ ところの われ が存在するのですか?

 われのわれなる場――心――は その場からどこへも行かないし どこから来たというものでもない。でしょうか?

 そうだとして それを《孤独》と呼ぶのか? それとも 単純に《非孤独》なのか?



 ふうーう。さらに説明してちょ。

お礼日時:2014/05/06 12:07

孤独とは一人遊びを十分に充実できることなので、自らが孤独になる事は周りと違う感性や知性があり、協調性に欠け集団の中で浮く存在となります。


孤独が嫌ならプライドや立場などの個性を捨てされば良いのです。
できないなら孤独でも楽しめる趣味を探し歩きましょう。
バイク、車、映画、音楽、アニメ、手芸、工芸、日曜大工、読書など様々あります、孤独でもできますが働かないと何もでき無いので、自らを偽っても趣味の為に職を得、孤独な趣味から生活に繋げると趣味から仲間もできるかと思います。
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この回答へのお礼

 8えいち6えい312さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 孤独とは一人遊びを十分に充実できることなので、自らが孤独になる事は周りと違う感性や知性があり
 ☆ ということは ひとつの見方であると受け取りましたが ひとつさらにはっきりさせて欲しいと思うところがあります。

 すなわち
 (あ) 孤独に浸ると感性や知性が周りの人びととは違う状態になる。ということでしょうか。

 (い) 言いかえると 周りと同じような感性と知性の状態にある人は――当然のように 集団の中で協調性に富むわけであるようですが―― しかしながら 孤独なるときを過ごすことは まれである。ということなのでしょうか?


 ☆ どうですかね。つまり 孤独という状態には たいていの人は落ちたと言いますか 成ったことはあると思うのですが それでも じゅうぶんに社会の協調性は発揮していけるのではないかとも思うのです。

 (う) それに 周りと同じような感性や知性の状態にあるからこそ 集団において協調性があると 全面的に言うことは 出来ないのではないか? 

 (え) つまり 協調性とは そもそも考え方などに違いがあるところを互いにゆづり合って 共同のひとつの目的に向かって仕事をすることではないかと考えるからです。


 そのためには ひとが孤独のときをおくることは 特別何かおかしいとか マチガイであるとかにはならないと思います。




 ★ 孤独が嫌ならプライドや立場などの個性を捨てされば良いのです。
 ☆ つまり 孤独でありつつ 集団と協調していくことは 可能であると思えるのです。

 協調しているときに 《プライドや立ち場》をそれとして保っていることは出来るのではないか。つまり 保っていないのではなく 相手にゆづっているだけということがあり得ると考えます。



 どうですかねぇ。どうでしょう。
 

お礼日時:2014/05/06 11:59

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