最速怪談選手権

道元を批判するとしたらどのような批判がありますか?

A 回答 (7件)

入院経歴が無いと過程しての前提で話しますが


批判相手、つまり悪人探しをやり続けると
いつか確実に入院に至るようになります。

身近な人、つまり顔を合わせて話せる相手を探した方がいいですよ。

風見鶏さんは、善意のある人です。
壊れていくのを見て行くのは、気乗りがしないので申しあげましたが
気に障ったのでしたら謝ります。


では、失礼します。
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No.1です。


お礼、ありがとうございます。

>「批判合理主義」とか「反証可能性」とか「開かれた社会」とか
>そういう観点から、道元さえ批判する必要があるでしょう。

哲学カテなので、哲学的批判なら理解できますが
単なる批判は個人が堕落するだけで無く
大勢がやるようになれば、その社会は衰退していく。

開かれた社会が、個人攻撃に向かうのであれば
本当にそれは開かれた社会の姿なのであろうか?

個人攻撃は、相手への尊重と尊厳を守る姿なのだろうか?
それをやる私は、果たして私として尊重され尊厳は守られるのであろうか?

すべてはやったことがかえってくると言われるが
私には、私だけは例外で個人批判がかえってこなのだろうか?



kazamidori365さんの理由は、納得いく形だと思えないので
今回は、ご質問から抜けます。
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この回答へのお礼

何年も曹洞宗の学者に粘着されて攻撃されました。
そんな学者を作り出した道元が諸悪の根源です。

お礼日時:2015/01/22 08:44

道元は比叡山天台宗に入るのですが経典学問にあきたらず、そこを離れて臨済禅の栄西のもとで修行するが、栄西の死後に中国に渡り曹洞禅を日本に伝えます。

道元は『禅は仏教ではない』と言っています。ひたすら座禅をすれば悟りが開けると言うのです。彼が目指すものは仏教ではないのです。だから禅宗には経典がないのです。それを後世の門人達は曹洞禅を仏教にしたのです。それは鎌倉武士が貴族の奈良・平安仏教に支配されない鎌倉仏教を欲したからです。
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こんにちは。




☆座ってるだけじゃ駄目じゃあんめいか?
◇ですな~。
山に籠もって、ひたすら《野狐禅》をしていると、キツネやタヌキになってしまう。
うまくいけば、サイ(の角)くらいにはなれるかも知れないけれど、そんなものは、ヒトの姿形をしていても、もはや人間ではない。
縁覚(独覚)にだってなれやしない。
あんなものは、外道のヨーガではあるかもしれないけれど、仏教・大乗のヨーガではない。

利他が抜けているんでさぁ~。
道元の慈悲は偏頗なんでさぁ~。


~~~~~~
へん‐ぱ【偏×頗】
[名・形動]《「へんば」とも》かたよっていて不公平なこと。また、そのさま。

https://kotobank.jp/word/%E5%81%8F%E9%A0%97-626561
~~~~~~
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曹洞宗系の大学・駒澤大学の袴谷憲昭の「本覚思想批判」という本によれば、道元は「正法眼蔵」の75巻で、天台本覚論を継承して人間には生まれつき「仏性」を有すると考えていたけど、晩年に(もっとも晩年と言っても、50歳で死んだから、必ずしも晩年と言えないかもしれないけど)、その75巻本「正法眼蔵」を破棄して、新たに「正法眼蔵」を書き直して、人間はもともと「仏性」を有していないことを主張しようとしましたが、12巻を書いたところで途絶してしまったと言っています。


