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来世の為に頑張ることでしょうか
人間の煩悩をすべて捨てることでしょうか
天国に行くために頑張ることでしょうか
お金持ちになることでしょうか
社会的地位を得ることでしょうか
人には真似できない何かを成し遂げることでしょうか

何をしようが最後にあるのは死ですね。
死を前にしたらあらゆる価値は吹き飛んでしまうような気がします。

死を前提にして考えたとき、生とは何なのか

そもそも死とは何なのか
恐れるべきものですか?それとも喜んで迎えるべきものですか?
目を逸らしつつ生きるのがよいことなのか

よく生きるとはどういうことだと思いますか?

A 回答 (20件中1~10件)

死とは何かが解らないとどんな解答も意味がありません。



肉体が滅んで終わり、なら何も無いですが、せめて子孫の為に良い環境を残すことに意味を見出だすくらいです。

もし魂がある、ということが理解できるなら、見方がかなり違ってきます。

そもそも魂を創ったのは誰なのか、そしてこの宇宙を創ったのは誰なのか。

仏教やキリスト教などの新興宗教に頼らずとも、古代インドの文献にそのあたりは詳しく記載されています。

ヴェーダと呼ばれる文献や、ヴァーガバタ・プラーナ、ウパニシャット、そしてマハーバーラタと呼ばれる叙事詩とそれに関連して創造神と人との精神世界についての問答を納めた、ヴァガバット・ギーターなど。
人生についてわかった様なことを言う、哲学もどき・禅もどきの方がいらっしゃいますが、こういった文献を読んでみるとそんな方々の言うことこそが意味の無いものだとわかります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
魂があることを理解する、ということですが、魂があることを仮定するという意味ですか?
それとも魂があるに決まっていると論理だてて知っているという意味ですか?

お礼日時:2011/01/21 14:46

こんにちは、



私の場合は

最初から持っていた美しいものや、
努力して手に入れた善いものを、

周りの親しい人や、
全く知らない人たちと、

分かち合うときが、最も満ち足りる、
幸せなときです。

そうしていると、
本当に大切なものだけが
手の中に残ります。

死と向かい合って恐怖におののく時は
迷わず祈ります。何に祈るかは内緒です。

ご参考まで。
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どんなにきれいな言葉や、完全武装された理論を貴方の前に持ってきたとしても、貴方は納得出来ないと思います、何故なら貴方の問い掛けは『あなた自身からの問い掛け』だからです。



貴方のもう一つの意識からの問い掛けが、貴方の疑問となっているからです。『人生とはなんだろううか?死ぬとは?生きるとは?』と云う疑問も全て『自身の内部からの問い掛けです。』

言葉を変えて言うならば『自身の心の矛盾、或は対立、或は分裂』がこの疑問を投げかけています。この解決方法の一つが宗教の門を叩く事のなかには在ると感じます。

ですが今の宗教はどれを選ぶにしても、理論武装が逞しくなっています、おまけに古い言葉や、外国語を翻訳したものが大部分を占めていると感じます。

おまけにその宗教を守っている専門家でさえ、一生掛かってもお経の意味が判らない人も多いと感じています。

例えば『仏教』一つをとっても、分り難くなっています。ですが、禅宗の場合には違う趣を感じます。お釈迦様が味わった『悟りの境地』を代々『以心伝心』或は『単伝』と云う形で伝えて来たからです。

禅には素人ですが、恐怖症の完治をした経験から、禅の何たるかが少し説明できると思いますので、私流の説明をしたいと思います。

不安恐怖症の症状を感じている時と、『人生の意味』を疑問に感じている事は、意識する事の内容が違うにしても、『心的には同じです』或は精神的な内容と云う言い方でも良いと思います。

人間には意識が二つ在ります。その二つの意識が出会う事を『見性』したと言います。言い方を替えるなら『自分自身を知る』という事になります。その過程と結果を『禅の歴史』と言っています。従って禅に関する歴史を学ぶ事は、悟りを開いた人の契機を学ぶ事になります。そしてその結果がその人を如何いう風に変えたかも書いてあります。

不安や疑問を抱いた人が、師匠の元を訪れて、如何いう風にして自身の『疑問や不安』を解消してゆくのかが書いてあります。その問題が解決する事を『生死の問題が解決した、或は一生の大事が終わる。』と云う言い方をしています。それは『不安や疑問を抱かせていた者が、内在していたと云う意味になります』そうして、その問題が解決したと云う意味は『心の矛盾が解消した。』と云う意味になります。

