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すべての衆生が成仏(悟りを得ること=証=覚)が可能であるとすれば、どのような方法が考えられるでしょうか。できれば理由も一緒に教えてください。

A 回答 (10件)

しらない。

たま投げならば、いくつかひんとあれば、やるきあれば、二塁から∟、できるかも。すりんぐしょっと、ひじまげるかんじのやる、さいごひとすゆびつけね押すずしんと衝撃かんじる。ひだりななめうえみて回転あたえた。やさしいは。小学生でも、そのばとっさできるが、わざとばかでかい雪かたまりつくった、地面から両手で、よっこらしょもちあげあっちへ両手で、とばして命中。ひじまげはじめる、ほぼどうじわずかおくれて肩からまわす。わかるとばからしい、ごく簡単。さとりじやね、なら、予言なんかどか。おれは、にねんいじょうまえ、とてんがたいへんなめあうわかちやたし。ひがしなんとかしんさい、げんぱつとめるなと、しゅちょう。【あとからみるとだが、げんぱつ、うごかして、わるいわけじやなかた。】ま、誇張、さとりとかなにか、ちがなら、もたあ、かんたんたまきやち、とか、かくうたまのとか、あ、こじんさだけどな。そんなどうでもい、とか。あ、まんがいち、さとりなら、なにか、良いごりやくかなにか、つなみ、にまんにん、せんしんこくで、しかも、じしんけいてかなにか。かね、つぎこんでてさ、しなす。なんか、さとりと、とおい。
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可能です。



ただし、その性質上、すべての人が同じ方法を実践すれば悟るかと言うと、違って、まったく逆の考え方になるんです。

悟ると言うのは、単に自分が何者であるのか知ると言うことであり、自分をもっとも深く理解できるのはやはりその人自身であるというほぼ絶対的な法則が存在しています。

言い換えれば、自分が何者であるかを知るそのためには、自分が何者であるかを分からなくしている原因、自分の抱える人格的課題を自分で見つけて解決しなさいと言うことですので、どのようにすればよいかと言うと、人それぞれということになってしまうのです。

よってただひとついえること、残念ながら、あなたはこれをすれば悟りますと言えるものは、あなた以外の人からは提供できないのです。他人の言葉はきっかけやヒントになっても、最後の瞬間はあなた1人で考えるしかない、と言うことなんです。
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衆生が自らの個我の存在を迷いであると認識すればそれだけで良い。

見、聞き、思い、行動する個人が存在するという考えを捨てさえすれば悟りです。唯一つの真我が自性により世界を展開し、見るものと見られるものが分離します。見るものは見る道具(身体)を見るものだと誤認します。見られている自然が、身体を使って見ている事を知ることが悟りです。
個我は思いでしかなく、思考の産物です。私は在るの私を消したとき。対象物としてではなく直接 真我を認識できます。
諸法無我ですね。
己を個我とする誤りから、生老病死の苦しみが始まります。
自他の争いがおこります。
自分と自分以外にわざわざ仕分けて、肉体の自分に仕替えて、自分に無いものとして、対象物を求めることは愚かです。
あなたが、真我に目覚めたとき、悟りを求める衆生は存在しません。すべてはあなたであるから。
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宗教では、人は神の子と言われます。

なぜかというと、人は最初は、神の世界にいたからです。ところが脳に誘惑されて、脳の世界へ入ってしまいました。そして迷い苦しんでいます。だから人の心の中には、自我意識の脳と、無我意識の神のふたつの世界があります。だから脳の思考活動を、休めれば悟れます。幸い日本の伝統芸能は、脳を休めて、癒される事を目的してますから、実践したら悟れます。茶道、能、舞、伝統邦楽、日本画、座禅、太極拳などです。悟りの状態は、頭の前頭葉が休んで、後部が活発になります。脳波を調べれば分かります。もちろん心は安定して、楽しい気持ちになります。好気心がわいて、記憶、ひらめきがよくなります。富士山の頂上から見る様な、新しい視点で、世界を見る事ができます。
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悟りとは知識の上からは器(うつわ)としての世界と、その中にいる人間(及び一切の生有るものと生の無いもの)に対して、その存在と意義を明確に把握すること、心の上からはそうした一切のものと一体となり、またそれらの生育に心を砕いてゆける存在となることでしょう。

釈尊の生涯を学ぶときにそうしたものを強く感じます。
 平たく言うと世界や周囲に対する関心を失わず、地道に、あせらず、怒らず、飽きず自分と他人を分別しないで、涵養してゆくことが悟りにつながり、そうした生活がもとより悟りの生活と言えるのでは無いでしょうか。なぜなら人間は多くの人から色々な心や物を頂かないと1分も生きていられないからです。(眼には見えませんが沢山のチューブがつながっている・・・映画:マトリックスの巣のようなものをご想像下さい。)
 仏になると言うことは解ける(ほどける=自由になる)と言うことです。自分にも他人にも、周囲にも、世界にもです。それは自分勝手の完成でありながら周囲を喜ばせ、成長させ、自分をも安心させる境地になると言うことです。tumaritou1さんと同じく私もどこから手を付けたらいいのかわかりませんが、草むしりをして庭をきれいにすることと、お茶を誰かに入れた差し上げることの二つは、修行の基本として重要視しております。自分の心の草をとり続けることと、出会う人にいくらかの安らぎを与えることが出来れば、私の今回の旅は豊かなものになると思っています。
(私は日蓮宗の僧侶です)
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ON2さんに一票です。