天台本覚論は天台宗の最澄が唱えたもので、人間は本来「仏性」を持っているという説です。
それを天台本覚論と言いますが、最澄の死後、その後継者、安然・珍然によって大成されたと言われます。
以来、日本仏教では、人間は本来「仏性」を有するという考えが代々継承されてきて、今でも、人間は死ねば誰でも、「仏」になると言われています。
当時、最澄と法相宗の徳一の間で有名な「三乗・一乗論争」が戦われており、徳一は始覚・縁覚・本覚と三段階を経て仏性を獲得すると、三乗思想を唱えましたが、それに対して最澄は始覚・縁覚・本覚を合わせて一乗思想を唱えました。
当時、比叡山は仏教の総合大学とみなされており、源信も法然も親鸞も日蓮も、そして道元も、鎌倉仏教の祖師はみんな比叡山で学んでおり、したがって最澄の人間は本来「仏性」を有している、という考えを継承したのも無理はありませんでした。
ところが道元は、晩年にそれを間違いだと気が付いたのです。
もし、人間が生まれついての「仏性」を有していたら、僧侶が苦しい修行をしてブッダになることを目指す、その理由が無くなります。
なぜならば、生まれついて「仏性」を有しているのなら、わざわざ修行する必要なんかないからです。
もともと本覚論は大乗仏教の根幹にある考えでしたが、それを集大成した「大乗起信論」では本覚とは言わず、代わりに「如来蔵」と言っています。
つまり、人間はもともと「如来」という「仏」を「蔵している」ということです。
内蔵しているのだから、それを外に求める必要はない、それを内に蔵していることを自覚すればよい、というわけです。
しかし、道元は大乗仏教の根幹にある「本覚論」「如来蔵」思想を晩年に否定して、本来のブッダに帰ろうとしました。
ブッダは長い修行の果てに、「仏性」を悟ったのであり、最初から「仏性」を有していたわけではない、修行の結果、それを見出したのだ、と考えたのです。

道元が、なぜそのように考えるに至ったかには時代の背景があります。
当時は臨済宗の「公案禅」が盛んで、誰もが禅の修行をすれば「悟り」が得られると信じて、盛んに「公案」が用いられました。
道元はその風潮に苦々しい思いをもって見ていて、「悟り」を求めるのは間違いだと思っていました。
禅にとって、「悟り」は諸刃の剣で、それが目的になってしまうと、本来の仏教から逸脱することになってしまいます。
そのため、道元は人間が本来「仏性」を持っているという天台本覚論を否定し、「只管打坐」の禅を唱えることとなりました。
つまり、座っている姿が、そのまま仏だということです。
「悟り」を求めてはならない、なぜならば「悟り」というのは存在しないからだ、という。
「悟り」とは、道元に言わせれば、目が横に、鼻がタテについていることを知ることにあり、日常生活がそのまま「悟り」なので、それを求めるべきではない、と考えました。

私は道元を批判するとしたら、天台本覚論に基づいて書かれた75巻本「正法眼蔵」であり、晩年の12巻本「正法眼蔵」ではないと思います。
道元はみずから、間違いを知り、12巻本「正法眼蔵」で、それを修正しています。

この回答への補足

誤:本来の仏教

正:本来のブッダ

補足日時:2015/01/22 02:35
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>しかし、道元は大乗仏教の根幹にある「本覚論」「如来蔵」思想を晩年に否定して、本来のブッダに帰ろうとしました。
>ブッダは長い修行の果てに、「仏性」を悟ったのであり、最初から「仏性」を有していたわけではない、修行の結果、それを見出したのだ、と考えたのです。

新しく質問すればいいかもしれませんが、気になったこととして、
本来のブッダに帰ろうとした、とのことですが道元はどこからそれを
本来の仏教だと思ったのでしょうか。問題が「仏性」だとすると、やはり参照したのは大乗仏教の経典とかでしょうか。

お礼日時:2015/01/22 02:29

座ってるだけじゃ駄目じゃあんめいか?



悟りを開くためには先達の教えから学ぶなど、調べものも必要じゃあんめいか?
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道元を批判する根拠を教えてください。


他者を批判すると自身が堕落するので、適切だと思える根拠が無ければ
思考する意味が見出せません。

この回答への補足

誤:批判合理主義

正:批判的合理主義

今日は誤字が多いので休みます。

補足日時:2015/01/22 03:15
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この回答へのお礼

「批判合理主義」とか「反証可能性」とか「開かれた社会」とか
そういう観点から、道元さえ批判する必要があるでしょう。

道元が批判されているイメージがあまりないのですが、
今回質問しても、責められるのは私ばかりで、道元への批判がないんですよね。
もしかするとゴータマ・ブッダよりも批判がないかもしれない。

あと、他の回答者さんの「悟りを求めるのが間違いだ」とかそれが「本来の仏教」とか、「本来のブッダ」とかいうのは
かなり中村元に似ているような気がしました。

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まず第一に仏教そのものは特定の教義というものが無い。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人びとが、いろいろ異なって伝えるに至ったのである。

『ゴータマ・ブッダ』中村元 417~418ページ

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お礼日時:2015/01/22 03:13

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