つまり、人生が何だか、『生も死も』自分なりに納得できたと云う意味になります。私なりの解釈を書いてみたいと思います。二つの意識の片方は、自我意識です、顕在意識という事になります。分別で出来ている脳という事になります。分別と言う事は理論と云う意味ですが、理論武装した結果が『言葉』という事になります。ですが言葉で考える内は『自分が半分しか理解出来ていない事』を意味しています。

何故ならばもう一つの意識は言葉を持たないからです。もう一つの意識は脳の機能から言うならば、生命活動そのものを預かっています、感情を湧き上がらせる事もその機能の一つです。その者の事を『仏性』と言います。言い方を替えるなら『命そのものの働き』と置き換えても可能と感じます。

従って湧きあがる不安や、疑問とは、『自我意識VS自身の命の働き』という事になります。心に湧きあがる不安や疑問とは、自身の意識と自身の生命力が戦っている事を意味しています。この事をV,Eフランクルは『内在する識られざる神』と言っています。

悩みを悩む事、疑問に挑戦する事、心を病む事、神経症になる事、或は自律神経失調症になる事とは、内なる識られざる神と戦っている事を意味しています。言い方を替えるなら『心の矛盾』の中にいる事を意味しています。

判り難い話をしていますが、もうもう一つの意識とは『無意識』を司っています。ホルモンの調節や心肺、或は生命活動全てを取り仕切っています。おまけに『意識』も在ります。自我意識が受ける圧迫感や、違和感や、疑問なども感じさせています。

人間が生まれた時から、或は生まれる前から活動している者です。何も習わなくとも『全てを知っている者』です。赤ん坊が何も習わなくとも不安や安心を知っていたり、泣いたり笑ったりする事が出来るのも全てがその者のお陰です。『一切衆生悉有仏性』と言う訳です。

道元が誰も『仏性』を持っているのに、誰も判らないのは何故?と云う疑問から仏門に入ったことは知られています。そうして中国の天童山にて、悟りを開いて帰国しました。多くの書物を書いて弟子を悩ませています。その中の一つに『仏道を学ぶ事は、自分を習う事。自分を習う事は、自分を忘れる事、....』と書き記しています。

自分を忘れると云う意味は『無意識の自分に任せる事』と云う意味になります。人間は一日に、何百回も『自我意識で居たり。』『無意識の自分になったり』を繰り返しています。分る事を、至道と言います。
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興味ある問なので私にも参加させてください。


「生きる」ではなくて「よく生きる」を問題にしておられます。「よい」との評価を誰かさんかから欲しいと望んでおられるようです。大声の、あるいは評判の高い誰かに依頼したとしても「私が死んでしまえば」とも思って悩んでおられるようです。
 ここは一つ、「自分の評価」を頼ることになさいませんか。貴方の想像できる限りの美しい世界で、嬉しそうに、尊いことをなさっておられる貴方、その貴方に少しずつ近づいて行きつつある貴方ご自身・・・・その貴方ご自身からの評価を頼りになさることをお勧めします。このことにより貴方は「嬉しく生きる」「誇りを持って生きる」「ただ一度きりの人生が嬉しい」と生きていくことが出来るでしょう。周りの目に気兼ねなしで。 ご検討ください。
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 結局、あなたには今しか与えられてないではないか」


 という言葉を思い出しました。
 あなたは、本当のあなた自身の過渡期を生きてるのではないでしょうか。
 もしあなたが今のままだとすれば、、赤ん坊から変わらないはず。
 人は過去の自分を越える存在で、自分の本当の成長した完成した自分をまだ知らない状態だと思いますよ。
 その成長してる段階が、生きてる状態だとも言えます。