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我を捨てる事が『悟りに入る方法』と考えられています。

『意識』は自我意識の事をいいます。自我意識とは『左脳』に在る意識です。スペリー博士が1,980年代に行った研究の成果で知られています。その研究の成果に『右脳にも別の人格がいる』という事も知られています。

人間には二つの人格が在ると言う事です。

禅問答と言うものが在ります、是は左脳の分別脳には解けない問題です。分別を捨てないと解けない問題です。人間は誰でも左脳と右脳が有ります。是が『一切衆生悉有仏性』と言われるゆえんです。是は確かに判り難いものです、ですが確かに『仏性』はいます。

それは教えられなくても『怖いとか、楽しいとか、美しいとか、様々な感情を』自我意識に感じさせています。人間の中に色々な性格の人達がいます。「不安」を感じやすい人と感じにくい人です。

宗教家達は若い時から『不安を感じやすかった』人達と云っても良いかと思います。慧可などは「不安のために肘の所から切り取って」差し出して弟子にしてもらったくらいです。大きすぎる不安が宗教家の条件と云っても良いと思えるくらいです。不安と言えば精神疾患の事です。

お釈迦の「一切皆苦」は現代風に言えば『精神疾患』のために仕事を休んで(放棄して)治療してくれる人を探したのではないかと思える位です。

不安とは何かという事ですが、これは「自我意識」に見えない圧迫が加わっている状態と言えます。それは「罪悪感として、判らない苦しさとして、又漠然とした不安感」というなど人によっては様々な形を取ります。その不安を起こしているものが『右脳の意識』仏性と言えます。

是は『自我意識が』『仏性』を無視した生き方をしているためです。人間が生きて行く時に自我意識と仏性が普通は手を携えてゆきます。是が健常者と言う人です。

処が『不安』の多い人と言うのは、自分に敏感と言えます。自分の感じた事を、大げさに受け取るようです。そうして感情的になります、それは意識性が強い性格ともいえます。そうして『意識上』に乗せて意識する事になります。その『意識』した事が現代では『精神疾患』の病名になります。

上がる事を意識すれば上がり症となります。人に会うことを意識した時は対人恐怖と言う事です。書く事は『書徑』話すことは「吃音」高い所は「高所恐怖」広い所は「広場恐怖」という事になります。これ等は全てが『仏性が』『自我意識に』教えている事であります。

この事から自我意識は『意識』したことに心が囚われてしまう事です。言い方を変えるなら、『無意識に入りにくくなる』と言えます。もっと云えば『無意識に』は入れなくなると言うことです。それが精神疾患の症状を重くしてしまうことです。

『無意識』を動かしている人格が仏性といえるからです。『精神疾患』とか『深い悩み』というものは「自我意識」だけで人生を渡ってゆこうとしている事に匹敵します。無視されている『仏性』が圧迫を加えているのが『精神疾患の』症状と言えます。

不安を意識して益々不安になるというのが精神疾患の事です。絶えず不安の中にいるようになることです。『一切皆苦』と言う世界です。

自我意識だけで眠ろうとする事が『不眠症』という事です。一度『無意識になって』それから眠りに入ります。自我意識だけで書こうとする時は、手が自由になりません。自我意識は手に任せます。是は健常者なら普通にやっている事です。「精神疾患』とは自我意識が仏性を無視した事によって仏性が「助け舟を出すために」圧迫を加えている事です。

その完成が『悟り』です。自我意識が何らかのきっかけで、自分には『出来ない事を認めることです』それが『大死一番』です。そうしてでてきた所の意識が『仏性』です。その意識は仏そのものです。自我がそれに触れただけで全てが『わかります』

悟りは全ての悩み苦しみから『自我意識』を解放します。身体に力が入っていました、身体が軽くなります、心が軽くなります。それが「身心脱落」です。心の対立と矛盾が解消しました。心は絶対の安心が手に入ります。これが「心の絶対の静寂、涅槃」というものです。

是は『精神疾患の』完全解消方法と云っても良いものです。薬は入りません。ただ、何処から手を付けたらよいか分かりません。時間が掛かるという欠点があります。自分は18年掛かって神経症の解決をした者です。
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修行できる環境に境遇に生まれれば、可能でしょうから、全ての生命に可能性はあるともいえるでしょうね。



やはり自らの意思によって八正道を歩むより無いと思います。妄想概念・煩悩はこの道によって弱め滅するしかないと。個人的には考えています。

自らが歩むとともに、修行できる環境に境遇に生まれてくる多くの生命・後世に伝わるように変化させずに守り、この道に向かうかもしれない現世の多くの人々に伝える。

そのような方法が最善のように思います。
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すべての衆生が成仏できるのではなく、


すべての衆生がすでに成仏していることを知るのが
悟りです。

ですので、成仏する方法なんてないのですね。
すでに仏ですから、

あえて、仏であることを知る手段を述べるとしたら・・・

仏教得意の例え話ですが、
何かを見ようとしたときに、よく見るためにはどうしますか?
はい、高いところに登って眺めるのですね。
高いところに登る手段が、
坐禅であり、念仏であり、題目であり、もろもろの修行です。

「わけ登るふもとのみちは多かれど 同じ高嶺の月を見るかな」

というとおり、どんな方法でも、(遠い、近いはありますが)
いずれは山頂につくものです。
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もっとも簡単な


迷いにとらわれず
生きていることに証立てられており
縦構造でなく平たい和の構造を実現し
その和の構造のうちに自然をふくみ
人をふくみ
天をふくむ、
そんな方法でしょう。
そして、
理由と乖離していません。
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