 また、因果でいえば、今日作った借金が明日無くならないように、今世で作った借金は来世にひきつがれるという、自己完結の話も聞きます。
 逆に、今回学んだ知識は蓄えられると聞きますが、東大生のように、思い出すように知識が理解できるレベルの人もいますね。
 まぁ、死んだものは生き返り、生まれたものは死んでいく。という言葉を思い出します。
 輪廻転生を思い起こしますね。
 生きるという修行をしてるとも聞きますが。
 自分自身を体験してるというのが、生きている状態だともいえますね。
 しかし、そんな事を考えてみても、今しか与えられてないのは事実のようです。
 その今をどう使うかということでしょうか。
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 No.4です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 社会に尽くすのがよい生き方だということですが、いずれ死んでしまうのであれば、たった一度しかない人生を少しでも快楽の中で生きようとするのはどうでしょうか?
 ある程度お金を手に入れたら、あとは遊んで暮らす
 そういう選択をしている人もいるとおもうのですが、なぜ社会に尽くすのがよい生き方なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。微妙に違うのは
 ○ 《社会に尽くす》のが 自分が自由に生きるため。
 ☆ というところでしょうか。
 相手が 自分の持てる力を十二分に発揮して生きてくれたら こちらは思う存分自由に遊べるぢゃないですか。相手も思う存分自由に遊べるようになって欲しいという結論になります。そうなれば わたしもよく生きることが出来ます。

 ★ そもそも死とは何なのか
 ☆ 百歳なら百歳 百五十歳なら百五十歳で死のうと決めておくことです。あるいは おれはこれこれこういう仕事をし務めを果たしたなら そろそろ死のうというふうに決めておくことです。それが死の意味です。
 この務めを果たすことは すでに《よく生きること》としてわたしの考えを述べました。
 この務めを努め尽くす場合に からだもあるいは心も健康でなかったりすると困ります。そのとき《恐れるべきこと》は この人生の務めを見失うことです。たとえ少々の病気になったとしても 務めを見失わなければだいじょうぶです。
 あるいは 知らず知らずその道を外れてしまうことを恐れるべきです。そのときにおいて恐れるべきことは 《どうせ死ぬんだから》という《ワケ知り顔になること》ではないでしょうか。そのためには 死ぬ時期を前もって決めておくとよいでしょう。
 思う存分自由に生きてください。
 そういう《煩悩》を持ってください。
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私は、死(終わり)があるから、「自分にとって何が大切か」が、明白にわかります。



こうやって、ネットをしていることも、価値を見出せます。

自分の人生がいとおしくなるからです。


死があるから、生が輝きます。

死が何なのかわかりませんが、映画「おくり人」では門と言っていました。そうかも、と思います。

あの世で続きがあるかもしれないし、皆と別れずにまた会えるのかもしれません。


死をどうやって迎えるかは、個人の問題でしょう。自分の考え方次第です。


よく生きるとは・・・誰しも、「よく生きている」のでは?
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人生を通算して、最も楽しく生きること。


簡単のようだが、「人生を通算して」となると、自分を鍛えたり、
大きな目標の達成感のために当座の困難を乗り越えたり、
多くの人と協力し合ったりする、「楽しく生きる」に対して抱く
安楽で情動的、独善的なイメージとは、正反対の方向性を
有します。
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魂が喜ぶこと。




http://red.sakura.ne.jp/~co-wards/explain/term/d …

デーモンの語源です。

イデア界というものがあり、その世界は全くの善の世界だと想定された。

そこからやってくるのが、アガソダイモンという霊と考え、プラトンが何かしようとして躊躇するのは、アガソダイモンによって止められていると考えた。

人々が考えることをするようにいざなおうとしたとき、躊躇することが無かったので、善だと考えた。
だから、若者を惑わし、社会を混乱させようとしたのではない と主張。
もし悪なら、アカソダイモンが介入したはずだって。
(ソクラテスの最後の弁明)

当時はお金を払うと簡単に脱獄することができたので、弟子のプラトンはソクラテスに脱獄を進めたのだが、不正な裁きで幽閉されたとしても、脱獄というものは悪になるからしないと断った。


人はただ生きるのではなく善く生きることで、生きるということに価値がもたらされる。
では、善く生きるとはどういうことか。
ってことで、弟子達が展開していくわけです。


例えばケーキを食べると幸福感に満たされる。魂が喜ぶ。
では、ケーキを食べることは善いことか。
ケーキも食べ過ぎると腹痛起こして苦しむことになる。
だから、魂を喜ばせるためには節度が必要であり、節度ある生き方が善い生きかただとした(アリストテレス)


独裁者が得し、支配者が搾取されるのを見ても独裁者が怖くて口だしをしないでいると魂が喜ばない。自分の中の善が苦しむ。
独裁者が怖くて見てみぬふりな生き方は、善い生きかたではないわけです。


何か物を売ったとしましょう。
それによって世の中の人たちが便利になり、「ありがとう」と言われて、魂も喜ぶわけです。
善い仕事をした と。

ところが、その売った品物に欠陥があり、事故が起こる可能性があるとわかったとする。
みんなは使って暮らしが楽になったと幸福になってし、凍え死ぬ人も減ったし、売れて財産も大きくなったし、表彰もされて名誉も得た状態で、「実は欠陥商品で、このまま使い続けると火事になります。」と真実を言えるか。

絶対火事になるとは限らない、100個に1個くらいの割合で起こる。
100個に一個くらいなら、火事の原因は不良商品が原因だと気づかれない。
黙っておくか?

真実を知ったのに隠すことで、業績を賞賛され、お金がたくさん入って幸福な生活ができているとメリットは多いのですが、魂が痛い思いをしている以上、実はちっちも幸福じゃないわけです。


ところが中には、「くじ運が悪い奴もいる」と、自分の責任ではなく運の問題に責任を転嫁する思考をして、こみ上げる罪悪感を征服できる人もいるわけです。

では、罪悪感のかけらもなく、魂が痛い思いをしない人は、善い生き方をしていると言えるか。

その人だけではなく 万人が善い行いだといえるものでなければ、正しい生きかたとはいえないわけです。

欠陥商品であることを知りながら、黙って売り続ける行為は、誰に聞いても正しいことではない。
本人は正しいことだと思い、みんなも真実を知らないので、「善い人だ」と全員が言ったとしても、その行為は正しいことではないわけです。


しかし 人を助けるためにお金を寄付したところ、それが人殺しの道具を買うのに使われ、人が死んだとしましょう。

出だしは人助けでしたが、その人助けの寄付により、人が死んだわけです。
助けようと寄付しなければ、人は死ななかったわけです。

ですが、人間は結果のすべてを予知することはできない。

だから「このお金がどうか不正に使われ悪となり、私が悪い行いをしたことになりませんように」と願うしかないわけです。

その願いも空しく 人が自分の行為のせいで人が死んでしまったら、善い行いではなく悪い行いだとなるかというと、善が転じて偽の善になったと仏教では表現する。

悪行ではなく 偽善。

最初から人を騙そうとしていい人の不利をする人を偽善者と呼びますが、その概念と仏教の偽善は違う。

仏教では、お布施をする人がお布施をもらう人に向かって頭を下げるのは、徳を積ませてくれてありがとう という意味と、どうか この行為が偽善に化けませんように という意味があるんだと思う。
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≫そもそも死とは何なのか



 友人の死を思い出しながら感じるのは、生きていた彼はもう再び戻ることの無い存在だと言うことですね。両親でも家族でも同じでしょうが。彼の場合、自死でしたが余りに突然逝ってしまったので印象が大きくて。
 主観的に考えると、全ての終わりとして死が来るように感じます。これは紛れも無い事実であって、不可避です。でも、生きている全てのものがそうなのですよ。生まれることと同じように、死はやって来るのです。病死、事故死、自死、殺りく、その他いかなる形であっても。
 死んだと当人とその死に遭遇した人とは、同じ1人の死でも意味は違いますよね。その意味では死は、単なるひとりの人の終わりでは無いと思っています。

≫よく生きるとはどういうことだと思いますか?

 良くという判断は、人によってなされます。悪い奴、いい奴。でも実際には人の評価も十人十色でしょう。人の死に立ち会う人達は,その結果を投票する事も無いので、良し悪しは死に立ち会った人が感じる想いだと思えます。普通はその方の業績や親近度、貸し借りの有無など、主観的でしかない場合も多いと思います。ですから一般的には、社会貢献度ともいえる評価と言ってよいでしょう。でも本当の評価って何でしょうかね?一人の人の死がひとりの人間として暖かく見守られる事こそ望ましいのではないのでしょうか。昨今は孤独死なども良く言われます。

 世に財を残す、子孫を残す、名声を残すなど、そう出来る方だけが良い生き方・人生だったとは思えないですよ。死に際してたとえ一人の立会い者だったとしても、人として惜しまれて亡くなる人生で有れば、良しと考えたいですね。

 殺人犯や事故等の加害者となった場合は、その人間性が問われて良いと思うのです。死がすべての終わりか否かでなく、死の直前までひとりの人間でありたいと思うし、有って欲しい。生と死に関してはそう思います。死ぬ寸前まで生であり、死が何時訪れるかは分からない、分からないながらも死真実な生き方がよく生きる事に繋がることだと思います。
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